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ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。
開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。 万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない。 この理由で――昔はわたしもおこなっていましたが―― 哲学カテにとっては ふさわしくない。という結論を得ました。 いかがでしょう?
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嘆き節 承りました。ということは公論の意味を私は取り違えていますね。だとしても「万事公論」の根拠はもとより反論の意図はありません。 質疑応答の場にさえつかぬものは論外として,質疑応答の一方性より討論の双方向性を訴えておられる。それによってより問題は明確になるのだし,互いに高め合うこともできる。もっともなことだと思います。 そして,産婆法を引いての一面的な反論には,別なる取り組み,知識の活用術を説明されました。ご見解を尊重したいと思います。 ただ,一つ論点としたいことがあります。それは,《師》と《弟子》の関係です。もちろん表面的に師弟関係があるわけではありません。 たまたま「あわせてチェックしたい」のリンク先で以下のように回答されているのを見かけました。 >あるいは 次のような考え方があります。 【Q:ひとは だれから おそわるか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html ☆ その答えは 《自分からである》です。《みづからがみづからをおしえる》です。 この考えに私は同意しています。 それを師弟関係というのは大げさですが,そういうものがなければ,おっしゃるところの知識の活用術にはならないと思われるのです。 だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 そしてまた,回答する私が質問者から教わっているなと思う経験があり,ときおり,今回もそうでしたが回答欄に「ありがとう」を述べることがあります。これは今思えば,内なる師が導いたとみる見方もあるのかなと思ったわけです。 実際私の回答は等身大ではなく,自分で見てですが,せいのびをしています。先の回答はタイムラグを見逃してしまっていますが,単に思いつきを述べたのではなく時間をかけ推敲したものです。 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 以上よろしくお願いいたします。
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- atomonados
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こんにちは。 ブロック経験がある人が,自ら反省してブロックしないと自己を制約するということを,ぼくのようにその経験がない者は学ぶべきだと思います。 自己の経験の中でそれに類することを思い浮かべると,自ら絆を断った人々のことです。振り返るとその遠い過去の人々から学ぶべきことが多かったのです。そして感謝の気持ちを伝えたいと思う人もいます。 さて,一般に自ら絆を断つことの後悔の念から人との絆を大切にするとおっしゃってるのではなく,別の根拠を提示されていますから,行為制約云々ではなくその根拠が論点になると思います。 哲学の精神は「知恵への愛」であると言われています。知恵への過程は対話によってなされると言うのも,一人知恵を求めて思索する者が,自分自身の内なる対話を自覚すれば,認めざるを得ない言説でしょう。 しかし,哲学的対話が,自由であるか,コミュニケーションであるか,開かれたものであるかについては吟味する必要があると思われるのです。かといって全く否定されるものでもない。その意味では「開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神」を認めるのです。 つまり,哲学的に開かれていなければならない。哲学的に自由でなければならない。哲学的なコミュニケーションでなければならない。と思うのです。 具体例として。ソクラテスの「無知の知」という知恵への過程は対話です。問いに対して「はい」「いいえ」で答えて同意を積み重ねていく問答です。これが産婆術と言われるのは,ソクラテスの導きで自己矛盾から無知の自覚が生みだされるからです。 産婆術は,まさに産婆による出産のイメージがふさわしく,二人だけであり開かれていないとも言えます。対話が制限的であるとも言えます。ソクラテスの方は自由であるかに見えても,矛盾を導出する方向に対話を進めなければならないという制約があります。だから哲学する人は,哲学的思いをもってむしろ「対話の相手に例外をつくる」のではないかと思われるのです。 さらに 対話の相手に制限をむしろ設けた方が良かったのではないかと思われもします。産婆術は弟子を導くのにはおおむね効果があったが,ソフィストに対して用いたときに,言説の自己矛盾がソフィストの自己否定につながり反目を生みました。 知恵導出の方法的制限は哲学をする者なら課すべきものであると思うのです。そして師から課され,自らに課すものであると思うのです。 産婆術は一つの雛型であるにすぎない。そうだとしても,師と弟子との関係をもたないコミュニケーションで哲学が可能だろうかとの疑念があるのです。産婆術によらずに無知の知を悟らせる方法を私たちは知りません。 単に知識を問う場合,単に知識の社会的整合性を問う場合,つまり質疑応答や議論では究極的な知恵に達せないと思うのです。 哲学カテといえどもそれは,究極的な知恵を求める場ではない,つまり哲学的な場であって哲学の場ではないと思うのです。一面的な反論ではありますが,そのような場ではおっしゃるような根拠はもちだせないとなりますが,どうでしょうか。 もう一つの根拠「万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない」は,No1.No2のお礼,回答欄でおっしゃる通りであり,よく論破なさっていると感心しております。 現時点では,No.3のtattaroさんにはお礼が付いていません。この方はよく挑発的な回答をされますので,ぼくには刺激的です。 その意図を想像するのが面白いです。今回は「自笑」との解釈ができました。ご自身も「~連中」に含まれているということです。仲間であるということです。 しかしながら仲間ならばコミュニケーションがあり,また互いに役に立っているでしょうから「主張の内容」は否定されるわけです。 もちろん公論としてはふさわしくない主張だと思います。この回答を誰が見るかは分かりません。ご本人の家族が見る可能性もあるのです。 どんな回答を心がければよいかということに,とても参考になる質問でした。ありがとうございました。
お礼
あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ どんな回答を心がければよいかということに,とても参考になる質問でした。ありがとうございました。 ☆ そちら方面に注目されるわけですね。 それはそれとして 大切なことと思われますが そうですね。わたしの行き方は ほんとうに自由というそれです。 回答は まづは 質問ないしその趣旨に反応すればよいと思うのです。 そのあと 焦点がずれていれば 質問者は そのようだと指摘するでしょうし 批判を述べてくれば反論するでしょうし 問答――つまり質疑応答ないし規約に言う《情報交換》――を繰り返しながら 解のほうへと煮詰めて行けばよい。こう考えます。 回答についての心がけとしては 以上のように考えます。重要ですけれど とにかく質問に対する応答をするということが まづ大事だという見方でもあります。 あとソクラテス問題が残っていますが その前に ほかの回答者の姿勢の問題に触れます。 ★ 現時点では,No.3のtattaroさんにはお礼が付いていません。この方はよく挑発的な回答をされますので,ぼくには刺激的です。 ☆ たぶんほかの質問なら別かも知れませんが ここではその回答No.3は 成っていません。そういうことを思っていても自由ですが 回答としては意味を成しません。ただの阿呆です。 ほかのNo.1およびNo.2も それと同じです。 つまり 問いに対して 焦点がずれているのではなく 問いをないがしろにしている。これは 回答には成っていない投稿でしかありません。 これらを称して 《意識の排泄》と言います。思惟とみづからの判断を述べるのではないからには コミュニケーションが出来ないという意味で 人間以前の状態にある人間です。 ★ ソクラテスの「無知の知」という知恵への過程は対話です。 ☆ これは 《〈無知の知〉という知恵への過程》でしょうけれど ここは 質問を設けてそれに答えるというやり取りの仕方にしたがいます。互いに知識を活用して解をみちびこうとする共同作業です。 あるいはつまり言いかえると ここでの参加者は ソクラテスでもその対話の相手でもなければ プラトンでもありません。すでに無知の知は知った上での作業です。あるいは 学識ある無知なる状態として むしろ知識は知識としてあたかも融通し合いますが それよりも何よりも 互いの境地を惜しげもなく披瀝しあって ふるい言葉を用いるなら 肝胆相照らす対話を目指しているし すでにしている。こう考えます。 少々荒っぽい言い方をすれば ソクラテスなんかは 目ではありません。 〔じつは わたしは そういうやり方をここで少し前までは していましたが いくら産婆術と言っても 相手にけんかを売っているようなものです。――わたしの場合は いまもその気が残っているはずですが けんかをふっかける相手は 言わばふるい日本です。日本社会そのものです。人を相手にそうすることはありません。 ですが このところ 少し変えて来ています。それは おかげさまで 一方ではアラシ屋さんも だいぶんおさまって来ましたし 他方ではようやくその《ふるい日本との一騎打ち》に――自分で言いますが―― 目途が立って来ました。この局面展開に当たって 少し戦術を変えています。 それにしても あなたは おもしろいということだそうですが No.3のたったろうは これまでのアラシ屋のタイプよりも たちがわるいです。むかしは まだまだ 直接にわたしにののしりを浴びせました。消えろとか おまえの ID を剥奪してやるぞとか。たったろうは この直接性を捻じ曲げています。こういう阿呆は まだいなかった。 あぁ そう言えばついでに言いますが No.1のぱりんぬは よほど腹にすえかねた不満が多いと見えます。こんな者の相手をするてまひまはないと言いたいところです。これも ストレートにはわたしに対していません。人と向き合うことが出来ないかたちです。 どうも ごろつきの質が変わってきました。腐って来ました。うんぬん。 No.2のぷしゅてくすは 前々から 発言多く受信無しの籠もり屋です。中学生の作文を ゴム印としてつくって それを回答として押しまくっています。何ともしかたがありません。話を聞かないのですから〕。 ★ 知恵導出の方法的制限は哲学をする者なら課すべきものであると思うのです。そして師から課され,自らに課すものであると思うのです。 ☆ ここでは すでに知恵をもって知識の活用のために出し合うかたちです。はじめからそういう設定だと考えます。問いないし主題に互いに集中するという意味です。言いかえると ソクラテスが成し終わった対話の時点から 出発するというかたちです。じっさいそうなっていなくとも そういう設定ですすみます。と考えます。 むろん――ですから―― 《師》も《弟子》も関係ありません。 ★ 哲学カテといえどもそれは,究極的な知恵を求める場ではない,つまり哲学的な場であって哲学の場ではないと思うのです。 ☆ これは もしその論法に乗っかって述べるとすれば それはそれでよいのです。その心は すでに触れましたが 知識の活用術としての知恵のほかに 人間としての境地の問題があるからです。境地を互いに上げて行けばよいのです。いわゆる通俗的に言うところの人間革命です。 ★ もう一つの根拠「万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない」は,No1.No2のお礼,回答欄でおっしゃる通りであり,よく論破なさっていると感心しております。 ☆ そのふたりの回答者の勘違いは ここで《公論》を始めようとすると取ってしまったことです。《万機公論に決すべし》という精神に ブロック制度の利用は 反すると言っているのみなのにです。 わたしのほうが 意識の排泄をしているぢゃないかと咎められかねないような調子で述べていると思います。 日本人も とうとう腐って来たかという嘆き節ととってくださればありがたいです。
- tattaro
- ベストアンサー率19% (30/153)
むしろお前らみたいな役立たずなただの言葉のオ○ニスト連中こそ出てくるなって感じだ。 って誰かが言ってました。笑
お礼
回答でない回答は 遠慮しなさい。 ● ( OKWave 禁止事項ガイドライン) ~~~ 【趣旨にそぐわない記述/投稿】 ■ 回答ではない回答 ○ 質問と関係ない内容や雑談、・・・(中略)・・・ ○ 個人的なメッセージなど、 質問に対する回答として成立しない内容を回答欄に投稿することは、ご遠慮ください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
むかしのアラシ屋さんよりも たちがわるくなっているようだ。 へそがねじ曲がっているみたい。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
ここは、一私企業が開設している、Q&Aに限定されたサービスの場であり、勝手に「公論」の場にして、運営に文句を言い、場を荒らすならば、営業妨害です。
お礼
● (OKWave 代表のメッセージ) ~~~~~ Q: OKWaveの目標は何ですか? A: 世界中を助け合いの輪でつないでいくことです。 OKWaveでは、サイトの指標を「ありがとうの数」においています。日々どれだけたくさんの「ありがとう」が生まれたかが私たちの成果です。2012年には20ヶ国語で、200ヶ国以上にOKWaveを広げ、より多くの「ありがとう」を世界の人々と生み出していきたいと思っています。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 《哲学カテ》にとっての《ありがとう》について 考えてみてください。おのづとお分かりになりましょう。また質問は 質問であるはずです。 ただし 相手からの補足要求にも答えないところの受信拒否なる《押し籠もり》の場合には 次のようなガイドラインにしたがって 《回答でない回答は遠慮しなさい》と申し上げます。もう十回は同じことを言ったかも知れません。 ● ( OKWave 禁止事項ガイドライン) ~~~ 【趣旨にそぐわない記述/投稿】 ■ 回答ではない回答 ○ 質問と関係ない内容や雑談、・・・(中略)・・・ ○ 個人的なメッセージなど、 質問に対する回答として成立しない内容を回答欄に投稿することは、ご遠慮ください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
○ ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。 ☆ という表題には 表現上の舌足らずがあったかも分かりません。 制度に文句を言うことと その制度を哲学カテでは利用しないこととは別です。 制度についていっさい口を差し挟まないで その利用の仕方を考えることはあり得ます。これが この質問であり 哲学としての問いです。
- Parinne
- ベストアンサー率7% (14/187)
ここは質疑応答の板であり、議論ための場ではありません。 言葉遊びがやりたいならば、ご自身でその場を開設しましょう。
お礼
● ( OKWave 禁止事項ガイドライン) ~~~ 【趣旨にそぐわない記述/投稿】 ■ 回答ではない回答 ○ 質問と関係ない内容や雑談、・・・(中略)・・・ ○ 個人的なメッセージなど、 質問に対する回答として成立しない内容を回答欄に投稿することは、ご遠慮ください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
★ 〔* みづからの心の中における〕内部的師弟関係 ☆ に完全に同意します。 あともさん ご回答をありがとうございます。 《知恵》の主題についてもです。まづは 文章全体を引きます。 ★ ~~~~ だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 ~~~~~~ ☆ 知恵にかんして受け容れようとしていないように 前回のわたしの応答が見えたとすれば それは 《無知の知》とその対話過程がともなうけんか腰を避けようという気持ちがつよかったからだと思います。知識の授受に対して もともと倍も三倍も重く知恵のことを受け留めています。 《内部的師弟関係》につきましては まづその具体的なあり方として: ★ 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 ☆ ということだと これも同じくわたしも受け留めています。 そしてもし これに要らぬひと言をつけ添えることがゆるされるならば こう思っています。心の内なる師弟関係は ヒラメキないし《わが心における非思考の庭》(=信仰)のことにまで行き着きます。 すでに書き込んだことのある文章ですが: ☆☆ (わが内なることばと それを超えることば) ~~~~ 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。 * 《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。 《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》 それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。 有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。 《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》 * 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。 もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば( verbum verum intimum )》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開かねばならない。 * (アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚え書きしたものです。意訳・変更している箇所があります。) ~~~~~~~~~~~~ ★ 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 ☆ 《非思考の庭》におけるヒラメキ(直感および直観)のほうが コギトとしての哲学よりも――時間的にではなく 知恵のあり方として――先行すると考えるゆえです。 もっとも《愛知》の知が 知識をも知恵をもそしてヒラメキをも含むとすれば 哲学という営為に幅広く奥行きの深い守備範囲を持たせてよいとも考えます。