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ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。
開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。 万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない。 この理由で――昔はわたしもおこなっていましたが―― 哲学カテにとっては ふさわしくない。という結論を得ました。 いかがでしょう?
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嘆き節 承りました。ということは公論の意味を私は取り違えていますね。だとしても「万事公論」の根拠はもとより反論の意図はありません。 質疑応答の場にさえつかぬものは論外として,質疑応答の一方性より討論の双方向性を訴えておられる。それによってより問題は明確になるのだし,互いに高め合うこともできる。もっともなことだと思います。 そして,産婆法を引いての一面的な反論には,別なる取り組み,知識の活用術を説明されました。ご見解を尊重したいと思います。 ただ,一つ論点としたいことがあります。それは,《師》と《弟子》の関係です。もちろん表面的に師弟関係があるわけではありません。 たまたま「あわせてチェックしたい」のリンク先で以下のように回答されているのを見かけました。 >あるいは 次のような考え方があります。 【Q:ひとは だれから おそわるか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html ☆ その答えは 《自分からである》です。《みづからがみづからをおしえる》です。 この考えに私は同意しています。 それを師弟関係というのは大げさですが,そういうものがなければ,おっしゃるところの知識の活用術にはならないと思われるのです。 だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 そしてまた,回答する私が質問者から教わっているなと思う経験があり,ときおり,今回もそうでしたが回答欄に「ありがとう」を述べることがあります。これは今思えば,内なる師が導いたとみる見方もあるのかなと思ったわけです。 実際私の回答は等身大ではなく,自分で見てですが,せいのびをしています。先の回答はタイムラグを見逃してしまっていますが,単に思いつきを述べたのではなく時間をかけ推敲したものです。 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 以上よろしくお願いいたします。
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欠席裁判。「美の乞食」のお話ですか? 誰もあなたのことだと思っていませんよ。 あなたの自意識過剰か、言いがかりだと思います。私の方こそ、勝手に加害者にされて迷惑です。
お礼
昨夜は 強烈なアッキが誕生していたかと おそれをなしたけれど 今晩の書き込みは そのおそれが わたしの買い被りだったと語っている。 これは 戦術なのか。それとも 実際のことなのか? ううーん。あるいは こうしてときをかせぎ その反応を見ることで 充電しているのだろうか。 おもしろい。と言えるようになった。 あぁ なるほど。【Q:けんか】のほうで けっきょく《敗戦の譜》が明確に刻まれたので もうどうあがいてもダメだという自覚が出てきたってことか。 ということは その存在の中に《善》が残っていたということか。 これは これからが見ものだ。 訪問者のみなさんも じっくりしっかりと見届けてくださいますよう。 人間の復活劇です。正のか負のか。 あぁ そうだ。その実況中継をするアナウンサー兼解説者にわたしはならなくっちゃならないわけだ。 世間のみなさん よろしくどうぞ。
ハコブルさん、応答、ありがとうございます。 >それほど原初的であるゆえに根強い感情を制御するには相当の超自我性が求められると思います。 おっしゃる通りだと思います。排他性という感情を制御することはなかなか難しいものです。私はこの点についてとても未熟で、ブラジュロンヌさんに接して、改めて未熟さを理解することとなりました。 >彼の場合は、自己主張が認められなかった場合の免疫がないか弱いですね。 おそらく頭が良すぎて、否定されるということに慣れていないのでしょう。 この点について、少し私の意見を述べさせていただきます。免疫が弱いという点については、こうやって、けんかばかりしているわけですから、事実として認めてよいように思います。しかし、その理由付けについては、私は別のことを考えています。むしろ、彼は拒絶されにされたのではないか?と思うのです。 たとえば、まず、ブラジュロンヌさんは結婚していないようです。いろいろ事情があると思いますが、一般的に言えば、女性に拒否されたのかな?とは想像を巡らすことはできる訳です。それにガミガミ役とアース役という話は、職場で彼がガミガミ言われる立場だったという経験の反映だと考えざるを得ません。実際、ブラジュロンヌさんみたいな方が部下でいたら、使いづらいと思います。頭の善し悪しは、人に受け入れられる際に、最大に重要なことではないと思います。頭が悪くても人にかわいがられている人は、たくさんいますから。 ブラジュロンヌさんは周囲に拒絶され、おそらく踏んづけられ続けたのではないでしょうか。それで頑固なまでに意志を持たなければ、生きて行けないと思う経験を何度もしたのでしょう。この結果、きっと、防衛本能がものすごく強くなったのだと思います。だから少しでも批判をすれば、過敏に「俺は攻撃されている」と反応してしまいます。そのあげく、真っ当な批判と、けんかの区別がつかないのです。 これは大変なことです。よかれと思って助言してくれた言葉も、ののしり言葉も区別がつかないということですから、世の中のすべてが敵に見えることでしょう。そして彼自身がけんか続きの自分自身の人生を救おうと思ったら、けんかとは愛の行為である、とでも開き直らなければならなかったのだと思います。だからこそ、けんかをなぜしてはいけないのか?などと問う訳です。 私からすると、ハコブルさんはブラジュロンヌさんのよいご友人と見えています。そうした方に「否定されるということに慣れていない」と言われると、彼は人生を否定されたように感じて、つらいのではないかな、とも推測するのです。否定され続けた人生だったでしょうから。もっとも、そこまで斟酌する必要はないのかもしれません。それにブラジュロンヌさんは、私などに解説されることを好まないでしょうから、反発して、「くそくらえ」とか、「それはサイコロ自身の人生だろう」などとお礼欄に書き込むと予想されます。彼にとっては、私が投稿すること自体が「けんか」だそうですから。 >食事をしながら哲学するのはおかしいというのが論理的でないのと同じです。 おっしゃる通りです。私もそのように思います。もっと言えば、学問としての哲学と対話するという行為は、無関係だと私は思います。極端な話、誰と話さなくても、学問としての哲学はできます。対話はコミュニケーションの問題であり、生き方の問題として別個で考えるべきだと思われるのです。
お礼
《欠席裁判》に参加することはもちろんのこと それを主宰することはなおさら 人間性に反します。 自由ないし自由意志が公理であるということ。つまり 裁判〔のたぐい〕は 人をたとえ裁きの場に置くという場合にも その人の意志から自由な発言が成されて初めて成り立つものです。これを封じるという行為が いかに非人間的であるか。弾劾されてしかるべきなのです。 わたしは 当然のことを言っているまで。
- hakobulu
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#21です。 > この公理としての《自由意志》は どこまでも――つまりほかの命題がいくら掲げられても――有効です。 : それはそうでしょうが、そのことを認識しているかどうか、あるいは、そのような意図で発言したかどうかということとは全く関係がありません。 よって、 > OK 了解 ! というご返答 : にはなりませんが、お疲れ様でしたとでも >ひとこと締めて : おきましょう。
お礼
それは わたしをみくびっています。 《自由 ないし 自由意志。しかもそれは 生まれつきの自然本性であるということ》 これが 大前提(つまり公理)であることは どこにでも何度でも書いています。 決めつけるようになってしまいましたね。
- hakobulu
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#21です。 ブラジュさん、ちょっと横レスで失礼します。 iacta-alea-est3 さん、お気遣いありがとうございます。 >個人的なコミュニケーションがやがては、コミュニティという大きなものに発展していくという考え方です。したがって、個人的なコミュニケーションのレヴェルでも、排他的な態度を取ってはならない、というのです。 : というご見解はまったく同感です。 排他性を惹起するのは主に異質さではないかと考えています。 異質さはおそらく相手に怖れを与える属性を持っているのでしょう。 しかも、感情関連の脳神経細胞で最初にできたのが怖れを司るものだそうです。 喜びや悲しみなどよりも先に人類の脳は怖れという感情が必要であると判断したわけですが、生命維持が人類にとっての最重要課題であることの証左なのでしょう。 それほど原初的であるゆえに根強い感情を制御するには相当の超自我性が求められると思います。 極論すると、自己生命に対する危機感と他者との相関を求める感覚とのせめぎあいで、なかなか難しそうですが、いずれ過去そうであったようになんらかの進化(変化)はあることでしょう。 >こうしてみると、私は最近、批判キャンペーンを展開されていたことになります。 : そうでしょうね。 拒絶されたことに対する怒りがキャンペーンに発展したのでしょうが、iacta-alea-est3 さんが、ブラジュさんにとってそれだけ魅力的な存在なのだろうと思います。 彼の場合は、自己主張が認められなかった場合の免疫がないか弱いですね。 おそらく頭が良すぎて、否定されるということに慣れていないのでしょう。 >ブロック機能を使っている当人が何を考えているか?を知る権利があるかもしれません。ご参考までに。 : おかげさまでお考えはよくわかりました。 ただ、ブロックは理由の遺憾を問わず無条件で認められるべきものだと考えています。 食事をしながら哲学するのはおかしいというのが論理的でないのと同じです。
お礼
ここにも 決めつけがある とだけ 記しておきましょう。
- hakobulu
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#20です。 些細な点にこだわっていてもしかたないので要点だけ述べます。 > ☆☆ ~~~ 「開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。」 ~~~~~~ ☆ このような原則を掲げることは 《弱い》人がブロックを利用することにかんして 言わなくてもよいのに輪をかけるようにして《弱い》と言っているということでしょうか? 最先行する《自由意志による本人の選択》という公理と いまここに掲げる原則とから なんでそんな不満不平が出て来るのか? つまり もし議論をするのなら この原則の中身について どうであるかを考え問い続けるということではないのですか? 公理に差し障るような中身ではないはずです。つまりは 公理にもとづき打ち出した原則というのは 公理の内容にしたがうものです。 : 全く理解できない論理です。 >つまりは 公理にもとづき打ち出した原則というのは 公理の内容にしたがうものです。 : とおっしゃいますが、公理は後付けであたかも付け足しのように述べていますよね。 しかも、ご質問文では原則ではなく >という結論を得ました。 : とおっしゃっていますよ。 「という原則に基づくべきではないでしょうか」 であれば全く意味することが違ってくるのではありませんか? >公理に差し障るような中身ではないはず : どころか、公理を否定する意図があったことは明白ではないでしょうか。 いや、その自由意志を否定するぐらいの勢いで哲学すべきではないか、という意図だとは思うのですが、結論だと断定しておられるので、これは反論せざるを得ないだろうという気にもなるでしょう。 今回お示しのような意図であるならば、せめて「結論」を「原則」と修正した上で回答を募集するのが筋でしょう。 > ☆ というように《弱さ》の問題とは違うとも言っておられる。ならなおさら 問題ないぢゃありませんか。 自由選択という公理があり その上で自由開放という原則を打ち出した。その原則に例外がある。これだけのことではないのですか? : ですから、結論から原則にいつ切り替わったのかな、と思うわけです。 原則と言った時点で例外は必然的に付随してくるわけですし、 結論とするのはおかしい、あくまで原則(という言葉は使っていませんが)ではないか、というのがわたしの見解ですから、 > この問題が解決すれば ほかに述べられた論点は 要らなくなる : のは当然でしょう。 > 要するになんで 一たん一件落着でしょうかというところまでたどり着いたのに こんなに尾を引いているのでしょう? : 「>という結論を得ました」という点に関して反論を述べてきたわけですが、それに対する明確なご返事がないように感じられたからだと思います。 しかし、その意味での一件落着という表現であったのであれば、わたしの理解不足だったのでしょう。 また、機会がございましたら、そのときに。
お礼
ご回答をありがとうございます。 《原則》ということばあるいは《結論》ということば これらを使ったので 混乱があったかも知れませんが 《公理》というものを出したからには 公理がおよそ経験事物にかんしては何ものにも先行します。 ▲ (ヰキぺ:公理) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86 公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。 * (ぶらじゅ註):《原則や結論》が ここで言う《他の命題》に 相当します。次では 《定理》とも呼ぶと言う。 そして 公理のことを 《仮定》や《前提》とも言うと。 公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。 ▼ (こうり1【公理】 (三省堂「大辞林 第二版」より) ~~~ http://jisyo.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search_wd?ie=utf8&q=%E5%85%AC%E7%90%86&mode=0&type=0&dic=0&id=jj_06917600&s=1&e=5&ej=1&je=1&jj=1&ns=1&ct=0 (1) 一般に広く通用する真理・道理。 「人生の―」 (2)〔axiom〕(ア)真なることを証明する必要がないほど自明の事柄であり、それを出発点として他の命題を証明する基本命題。 (イ)数学の理論体系で定理を証明する前提として仮定するいくつかの事柄。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうして《自由 あるいは 自由意志》というのは 公理です。それを証明しなくても・あるいは出来ないにもかかわらず ものごとの判断の前提として共通に持たれることが想定されているものです。 人は 自由であるなら わたしもあなたもかれもかのじょも 人間として同じく自由である。ゆえに 人は互いに 同じかたちで自由であることにおいて平等であるという内容も 公理として持たれることになるというのではないでしょうか。 この公理としての《自由意志》は どこまでも――つまりほかの命題がいくら掲げられても――有効です。ですから ☆☆ ~~~~ 自由選択という公理があり その上で自由開放という原則を打ち出した。 その原則に例外がある。 これだけのことではないのですか? ~~~~~~~ ☆ この順序( order )は 有効性において侵すべからざる秩序( order )です。 OK 了解 ! というご返答になると思いますが ひとこと締めておいてくださいよ。
- hakobulu
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#17です。 > ★ #15さんの「弱き・脆弱な部分」とはアラシではなくブロック制を使う質問者を指しているのでしょう。 ☆ 人間であるなら 誰れにでも当てはまるととるのが 正解でしょう。理由は不要でしょう。人間であることにもとづきます。つまりそこに例外はないというところから来ます。 言いかえると その大前提から言えることは ブロックする者かアラシ屋か いづれが《弱く・脆弱》か その判定によって決まります。もし自分が ブロックする者で 自分のほうが弱いと思ったら ブロックすればよい。そのようにわたしの文章にも書いています。 : まず、前段で、「正解でしょう」とおっしゃっていますが、たぶん違うでしょう。 そこからどのような論を敷衍するのもご自由ですが、#15さんのご見解を都合よく解釈したまま進めるのは良くないと思います。 その上で後段についてですが、 ⇒「弱き・脆弱な部分」としての質問者となる可能性は誰にでもあるはずです。 ブロックはあくまで単なる自己防衛手段であり、寝るときに家の錠を下ろすからといって弱いとは言えないでしょう。 : と前回述べたのは、(むろん形態としてはそうなのですが)単にブロックする者が弱いということではなく、むしろ「君子危うきに近寄らず」のひとつの方法となり得ている、という意味に捉えていただければと思います。 > ☆ すなわち 弱者原則から行けば このように考えることになりましょうと言ったまでです。 ★ そうした「弱き・脆弱な部分」に対する配慮を見落としているのではないか、ということです。 ☆ これは ただの言いがかりです。 : ブラジュさんの「弱者」とわたしの「弱き・脆弱な部分」は全く別の対象を指しています。 #15さんの発言内容をブラジュさんが勘違いされたことが原因で、わたしの言いがかりでないことはご了解いただけるでしょう。 その上でのはなしですが、「弱い」と余裕をこけるうちはその相手は(その人にとっては)アラシではありません。 >MOG さんが 弱者原則を提起したその主題についての問い求めに限っての話でした。ブロックしたあと ブロックしたから やはりその人は弱いと わたしが言っていると受け取るのですか? ブロックしたあとのことは 何も考えていません。触れていません。なぜそのことについて確認もせずに 決めつけるのですか? しかもいまさっきまでは ブロックしようとする者のほうが 弱いと言っていたその舌先も乾かないうちにです。ぜんぶ自作自演ぢゃないですか。 : まず、MOG さんのご回答に対する勘違いをお認めにならないとすれ違ういっぽうなので、その点はよろしくお願いしたいと思います。 その上で、強盗に入られたら誰でも施錠ぐらいするわけですが、それでも施錠しない人よりは弱いと言える、という程度の弱さです。 つまり、弱いと言えば理屈ではそうだが、弱いと言って咎めるのはどうだろうか、という意味です。 「>なぜそのことについて確認もせずに 決めつけるのですか?」とおっしゃいますが、タイトルにある、 「開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。」 は、そういう意味にしか取れないでしょうし、そのことに沿って述べたつもりです。 > ○ 人間は 自分が一方的に損なことは決してしないようにとほとんどつねに注意しているが それでも損なほうを 結果的にえらんでしまったという場合は起こり得て けっきょく馬鹿を見るということさえあり得るものだ。 : これは違います。 損なことをしているつもりで実は得なことをやるように人はできています。 結果的に選ぶのは無意識的に得だと判断するほうなのです。 馬鹿を見るかどうかはあくまで主観ですので、傍から見ると馬鹿を見ているようでいても実は本人にとってはその逆であることが殆んどだろうと思います。 >あとから見て損な選択だったと分かるような道を突き進んでいるという場合はあり得ます。そのときにいったい誰れが その人は《自己主張をしている。そのためだけに努めている》と言って切り捨ててしまうでしょうか。 : 口はばったい物言いですが人生は常に選択の連続でしょう。 得を選んだつもりでもそうではなかったという事態に至ることはむろんあります。 しかし、選択した段階では得だと判断していたことに違いはありません。 そういった事実を述べているだけで、他者が切り捨てるとか捨てないとかいう問題に踏み込んでいるわけではありません。 >逼迫度の問題も 大きいのです。そして もし《損をしないためにだけ 自己主張を繰り広げるためにだけ 動いている》と見られたとしても その眺めは 自由への道をあゆむ者にとって 屁の河童です。世の中は そのように出来ています。 : 逼迫度の意味がよくわかりませんが、ともかく、どう見られるかという問題ではありません。 むしろ、そうは見られない場合が多いでしょう。 ただ、損得抜きで動いているのだ、という感覚が強すぎると余裕が持てなくなりますし、なにより真理に反します。 >すなわち けっきょく《弱者をどう扱うか》という視点は もはやなくなっています。 : 弱者としてのアラシはあくまで回答者でしょう。 ブロックするのは質問者ですから、論点が途中からすり替わっていますよね。 まあ、別に構いませんが、 「質問者がブロックするのは好ましくない」 「ブロックするのはアラシがかわいそうだ」 を一緒に論じるのは無理がありませんか。 わたしは前者に対する質問だとばかり思っていたのですが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 「質問者がブロックするのは好ましくない」 「ブロックするのはアラシがかわいそうだ」 を一緒に論じるのは無理がありませんか。 わたしは前者に対する質問だとばかり思っていたのですが。 ~~~~~~ ☆ どうもこの一点に絞られると言ってもよいのではないか。 MOG さんは むろん自分を弱者だと思った質問者がブロックをするという意味で言っています。それは 間違いのないことです。 そこをさらに わたしは《弱者原則》と言うのなら 一般化して見ることもありうるはずだと議論ないし見方を広げたのです。それだけのことだと思いますが。つまり そのわたくしの考えと行動にもとづいて あなたとのやり取りもすすめている。ただ これだけの話です。すり替えだとか 都合のよい解釈だとかと言われても そう解釈したことを前提として話をすすめただけのことです。 つまりは MOG さんとのやり取りを別として はこぶるさんとのやり取りとして そのようにわたしは解釈しますとあらためてことわればよいわけです。 それをはねつけるというのであれば またそれとしてのあたらしい段階での話になります。 最初に述べましたように 今回は 全部と言ってよいほど この行き違いの問題です。 ★ ~~~~ 「>なぜそのことについて確認もせずに 決めつけるのですか?」とおっしゃいますが、タイトルにある、 「開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。」 は、そういう意味にしか取れないでしょうし、そのことに沿って述べたつもりです。 ~~~~~~ ☆ 《弱い》という問題を出したのは あなたのほうです。ですから わたしのほうは 《本人の自由であるということは 大前提である》とわざわざその何ものにも先行する命題を出したわけです。なんでこんな分かり切った公理のことで ああだこうだと議論が分かれるのですか? ☆☆ ~~~ 「開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。」 ~~~~~~ ☆ このような原則を掲げることは 《弱い》人がブロックを利用することにかんして 言わなくてもよいのに輪をかけるようにして《弱い》と言っているということでしょうか? 最先行する《自由意志による本人の選択》という公理と いまここに掲げる原則とから なんでそんな不満不平が出て来るのか? つまり もし議論をするのなら この原則の中身について どうであるかを考え問い続けるということではないのですか? 公理に差し障るような中身ではないはずです。つまりは 公理にもとづき打ち出した原則というのは 公理の内容にしたがうものです。 しかも ★ ~~~ ・・・(省略しますが)・・・前回述べたのは、(むろん形態としてはそうなのですが)単にブロックする者が弱いということではなく、むしろ「君子危うきに近寄らず」のひとつの方法となり得ている、という意味に捉えていただければと思います。 ~~~~~~ ☆ というように《弱さ》の問題とは違うとも言っておられる。ならなおさら 問題ないぢゃありませんか。 自由選択という公理があり その上で自由開放という原則を打ち出した。その原則に例外がある。これだけのことではないのですか? この問題が解決すれば ほかに述べられた論点は 要らなくなるでしょう。 要するになんで 一たん一件落着でしょうかというところまでたどり着いたのに こんなに尾を引いているのでしょう?
>コミュニティーをつくるという語義は 派生的なものでしょう。あるいはもっと言えば 無理に派生させてつけ添えたものでしょう。 別に語源学の話だけをした訳ではありません。現代思想では、コミュニティの形成という観点からコミュニケーションをとらえる動きがあると述べ、その流れで、あなたの問いを捉えることができるだろう、と私は述べたのです。 >このようなお行儀のよろしい歯の浮いたような思想は くそくらえだということです。 あなたは、こういう討議論理が生まれた時代背景など、何も考えたことがないのでしょうね。ファシズムに対する怒りや反省があった上でのことです。「くそくらえ」とおっしゃる時、単に私を侮辱しているのではなく、あなたはもっと多くのものを侮辱しているのです。
お礼
押し籠もり。 ただし 侮辱は みとめる。侮辱というよりも 人間以前の状態にある人間だと言っているのですから 何と呼べばよいでしょう。早くふるいひとを脱げと言っていましょう。
補足
あっ。このブロックの問題を考えたのは まりえーめ( MarieAimer )なる名前の人から わたしがブロックを受けたことからだ。
ハコブルさんへ。 こんにちは。お気づきと思いますが、ブロック機能を使っていると批判されているのは、主に、私であるようです。ブラジュロンヌさんとは、お互いにブロックされたり、ブロックしたりし合っています。 ハコブルさんのご投稿を拝読させていただき、なるほどな、と思いました。特にきついことを、トラブルを避ける形でサバサバとおっしゃる態度には、感心しておりました。こういう形でコミュニケーションを続けるという手もありますね。またキャパシティを超えた相手に対して、どのように振る舞うべきか?という視点の持ち方には、私も賛同する次第です。 もっとも、別の視点から、私はこのブラジュロンヌさんの問いの意味は、ある程度は分かるつもりです。これは、現代思想家らの一部が討議倫理として、誰とでも会話をすることを自らに課している事例と重ね合わせてのことです。 私がコミュニケーションの問いで、やや駆け足で触れたことですが、コミュニケーションの目的は、最終的に、コミュニティを形成することである、という思想があります。個人的なコミュニケーションがやがては、コミュニティという大きなものに発展していくという考え方です。したがって、個人的なコミュニケーションのレヴェルでも、排他的な態度を取ってはならない、というのです。 以下は私の質問欄では触れられなかったことですが、現代思想の哲学者らは、排他的なコミュニティを形成することには、基本的に反対しています。そこで、誰とでも対話することを承諾するのです。実際、対話 することで、自らの思想を広めることができますし、公人として、他を啓蒙する責務を果たすことにもなります。 おそらくブラジュロンヌさんは、彼らと同様、コミュニケーションを通じて、何をも排除しないコミュニティを夢想しているのでしょう。 ところが、いくらご本人が夢想しても、私のように拒絶するものがいては具合が悪い。「どこまでも自由」であるはずの、ご自分の 障害になります。しかも、すぐ傍にいる訳で、目について仕方がない。そこで、イライラなさっているのだな、と思われました。押し籠もりをはじめ、その他の問いも、私を主たる例としつつ、一般論として問いをたてているとさえ、私に向けられたブラジュロンヌさんの言葉からは察せられるほどです。こうしてみると、私は最近、批判キャンペーンを展開されていたことになります。 ブラジュロンヌさんが何をしようと、基本的には知った話ではありませんが、どうも煩わしいことではあって、私がブロック機能を使用して応答しない理由は、別のブラジュロンヌさんの問いに投稿しておきました。以下のNo6です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7353850.html ハコブルさんとしては、労力をかけて投稿なさった以上、ブロック機能を使っている当人が何を考えているか?を知る権利があるかもしれません。ご参考までに。
お礼
コミュニティーをつくるという語義は 派生的なものでしょう。あるいはもっと言えば 無理に派生させてつけ添えたものでしょう。 替える つまりモノでも情報でも交換することから来ているのではありませんか? それは ムニの部分であって それに コ‐(ないし コン‐) がついていますので 交換をめぐる共同性ということが意味として伴なわれているのでしょう。 たしかに 同じ語源の ゲマイン‐シャフトという語を捉えるなら コミュニティーなる意味がほとんど基本的なものであると見るかも分かりませんが 問題は コミュニティーは そしてそれが作られるというのは 結果であると考えられることです。 要するに コミュニケーションを図るときに いちいちコミュニティーを形成しようとは考えていないでしょうし それを最終の目的とするというのも 胡散臭いわけです。取ってつけた語源談義だと言いたい。 ★ おそらくブラジュロンヌさんは、彼らと同様、コミュニケーションを通じて、何をも排除しないコミュニティを夢想しているのでしょう。 ☆ このようなお行儀のよろしい歯の浮いたような思想は くそくらえだということです。 情報を交換する相手を 自分と同じように思うゆえに その交換するものを あるいは 交換・交通・交流するそのこと自体を 重んじているというのが 原義に近いでしょう。あとは その結果です。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#16です。 > 制度に文句を言うことと その制度を哲学カテでは利用しないこととは別です。 制度についていっさい口を差し挟まないで その利用の仕方を考えることはあり得ます。これが この質問であり 哲学としての問いです。 : この場合でも同じことですよ。 まずですが、#15さんの「弱き・脆弱な部分」とはアラシではなくブロック制を使う質問者を指しているのでしょう。 そうした「弱き・脆弱な部分」に対する配慮を見落としているのではないか、ということです。 ブロックを使うのも良いだろうが、しかし、使わないほうが哲学論議を深めることになるはずだ、というご主張なのでしょうが、それは違うと思います。 「弱き・脆弱な部分」としての質問者となる可能性は誰にでもあるはずです。 ブロックはあくまで単なる自己防衛手段であり、寝るときに家の錠を下ろすからといって弱いとは言えないでしょう。 錠を下ろさないほうが強い人間だ、と言われればそれはそうでしょうが、強盗の被害を受ければ誰でも施錠するはずです。 つまり、ブロックするかしないかということと哲学とは何の関係もない。 施錠して寝る人に、あなたは他人を信用できない人だ、と言っているようなものでしょう。 > もし仮りに判定がむつかしい場合があるとすれば それは 《自分もひとも自由であることを求める》と思っていることに《自己主張が ほかの人から見れば 感じられる》という場合でしょう。 : いえ、そうではありません。 人間は自分が一方的に損なことは決してしないようにできている、というだけのことです。 > ◆ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 ☆ ということなら こちらは多少ともその弱きアラシ屋さんよりも余裕があるのなら そのアラシ投稿の《自由》にさえ話を合わせてやるのが 武士というものです。ちがいますか? 腹いせでも何でも まづはこちらの余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲で 受け留めてやった上で 話は始まるかも知れないし もうブロックしてしまうかも分からない。――というふうに その原則から行けば なるのではありませんか? : であれば、 「余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲」でブロックを避けるのが哲学的姿勢である、とでもおっしゃればよいと思いますが。 「余裕のゆるさない場合また度量の持ちこたえられない範囲に達したときにはブロックもやむを得ない。というか当然である」という論理になりますから、わたしがあれこれ述べる必要もなくなります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ #15さんの「弱き・脆弱な部分」とはアラシではなくブロック制を使う質問者を指しているのでしょう。 ☆ 人間であるなら 誰れにでも当てはまるととるのが 正解でしょう。理由は不要でしょう。人間であることにもとづきます。つまりそこに例外はないというところから来ます。 言いかえると その大前提から言えることは ブロックする者かアラシ屋か いづれが《弱く・脆弱》か その判定によって決まります。もし自分が ブロックする者で 自分のほうが弱いと思ったら ブロックすればよい。そのようにわたしの文章にも書いています。 ☆☆(No.15お礼欄) ~~~ ・・・ 〔アラシ屋の回答としてその内容が〕腹いせでも何でも まづはこちらの余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲で 受け留めてやった上で 話は始まるかも知れないし もうブロックしてしまうかも分からない。――というふうに その原則から行けば なるのではありませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 弱者原則から行けば このように考えることになりましょうと言ったまでです。 ★ そうした「弱き・脆弱な部分」に対する配慮を見落としているのではないか、ということです。 ☆ これは ただの言いがかりです。 したがって この弱者原則の話にかぎれば 《ブロックを使ったら どうなるかや 使わないならこれこれの良さが出て来るぢゃないか》の議論は 別問題です。弱者をどう扱うか? 弱者への顧慮をどのように払うか? その問いにのみ限って答えを出したものです。 ★ ブロックを使うのも良いだろうが、しかし、使わないほうが哲学論議を深めることになるはずだ、というご主張なのでしょうが、それは違うと思います。 ☆ これも いちゃもんです。 ○ 哲学論議であるかどうか。あるいは それを深めようとするのか? どのように深めるか? これは 弱者をどう扱ったらよいかという主題とは別に問い求めることです。別に問い求めて 互いにつながりがあると分かった場合には その時点でそのように同じ主題として考えればよい。これだけのことです。 次の見解にも 飛躍ないし主題のすり替えがあります。 ★ ブロックはあくまで単なる自己防衛手段であり、寝るときに家の錠を下ろすからといって弱いとは言えないでしょう。 ☆ いまは MOG さんが 弱者原則を提起したその主題についての問い求めに限っての話でした。ブロックしたあと ブロックしたから やはりその人は弱いと わたしが言っていると受け取るのですか? ブロックしたあとのことは 何も考えていません。触れていません。なぜそのことについて確認もせずに 決めつけるのですか? しかもいまさっきまでは ブロックしようとする者のほうが 弱いと言っていたその舌先も乾かないうちにです。ぜんぶ自作自演ぢゃないですか。 ★ ~~~ つまり、ブロックするかしないかということと哲学とは何の関係もない。 施錠して寝る人に、あなたは他人を信用できない人だ、と言っているようなものでしょう。 ~~~~~ ☆ いいですか。わたしの結論は こうです。 ☆☆(No.16お礼欄) ~~~~~~~~ ☆☆ (No.14お礼欄での結論) ~~~~ 結論は 《分かりません》になりますから アラシ関連でブロックを利用することは もともと本人の自由であるという前提が どこまでも生きます。 これで 一件落着でしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち その〔No.14〕補足欄での〔ブロックをするときの〕ひとつの提案は この〔No.14〕お礼欄での結論についてのおぎないです。おぎないは 結論の本体への補足です。その提案どおりに つねに誰もがするという意味にはならないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ しかも《提案》というのは 相手に尋ねているものです。自分だけで決めようとするものではありません。 ☆☆(No.15お礼欄) ~~~~ つまりこのような〔= No.16補足欄での提案としての〕手続きを経て ブロックするのは どうか? というものです。 まだ はこぶるさんからそれに対する返答はもらっていません。 えもーぢー( MOG777 )さんは いかがお考えになりますか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と言ってるぢゃないですか。 ★ 人間は自分が一方的に損なことは決してしないようにできている、というだけのことです。 ☆ これは 次のように言いかえたほうが 妥当に成りましょう。 ○ 人間は 自分が一方的に損なことは決してしないようにとほとんどつねに注意しているが それでも損なほうを 結果的にえらんでしまったという場合は起こり得て けっきょく馬鹿を見るということさえあり得るものだ。 ☆ だから もしそういう可能性を広く捉えないで 《人間は自分が一方的に損なことは決してしないようにできている、というだけのことです。》と言い切る場合には その場合から世界を眺めてみると ☆☆ もし仮りに判定がむつかしい場合があるとすれば それは 《自分もひとも自由であることを求める》と思っていることに《自己主張が ほかの人から見れば 感じられる》という場合でしょう。 ☆ が当てはまりましょう。つまり あとから見て損な選択だったと分かるような道を突き進んでいるという場合はあり得ます。そのときにいったい誰れが その人は《自己主張をしている。そのためだけに努めている》と言って切り捨ててしまうでしょうか。逼迫度の問題も 大きいのです。そして もし《損をしないためにだけ 自己主張を繰り広げるためにだけ 動いている》と見られたとしても その眺めは 自由への道をあゆむ者にとって 屁の河童です。世の中は そのように出来ています。 ★ ~~~~~~ ・・・〔省略〕・・・であれば、 「余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲」でブロックを避けるのが哲学的姿勢である、とでもおっしゃればよいと思いますが。 「余裕のゆるさない場合また度量の持ちこたえられない範囲に達したときにはブロックもやむを得ない。というか当然である」という論理になりますから、わたしがあれこれ述べる必要もなくなります。 ~~~~~~~ ☆ これは ただの論理です。成り立つとしても 論理だけの話です。 えもーぢー( MOG )さんの言おうとしていることに合わせた〔と思っている〕わたしの心つもりとしては ひとの《こころざし》のことを言っています。それを前提にして言っています。だから ブロックにかんしては 《それをやむを得ずおこなう》かそれとも《力量のゆるす範囲で ブロックせずに弱者とこちらが見た相手のアラシ屋をもひとまづは受け容れる》か この二者を選択肢として語っています。 そのあと それとは別に議論を伸ばすというかたちで その命題が出されて来たとすれば どうなりましょうか? すなわち ★ 「余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲」でブロックを避ける〔のが哲学的姿勢である・・・〕 ☆ という場合ですが どうなりましょう? すなわち けっきょく《弱者をどう扱うか》という視点は もはやなくなっています。その視点に関係なく自分だけの問題として 論理的にどのような可能性があるか と考えればこの《余裕のあるうちにおいては ブロックを避ける》場合があり得る。それだけのこととなります。 あらゆる可能性を考えておくというのは 哲学の――つまり思想としてではなく 哲学としての――仕事であると言えば そのとおりだと考えますが それだけのことです。 今回 はこぶるさんは どうも焦っておられる。どこかお疲れなのかも分かりません。 今回は ノーカウントとしてもよいのではないでしょうか? ブロックすることが 哲学カテにおいては ご法度となるということを意味するのではない。というこの指摘を あらためておこなった。これが 今回のはこぶるさんのご回答だと思います。そのほかのゴタゴタは 遊び過ぎた。こう受け取りましょう。 このようにわたしが余裕こいて言うのが きついですか。
- hakobulu
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#14です。 > ★ こんな制度は不要である。 ☆ と思って質問したわけでもありません。 : そうでしたか。 「あの社長は会社にはふさわしくない」と言えば、あの社長は辞めるべきだ(不要だ)と言っていることになりますが、ご本人がそうではない、と言っておられるのですから、その点に関してこれ以上は申しません。 > ですから この《自由への道をすすむ》ことにおいて もしそうであるなら ★ 引き受けることによって自らの存在を主張しているという本質を忘れてはいけません。 ☆ ということが付随しているのかも分かりません。ですが 感触としては 筋がちがうようには思います。 : 付随しているのではなく本質だと相変わらずわたしは思います。 つまり、選択可能な場面においては、引き受けるという選択をした段階で、それはブロックしたいからブロックする、という行為と何ら変わるところはない。 なぜなら「引き受けたいから引き受けた」だけだからです。 要するに、ブラジュさんが言っているのは、ブロックするより引き受けるほうが難しい、という自慢にすぎません。 まあ、そうでしょうね、としか言いようがないわけですが、それよりも引き受けることの効用といった視点で展開していかないと意味がないように思っただけです。 > こうです。相手に次のように言って それにどう対応するかを見て ブロックするならする。という考えです。 : そうですね。 ブラジュさんらしいスタイルだと思いますが、個人的にはそこまでの配慮が必須という感覚はありません。 ブロックの使用は個々のキャパシティの限界を超えたことを意味しますが、それ以上の理由を求める必要もないでしょうし、求めるべきでもないという気がします。 よくおっしゃるところの答責性に関連しているのだと思いますが、それを望む相手とは徹底的に遣り取りすればよいでしょうし、しかし、そうでない場合にまで答責性が必須であるとは思われません。 つまり、キャパシティの問題に還流されますから、そこにこだわりすぎるのはどうなのか、という感想です。 いっときの不満として表明なさるのはしかたないとは思いますが、論理的な瑕疵を求めるのはむしろ余裕のなさを露呈することになってしまいます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづは 表題などでの表現に語弊があったことについては No.2で次のように述べておわびしました。 ☆☆(No.2補足欄) ~~~~ ○ ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。 ☆ という表題には 表現上の舌足らずがあったかも分かりません。 制度に文句を言うことと その制度を哲学カテでは利用しないこととは別です。 制度についていっさい口を差し挟まないで その利用の仕方を考えることはあり得ます。これが この質問であり 哲学としての問いです。 ~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~ ★★ 引き受けることによって自らの存在を主張しているという本質を忘れてはいけません。 〔* ぶらじゅろんぬは《本質ではなく 付随して来るものだ》と言っているが〕付随しているのではなく本質だと相変わらずわたしは思います。 つまり、選択可能な場面においては、 ~~~~~~~ ☆ つまり この《選択可能》かどうかで決まります。《百パーセント受け身の場合》と言っているのは 《ほかに選択の余地のない場合》です。その場合は 《自由であることをねらうゆえに 付随してくる》というのが 真意です。選択可能の場合については まだ何も触れていません。《アラシ》の場合には アース役を引き受けるほかに選択肢があるなら おそらくアラシとは言わないし見られない場合でしょう。よって 《自分の存在を主張するという本質がある》とは 考えません。 もし仮りに判定がむつかしい場合があるとすれば それは 《自分もひとも自由であることを求める》と思っていることに《自己主張が ほかの人から見れば 感じられる》という場合でしょう。そんなことは知ったことではありません。自由であろうとすることに全身全霊で取り組んでいるのですから。どう思われようと屁の河童だという意味です。 ★ それよりも引き受けることの効用といった視点で展開していかないと意味がないように思っただけです。 ☆ これについては えもーぢーさんへの応答で次のようにしるしています。 ☆☆(No.15お礼欄) ~~~~ ◆ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 ☆ 一般的にそのようだと考えますが 細かく見ておく必要もあるかと考えます。 というのも ここでの広い意味でのアラシ投稿にかんしては そのアラシ屋さんは 自分のほうが強いと思っているだけという事情があるからです。 つまり ほんとうは そのアラシ屋さんは 世間において どこか弱いところを持ち おそらくその腹いせに ここで自分を強く見せようとしている。そういうときにどうするか? もし ◆ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 ☆ ということなら こちらは多少ともその弱きアラシ屋さんよりも余裕があるのなら そのアラシ投稿の《自由》にさえ話を合わせてやるのが 武士というものです。ちがいますか? 腹いせでも何でも まづはこちらの余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲で 受け留めてやった上で 話は始まるかも知れないし もうブロックしてしまうかも分からない。――というふうに その原則から行けば なるのではありませんか? ~~~~~~~ ★ 要するに、ブラジュさんが言っているのは、ブロックするより引き受けるほうが難しい、という自慢にすぎません。 ☆ これは 事態の逼迫度を知らない・見ないことから来る見方だと考えます。むろんその逼迫度は そのアラシ投稿を受けた者の主観によりますが これも全身全霊打ち込むかどうかの問題です。疑われても やはり屁の河童ですが 簡単にそう言わせておくわけにはまいりません。理解してもらわなくて結構ですが 事情の説明だけは書いておきます。 ★ ~~~ つまり、キャパシティの問題に還流されますから、そこにこだわりすぎるのはどうなのか、という感想です。 いっときの不満として表明なさるのはしかたないとは思いますが、論理的な瑕疵を求めるのはむしろ余裕のなさを露呈することになってしまいます。 ~~~~~ ☆ これは わたしの結論にかんする誤解です。 ☆☆ (No.14お礼欄での結論) ~~~ 結論は 《分かりません》になりますから アラシ関連でブロックを利用することは もともと本人の自由であるという前提が どこまでも生きます。 これで 一件落着でしょうか? ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち その補足欄でのひとつの提案は このお礼欄での結論についてのおぎないです。おぎないは 結論の本体への補足です。その提案どおりに つねに誰もがするという意味にはならないでしょう。あるいはつまり それは 例外のない原則としての提案なのかどうなのか? と問い返せばいいわけで だとしたら その提案どおりにしないことに《不満を述べるかたちの表明》にはなっていないはずなのです。 あるいはつまり補足欄で述べたということは お礼欄での結論が 結論としての本体ではなくなったことを意味するのか? というくらいの捉え方・受け取り方は 欲しいものです。 ☆☆ (No.14お礼欄での結論) ~~~ 結論は 《分かりません》になりますから アラシ関連でブロックを利用することは もともと本人の自由であるという前提が どこまでも生きます。 これで 一件落着でしょうか?――ええ。落着です。 ~~~~~~~~~~~
補足
あまりにも 今回は ご自分の田に水を引いて行き過ぎです。いくつかありました。それで お礼欄の文章は 怒っています。
お礼
★ 〔* みづからの心の中における〕内部的師弟関係 ☆ に完全に同意します。 あともさん ご回答をありがとうございます。 《知恵》の主題についてもです。まづは 文章全体を引きます。 ★ ~~~~ だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 ~~~~~~ ☆ 知恵にかんして受け容れようとしていないように 前回のわたしの応答が見えたとすれば それは 《無知の知》とその対話過程がともなうけんか腰を避けようという気持ちがつよかったからだと思います。知識の授受に対して もともと倍も三倍も重く知恵のことを受け留めています。 《内部的師弟関係》につきましては まづその具体的なあり方として: ★ 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 ☆ ということだと これも同じくわたしも受け留めています。 そしてもし これに要らぬひと言をつけ添えることがゆるされるならば こう思っています。心の内なる師弟関係は ヒラメキないし《わが心における非思考の庭》(=信仰)のことにまで行き着きます。 すでに書き込んだことのある文章ですが: ☆☆ (わが内なることばと それを超えることば) ~~~~ 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。 * 《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。 《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》 それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。 有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。 《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》 * 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。 もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば( verbum verum intimum )》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開かねばならない。 * (アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚え書きしたものです。意訳・変更している箇所があります。) ~~~~~~~~~~~~ ★ 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 ☆ 《非思考の庭》におけるヒラメキ(直感および直観)のほうが コギトとしての哲学よりも――時間的にではなく 知恵のあり方として――先行すると考えるゆえです。 もっとも《愛知》の知が 知識をも知恵をもそしてヒラメキをも含むとすれば 哲学という営為に幅広く奥行きの深い守備範囲を持たせてよいとも考えます。