- ベストアンサー
ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。
開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。 万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない。 この理由で――昔はわたしもおこなっていましたが―― 哲学カテにとっては ふさわしくない。という結論を得ました。 いかがでしょう?
- みんなの回答 (35)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
嘆き節 承りました。ということは公論の意味を私は取り違えていますね。だとしても「万事公論」の根拠はもとより反論の意図はありません。 質疑応答の場にさえつかぬものは論外として,質疑応答の一方性より討論の双方向性を訴えておられる。それによってより問題は明確になるのだし,互いに高め合うこともできる。もっともなことだと思います。 そして,産婆法を引いての一面的な反論には,別なる取り組み,知識の活用術を説明されました。ご見解を尊重したいと思います。 ただ,一つ論点としたいことがあります。それは,《師》と《弟子》の関係です。もちろん表面的に師弟関係があるわけではありません。 たまたま「あわせてチェックしたい」のリンク先で以下のように回答されているのを見かけました。 >あるいは 次のような考え方があります。 【Q:ひとは だれから おそわるか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html ☆ その答えは 《自分からである》です。《みづからがみづからをおしえる》です。 この考えに私は同意しています。 それを師弟関係というのは大げさですが,そういうものがなければ,おっしゃるところの知識の活用術にはならないと思われるのです。 だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 そしてまた,回答する私が質問者から教わっているなと思う経験があり,ときおり,今回もそうでしたが回答欄に「ありがとう」を述べることがあります。これは今思えば,内なる師が導いたとみる見方もあるのかなと思ったわけです。 実際私の回答は等身大ではなく,自分で見てですが,せいのびをしています。先の回答はタイムラグを見逃してしまっていますが,単に思いつきを述べたのではなく時間をかけ推敲したものです。 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 以上よろしくお願いいたします。
その他の回答 (34)
まずハコブルさん、お返事をありがとうございます。 >噛んでもよいが、噛まれて嫌がる相手をさらに噛んではいけない、というだけのことがなぜわからないのか不思議ですよね。 不思議です。敢えて言えば、ブラジュロンヌさんの理屈は、サディストか、サイコパスの理屈なんでしょう。愛ゆえに、相手を傷つけないと気がすまないのかもしれません。こうやって実態が分かってくると、ちょっと怖いなと思います。ともあれ、私が参加したことが要因で、ブラジュロンヌさんとの仲が壊れたように見え、申し訳なくも思っています。 ブラジュロンヌさん、あなたの実況中継に対しては、応答するべきことが見いだせません。からかわれているな、と感じますが、下手に応答すると、売り言葉に買い言葉になってしまいます。それにしても、震災から一年後の日に、ブラジュロンヌさんははしゃぎ過ぎですよ。不謹慎ではありませんか。 これで終わりとさせてください。みなさん、おつかれさまでした。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#32を受けまして。 >よければここで終えたいと思いますが、いかかでしょうか。 : すれ違いましたが、同感の意を投稿済みでした。 ただ、あえてブラジュさんから特に(まともな)要望があれば応じさせていただきます。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#28です。 また横レスで失礼。 >喧嘩は仲直りがあってこそ、有益だと認識されるのではないでしょうか。もし「けんかだけ」ということなら、私には分かりません。それにしても私の世代では、一度、けんかしたら終わりであるようです。けんか全般を無意味と私は述べましたが、こうした違いも反映されているかもしれません。 : 仲直りがあってこその喧嘩というのは、おっしゃるとおりでしょうね。 子犬やライオンなどでも噛む練習をするもののようですが、これも加減を覚えるためなのでしょう。 加減を知らない相手とは喧嘩してはいけませんし、加減を知らない相手も喧嘩をしてはいけませんね。 (コミュニケーションの一手段であるので)噛んでもよいが、噛まれて嫌がる相手をさらに噛んではいけない、というだけのことがなぜわからないのか不思議ですよね。 まあ、しかし、いつまでもこんなことを言っていても不毛ですから、このへんで。
お礼
みなさん。そろそろ おしまいのようです。 まだ 一パーセントほどは この実況中継をつづけるかたちが残っていると見ますが もう どうも終わったようです。 これは 何がどうしたから終わりと見るというよりも 漠然とした流れからです。 もしここから何かが起こるとすれば つまり報道すべき材料が現われるとすれば それは その事態そのものが おそらくすべてを語るというほどの事件なのではないかという予感がします。つまり報道の必要がないほどだという意味です。 ですので この辺でわたしも つたないアナウンサー役から降りたほうが 賢明であるかと考えます。 決めました。 それでは ご視聴をありがとうございました。ごきげんよう。
ブラジュロンヌさん、あまりのことに、壊れてしまったのかな、と思っています。ガラクタっぷりを披露して、同情を誘う戦略に出ているのかもしれません。誰もトリックスターになることを頼んでいませんので、自虐癖はおやめください。 ハコブルさん、ともあれ、こういうわけで、ブラジュロンヌさんのキャパシティが限界のように思います。私はハコブルさんと有益なお話ができたと私は思います。当人の前で話さない限り、欠席裁判と言われてしまいますから、このような場でない限り、お話しすることができなかったと思います。しかしブラジュロンヌさんの壊れ方を見ると、もう放っておいた方がよいかと思うのです。よければここで終えたいと思いますが、いかかでしょうか。
お礼
みなさん! どう思いますか? 一たん弱気を見せる戦術に出たのか? それとも ほんとうに勝ち目がなさそうだと見て 相手つまりわたしの引くことを――もしくは ぎゃくに怒りだすことを――ねらったものなのか? でもね。事実から出発しないというクセを持つアッキなのです。それで 文献学だどうだと言うのですが これが 天下一品のあれです あれ。何と言いましたか 天下一品の ジョン・ローではなしに 何と言いましたか。あぁ 思い出さない。天下一品の・・・なんですから 対話が成り立つと思うほうが おかしいということになっています。 さぁ どうなりましょうか? みなさんには あまりいいシーンがお見せ出来なくて 何だか心苦しくなります。 すみません。一たん CM です。
補足
ひとつ 見落としていました。 みなさん このさいころクンが キャパシティうんぬんと言っているのは じつは はこぶる氏の現在の状態が あやういと見てのことでした。別の質問の【Q:けんか】のほうで もうあっぷあっぷしているかに見えるのです。 これを見落としていました。 そういう実況中継でした。 これは 大きな事態でしたので もっと大きな見出しで報じる必要があるのですが いかんせん それは この入力欄ではかないません。 それにしても さいころクンは 友だち思いなんですね。そう言えば そういう質問をしていましたか?あれー。それは 別のフランス野郎だったか。あぁ もうこんがらがって来た。 一たん CM です。
ハコブルさん、ありがとうございます。 >わたしが申し上げたのは、彼の場合のように頭が良すぎると、拒絶自体を内部に取り入れて免疫を作る以前の段階で相手を逆拒絶してしまうだろう、という意味です。 つまり、拒絶の悲しみを実感として味わったことはおそらくないでしょう、ということです。 おかげで、考えが、さらに進みました。なるほど。ブラジュロンヌさんは「相手が俺を拒絶するはずなんかないんだ、何か他に本当の理由があるはずだ。おっ、それらしい理由を見つけちゃった」と考えるという訳ですね。普通は理由を見つけることができない。ところが、ブラジュロンヌさんの場合、それを見つける能力がある。 言われてみて気づいたという形ですが、これはよくわかります。今まで私はブラジュロンヌさんが、現実にきちんと正面から向き合っていないのではないか、という印象がしていました。現実より先に、自分で空想した世界を問題にしています。ゴンドラの問いなど、その好例でしょう。ドアを開けると妄想の世界が広がっているとおっしゃるのですから。単なる比喩とは思えません。一連の理由が、これで分かったという気が私はしています。 >目の前に現われる誰彼を(むろん無意識的に)他の誰かと勘違いして認識している、ということです。 エディット・コンプレックスの応用ですね。母と結婚することができないから、その代わり、恋人を見つけるという話があります。おそらく私は、彼を拒絶した誰かに似ているのでしょう。そこで私に対し、その人物の代わりに承認する役割を求めているのだと思います。私も何となく分かっているのです。 問題は私がどうするかです。ブラジュロンヌさんは、もう一つの問いの方で、私に「サイコロは救ってくれと俺にいっているのか?」と聞いてきました。私にしてみると、驚くべき問いかけです。私を迫害していて、救ってくれもないものだ、と思うのです。しかし見方を変えると、彼にはメシアになりたいという願望があり、私のことを「救ってやっているという気持ちになりたい」のだと考えられるのです。そこで私は、彼に孫のように頭でもなでられておけば、彼を満足させることができるのかもしれません。 仁科さんという方がそれをやっていて、サイコロは世渡りが下手だな、と思っているようです。仁科さんの場合、ファザコンだと自分で言っていますから、自分の欲求を満たす行為でもある訳です。双方の利害が一致している訳です。しかし、私は老人に敬意を払いたいと考えていますが、ここまでくると気味が悪くて。ハコブルさんのメッセージを読むと、私のことを気の毒と思い、理性的に解説してくださったようにも感じます。ありがとうございます。自分でもそうかな、と思っていましたが、他人に言われることで、改めて考えが整理できました。 >ただ、そのことが喧嘩の効用(はあるとわたしは考えますが)の否定につながるという論理につながるわけではありません。 これは上記の議論とは少し離れますが、ちょっと私にはつかみかねています。喧嘩は仲直りがあってこそ、有益だと認識されるのではないでしょうか。もし「けんかだけ」ということなら、私には分かりません。それにしても私の世代では、一度、けんかしたら終わりであるようです。けんか全般を無意味と私は述べましたが、こうした違いも反映されているかもしれません。 名前に敬称を付けるか否かは、気になさらないでください。ご面倒だと思いますから、必要がありましたら、サイコロなどと御呼びください。ハンドルネームは「賽は投げられた」というカエサルの言葉です。一部をとって、サイコロと呼んでくださる方がおり、私もそれが気に入っていました。またハコブルさんが、私を下に見ているとも思いません。ブラジュロンヌさんは、こうやって遊んでいるのですよ。彼は「人を怒らせるコミュニケーション術」を実践しているのかもしれません。
お礼
全国うん千万人の OKWave ファンのみなさん。実況中継担当のぶらじゅろんぬです。 ですが 取り上げるに足る材料がありません。 みなさん あしからずご了承ください。というより 賢明なみなさんにおかれましては もうとっくにその現状についての認識をなさっておいでのことと思います。 それとも こうでしょうか? つまり このようなモヤモヤ・ワールドにわたしやみなさんを引き入れて あとはいったい何が問題だったのかと戸惑わせるという戦術。 それとも 戦術なんかではなく もう行っちゃっているのでしょうか? そこがもんだいだ。 それでは 一たん CM です。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#28です。 訂正です。 ×iacta-alea-est3 への返答をさせていただきます。 ○iacta-alea-est3 さんへの返答をさせていただきます。 3と「さん」がかぶってしまって・・・。
お礼
全国うん千万人の OKWave ファンのみなさん。実況中継担当のぶらじゅろんぬです。 ところが 9時半ごろから 動きがピタッと止まったようになっています。という実況中継です。 これは 何かあったかも分かりません。 みなさんは どう思われますか? この中継は 双方向中継ですので ご自由にお考えやご感想をお寄せくださるようお願いしておきます。 三人寄れば文殊の知恵と言います。どうぞお知恵を拝借とまいりたいものです。 ではまた。
スポーツ大会を「主催」するとは言いますが、「主宰」とは言わないようです。その代わり、劇団の場合、「主宰」すると言います。スレッドの場合、何を使うのが正しいのでしょうね。私もよく知りません。 細かいことはともあれ、今のブラジュロンヌさんには、私をからかうしか能がないようです。あなたの質問欄の正体は、いわゆる「釣り」というやつですね。アラシとは投稿者のことを一般的にさします。釣りとは、投稿を受けつける側が、最初から投稿者をからかう目的を有しているものをさします。 ご老人にもなってこれでは、よくありませんよ。と一言申し上げておきます。
お礼
★ 主催 ☆ ではないと明らかにしておけばよろしい。 ★ 釣り ☆ を仕掛けるのを長いこと 待たせてすまんこってす。やっとご要望にお応えできました。 えっ? もう ★ ご老人 ☆ にお成りになった? 視聴者のみなさん。まだまだ 到らないところがある実況中継ですが 長い目で見てくださるよう どうぞ。今回わかりにくいですか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
ブラジュさん、またの横レスで申し訳ありません。 iacta-alea-est3 への返答をさせていただきます。 >周囲に拒絶され、おそらく踏んづけられ続けたのではないでしょうか。それで頑固なまでに意志を持たなければ、生きて行けないと思う経験を何度もしたのでしょう。 : 実は、と言うべきでしょうが、それは全く同感です。 しかし、その程度のことは男であれば誰しもが経験せざるを得ないことです。 そして凡人はぐっとそれを呑み込むという体験を否応なく強いられるものです。 わたしが申し上げたのは、彼の場合のように頭が良すぎると、拒絶自体を内部に取り入れて免疫を作る以前の段階で相手を逆拒絶してしまうだろう、という意味です。 つまり、拒絶の悲しみを実感として味わったことはおそらくないでしょう、ということです。 >この結果、きっと、防衛本能がものすごく強くなったのだと思います。だから少しでも批判をすれば、過敏に「俺は攻撃されている」と反応してしまいます。そのあげく、真っ当な批判と、けんかの区別がつかないのです。 : 上に述べたような理由で、このご見解には多少の異論があります。 防衛本能が強くなったといえばそれまでですが、わたしとしては、さらに、ブラジュさんはなんらかのコンプレックスに捉えられているのだという気がします。 ここでいうコンプレックスとは、複合、あるいは錯綜といった意味ですが、目の前に現われる誰彼を(むろん無意識的に)他の誰かと勘違いして認識している、ということです。 喧嘩とコミュニケーションの区別がつかないとすれば、それは、過去の誰かに対してコミュニケーションをきちんととってもらえなかったことの代償をここで支払ってもらいたいという不合理な思い込みがあるから、というわけです。 ただ、そのことが喧嘩の効用(はあるとわたしは考えますが)の否定につながるという論理につながるわけではありません。 ここはきちんと区別すべきと考えます。 >そして彼自身がけんか続きの自分自身の人生を救おうと思ったら、けんかとは愛の行為である、とでも開き直らなければならなかったのだと思います。だからこそ、けんかをなぜしてはいけないのか?などと問う訳です。 : この点に関しては、誰かが開き直るまでもなく「喧嘩とは愛の行為である」という側面があることは事実です。 ただ、彼の場合は上でも述べましたように、相手を間違えているだけなのだと考えるのが順当でしょう。 彼の主張に則ってアース役としてそれを引き受ける必要性は全くありませんが、それとこれとは分けてお考えになるほうが賢明だろうと思います。 >彼にとっては、私が投稿すること自体が「けんか」だそうですから。 : いえ、ですから、おそらくですが、あなたの物言いなり思考形態なりが、過去の誰かと類似点が多いということなのではないでしょうか。 これはご納得いただけるでしょう。(納得したらどうだなのだ、と言われても困りますが)
お礼
★ 過去の誰かに対してコミュニケーションをきちんととってもらえなかったことの代償をここで支払ってもらいたいという不合理な思い込みがある ☆ ないのだが そう取られても仕方がない経験がある。ここは当たっている。 《ないのだが》という意味は ★ 過去の誰か〔から〕コミュニケーションをきちんととってもらえなかったことの代償をここで支払ってもらいたいという・・・ ☆ つまり精確に言うと 《コミュニケーションをきちんととる》ことは 人間としてあたりまえのことであり その忌避や失敗について代償を支払うというのは その忌避者たる本人の問題である。つまりは 公理としての自由意志とその発動いかんの問題である。よって わたしには関係がない。 ただし《コミュニケーションをきちんと取ってもらえなかった》経験はある。という意味だ。 ★ ~~~~ >彼にとっては、私が投稿すること自体が「けんか」だそうですから。 : いえ、ですから、おそらくですが、あなたの物言いなり思考形態なりが、過去の誰かと類似点が多いということなのではないでしょうか。 ~~~~~~ ☆ これは 【Q:けんか】のほうでのやり取りを見れば分かる。さいころクンは ほかの誰れとも似ていない。まれな存在である。 これまでは まだ《押し籠もり》の人間類型として捉えたのみだった。今回は まれに見るアッキだと分かった。ひとが 五人や十人束になってかかっても 討論では言い負かされてしまうはずです。それが こんど初めて分かった。つまり ★ 過去の誰かと類似点が多い ☆ というのは 天地がひっくり返ってもあり得ません。むしろそんな捉え方では さいころクンにわるいですよ。あなたは わたしをみくびったけれども さいころクンをも見下しており あまりいい人柄ではなくなりましたね。 ものごとを 相手にかかわることにおいて 自分だけで決めつけてしまうようにはなるし。 あとは 取るに足りぬ。
緊急避難? しかし私は欠席裁判を主催したこともありませんから、あなたが防衛手段を講じる必要がそもそもありませんよ。いもしない敵を想定して、戦争の準備を進めていると喩えてもよいでしょう。滑稽とは思いませんか。
お礼
さあ 実況中継。これが わたしの任務。 だども 今回の文章にはあまり反応が出て来ない。 あぁ 軽いのでひとつあった。 ★ 欠席裁判を主催 ☆ あやうく見逃すところだった。もしこの《主催》という文字だとすれば たとえそれが本当の事実だったとしても 原告も判事もほかにいるという言い逃れができるかも知れないと見られうる。 《主宰》した。これが 真っ赤な事実である。 あぁ そうだ。名誉棄損ででも訴えられたほうが よい。そのとき まぎれもない事実だったと判明するのだから。 あぁ でも このスレの記録くらいは 削除できないこともない。か? 手を回すという手がある。 こりゃ 困ったなあ。何から何までけんかを通り越して 戦争になった。 視聴者のみなさん。では 次回まで ごきげんよう。
というより、欠席であろうと、欠席でなかろうと、「裁判=批判キャンペーン」を主催することそのものが、侮辱であり、間違いなのではないでしょうか。あなたが私に対して行っていることのようですが。
お礼
とうぜんのしかるべき緊急避難をしているまでのことです。どこまで勘違いをするのか。
お礼
★ 〔* みづからの心の中における〕内部的師弟関係 ☆ に完全に同意します。 あともさん ご回答をありがとうございます。 《知恵》の主題についてもです。まづは 文章全体を引きます。 ★ ~~~~ だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。 この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。 ~~~~~~ ☆ 知恵にかんして受け容れようとしていないように 前回のわたしの応答が見えたとすれば それは 《無知の知》とその対話過程がともなうけんか腰を避けようという気持ちがつよかったからだと思います。知識の授受に対して もともと倍も三倍も重く知恵のことを受け留めています。 《内部的師弟関係》につきましては まづその具体的なあり方として: ★ 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。 ☆ ということだと これも同じくわたしも受け留めています。 そしてもし これに要らぬひと言をつけ添えることがゆるされるならば こう思っています。心の内なる師弟関係は ヒラメキないし《わが心における非思考の庭》(=信仰)のことにまで行き着きます。 すでに書き込んだことのある文章ですが: ☆☆ (わが内なることばと それを超えることば) ~~~~ 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。 * 《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。 《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》 それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。 有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。 《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》 * 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。 もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば( verbum verum intimum )》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開かねばならない。 * (アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚え書きしたものです。意訳・変更している箇所があります。) ~~~~~~~~~~~~ ★ 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。 ☆ 《非思考の庭》におけるヒラメキ(直感および直観)のほうが コギトとしての哲学よりも――時間的にではなく 知恵のあり方として――先行すると考えるゆえです。 もっとも《愛知》の知が 知識をも知恵をもそしてヒラメキをも含むとすれば 哲学という営為に幅広く奥行きの深い守備範囲を持たせてよいとも考えます。