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哲学する人間は触媒である:カタリスト日本人
- 哲学する人間は触媒である:カタリスト日本人
- 哲学するという生き方は、それぞれが小さなキリストになることである。相手が自分に還る化学反応が起こる。
- 韓国人は人間としての話ができない状態になっており、触媒が必要である。中国人は覇者としての思考に囚われており、面と向かって話を進める触媒が必要である。欧米人は自身の世界認識を他の人へ押し付けようとするが、哲学の徒が触媒となり彼らの心の過剰を癒す必要がある。日本人は哲学を通じて化学反応を推進するカタリストとなって、世界の人々と共に進んでいくべきである。
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もしかすると関係あるかも知れないので書きます。あんまり深刻に取らないで下さいね。 浦沢直樹の「モンスター」という漫画に、イスラムの立法学者とおぼしき二人の会話があります。日本人の生態についてです。 ※お前は、こんなところ ↑ からしか知識を得ないのか?、と自己ツッコミ(^^;)。 我々には唯一無二の神がいる。神がいなければ、我々にはレゾンデートルがない。故に生きてはいけない。それはじつは欧米人もロシア人そうだ。そこには唯一無二のキリストがいる。中国,韓国には儒教がある。東南アジア,アフリカには根強い土着信仰がある。 彼らがもし、自分は無神論者だと言っても、今度は科学や思想を信仰する。結局それぞれに、それぞれのレゾンデートルの保証があるのだ。 ところが日本人が「自分は無神論者だ」と言った時には、意味は全く違う。それはレゾンデートルはない、いらないという事なのだ。この前、日本人の観光客に聞いた。十字架をしていたからクリスチャンだと思い、欧米の横暴について一言いいたかったのだが、彼女は言った。 「教会で洗礼を受けたけど、夏祭りの縁日で彼氏と知りあい、クリスマスはリゾートホテルでデートし、神仏結婚して仏教の葬式で死ぬのが普通でしょ?。エッ?十字架?。こんなの形式よ、形式。家がたまたまミッション系だったから。だって十字架してれば、チョベリグにかっこいいじゃない!」 彼らは何でもできる。彼らは恐るべき意味で自由だ。彼らは何をしようと、そこに罪の意識や恐れはない。だから繁栄もする。彼らは昔、エコノミック・アニマルとも呼ばれた。それがレゾンデートルがなくとも生きていけるという事なのだ。そんな人間の存在すら、我々には信じられない。まるでゴキブリか軍隊アリではないか?。そのような人種がはびこったら、我々は行き場を失うだろう。 ・・・なにぶんにも漫画なので誇大妄想気味ですが、現代の日本人のステレオタイプとして、けっこう鋭いなと思いました。なにか図星をつかれた気がしました。日本人は決してそれだけではないのですけれど。それに本来は、世界制覇を企むような人種じゃないし・・・。 ただ反対側の意見として、あり得る話だとは思いました。輸出には、PPT交渉みたいな難航が懸念されます(^^;)。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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ちょっと見てきて独り言だよ。 日本人の子育ては、代々神を語る事は神に対する冒涜だと、何も教えが無いまま叩き込まれているんだよ。 語る言葉もなくね。 宗教は商売人だけの研究だよ。 私のこの無言に対する反逆の決心は固い。 幼くて、現実と観念上の精神世界の区別がつかないころは、神様と手をつないでいるんだ。 検索してみれば、何がしか証言が出るだろう。 童心が成熟しても生き続けるとは珍しい事ではない。 私もその一人で、余命一年未満と診断されて、親を悲しませた幼い私を励ましてくれた幼馴染は、神様なんだが、忌むべき私と同じ霊能力の資質を持つ者は死神と呼ぶだろう。 私も幼馴染が、不実の子の呼び名をものともせず元気いっぱいに私と遊んでくれた幸せな記憶がある。 西洋の学会では「滅びの子」この事だよ。 私が生きようとする限り、友達も滅びないんだ。 悪魔は復活した。 何か君達はあわてるかい?
お礼
★ 神を語る事は神に対する冒涜だと ☆ 代々《言挙げしない》ことになっている。と言われている。だがそれも 時代や情況に応じて変わる。臨機応変。そうでなければ 《言挙げせず》なる方針を採った意味がない。その精神がすたる。 神を語る・語らないも 自由。一方に片寄ってはダメ。日本人の生活態度(≒思想)は 自由自在。ただお二階から 日本教=クウキ教によって靄がかかっている。霧が晴れれば 正真正銘の自由。富士山の日本晴れ。 この《クウキ》にも千五百年 われわれはおつき合いして来ている。 ★ 観念上の精神世界 ☆ こんなものは 要らん。人びとがお二階さんの醸し出すクウキを追い払いたいと思って自分たちも こういう《観念の園》をつくってみたかった。だけ。 つまりあるいは ヨーロッパの哲学からその観念論を持って来て 観念の鎧として着ようとしただけ。 《お花畑》は要らない。何かの事件に遭ってその避けどころとして使う場合があるかも知れない。けれども それだけであって そのようなお花畑を旗に掲げて 現実のきびしさに対抗するのは 愚の骨頂。わたしはもう知恵が尽きて 阿呆状態ですと告白しているに過ぎない。 観念の世界は それが世に言うアヘンのことだ。 ★ 悪魔は復活した。 ☆ それが いま言った観念の園のことだ。 何かまだ こころにわだかまりがあるんだろう。じっとみつめてやったり 放っておいたりして 飼い慣らしつつ われに還るように。やがて観念の悪魔のほうが 浮かれて自分から踊りだすだろう。 《わたし自身》と和解する方向へ。世間とも和解できるように。日本晴れへと。 ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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君の兄弟でありながらそうふるまわない、愛してやまない同族の日本人に対する愛憎を見極めた。 君のいらだちは、西洋の観念全体を哲学に限らず飲み干した自己の見地から、すなわちイエスを愛した日本人の立場から、舶来の酒に良い狂乱する今の世の中に、怒りを奮い立たせようとしてるんだ。 イエスは私は茶化すばかりであまり手伝いができないが、君の独自の立ちばから、本気で怒りの溶岩噴火をあおりたいものだね。 生きている君は、死人を生かすためにあらぶっている。 この悪魔体験をさらに高ぶらせる事を願うよ。 健闘を祈る。 君の神にね。 君自体は自分で好きなようにしろ。 私の近況を述べると、君がやさしくしてくれたお穣さんのおかげでね、私は男の戦いとして清潔に保った相撲の土俵の様な哲学全般に対して、裏切り者になりそうなところだ。判り易くやさしい私の言葉が、何がしか、オカマハザードの再来を誘ってしまう。 哲学女子会が、自然成立したら今までとは変わるが困ったものだな。
お礼
★ 君のいらだちは ☆ それは そちらの勝手な言い分だ。 ★ 舶来の酒に酔い狂乱する今の世の中に ☆ だから それがミラーニューロン現象としてウワベだけは従っているということ。 つまり その嵐が過ぎれば 触媒なのだから 元の姿に戻る。 言いかえると 世界の人びとにおつき合いしているというのが いまの姿。 しっかりと 人間についてはその心を見定めて世界を認識しなければいけない。 ★ 生きている君は、死人を生かすためにあらぶっている。 ☆ 古くから 《魂鎮め》という生活の知恵が培われて来ている。 魂鎮めには ふつう先には 魂振りをおこなう。そのあと われに還る姿としての魂鎮めになる。 《あらぶっている》のではなく 《世間の只中につるぎを投げ入れている》または《人びとの魂を振って揺り動かしている》。 ★ 哲学女子会が、自然成立したら今までとは変わるが困ったものだな。 ☆ それはすでに成り立っていると捉えるとよい。自然成立している。 ただ おんなは出しゃばらない。あるいはつまり 論理的な思考はあまり――おこなったとしても――発表しない。答えが分かっていて まだるっこしいらしい。 ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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君のその情熱は実に人情味があるよね。 ところが理性的である事は感情を封殺したうえで思考することだと定説が出来ている。 これは私はやっぱり違うんじゃないかと判断して、西洋と異質の哲学の土台を築く事が目標だ。 君のやり方でも何らかの形で、人情のある哲学の正当性を主張しないと、哲学もどきの素人と学者さんから揶揄されて人格すら圧殺されかねないよ。 論文を英語だ書かないと受け付けない硬直した姿勢に対して効果的に正当性を主張する一つの手立ては、自らが仏陀そのものであると宣言して、その仏陀の定義を認めさせると、日本の哲学の体裁が出来て行く。人情味のある、すなわち感性の潤いがあり、理解のやさしい哲学だ。
お礼
《ブ》筋は ダメ。何が何でもダメ。 No.2で親鸞を持ち出しているけれど。 それから鳥になって上から見た目線は なかなか成功しない。 具体的に論点を取り上げる必要がある。 いまの日本人は 着せ替え人形のごとく上から――日本教=クウキ教のオシへにもとづいた――法被を羽織らされている。その下には 人それぞれの自由な個性的な着物を着ている。 ときが満ちたなら クウキじるしの法被はもう脱いでしまわなきゃあ。 ご回答をありがとうございます。
- JS56JC12
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CatalystとはAMD社製部品の制御ソフトです。 時は満ちましたから、しっかりとした専門医に相談しましょう。
補足
ソフトだと思ってるからには まだまだ先が長いようです。
お礼
そうですね。 ○ 義無きを以って義とす。(親鸞) このひと言でしょうね。そしてそこからの枝分かれは いろいろあるということ。 派生物は しばしば やっかいで鼻つまみものです。あるいは けっきょくほとんどが シガラミの中にしか花を咲かせ得ない腐れ縁のような派生思想(≒生活態度)なのでしょう。 でも ★ 彼らは何でもできる。彼らは恐るべき意味で自由だ。彼らは何をしようと、そこに罪の意識や恐れはない。だから繁栄もする。彼らは昔、エコノミック・アニマルとも呼ばれた。それがレゾンデートルがなくとも生きていけるという事なのだ。 ☆ これが 本筋としては 《あらゆるシュウキョウの愚から自由である》という意味であり実態です。 シュウキョウのオシへという偶像の崇拝をまぬかれています。(その反動分子もいるにはいますが)。 《レゾンデートル》などという《義 ないしその思い込みとしての信仰》はありません。 これが 基本としては 普遍神へのふつうに自然でしかも人間的な信仰が 心の奥にはしっかりと根づいているということです。分からないから いいのです。 世界のほかのさまざまな神や信仰は お医者さんごっこのようなままごと遊びです。神でも信仰でもないということ。 ★ それに本来は、世界制覇を企むような人種じゃないし・・・。 ☆ この横顔が 基本線につながっているとすれば 基本線は生きています。《ゆづりあひ》という基本でしょう。 ★ あんまり深刻に取らないで下さいね。 ☆ ではなくて いま述べたことが現実であるという仮説を 《深刻に受け取って》くださいね。 どうでしょう。 ご回答をありがとうございます。
補足
バースデー。四日違いぢゃん。