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ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。
開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。 万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない。 この理由で――昔はわたしもおこなっていましたが―― 哲学カテにとっては ふさわしくない。という結論を得ました。 いかがでしょう?
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嘆き節 承りました。ということは公論の意味を私は取り違えていますね。だとしても「万事公論」の根拠はもとより反論の意図はありません。 質疑応答の場にさえつかぬものは論外として,質疑応答の一方性より討論の双方向性を訴えておられる。それによってより問題は明確になるのだし,互いに高め合うこともできる。もっともなことだと思います。 そして,産婆法を引いての一面的な反論には,別なる取り組み,知識の活用術を説明されました。ご見解を尊重したいと思います。 ただ,一つ論点としたいことがあります。それは,《師》と《弟子》の関係です。もちろん表面的に師弟関係があるわけではありません。 たまたま「あわせてチェックしたい」のリンク先で以下のように回答されているのを見かけました。 >あるいは 次のような考え方があります。 【Q:ひとは だれから おそわるか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html ☆ その答えは 《自分からである》です。《みづからがみづからをおしえる》です。 この考えに私は同意しています。 それを師弟関係というのは大げさですが,そういうものがなければ,おっしゃるところの知識の活用術にはならないと思われるのです。 だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 そしてまた,回答する私が質問者から教わっているなと思う経験があり,ときおり,今回もそうでしたが回答欄に「ありがとう」を述べることがあります。これは今思えば,内なる師が導いたとみる見方もあるのかなと思ったわけです。 実際私の回答は等身大ではなく,自分で見てですが,せいのびをしています。先の回答はタイムラグを見逃してしまっていますが,単に思いつきを述べたのではなく時間をかけ推敲したものです。 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 以上よろしくお願いいたします。
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- MOG777
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>開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 >対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 傷つきやすく、扇動に乗りやすい者にも開かれる場であるならば、そういう者も守らなければなりません。 そうならない者はブロック機能を使わなければいいだけです。 やたらとブロックする者は情報を得る可能性を低めているだけなので、本人が損なだけです。 Gooさんは長年やっているだけに、理にかなった設計になっていると思いますよ。
お礼
えもーぢーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そのことによって ご回答が存在するということを決してなみする必要もなければ理由もありませんが 今回おっしゃっていることは ちょうど直前までやり取りされており今もつづいているところの はこぶるさんとの《議論》(つまり 規約上の《情報交換》のことですが)で 次のような経過をたどって来ています。 そこでのわたしの応答が 今回のご回答に対するお応えになると考えます。 主旨だけを抜き書きして その経過をたどります。 ◆(回答No.14=はこぶるさん) ~~~ >〔* かつてまだブロックという制度が出来ていなかった頃 わたしくし=ぶらじゅろんぬは いわゆるアラシをおこなって来る回答者に対して〕《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》と言って 放っておいた。 その後 ブロックという便利な手段が出来たので 安易にもそれを利用しました。 : 未だに便利であると感じている人は多いと思いますが、・・・(中略)・・・ 問題は、《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》 という理屈よりも、それが非常なストレスになる、ということではないでしょうか。 ブラジュさんの主張は、それを甘んじて受けよ、または、その程度のことが我慢できないならコミュニケーションという行為自体を諦めろ、と言っているに等しい。 それを本当に是とするというお立場ですか? ~~~~~~~~~~ ☆ これに対してまづ お礼欄では ふたつのことを述べました。 ひとつは ブロックという制度じたいについて うんぬんするものではなく 対話にかんしてすべてその当事者の自由にもとづくというのは 大前提であるということ。それを確認しました。 もうひとつには では ブロックすることによって 嫌な気持ちになるその不快感が世間に出回らなくなるかと言えば それは 分からない。たぶんそうはならず 世の中は 以前と変わらぬ状態にあるだろう。でも それによって ならブロックをするなとか やはりブロックしないほうがよいだろうとか これは決められない。つまり わたしには その結論が分からない。 このように お礼欄にてお答えしました。 つまり 分からないのであるから もともとの大前提としての《ブロック制度の利用は自由である》が活きるとお伝えしました。 その後 考えとしていくらかおぎなうところを持ちました。それが 補足欄に次のように書き込んだものです。 ☆☆(No.14補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~ 相手に次のように言って それにどう対応するかを見て ブロックするならする。という考えです。 ○ (こちらがブロックしようとする相手に持ちかけることば) ~~~~~~~ ここまで来て 互いに見解の相違があると分かりました。広い意味での《見解の相違》です。 しかも この相違については 互いに共通の理解が得られたと考えます。 そうなると あとは 短時日では見解を見直すということもむつかしいでしょうから これ以上やり取りをつづけても 押し問答になるだけだと考えます。 * 中には 水掛け論にしか過ぎない場合も多々あるのですが 広い意味での《見解の相違》ですし 《押し問答》とします。 さらに中には 水掛け論にすらならないアラシもあるので すが そこは このとき触れないこととします。 よって このあとのあなたの応答を見て このいまの見方が変わらなければ そのときから こちらはブロックすることとします。 なおブロックの解除につきましては 特にあなたの動向を見守っていくわけには行きませんので すべて成り行きに従うこととします。 以上 あしからずご了承いただければさいわいです。 ここまでのご投稿をありがとうございました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりこのような手続きを経て ブロックするのは どうか? というものです。 まだ はこぶるさんからそれに対する返答はもらっていません。 えもーぢーさんは いかがお考えになりますか? ★ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 ☆ 一般的にそのようだと考えますが 細かく見ておく必要もあるかと考えます。 というのも ここでの広い意味でのアラシ投稿にかんしては そのアラシ屋さんは 自分のほうが強いと思っているだけという事情があるからです。 つまり ほんとうは そのアラシ屋さんは 世間において どこか弱いところを持ち おそらくその腹いせに ここで自分を強く見せようとしている。そういうときにどうするか? もし ★ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 ☆ ということなら こちらは多少ともその弱きアラシ屋さんよりも余裕があるのなら そのアラシ投稿の《自由》にさえ話を合わせてやるのが 武士というものです。ちがいますか? 腹いせでも何でも まづはこちらの余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲で 受け留めてやった上で 話は始まるかも知れないし もうブロックしてしまうかも分からない。――というふうに その原則から行けば なるのではありませんか? つまり ほかのカテゴリでは こんなことはまづ関係ありません。その質問の中身に即して ああだこうだと答えてやればおしまいです。けれども哲学カテというのは 孤独な人間に対して まづはその弱き部分を受け留めつつんでやるくらいのことは 最小限のエチケットであるかも分からないぢゃありませんか。 そういう問題はないのですか? わざわざ Osiete と Kotaeru との Wave をつくるというのなら 哲学カテは そのような愛知の部分をないがしろにするものではない。端からその精神に違反することは かえってそのほうが 精神衛生上よろしくない。不快感やら世の中の閉塞感やらが増すというものです。 考え過ぎでしょうか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#12です。 > アラシに遭えば 自分の側に特別の問題はなくても そのののしりを浴びせられれば 不愉快になり気持ちが悪くなるということですね。 じつは その気持ちにかんして わたしは分かっています。 : ブラジュさんがどうかはどうでもいいとは言いませんが、あくまでブロックという制度に関する問題です。 「不愉快になり気持ちが悪くなる」をお認めになるのであれば、それを避ける手段があってもいいのではないか、という単純なことです。 たとえば、挙げておられる 《質問に成っていない。病院へ行け》というコメントにしても、ブラジュさんのようにそれを受け止め可能な人とそうでない人がいることは明らかではないでしょうか。 「そうでない人」に対してブロックすべきではない、と言っていることになるわけですから、それは違うだろう、と言っているわけです。 >《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》と言って 放っておいた。 その後 ブロックという便利な手段が出来たので 安易にもそれを利用しました。 : 未だに便利であると感じている人は多いと思いますが、「自分はその問題点をすでに乗り越えた。ゆえに、こんな制度は不要である」 という、その思考プロセスはあまり褒められたものとは言えないような気がします。 問題は、《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》 という理屈よりも、それが非常なストレスになる、ということではないでしょうか。 ブラジュさんの主張は、それを甘んじて受けよ、または、その程度のことが我慢できないならコミュニケーションという行為自体を諦めろ、と言っているに等しい。 それを本当に是とするというお立場ですか? > どうなんでしょう。もしブロックすれば アース役を引き受けなくてよいということになるか? しばらくは 効き目がありますね。そのあと どうなるかですが。 同じ地点から ふたたび――気持ちわるい投稿をも受けるかたちで――やり取りを再開することになるのか? : まず、メールアドレスが無尽蔵に取得できるわけではありませんから、その都度ブロックしていけば断ち切りは可能です。 わたしがブロックしているのは約一名のみですが、複数IDを多用しているようであり、ブロック数自体は10個近くに上ります。 その本人にが憎いというわけでは全くなく、逆に憐憫を感じるだけなのですが、それはおっしゃるように、アラシとなるにはそれなりの辛い現実にさらされているからであろうことは容易に、論理的理由により推測できるからです。 ただ、わたしの場合には、アース役になるだけのキャパシティがない。 それでブロックしています。 森田健作風に、あるいは星一徹(ふるっ!)のように、そんなことではいかん!と言われてもどうしようもありません。 >そうしますと アース役を たとえばわたしなどの役目として暗黙のうちにでも決めておくとよいかも知れません。ということになりましょうか。 アラシよ 来い。こっちの水は甘いぞ。と言って そうしましょうか。そういうところに落ち着きますか。どうでしょうか。 : これは多少傲慢な考え方だと思います。 アラシといえども風向きは様々であり、すべてを一人が引き受ける必要はないでしょう。 また、アース役というのは実は引き受けることだけをしているわけではなく、引き受けることによって自らの存在を主張しているという本質を忘れてはいけません。 救うものは常に救われるものである、というのはわたしのかねてからの主張ですがそのことです。 >つまり じつは 人びとは そのように自分の不満に対して・という意味は 自分はただしいのに こんなに周囲から受けた仕打ちによって傷ついてしまったというその世の中の不条理に対して わたしが目に留めてくれたということで うれしくなったのです。自分は潔癖なのにという怒りだった。 : これはひとつの真理でしょうね。 ただ、今はそれを受け止める側の対処の問題ですから、その対象法は個人個人に委ねられるべきだと思うだけです。 >ブロックの制度とその利用如何の問題であるよりは やはりアラシについて・そして取り分けそのキモい電波をどうするかの問題にもなって来たようです。 社会が 上から下まで このガミガミ電波の伝染と感染と連鎖反応と何やかやで 輻射列島となっていましょうか? そういう問題でしたか。 : そこまでを考えた上での投稿ではありませんでしたが、別の課題としては面白いと思います。 いずれにしても、今回の質問タイトルからそこまで深化させることには無理があるでしょう。
お礼
分かりました。と言っても どうすればよいのかに戸惑うのですが まづは はこぶるさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 問題は、《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》 という理屈よりも、それが非常なストレスになる、ということではないでしょうか。 ブラジュさんの主張は、それを甘んじて受けよ、または、その程度のことが我慢できないならコミュニケーションという行為自体を諦めろ、と言っているに等しい。 それを本当に是とするというお立場ですか? ~~~~~ ☆ そこまで行き着くということのようですね。そのつもりがなくても。 つまり ブロック制度を利用するかしないかは まったく無条件に自由であるというのが 大前提なのですが それでも 《ふさわしくない》という命題からは ブロックを利用するのは 哲学カテにおいては一人前ではないと言っていることにまで行き着くということのようですね。 ★ ~~~ 〔* ブロックは〕未だに便利であると感じている人は多いと思いますが、「自分はその問題点をすでに乗り越えた。ゆえに、こんな制度は不要である」 という、その思考プロセスはあまり褒められたものとは言えないような気がします。 ~~~~~ ☆ 便利でそれを使うのは自由だという前提を言っただけでは 人に行動を強いるかたちになるということなのですね。 ★ 「自分はその問題点をすでに乗り越えた。ゆえに、こんな制度は不要である」 ☆ これは 思っていませんが そう聞こえるということでしょうか? ★ 問題点を乗り越えた ☆ というふうには思っていません。問題をいまだに起こされていますから。乗り越えようと思って 表題のことを考えたわけではありません。哲学カテは やはり《大道は無門なり》に従うのがよいと思ったことからです。単純にそれです。 ★ こんな制度は不要である。 ☆ と思って質問したわけでもありません。利用するのは自由という別の原則も 有効なかたちで 開放自由をえらぼうと思ったのでした。応答しない・つまりお礼欄を余白にしておくというのも ブロックのようなものですから。 そうですね。ここまでですかね。考えのおよぶところは。これ以上は 考えても 考えたことをどうするか 発表するかどうか 分からない性質を持って来ますね。 ★ ~~~~ >ブロックの制度とその利用如何の問題であるよりは やはりアラシについて・そして取り分けそのキモい電波をどうするかの問題にもなって来たようです。 社会が 上から下まで このガミガミ電波の伝染と感染と連鎖反応と何やかやで 輻射列島となっていましょうか? そういう問題でしたか。 : そこまでを考えた上での投稿ではありませんでしたが、別の課題としては面白いと思います。 いずれにしても、今回の質問タイトルからそこまで深化させることには無理があるでしょう。 ~~~~~~ ☆ これはですね。アラシをしたいというその動機になる不満を解消させる方向へ みなで協力すれば 或る程度は効果があるのではないでしょうか? その意味ではつながっているようには思います。ただ それも ひとつの側面ということになりますかね。 ということは 全体として 定まらないということに わたしとしては なりそうです。 ★ 救うものは常に救われるものである、というのはわたしのかねてからの主張ですがそのことです。 ☆ この命題については ぎゃくにわたしのほうから 当てはまらない場合がありますと物言いを述べます。 まったく百パーセントにおいて受け身で 応答することにおいて《相手をすくう(つまり 相手が自己到来するに到るきっかけとなる)》場合が明確にあります。すべて広い意味のアラシを受けて その受け身のかたちと範囲の中で 応答する場合です。 そういう場合には もしさいわいにも《すくう》ことが出来たとした場合 出来たとしても こちらがそれによって《すくわれる》ということは 別問題だと考えます。 ★ アース役というのは実は引き受けることだけをしているわけではなく、引き受けることによって自らの存在を主張しているという本質を忘れてはいけません。 ☆ このときにも 《引き受ける》ことが まったくにおいて受け身であるという場合が考えられるという見方です。決して好き好んではやらないはずなのです。 これは 主観の問題ですので 双方ともここまでになるかと考えます。 あっ ひょっとして ★ 救うものは常に救われるものである ☆ というのは こういう場合を言うのでしょうか? つまりわたしの場合《すくわれる》という感覚も認識もありませんが 人がみづからをすくうきっかけになることは 受け身においてこちらとしてはそのように行なっているのだけれど それでも受け身から転じて積極的にしているのでもあるからには それについてどう考えるのか? と。 これは はっきりしています。ひとえに 自分が自由になることをねらっています。つまりは 人が自己還帰に到りすくわれるなら その人が自由になる。人が自由になれば わたしが自由になる。これを ねらっています。 ですから この《自由への道をすすむ》ことにおいて もしそうであるなら ★ 引き受けることによって自らの存在を主張しているという本質を忘れてはいけません。 ☆ ということが付随しているのかも分かりません。ですが 感触としては 筋がちがうようには思います。 結論は 《分かりません》になりますから アラシ関連でブロックを利用することは もともと本人の自由であるという前提が どこまでも生きます。 これで 一件落着でしょうか?
補足
お礼欄の考えを承けて ひとつの結論を得ました。 こうです。相手に次のように言って それにどう対応するかを見て ブロックするならする。という考えです。 ○ (こちらがブロックしようとする相手に持ちかけることば) ~~~ ここまで来て 互いに見解の相違があると分かりました。広い意味での《見解の相違》です。 しかも この相違については 互いに共通の理解が得られたと考えます。 そうなると あとは 短時日では見解を見直すということもむつかしいでしょうから これ以上やり取りをつづけても 押し問答になるだけだと考えます。 * 中には 水掛け論にしか過ぎない場合も多々あるのですが 広い意味での《見解の相違》ですし 《押し問答》とします。 さらに中には 水掛け論にすらならないアラシもあるので すが そこは このとき触れないこととします。 よって このあとのあなたの応答を見て このいまの見方が変わらなければ そのときから こちらはブロックすることとします。 なおブロックの解除につきましては 特にあなたの動向を見守っていくわけには行きませんので すべて成り行きに従うこととします。 以上 あしからずご了承いただければさいわいです。 ここまでのご投稿をありがとうございました。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょう?
- tattaro
- ベストアンサー率19% (30/153)
でしたら わざわざどうしてこの質問を訪ねて来ましたか? いや、はやくあなたがブロックしないかなあと思って。笑 あと屑は放置しろと言いたいんじゃなくて、 屁理屈こいてる暇あったら行動起こして少しは社会に貢献しろと、そしたら屑な人生から脱するという簡単なことやれと言いたいだけ。
お礼
考えちゃったね。 まづはご回答をありがとうございます。 そうだねぇ。 ★ いや、はやくあなたがブロックしないかなあと思って。笑 ☆ しないということを言っている質問ですよ。 ★ ~~~ あと屑は放置しろと言いたいんじゃなくて、 屁理屈こいてる暇あったら行動起こして少しは社会に貢献しろと、そしたら屑な人生から脱するという簡単なことやれと言いたいだけ。 ~~~~~ ☆ ところが 屑がこのカテをリードしている。どうしたことだろう? ここで話がかみ合ってから あんたも 張りあいが出て来たろう。社会に貢献してるぢゃないか。へへっ。 ★ 屑な人生から脱する ☆ としたら あなた方は あまりにもみじめな思いをしてしまうでしょう わたしの文章に接して。屑だから ちょうどよいのです。ばか丸出しだから バランスが保てているのです。こんだけ 社会のことを思ってる人間も どうだろう まあまあいるかなぁ。 居心地いいかい?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
ブラジュさんにしては言葉の持つ力というものを軽視しているんじゃないでしょうかね。(わたしが言葉の持つ力を十分に理解しているという意味ではありませんが) 端的なというか陳腐な例ですが、たとえばアラシに対してみながアース役を引き受ける必要はありません。 攻撃的言語というものは、発する本人の病的度合いが高いほど他者の精神を蝕む確率が高くなります。 ブラジュさんのように耐えられる人もいればそうでない人もいます。 そうでない人に対して「そんな弱いことではいかんよ」と言っている、あるいは「そんな弱い人間はコミュニケーションをとる資格がない」とまで踏み込んで言っているのか。 いずれにしても、哲学するなら死ぬ気でやれ、と言っていることになりますが、それはどうなんでしょうね。 徹底した対話が必要であることは認めますが、いかなる理由であれ「ちょとタンマ。あんたとはしばらく遊ばないから」というぐらいの自由もあっていいんじゃないでしょうか。 論点を曖昧にしたくないのでご返事はアラシに限定してお願いします。
お礼
はこぶるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづ ★ 論点を曖昧にしたくないのでご返事はアラシに限定してお願いします。 ☆ ですね。 アラシに遭えば 自分の側に特別の問題はなくても そのののしりを浴びせられれば 不愉快になり気持ちが悪くなるということですね。 じつは その気持ちにかんして わたしは分かっています。身近な例を挙げますと この質問への初乗りをしている御仁は わたしのほかの質問(観念の運河)へも初乗りで 《質問に成っていない。病院へ行け》と言って来ています。いまの質問のときは感じませんでしたが あちらの質問のときは お礼欄で応答しているとき その《気持ち悪さ》を感じました。 つまりそれについてのわたしの解釈は その回答者も じつは内心では ここまで罵倒を浴びせてわるいという感覚があるということ だからこそそれを受け留めてわたしが応えているときに わたしの中で以心伝心したのだというものです。かなり気持ちわるいです。 けっきょくアースしてしまうわけですが それがなくなるためには その本人が 心で世界と和解するよりほかにないと考えられます。そのためには その自己到来としての和解へのきっかけを設定するよりほかにない。となります。ゆえに 放っておくよりは 回答の場を開放して事にあたったほうがよいと考えられます。 さらにもう少し 事情ないし実情をわたしの見たところで つづりますが その昔にはここで ブロックの制度はなかったわけです。では そのとき わたしにしてももうこれ以上はやり取りを閉ざしたいと思ったときには どうしたか? これは 何にも応答しなかったということです。お礼欄も補足欄も空白のままにしておいたということです。 そのようなブロックに当たるようなことを では何故おこなったのか? これは はっきりしています。問いに対する答えとして焦点がズレているくらいなら それなりに対応できますし しておけばよい。ただただ ここから出てけ!といった投稿に対してなら それが何度もつづくなら 放っておいた。こういう事情ですが 何故かと言えば 同じことの繰り返しになると分かったときだということです。《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》と言って 放っておいた。 その後 ブロックという便利な手段が出来たので 安易にもそれを利用しました。 ここまでが ブロックをめぐるわたしの歴史とその事情説明です。 ★ 徹底した対話が必要であることは認めますが、いかなる理由であれ「ちょとタンマ。あんたとはしばらく遊ばないから」というぐらいの自由もあっていいんじゃないでしょうか。 ☆ 思うことはですね この《ちょっとタンマ》をブロックでおこなうということについてですよね。 どうなんでしょうか。 ひとつに いちばんよいのは 《見解の相違》につき互いにちょっとタンマということ――ブロックはしないで そのように時間を置くこと――なのでしょうね。はこぶるさんとの間でわれわれは じつは そうしていますね。 つぎに 何も応えずに放っておくことでしょうか。 つぎにブロックが来るかどうか? もちろん 自由であるのですが。 自由という大原則を前提にしつつ どう考えるか? ですが。 ★ 端的なというか陳腐な例ですが、たとえばアラシに対してみながアース役を引き受ける必要はありません。 ☆ おっしゃるとおりですね。 どうなんでしょう。もしブロックすれば アース役を引き受けなくてよいということになるか? しばらくは 効き目がありますね。そのあと どうなるかですが。 同じ地点から ふたたび――気持ちわるい投稿をも受けるかたちで――やり取りを再開することになるのか? ううーん。分からないですね。分かりません。 そうしますと アース役を たとえばわたしなどの役目として暗黙のうちにでも決めておくとよいかも知れません。ということになりましょうか。 アラシよ 来い。こっちの水は甘いぞ。と言って そうしましょうか。そういうところに落ち着きますか。どうでしょうか。 ★ ブラジュさんのように耐えられる人もいればそうでない人もいます。 ☆ わたしは 耐えているわけではないのです。向こうから来たものを避けずにいて 受け取ってしまったら あぁ 受け取ったと思い あとは放っておくというものです。 ただし そのののしりや そしりの中身について 多少ともわたしの中に当てはまる良く無さがあれば それについて 反省しあとは内的に捨てる。こういう処理をしています。 いやいや ウソをついてはいけません。ぶらじゅクンは 五・六年前はじめの頃には もっと過激でした。売り言葉に買い言葉として けんかを買っていました。ひどい言葉をも返していました。ほろびよとも言いましたし 火の中へ行けとも――たぶん ここでは言っていないかもしれませんが 大きく社会の中で――言いました。それほど 意識の排泄なる電波は猛威を振るっていたとも言えると思います。 それに対して たいてい 相手は怒ります。その怒るというのが 違法電波の発信の証拠だと見ます。つまり じつは 人びとは そのように自分の不満に対して・という意味は 自分はただしいのに こんなに周囲から受けた仕打ちによって傷ついてしまったというその世の中の不条理に対して わたしが目に留めてくれたということで うれしくなったのです。自分は潔癖なのにという怒りだった。(ただ 誰かれの見境なく 当り散らしただけだという)。 そんな問題もあります。 ということは ブロックの制度とその利用如何の問題であるよりは やはりアラシについて・そして取り分けそのキモい電波をどうするかの問題にもなって来たようです。 社会が 上から下まで このガミガミ電波の伝染と感染と連鎖反応と何やかやで 輻射列島となっていましょうか? そういう問題でしたか。
- tattaro
- ベストアンサー率19% (30/153)
社会は見捨ても見放しもしないぞ。 あなたが見捨てられると感じるような消極的な考え方と行動で生きてるだけの話だ。 哲学は屑を正当化する為にあるのでないよ。 (屁)理屈はどんな人間も正当化するのに都合のよい道具だってだけだ。 だから言葉遊びに過ぎないっていってんのさ。
お礼
なるほど。屑は 見放せということですね。 まづは ご回答をありがとうございます。 屑になるのは それ相応のその人じしんの問題がありしたがって責任がある。ゆえに 放っておくことが いちばんの哲学による措置の仕方であると。 でしたら わざわざどうしてこの質問を訪ねて来ましたか? ★ 言葉遊び ☆ がしたくなってですか? あぁ ★ 社会は見捨ても見放しもしないぞ。 ☆ ということをつたえに来たというようなことでしょうか? ならば 分かりました。ありがとうございました。 ではまた。
- atomonados
- ベストアンサー率31% (55/174)
お礼ありがとうございます。おかげさまで「ブロック制は哲学カテには ふさわしくない」と納得できました。 あわせて信仰やヒラメキへ通ずるとのご指摘も参考にさせていただきます。 ではこのへんで失礼いたします。
お礼
ありがとうございます。 泣かせますねぇ。 ではまた。 * たったろさんも 元気なようです。
ブロック制というのはカテゴリーの細分化の ことですか? ピント外れの答えになってしまっていたら 笑ってお読み捨て下さいね。 哲学であれ恋愛相談であれ、他人と結びつき 議論し交歓することが目的なら開かれた自由な コミュニケーションの限界はおのずと明らかに なりますよね。 だって、わからんちんもいれば誤解曲解する人、 ネチネチネバネバ偏執的だったり挑発的だったり。 特に、哲学カテゴリーには私憤や鬱屈を社会問題に すり替えて出してくる人が沢山居ます。 哲学用語という食紅をまぶしてイキドオリやムリョクカンを 人目も気にせずに放り込んでくるものだから、美味しくない テツガク闇鍋が出来てしまいます。 多分、ですがインタラクティブというのは一方が 意図しただけでは上手く機能しないものなのかも 知れません。 お互いがペアリングしてから始めて機能するもの、 例えば、合コンやナンパで表面的な批評し合いに 終始してしまい、ちゃんとした恋が出来なくなって しまうように。 恋愛がそうであるように、満足できる思索との出会い という意味では、つまり恋人探しのような、深く思考が リンクできるような認め合える相手との出会いを求める ならば。 極論のようですが、要は沢山なんかいらない、たった 一人居れば・・・というような考え方の方が理に叶うかも 知れないなと思うのです。 かといって、もっともっと再分化してしまってもお客が 来ない小さな結婚相談所みたいになってしまうし。 対話の相手に例外を作らず、純粋に哲学的な思索の 呼応、共振を得ようと思えば、まず とかく限定的な 哲学用語・・・(それでいて数式の様に美しく絶対的では ない)を何とかした方が先のような気がするんです。 ファジーで構わないから子供でも何となくは理解が 出来るような言葉・文章に訳する方が門戸を開くことに なる気がするのです。 いささか逆説的ではありますが。 特に、生きる苦しみについての人間哲学は、苦労が 滲む人生から刮目できる視点や切り口が得られそうに 思うけれども、同時に未就学児童からさえ、「!」と 眼から鱗が落ちるような一言が返ってくることも期待 出来ます。 カテゴリー区分より、一つの命題に沿って遍く人々の 視点を巡回探訪してみるには、それぞれのカテゴリーに (哲学に限らず、という意味です)該当するように翻訳し 対話してみると、遥かに広い、面白い見識を見出せるの ではないか、と思うのです。 そもそも哲学は、全てに通じる・・・意識や心が捉える 世界像について、自分と社会、序列、是非、有無の 究極根源について思索するものだったのですから、 逆に言えば「ハワイのどこが観光旅行にお勧め?」と いうような質問でさえ、その人がどういう人物で、 どんな状況に居て、何を求めているのか、という 対話から何がしかの持論なり見識なりを表明する こと、その反応を楽しむことも出来るのではないか、と そう思うんです。 どこまでが哲学なのかというのは難しい領域問題ですが それは私たちの仕事ではありませんしね。 自分の全ての思考に哲学的な視点や時空識を持つこと。 言わば、自分が全ての哲学カテゴリーになってしまうと いうような考え方、はいかがですか? 通りすがりの野良の駄文ですが、「ケッ」でも結構ですから ニヤリと微笑んで頂ければ幸いです。 ではでは、ご笑捨下さいませ。 ごきげんよう。
お礼
かでぃあわあくすさん ご回答をありがとうございます。 どうやらエンジンがかかって来たように見えるわい。情け容赦はしませんよ。 ★ ~~~ ファジーで構わないから子供でも何となくは理解が 出来るような言葉・文章に訳する方が門戸を開くことに なる気がするのです。 いささか逆説的ではありますが。 ~~~~~ ☆ まだ ことの意味をつかもうとなさっていません。たとえば ○ アマアガリ と言えば 子どもでも アマクダリということを知っているなら 何のことか おおよそは察しがつくというものです。大人なら なおさら たとえばさらに ○ アマアガリ・シンドローム と言ってみれば それが何のことを言おうとしているか だいたいの見当がつくというものです。 まだわたしの新造語をみくびっていらっしゃる。 なにごとも初めはむつかしい。という事情も察しなければならないでしょう。 さもなければ 代案を出せばよろしい。 そのそこで言う《逆説的》な話が このあたりから始まるのですね。そしてこの《逆説的転回》は 【Q:観念の運河】での投稿内容からのものだとも推し測られます。 最後には 対極にまで振り子は振れました。 ★ ~~~~ 自分の全ての思考に哲学的な視点や時空識を持つこと。 言わば、自分が全ての哲学カテゴリーになってしまうと いうような考え方、はいかがですか? ~~~~~~ ☆ 無理にそうすることもないでしょうが けっきょくにおいて そうなりましょうね。 そして そのつてで言えることは たいていの勉強家の人たちは 哲学を行きと帰りとに分ければ その往路にあって往路にあるという姿勢で 文章をものしておられる。その道で確かに《観念》は必要でしょうが 観念や概念を現実にあてはめるのではないはずです 哲学は。つまり ほんとうは 行きにも帰りにも 現実直視が必要なはずですが 復路にあっては もはや大事にはぐくんだそれまでの観念はぜんぶ捨て去ってしまった裸の身で世の中を歩かねばならない。すなわち ★ 自分の全ての思考に哲学的な視点や時空識を持つこと。 ☆ であり ★ 言わば、自分が全ての哲学カテゴリーになってしまうというような考え方 ☆ になってとうぜんです。初めて意見が一致しました。 ところで 次のようなあたらしい用語は 意味が判明しましょうか? ○ スサノヲ人間語とアマテラス普遍人格語および普遍科学語 テストみたいですね。《あやまつは ひとのつね》がヒントです。 たぶん ★ 通りすがりの野良 ☆ はそろそろ返上してしまうのがよいでしょう。 言っときますが ★ 対話の相手に例外を作らず、≫純粋に≪ 哲学的な思索の呼応、共振を得ようと思えば ☆ この括弧内の観念 これから自由になってください。 このように上から目線でわたしがしゃべるのは 初めに玄関で勝手にブザーを鳴らし続けすぎたむくいと受け取ってください。じつは わたしんちのブザーではなかった。そのスサノヲ人間語の修繕が済めば ふつうにコミュニケーションができましょう。ただし アマテラス普遍語は それを あくまで基礎としてのスサノヲ人間語にもとづいて活用するだけです。アマテラス語に成りきってしまうと ただ往路をさまよう観念人間つまり逆立ち人間になってしまいます。アマアガリ症候群のことです。 ひょっとして 野良のままのほうが いいかも。というのは わたしのほうが あなたの野良ぶりよりも野良なのですから。これを スサノヲイズムと言います。
- tattaro
- ベストアンサー率19% (30/153)
底辺の屑だってわかってんじゃんか! なら尚更そんな屑からの屑な回答は拒否りたいのは当然だろ♪ そんなことすら理解できねーのか?
お礼
たったろさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 まづ ★ そんなことすら理解できねーのか? ☆ ったって できねーよ。なぜなら そういうふうに社会から見放され見捨てられた存在にも・あるいはそういう存在にこそ目を向けるのが 哲学屋のしごとでしょう。そういう人を足蹴にすることなら そこらのチンピラにでも出来るってもんだ。 それに ならこういうことかい? つまり 回答に対しては・すなわち ★ そんな屑からの屑な回答は拒否りたい ☆ と言っているけれど 屑の屑による屑のための質問には 拒否らないということかい? どうしてだい? ゲせねーよ。 あんたも ちょっぴりおセンチってことか。
- tattaro
- ベストアンサー率19% (30/153)
恋愛したことない男がたくさんの恋愛本読んで女とは恋愛とはって語ってる童貞君と同類に見えるからブロックされるんじゃん。 相手にとって価値ある回答ならブロックされないんじゃん。 そんなことも気付かないのは哲学だなんて高尚なやりとりしてるとでも勘違いしてる低レベルだからじゃん。
お礼
あっはっは。あっはっは。もうひとつおまけに あっはっはのは。 少しは人間らしくなりましたか。 ただし もしそのたとえを推論として この質問への回答としたいのならば ひとつの具体例を 文章あるいはそれを要約した考えとして提示しておこなうと さらに人間性が増すというものです。というよりは そこまでのことをして初めて《人間以前の状態にある人間》から コミュニケーションをおこなう人間らしい人間に成ると知るとよいでしょう。 具体的に何のことを言っているのか。どの文章について言っているのか。これを示す必要があります。理由を付すのももちろんです。 それでも ご投稿をありがとうございました。 ★ 相手にとって価値ある回答ならブロックされないんじゃん。 ☆ 何の値打ちもない投稿であるにもかかわらず こうしてていねいに答えている。そういう人間になってください。哲学カテは そのためにあると言ってもよろしいのでは? 気が乗ってきたので さらにお応えしましょう。 ★ 恋愛したことない男がたくさんの恋愛本読んで女とは恋愛とはって語ってる童貞君と同類に見えるからブロックされるんじゃん。 ☆ この論理は いただけません。もしそれがつねに成り立つとするなら 《玄人はつねに素人よりも妥当性のあることを発言する》となります。いいえ そうは成りません。その専門のことについてすら 玄人が素人に負けることがありますよ。 ゆえに ぎゃくに: ★ そんなことも気付かないのは哲学だなんて高尚なやりとりしてるとでも勘違いしてる低レベルだからじゃん。 ☆ ということになります。ただしわたしは《レベル》などという言葉も概念も 哲学することにおいて わたしの辞書には載せていません。わたし自身は つねに底辺からものを言っています。あなたがたは 底辺にいる屑のようなわたしから からかわれているのです。へっへっへっ。 もうふたりは もどって来るかなぁ。 ★ 高尚 ☆ などという言葉も くそくらえですよ。たいていは 観念の繭のなかにいる蚕となっている場合に 遣いたがるものです。 世の中 逆立ちしているのです。ようく見てみてください。あたまで立っている人間がうようよしていましょう。 あなたも このように密林を切り拓いていく――しかも ただのふつうの人間であるゆえにこそ そうせざるを得ないだけの――ひとに成ってください。荷は重く見えるでしょうが あんがい軽いものです。すいすいすいのすいです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelonneさんと始めて見解が一致した。 私も実はそういう思いでおります。 このカテでの質問にまともに対しないで暴言を投稿する人は、自らをブロックしているのですから仕方ありません。 その暴言の動機や理由も理解できますし、一方で面白く、快哉なるかなと思いながら、哲学の投稿には自ら不適切である事を表明しているので、ブロック制度があろうとなかろうと問題はない。 万機公論というフレーズも何もここで出てくる性格ではないでしょう。 でも私個人は、多くの暴言者と同じにbragelonneの質疑と回答には強く批判と反撥を持っています。
お礼
分かりました。 ★ 批判 ☆ について 書き込んでくださいと つねに言って来ています。《批判を持ちます》という前置きだけではなく その内容です。その周辺でのお考えなどについては すべてにお応えして来ております。ぜんぶお応え済みです。 ほかの回答者や訪問者の方たちには不案内になりますが この回答者の方とのこういうやり取りは たぶんすでに五百回に達しているかと思いますので こういう簡単な応答となります。 ご回答をありがとうございました。 ★ 万機公論というフレーズも何もここで出てくる性格ではないでしょう。 ☆ どういう理由でとお考えですか? と言っても わたしから 引き留めるというつもりはありません。応答するつとめを果たしたまでです。
お礼
★ 〔* みづからの心の中における〕内部的師弟関係 ☆ に完全に同意します。 あともさん ご回答をありがとうございます。 《知恵》の主題についてもです。まづは 文章全体を引きます。 ★ ~~~~ だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 ~~~~~~ ☆ 知恵にかんして受け容れようとしていないように 前回のわたしの応答が見えたとすれば それは 《無知の知》とその対話過程がともなうけんか腰を避けようという気持ちがつよかったからだと思います。知識の授受に対して もともと倍も三倍も重く知恵のことを受け留めています。 《内部的師弟関係》につきましては まづその具体的なあり方として: ★ 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 ☆ ということだと これも同じくわたしも受け留めています。 そしてもし これに要らぬひと言をつけ添えることがゆるされるならば こう思っています。心の内なる師弟関係は ヒラメキないし《わが心における非思考の庭》(=信仰)のことにまで行き着きます。 すでに書き込んだことのある文章ですが: ☆☆ (わが内なることばと それを超えることば) ~~~~ 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。 * 《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。 《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》 それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。 有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。 《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》 * 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。 もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば( verbum verum intimum )》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開かねばならない。 * (アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚え書きしたものです。意訳・変更している箇所があります。) ~~~~~~~~~~~~ ★ 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 ☆ 《非思考の庭》におけるヒラメキ(直感および直観)のほうが コギトとしての哲学よりも――時間的にではなく 知恵のあり方として――先行すると考えるゆえです。 もっとも《愛知》の知が 知識をも知恵をもそしてヒラメキをも含むとすれば 哲学という営為に幅広く奥行きの深い守備範囲を持たせてよいとも考えます。