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真田父子の九度山蟄居について

徳川家では真田昌幸の戦術能力をかなりやっかいなものと考えていた形跡がありますが、それならばなぜ大阪城に近い紀州九度山へ蟄居を命じたのでしょうか?将来的に火種を抱える大阪周辺より徳川家膝元の関東や、更にその奥の東北へ蟄居させた方がより良いように思えます。 また、幸村が浅野家の監視をくぐって入城しても、その後に浅野家や村人が厳しく罰せられたという話を聞いたことがありません。 長男信之の「必死の嘆願による助命」と言う背景のわりには一連の処置が緩やかなのには不審をおぼえます。 こういった点についてご意見や興味深い資料をご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします

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  • ベストアンサー
  • tomokuma
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回答No.2

私は、徳川家康は真田昌幸・幸村に対して、かなりの恐怖感をもっていたと考えています。理由はいくつかあります。 (1)徳川直属軍を複数回破った大名は真田家しかいないこと (2)真田昌幸は武田信玄の小姓時代から薫陶を受けた有望な武将と評価されており、武田信玄の戦略・戦術を熟知していること (3)徳川家康は三方ケ原の合戦で武田信玄に完敗しており、その後、武田コンプレックスをもった時期があること それでも真田父子に蟄居を命じたに留めたのは、九度山に流した段階で、この父子が兵を動員する術をなくしたとみなされたからだと思います。 この点では、関ヶ原の合戦での名目上の主将である毛利輝元は減封されましたが取り潰されておりませんし、上杉景勝も同様です。この段階では、真田家よりも大兵を組織できる毛利・上杉家の方が脅威になると思いますが、大名という地位を存続されたという点でこちらの方がむしろ穏やかといえる処置です。豊臣家と再度手を結ばれて困るのはむしろこれらの大名たちではないでしょうか。毛利家が助かったのは一族の吉川氏の働きであり、上杉家の場合には、かつて家康が上杉謙信と同盟関係にあった時期があることと名家好みという理由があるといわれています。 また、長男信之の嘆願がうまくいった理由の一つとして、信之の正室が徳川家四天王の一人である本多忠勝のとりなしがあったことだと思います(これは池波正太郎の小説に基づいているだけですが十分にありえる話だと思います)。 最後ですが、浅野家に対する処分がなかったのは、この程度の落ち度で罰していれば、徳川方についている旧豊臣系大名の離反を誘発することもあるからだと思います。度量を示すことも人心掌握の点で重要なのでしょう。実際、浅野家は大阪の陣では先鋒のような位置づけとして期待されていたのです。

project_xxx
質問者

お礼

tomokumaさん、詳しくありがとうございます。私は家康が相当早い時期から大坂攻めを考えていたのではないかと考えています。真田だけでなく長曾我部盛親などの関ヶ原浪人で著名な者が京都等畿内に滞在を許されていることから、有力浪人を大坂へ集めてひとまとめにつぶすことを狙っていたのでは?いかがでしょうか

その他の回答 (2)

  • tomokuma
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回答No.3

家康がいつ豊臣家を潰すことに決めたかは諸説あるとは思いますが、一般的に言われているのは、家康の再三の勧告に応じて秀頼が家康との会見(臣従の証としての謁見)が実現した際に、意外にも成長している姿(あくまで外見ですが)を見て、焦りを感じて無理矢理会戦の口実(有名な「国家安康 君臣豊楽」の解釈)を設けたということです。 関ヶ原合戦、江戸幕府の創設時点では、家康は豊臣家を武力で抹殺する決心をしていなかったと思います。大名たちは朝鮮の役での経済的人的疲弊に陥っており大規模な合戦は起こしづらい情勢でした。 家康とそのブレーンが考えた事は、合戦は起こさないものの、大量の土木工事等で大名の経済力を殺ぎ、幕府の相対的地位を高めることに意を注ぐことだと言われています。特に、豊臣家の場合、秀吉が非常に蓄財の才があり大坂城には想像もつかない財産があったため、幕府はしきりに寺社建立・修繕等を奨め、その財力を時間をかけて消耗させる方針をとっていました。 要は、性急に豊臣家を滅ぼすことはしないものの、最終的には臣従させ、大坂から転封させるか、他の大名家のように武家諸法度に基づき、人質を江戸に残す等の措置をとって、豊臣家を矮小化させれば、完全に滅亡させることはしなかった可能性もあると思っています。矮小化させてしまえば、いざという場合には取り潰し・改易ということもありえますし、徳川家から養子を送り込むという手もあります。 家康は将軍職には2年しか留まらず、すぐに秀忠に譲位し、将軍職の世襲を世間に知らしめました。このような中、豊臣家はいつまでたっても徳川体制にとりこまれずに、いわば軍事力を温存した狭隘物であり続けたために70歳を越した家康が武力討滅に踏み切ったのだと思います。 最後に浪人への対応ですが、関ヶ原の合戦で破れた西軍の武士がクローズアップされますが、秀忠や家光の代にも大名取り潰しは多く、その都度、大量の浪人が出ています。浪人問題は元禄期の綱吉の時代であっても問題視されていました。浪人を一気に根絶やしにしようとしてもキリがありません。大坂の陣で浪人を根絶やしにしようとしても、その合戦の結果、また浪人が発生してしまうように思います。私は、幕府は浪人をあえて終結させて一網打尽にするよりも、浪人勢力を終結させない政策方針を採っていたように思います。

project_xxx
質問者

お礼

重ねてのコメントありがとうございます。筋道たててのご説明、非常に納得行くものがありました。

  • sealion
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回答No.1

>徳川家では真田昌幸の戦術能力をかなりやっかいなものと考えていた 本当にそうなのでしょうか? 豊臣五大老の一人、宇喜多秀家(33才)は関が原の後、八丈島に流罪となり、 五十年以上たって死ぬまでゆるされませんでした。 片桐且元に対しては、他の首脳陣と離反するような工作を行いました。 本当に危険視していれば、このような処置をとったと思います。 1.当時、雪村の指揮能力は未知数だし、昌幸にしても大軍を指揮した経験はありません。 彼同様、山城で大軍相手に大活躍した、楠木正成も平地で足利尊氏との戦いでは ほとんど無力でした。 2.それに豊臣サイドが、所詮外様の田舎大名に大きな権限を与えるとは考えられないし、 豊臣家の作戦会議が紛糾して、かえって有利と考えていたのでは?

project_xxx
質問者

お礼

sealionさん、早速のお返事ありがとうございます。なるほど小大名ということもあり根本的に重要視していなかったということは非常に納得がいきます。特に楠木正成や宇喜多秀家の例にはうなずいてしまいました

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