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信濃路と真田一族
- 真田一族とは信濃路に根付いた小豪族で、彼らは歴史的な事件や戦乱を生き抜き、その名跡を後世にまで伝え続けました。
- 信濃路は厳しい気候と地理的条件を持ちながらも、観光資源に恵まれた地域であり、安曇野、上高地、軽井沢など多くの魅力的な観光地が存在します。
- NHK大河ドラマ「真田丸」では真田昌幸や真田幸村など真田一族の武勇とその手腕が描かれており、注目を浴びています。
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isokenさんこんばんは。 けっこう難しい題材です。(笑) >この立地条件と険峻に囲まれた可住面積の少なさ故に、信濃と呼ばれた古来より大勢力の出現と蟠踞を許しませんでした。 以前から思ってたわけではなく今ふと思ったのですが、日本のアフガニスタンではないかなと。 もちろん戦国の世の事ですが。大大名は現れようもなく、小勢力に別れ局地戦に終始している。 >当地を旅する時、関東の沃野とは明らかに違った風景を散見する事となる・ 雲が近いですよね。手を伸ばせば掴めそうな錯覚にすらおちいります。 >さて年明け早々に始まったNHK大河 「 真田丸 」 、御存じ三谷幸喜氏脚本のドラマですが、彼の前作 「 新選組 」 は正直疑問符が付く出来栄えだった、さあ今回はどうだろう・・と2~3回観た感想を申し上げれば、どっこいこれが結構面白い NHKの大河ドラマは随分長くご無沙汰。 そうですか・・久しぶりに観ようかなと言う気持ちになっちゃいます(笑)。 >そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、 昌幸がもし三英傑を生んだ濃尾平野か三河に生まれていたらどれほどの働きをしたでしょうか。そんな事も考えます。農業の収穫高が桁違いですものね。 司馬遼太郎の著作では、信之に徳川方へ行け、昌幸・幸村父子は豊臣方に付く、との父の指示。どう転んでも真田家は安泰だ、たはははは・・・となっているのですが(笑) 実際は兄・信之の知略に惚れ込んだ本多忠勝が婿にしたいと言い出し、家康が、それならいったん自分が忠勝の娘を養女にしてから婚礼させようと。 ここに信之の父・昌幸の意志意向がどれほど関与しているかでしょうね。 ただ敢て一族を二手に分けた昌幸の智謀。 つまりリスクをヘッジした訳で。これは日本初のヘッジファンドかな? 日本最古のヘッジと言いますか先物取引は大阪の米商人と言われていますが。秋に収穫されるコメの値段を春に指すわけで、これは難しい。陽照り・干ばつ・大雨・台風・病虫害・・何が襲ってくるかもしれない。 ましてや今より気象学も害虫対策も無いに等しい中で値を決めなくちゃならない。そこからヘッジと言いますか両建てが生まれ・・・ と思い込んでいたのですが、今回質問文を読むうちに、これは大阪商人よりも昌幸の方が元祖かも知れないと思い至りました(笑)あくまで、そうかも知れないと云う程度で(笑) >他方武田家滅亡後四方を大国に囲まれたあの状況下に於いて、上杉を欺き・徳川を翻弄し・北条を手玉に取った他、ありとあらゆる手立てを尽くして遂に本領を守り抜いた ( 勿論関ヶ原以前の話です ) 、その手腕は高く評価されて然るべきでしょう あの山・谷・峠・川で仕切られた複雑な地形は攻める側には難しいでしょうね。 上田城攻めにおいても、秀忠の大軍もやはり縦横に展開させるスペースがないとあまり意味を為さないのかなと思います。 上田には一回しか行った事がなく、よくは分からないのですが。 もちろん仰るが如く、昌幸父子の戦術が光りますが。 >その一方で、武田2代・・特に落ち目となって以降の勝頼に尽くし抜いた忠義と 勝頼は凡庸ではなく知略と武勇に優れた武将であったと思います。ただ信玄の庶子であり四男である事。加えて実母の出自からすれば云わば外様。信玄の直系の重臣から見るとう~~んと言う存在だったのでしょうね。 家臣団上層部の支持を必ずしも得られなかった・・そういう事だったのでしょう。
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ユリアさんが大王ワサビ田のお話をされていたので、 いろいろ思い出しました。 再びおじゃまします。すみません。 さて、信濃が産んだ現代の「英雄」は星野佳路氏では ないでしょうか。 生糸で財を成した先祖が生糸の暴落ではじめた温泉旅館 の息子として生まれ中学からの慶應育ち、慶大経済を 卒業しコーネル大学でホテル経営を学び米国の日航ホテルズ に就職。一度は父親の跡を継ぐため呼び戻されますが 親族との確執から再び渡米。シティバンクでリゾートや ホテルの債権回収を担当。 2年後、バブル崩壊の気配濃厚な1991年。ふたたび日本に 呼び戻され社長に就任。 95年に星野リゾートと社名を変え、運営主体の会社に体制も かえます。星野温泉ホテルの再開発、リゾナーレ小淵沢(現 リゾナーレ八ヶ岳)の再生などを手掛けます。 軽井沢高原教会でのウエディング事業など、ブライダル分野にも 手をひろげていきます。 星のや はラグジュアリーリゾートホテルとして 界 は日本旅館の再生 リゾナーレ はリゾートホテルとして 沖縄から北海道までまさに全国制覇。2005年からここ10年間 に破竹の勢いで攻めまくったという印象です。 そして、大手町の高層ビルの中に「星のや 東京」が今年開業 します。 江戸城を睥睨するこの場所に星野佳路氏は何を思って旗艦ホテルを 作ったのでしょうか。それも創業者の先祖を真似て温泉を掘ること からはじめた。 さて、星野氏が真田幸村とゆかりのある人かは不明ですが、スキーの達人、 身軽そうな体躯、一日一食主義を励行しているということから考えると、 この人「忍者」の系統ではないかなどと思ったりします。 さて、星のやにはさぞかし優秀なおかみがついているだろうと想像した のですが、なんとこの人の奥さんは日産の専務執行役員の星野朝子さんという 方。銀行時代も奥様は新幹線通勤をされていたのだそうで驚きです。 14年に日債銀からゴーンさんにヘッドハンティングされたそうで、 「やっちゃえ、日産」の旗頭はこの方かもしれません。
お礼
ex さん、こんにちは。 私好みの実に興味深い回答を賜りました為、以下随分と長くなってしまいます、お許し下さい。 >さて、信濃が産んだ現代の「英雄」は星野佳路氏では ないでしょうか。 最近何かと耳にする 星野リゾート なる会社、なるほど出発点は信濃の旅館だったのですか、それは知らなかった。 >生糸で財を成した先祖が生糸の暴落ではじめた温泉旅館 の息子として生まれ中学からの慶應育ち、慶大経済を 卒業しコーネル大学でホテル経営を学び米国の日航ホテルズ に就職。 田舎の旅館の御子息にしては中等部から慶応という経歴が面白い、御両親に独特の教育哲学がおありになったという事なのでしょうかねぇ。 早稲田と並ぶ私大の雄慶応は、御存じの通り多彩な人材を世に送り出しておりますが、当然ながら殆どの学生には他校との違いが見られない、ただ稀に何となく慶応が持つスマートというイメージにぴったりの人物がおられますね、その多くはきっと下から上がって来る人達なんでしょう。 >親族との確執から再び渡米。シティバンクでリゾートやホテルの債権回収を担当。 旅館業というDNAに加え、アメリカで培ったノウハウの延長線上に現在の姿があるという事なんでしょう、勿論才覚をも含めての話です。 >そして、大手町の高層ビルの中に「星のや 東京」が今年開業します。 地図を見ると、読売本社の直ぐ裏手で一等地と言って差し支えない場所、加えて今や佳境と言っていい丸の内・大手町再開発の一環・・、大家さんは三菱地所なんでしょうか。 その立地条件且つ和のテイストを前面に押し出した内装で、一泊5万円前後という価格設定は、恐らく極限まで余分なコストを削ぎ落とさねば提示出来ない破格のものなんでしょうねぇ、私なんて金沢の腐ったビジネスホテルに一泊3万円も払いましたから ( 大爆 ) 。 >江戸城を睥睨するこの場所に星野佳路氏は何を思って旗艦ホテルを 作ったのでしょうか。 星野氏のその視野の先に我が国の頂点、或いは世界というものが広がっているとすれば、当然そのフラッグ・シップはそれに相応しい場所にあらねばならないでしょう。 アジア系というよりもむしろ、今や世界を代表する高級ホテル・チェーンの象徴である、マンダリン・オリエンタルやシャングリラ、ペニンシュラも東京での事業展開はあの辺りですから・・。 さてバブルの崩壊からこちら、羹に懲りて膾を吹く風潮が蔓延したこの日本列島に於いて、不動産の総量規制という呪縛も有り、暫くは誰も土地に手を出さなくなりました。 その間隙を突いて特に外資系投資ファンドが、我が国の商業地を買い漁った、つまり手腕とノウハウ及び投下可能な資本がある連中にとって、我が日本は長らく宝の山と言って差し支えない状況にあったという事です。 他にも例えば破綻したゴルフ場を二束三文で買い叩き、徹底的なリストラと経営合理化でプレー・フィーを安く抑えて日銭を稼ぐその一方で、幾つかのゴルフ場を纏め上げてその持ち株会社名で上場を果たし、株式の売却益で莫大な利益を上げた外資は少なくない。 丸の内・大手町といった、我が国を代表するビジネス街とてその例外ではありえなかった、リゾート業も全く同じ構図であったでしょう、何せホテルの買収費用の桁が一つ下がりましたからねぇ、追い風が吹いたという事でしょう。 >なんとこの人の奥さんは日産の専務執行役員の星野朝子さんという 方。銀行時代も奥様は新幹線通勤をされていたのだそうで驚きです。 >14年に日債銀からゴーンさんにヘッドハンティングされたそうで、 奥様の事はさて置き「 日債銀 」 ですか・・、日中にお化けを見たほどの驚きです、その懐かしい名前は遥か記憶の彼方でしたから・・、私の緩い口チャックが益々緩くなってしまいます。 まあバブル期に悪さをしなかった金融機関は無いと断言出来ますが、あの銀行に関しては突出して逸話が多い ( 勿論悪い方に・・ ) 、言葉は悪いが我が国金融機関の恥部であったと言っていいでしょう。 あの金丸信さんの脱税にも一役買ってます、赤字だらけの福島交通というろくに担保も無い田舎の三流企業に数百億円を貸し付け焦げ付かせもした、政治家の口利きがあったと言われておりますが・・、果ては大っぴらに右翼との付き合いもありましてねぇ、ちょっと常識では考えられないところなんですよ。 長銀の放埓な迂回融資と日債銀の大甘な不動産担保査定は、今でも業界の語り草ですが、あそこの目端が利く連中は、いち早く泥船から逃げ出しましたね、私は随分彼等の身の振り方を知ってます。 旧経営陣では頴川史郎さんという元会長が途方も無い豪傑でした、あの当時の赤字塗れの経営状況で6億円もの退職金をふんだくってます、まさに泥棒に追い銭・・面の皮の厚さは三流店の天婦羅の衣以上、実に見上げた経営者と言って差し支えないでしょう。 もっとも日債銀は早く潰すべきでした、自己資本比率が 4% を割っていた事は知れ渡っておりましたからねぇ、10兆円規模の利付金融債という人質を取っていたという事情もあったのでしょうが、金融システムの安定化に思いを致す余りに引っ張れるだけ引っ張った対価が、2兆円に及ぶ余計なコスト増になって跳ね返って来ましたから・・。 何せ日債銀の後処理に費やされた血税は驚愕の3兆1000億円、最期は二束三文で投資ファンドの連合艦隊に買い叩かれ、しかも瑕疵担保という摩訶不思議な条項に抵触する損金は含まれない、つまり買い手側はほぼノーリスクというおまけ付きですから敵いません。 それ以外にも、バブル崩壊の数年後に日債銀救済という名目で大手金融機関から奉加帳方式で集められた3000億円は、ドブに捨てた様なものでした。 ついでに申し上げると、クレディ・スイス という世界有数の金融コングロマリットが販売したデリバティブ商品に損金を放り込んだ不良債権隠しも行われていた、因みにその方法で巧妙に海外へと飛ばされた不良債権は約6000億円、これも 「 飛ばし 」 という流行語になりましたねぇ、もっとも大なり小なり殆どのところはやっておりましたが・・。 そうこうしているうちに、日本経済に神風が吹くのを待っていたんでしょうが、遂に来ませんでしたねぇ・・。 そんな巨額の赤字が外国に隠れていれば、不良債権処理が遅れて余計に事態を悪化させるのは自明の理なんですが、人間偉くなっちゃうと子供にも分かるそんな理屈も分かんなくなっちゃうんですかね、それとも自分の代にばれさえしなければいいと思ったのか・・、何れにしても困ったものです。 無理を承知で仮に弁護するとすれば、元々事業金融という側面を持つという点でしょう、しかもその相手先が不動産・私鉄・建設業となれば、何れも構造不況業種の最たるもの、ただそれ以上にあの銀行には、金融の自由化・国際化に即したノウハウの蓄積が全く無かった、元々土地を担保に金を貸す殿様商売ですから・・。 以下余談ながら、不良債権のおしくらまんじゅうで、私は日債銀の担当と一戦交えた事がありますが、彼の目は腐っておりましたね、何せ自分では何も決められず一々上にお伺いを立てるんです、今思えば企業風土だったんでしょう。 歴史が浅い日債銀には恐らくプロパーのトップがいなかった、その殆どが大蔵省や日銀出身だったのでしょう、つまり周囲をイエスマンで固めた独裁者としてのそんな振舞いが、下に影響を与えないはずもなく、物言えぬ風土を作り上げたと理解しますが・・。 そんなトップが、日債銀破綻後も更なる天下りを繰り返した現実を見るに付け、この国の 「 俄かエスタブリッシュメント階層 」 に宿る腐った体質はどうにかならないものか・・、当時そういう義憤に駆られた心ある人は、少なくなかったんじゃないでしょうか。 いい歳して目先の金が欲しかったのか、それとも僅かな名誉の為 ? 、何れにしても恥知らずという人種は強いものですねぇ。 回答ありがとうございました。
- ユリア(@yuria2014)
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おはようございます、ご無沙汰してます。 最近忙しくて、恵方巻きも有りましたし、中々参加出来ずにいます。 これって海苔業界の仕掛けだったりしますが、詳しくお話すると叱られちゃいます(笑) 真田家ですと、真田十勇士が真っ先に思い浮かびます。 確かに世代間ギャップかも知れませんが、アニメの題材に結構取り上げられてます。 BRAVE10ってアニメが有りましたが、非現実的な忍者が登場しますが、それなりに面白かったです。 戦国時代は詳しく無いので、信濃路に付いてお話させて頂きます。 思い出深いのは、群馬の中之条から軽井沢に向かう道ですが、昔、草津-軽井沢間を通っていた草軽電鉄の軌道跡?らしき所を通った事が有ります。 先輩は多分軌道跡と言ってましたので、確証は無く未舗装路ですが、締まった砂地で走り易かったです。 まだ、バイクに乗り始めで先輩に付いて方々連れて行って頂きました。 長野群馬の県境の峠で、歴史的に一番重要なのはやはり中山道碓氷峠じゃないでしょうか? 旧中山道の昔ながらの道が、ハイキングコースとして現在も残ってると祖父が言います。 こりゃ行くしか無いでしょう。 旧道は横川からコーナー毎にナンバーがふられてますが、C-13の所にバイクを停めて、ちょっとした崖のような所を這うように登ると、そこには江戸時代にタイムスリップしたような旧街道が現れます。 道幅は狭いです。ハイキング道や登山道並みの狭さで、これが主要街道だったとは驚きます。 しばらく登りますと岩がゴロゴロした急坂になり、座頭転がしの案内板が有ります。 通る人も居ないので、道の真ん中で登山用のコンロで淹れた珈琲を飲みながら休憩です。 当時、こんな所で大名行列に遭遇したらどこに避けるの? 山側に避けたら上から見下ろすのは失礼になるのでしょうか? 加賀藩も参勤交代の際には中山道を通ったそうです。 金沢-江戸間の最大の難所は親不知で、700人以上の人足が七重に人垣で防波堤を作り殿様の籠を通したそうで、それに比べれば、どうって事は無いと祖父の話は面白いです。 それにしても昔は人件費が安かったのか、加賀藩がリッチだったのか興味深いです。 日光例幣使もここを通ったそうです。 これが中々のワルで、『ゆすり』って言葉の語源は例幣使だそうで、自ら籠を揺すって転げ落ち、どうしてくれると金品を強要したとか、お公家さんがそんな事をしたとは信じがたいのですが、後日調べると確かにそのように出てました。 幕末だけでも、将軍家に嫁いだ和宮様や新撰組の前身浪士組、司馬先生の『峠』では三国峠を越えた事になってる長岡藩の河井継之助さんも碓氷峠を越えてます。皆さんどんな思いでここを通ったのか、歴史のロマンを感じました。 結構楽しく話してましたら、いつの間にか猿の集団に囲まれてまして、じっとこちらの様子を窺ってます。マジ怖いんですけど。慌ててバイクまで戻り、碓氷峠のワインディングを楽しみ峠の頂上から、熊の神社見晴らし台方面に向かいました。長野側は道幅も少し広い感じでしたが、鎖が掛かってるので少し先まで徒歩で行っただけです。 峠の茶屋は力餅が美味しいのですが、折角ここまで来たので中軽井沢の『かぎもとや』さんにお蕎麦を食べに行きました。途中、遊歩道が見えましたが、多分旧街道だと思います。 何だか紀行文になってしまいました(笑) 長野県のお土産ですと、この時はリンゴチップスにしました。 野沢菜漬けは千葉県産でしたよ。 お酒は十九と七笑を飲んだ事が有ります。 木曽福島には、98歳のおばあちゃんが一人でやってるラーメン屋さんが有るそうで、祖父にはまだまだの気持ちで居て欲しいので、行ってみたいと思ってます。 安曇野の山葵屋さんは取引してます。 ここは無添加、無着色の山葵を販売してますが、どうやら祖父が添加物アレルギーっぽいので、出来るだけ気を付けています。 お仕事でも案外差別化になってるようで、ご好評頂いてます。
お礼
yuria さん、おはようございます。 こちらこそ御無沙汰しておりますが、お忙しそうで何よりです。 幾つかあった yuria さんの質問は無論承知しておりましたが、 「 食 」 が中心のそのお題に、そっち方面に疎い私にはどうも敷居が高くて中々参加出来ませんでした。 >これって海苔業界の仕掛けだったりしますが、詳しくお話すると叱られちゃいます(笑) おや、そうなんですか、じゃあバレンタインと同じなんですね。 >思い出深いのは、群馬の中之条から軽井沢に向かう道ですが、昔、草津-軽井沢間を通っていた草軽電鉄の軌道跡?らしき所を通った事が有ります。 中之条は何度か通った事がありますが、渋川伊香保ICと沼田ICの両方からからほぼ等距離にある、渋川の先には榛名山系が展開しまして、風光明媚なとってもいいところですね。 >長野群馬の県境の峠で、歴史的に一番重要なのはやはり中山道碓氷峠じゃないでしょうか? 中山道最大の難所ですが、仰る通り碓氷峠ルートこそが本道で、その歴史的な役割は非常に大きかったと思います。 一方で20年ほど前に上信越道が開通しまして、あの辺りへのアクセスは飛躍的に良くなりましたが、昔の苦労はそれとして、今やトレッキングに最適の場所らしいですね。 >金沢-江戸間の最大の難所は親不知で、700人以上の人足が七重に人垣で防波堤を作り殿様の籠を通したそうで、 それと似た事は、本邦の歴史上幾つか見られますね。 例えば武田を攻め滅ぼした織田信長が帰京するべく大井川を渡る際、新たに駿河一国を賜った徳川家康が家中をして上流を堰き止め、流れを緩やかにして信長一行を通したといいます。 >日光例幣使もここを通ったそうです。 >これが中々のワルで、『ゆすり』って言葉の語源は例幣使だそうで、自ら籠を揺すって転げ落ち、どうしてくれると金品を強要したとか、お公家さんがそんな事をしたとは信じがたいのですが、後日調べると確かにそのように出てました。 大大名と姻戚関係にあった一部の例外を除き、当時の公家はほぼ貧乏ですね、何せ僅か3万石程度の歳入で朝廷全体の催事を賄わなければならなかった訳で、五摂関家他の公家領を併せてやっと10万石程度でした。 そんな彼等にとって、1年に一度の日光例幣使というイベントは、実入りになるまたとないチャンス、ここぞとばかりに金になる事はなんでもやったのでしょう、中には山師のような連中も当然紛れ込んでいたものと思われます。 >幕末だけでも、将軍家に嫁いだ和宮様や新撰組の前身浪士組、司馬先生の『峠』では三国峠を越えた事になってる長岡藩の河井継之助さんも碓氷峠を越えてます。皆さんどんな思いでここを通ったのか、歴史のロマンを感じました。 皇女和宮が将軍家に嫁ぐ際は大変な騒ぎだったらしいですね、一方で河井継之助の件は知りませんでしたが、越後から江戸へ至る象徴的な場所として脚色したのでしょうかねぇ、よく分かりませんが・・。 >安曇野の山葵屋さんは取引してます。 >ここは無添加、無着色の山葵を販売してますが、どうやら祖父が添加物アレルギーっぽいので、出来るだけ気を付けています。 味の素を始めとする化学調味料全盛の時代に幼少期を過ごした私にとって、添加物・化学調味料は当たり前の風景でした。 ところがうちの家内が全く駄目なんです、まるで悪の権化のように目の敵にしましてねぇ、そんな嫁さんと長らく暮らすうちに私も駄目になった、今じゃ街の中華店で少しでも化学調味料の香りがすると、全て残してしまいます。 回答ありがとうございました。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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今日は。主さん、いつもながらに的確に概説されてらっしゃるので、 違う視点で少し、山岳と修験,と云う事で。 ⛰山岳地と平地、其々の戦術は皆さん御詳しいと思いますので私出る幕じゃないですが、 \傾斜や、タモリが云う高度差、此れが思考や肉体に与える影響が大きいと思われます ガガーリンやアームストロング船長、無重力体験後の思考や筋肉系の変容と同様に。 F1レースの横Gに何度も晒されたレーサー等も、。speed of life.と云う事。 ⛰山には違うリズムが流れてる。アジリティー空間、登り下り問わず,速い時間と思考。 山の民、踏鞴師、マタギ、皮剥、狼煙、全て戦に必須の技術。加えて各山頂を繋ぐ連絡網では、鏡が使われた との研究も有りますね、栗本慎一郎の本でも。其の真偽は不明ですが。 ●諜報戦、それ真田は長けてたのでは?、情報が速い気がします。\高地を走る民が居る。シエラネバダのNativeタラウマラ族、エチオピア高原の長距離ランナー。此れが速い強い!~古来より伝令で走って来たそうで、。 🏯岩櫃山は800m位ですが奇岩城、その吾妻線を更に進むと直ぐ、万座,草津、此処から山スキーで白根山迂回して志賀高原や須坂に抜けるコースが有ったけど私は断念 /\ さて信濃側。四人ほど学生時代の友が出身で皆変です(^^;。顔がまあ山の民、発想が違う。ハイカラ文化好きだけど頑固。でも何故か気が合う。須坂の奴は卒業式で龍勢を上げるのが恒例だと云う、やっぱ忍者か ずっと懇意にしてた,上田の画家は昨年末に他界しましたが、酒飲んで話し聴いてると、此方はウトウト催眠に掛ったようになる、語り部だった 望月玄汪,と言いますが、望月六郎の一族分家です。彼の顔見ると、十勇士のモデルになった士族は矢張り山の民だと思う、、山窩。ショーケン主演で其の映画も有りますね 彼等はアウトドアが上手。揃って言うには、関東はバックに山が見えないのが気持ち悪いそう。私も頭がヒートアップした時、白い頂き見て脳内に導入するとスッキリする。純白の波長と脳波が同期するそうです。自然物の思考への影響とはそうした事。 白山、月山、神としての信仰。妙高、赤倉、戸隠伝説、さあ此処が修験の一大道場 顕光寺 http://www.togakushi-jinja.jp/shrine/index.html 徳川時代は朱印与えの神領 伊賀忍者は役行者を守り神としてますね。薬草、麻薬の知識には長けてる。~天正伊賀の乱で信長に追われた忍や陶工が岡山池田藩に囲われ、近年に忍の書が出て来て、麻薬による調略法など記してますね。丹波焼の里には,いんが”と云う地名も在る。 近代の史学界では忍者研究など為したら排除されたそうですが、あれは絵空後ではない。漸く最近、磯田道史などが登場。貴重資料が神保町で二束三文濡れ手に粟だったとか 🙊猿飛佐助の分身の術、あれも特殊な精神状態では本当です。八仙の筆頭の呂洞賓 が得意でした。実体ではないが、単なる心象観念でもないイマージュ空間と云うのが在る。密教系行者は良くします。神通力とはそうした事 真田の忍者は秀でたのでは?、三方ヶ原では幸村vs松平,伊賀八幡; 服部半蔵の槍、の闘いが有ったのか?堺君は十文字槍を振り回せるのか?^^; 本人もブラタモリで笑っとった 忍びの技術では、より山深い真田の方が勝った気がします。忍術の映像化ではCGよりFilmで、イマージュと云うのはオーバーラップ等の技術と相性が良い。 亀次さん仰る,雷蔵の“忍びの者”、伊賀の頭領,百地三太夫が怪優,伊藤雄之助、草屋敷で夜間短檠の灯り一つで忍稽古する其の影使いの編集技が凄、本当っぽくて吃驚。三谷は可能か? ®️17, 18線を北上すると川向うに更科、姥捨山と見えて、凄まじの風情有りですが、 其れを書いたギターリスト小説家の深沢七郎 翁、正に山の御顔。御出身の自伝「笛吹川」に絡めて、同郷の中沢新一が書いてた〈のうてんき〉と云う民の在り方。アッシみたいのかな(^^),普段穏やかですが一旦事あらば荒振る魂だそうで。 真田や上杉に比べれば甲斐武田は盆地の精神風土なのかも。勿論三河平野の大名よりは山だ ~ひゃー面白い! 忍び等の精神技術の史学は此れからです、信之さんの松代藩真田文献は良くぞ大量に残ってる。演ったモン勝ちでよ!
お礼
marc さん、おはようございます。 いつもながらの アカデミックな御回答、誠に恐縮です。 ただまあ、 marc さんの非常に濃密な回答その全てにボールを投げ返していては、当サイトの文字制限を遥かに超えてしまう、過労で倒れちゃう可能性もある・・、依って何とか言及可能な幾つかを抜粋してお礼に及ぶ事、お許し頂きたいと・・。 >⛰山には違うリズムが流れてる。アジリティー空間、登り下り問わず,速い時間と思考。 それはあるのかも知れません、ステレオ・タイプな括り方をしますと、例えば大らかな平野型、その一方で諸事俊敏な山岳型とでも言うのでしょうか。 >●諜報戦、それ真田は長けてたのでは?、情報が速い気がします。 その点を最も如実に表したのが大阪夏の陣、・・そう、家康の本陣へと肉薄したあの戦場でしょうねぇ。 あの戦に於ける真田軽騎兵の進路を振り返りますと、素人目にも真一文字に家康の本陣を目指している事が分かる、つまり戦場での諜報活動に聊かも怠りがなかったという事の証であろうと思います。 >🏯岩櫃山は800m位ですが奇岩城、その吾妻線を更に進むと直ぐ、万座,草津、此処から山スキーで白根山迂回して志賀高原や須坂に抜けるコースが有ったけど私は断念 いやいや、それはちょっとばかり厳しいと思いますよ、 『 私をスキーに連れてって! 』 じゃあるまいし・・。 >白山、月山、神としての信仰。妙高、赤倉、戸隠伝説、さあ此処が修験の一大道場 山岳信仰という或る種の土俗信仰は、無論我が国のみならず世界のあちらこちらで見られる、ただ我が日本ではそれが修験と結び付いた点が若干異なるのでしょうか、その一方でイタコというシャーマニズムとコンタミしたのが恐山、彼の地は非科学的且つ目に見えぬ物は一切信じない私にして、何となく妖気のようなものを感じた鬼太郎の世界、あの風景・雰囲気を初めて目にした私は決して大袈裟ではなく仰天しました。 >エチオピア高原の長距離ランナー。此れが速い強い!~古来より伝令で走って来たそうで、。 長距離王国になるはずです、あのアベベなんて子供の頃から隣家へのお使いでは、ただひたすら走っていたそうです、往復20キロのその道のりを・・。 >真田や上杉に比べれば甲斐武田は盆地の精神風土なのかも。勿論三河平野の大名よりは山だ 私には盆地というものがよく分かりませんが、中央高速を下り勝沼を超えるとその先に見えて来るあの景色が甲府盆地とするならば、それなりに広大ですね、2~3万の軍勢ならば楽に養えそうです。 >御出身の自伝「笛吹川」に絡めて、同郷の中沢新一が書いてた〈のうてんき〉と云う民の在り方。 その昔政界のドン金丸信さんという方がおられた、御存じの通り山梨出身であられましたが、そりが全く合わなかった彼を評して後の総理宮澤喜一さんが、 「 あんなの 笛吹川 にでも沈めちゃえばいいんだ 」 ・・と叩いた陰口が、回り回って金丸さんの耳に入り、激怒したという逸話が残ってます。 その比喩が示す通り甲府盆地を代表する河川なのでしょうねぇ、ただその頃は金丸さんに逆らえば100 % 総理大臣の目は無かった、気位ばかり高かった日本版ETの宮澤さんも最後には御自分から頭を下げ、総理にしてもらいましたがねぇ。 回答ありがとうございました。
- kamejrou
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こんにちはisoken さん どうもお礼を書き終えないことにはお邪魔も出来ません これは難しい質問なのでしょう 付いた回答の数でも分かります 私もこのような難しい質問をリクエストしたつもりはないのですが(笑) まあ少しお話しましょうか?嫌いでもありませんし 戦後でしょうねえ EX さんが言っておられるようにこの真田十勇士と言うのは人気でした 穴山小助、三好兄弟の活躍に胸躍らせたのです 中で猿飛佐助、 これは杉浦茂さんと言う人で漫画になりましたが EX さんやsqさんはご存知でしょう 時間でもありましたら画像確認をしていただきたいのですが 当時の少年漫画とはまあそう言うものでした ついでですからこの杉浦茂さんの事も少し触れましょう 田河水泡さんと言う方がおられた この方は[のらくろ]であまりにも有名 杉浦さんはこの人のお弟子さん、後に長谷川町子さんも弟子になる この田河さんの奥様が高見沢潤子さん 小林秀雄の妹です これから先は話しが飛び飛びになるやもですが まあ何時もの事と勘弁してください この真田一族と言うものについては私は特段に評価もしません と、言いますのはね これはあの時代戦国戦乱の時代には彼らの行動が 別に特別のものでもないのです当然の事ですらある [一所懸命]と言う言葉があります 当時の武士と言うものは皆そうです 家、それに繋がる一族廊等を守るが為には権謀術策は当たり前なのです それを以て狡猾などと言うのは違うと思いますがね どなたかが農民が城に入ったと言われる これも又当然と言えば当然でしょうか? あの時代は領主と領民は運命共同体なのです 例えば福島正則などは 何人かの領民のために戰まで考える❗ NH K の真田丸の話しをしましょうか? 私は観ておりませんので何とも言いようもないのですが Isoken さんから見て面白いのですか? どなたかに真田を語る時に[真田太平記]は必読書と言っておられたが そのとうりです 池波さんはいわゆるこの[真田もの]をライフワークにされました たしかに[真田太平記]自体は8年くらいの連載であったでしょうが 始まりは[真田騒動 恩田木工]からになります それの前後を考えますとおそらくは30年くらいの構想ではと思います 私は三谷と言う人をあまり好きではありませんが 誰かが今真田と言う一族を画像にするなりする時に、 池波さんの作品を下敷きにするしかないと思います 池波さんはそれだけ丹念緻密に取材されておられる これはまあ海音寺さんの[西郷隆盛]にも同じことが言えますね 海音寺さんは絶筆とされましたが Isokenさんまだでしたらね[真田太平記]は是非 おそらくあなたなら飽きることがない少々長いですけどね さて終わりに信濃路のことを少し 一番近いのでは鬼怒川温泉から上田にぬけましたね その前に日光に寄りましたが 鬼怒川から上田に向かいますとね小さな峠なのでしょうかね? もうS 字カーブの連続でしてね 私は自分の運転する車で車酔いなどしたことがありませんが あれは気持ちが悪くなって初の経験でした それと上田の町に入る前にいかにも旨そうな蕎麦屋があって [真田蕎麦]を食べることも目的でしたから そうしたら財布を拾いましてね10万くらい入っていて 世の中には神様はいるんだなと天を仰いでいたら 家内と言うのが変なところに潔癖で 何を考えてる?馬鹿言うでねとか言われて あの金があれば上田の町で飲めや歌えや世の中はと 楽しい時間が過ごせたものを💧 ここいらで
お礼
kamejrou さん、こんばんは。 お礼が遅くなりました、申し訳ありません。 さて質問の内容が難しいというよりも、むしろ信州に対する土地勘があるかどうかという問題でしたでしょうか、それがないと恐らく回答意欲に火が点かない。 >EX さんが言っておられるようにこの真田十勇士と言うのは人気でした 有名ですから無論知ってはおりましたが、どうなんでしょうちょっとした世代間ギャップでしょうか、周囲を見渡しても真田十勇士がどうのこうのという友人はいなかったようです。 >この真田一族と言うものについては私は特段に評価もしません と、言いますのはねこれはあの時代戦国戦乱の時代には彼らの行動が 別に特別のものでもないのです当然の事ですらある[一所懸命]と言う言葉があります >当時の武士と言うものは皆そうです >家、それに繋がる一族廊等を守るが為には権謀術策は当たり前なのです >それを以て狡猾などと言うのは違うと思いますがね kamejrou さんのその辺りのお考えは、よく存じております。 ただ豪族個々の意欲はそれとして、真田クラスの小豪族でお家を守り通した例は非常に少ない事、加えて後世に名を遺した点を私は高く評価したいですねぇ。 >NH K の真田丸の話しをしましょうか? >私は観ておりませんので何とも言いようもないのですが >Isoken さんから見て面白いのですか? このドラマの評価は実は難しい、何せ今までと切り口が違いますから、時代考証や従来のイメージを大切にされる方にとっては、或いは駄作に思えるかも知れませんねぇ。 これはもう三谷幸喜流エンターテイメントとお考え頂くしかない、 言うならば 『 清須会議 』の延長線上にある、ただ私には無条件で面白いのも確かでして、 kamejrou さんも一度御覧になられては如何でしょう。 >誰かが今真田と言う一族を画像にするなりする時に、 >池波さんの作品を下敷きにするしかないと思います >池波さんはそれだけ丹念緻密に取材されておられる 私の家内が池波正太郎さんの大ファンでして、 彼女の書棚には「 鬼平犯科帳 」 や 「 剣客商売 」 は全巻揃っているはずです、グルメ関係を含めたエッセイも随分とある、 「 真田太平記 」 はどうだろう・・、今度捜してみます。 >これはまあ海音寺さんの[西郷隆盛]にも同じことが言えますね 海音寺さんは絶筆とされましたが 海音寺さんが長らく住んでおられた、世田谷区の経堂の邸宅がその後記念館となったのは知っておりましたが、昨年故郷の鹿児島大学に寄贈されたらしいですね、当大学学生・教職員の東京宿泊施設になったそうです。 記念館の敷地は100坪ぐらいあるんでしょうか、下世話な話で恐縮ですが、あの辺りの坪単価が恐らく200万円程度として2億、それ以外にも御遺族が鹿児島の自治体に別途3億5千万円を寄贈されておりましてねぇ、なんとまあ豪奢なものです。 >さて終わりに信濃路のことを少し >一番近いのでは鬼怒川温泉から上田にぬけましたね >その前に日光に寄りましたが >鬼怒川から上田に向かいますとね小さな峠なのでしょうかね? 鬼怒川から上田へ下道でですか?、何とまあ無茶な・・。 今ナビで調べたら230kmもある、東北道~上信越道経由で3時間45分掛かるとあります。 一般道ですと最低その1.5倍は掛かるでしょう、それはそれは御苦労様でした。 私は以前 kamejrou さんから教えて頂いた、飛騨高山へ向かうワインディング・ロードですら、もう御免です。 回答ありがとうございました。
- oya_zico
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済みません。今日は4話でした。1話勘違いしてました(涙) ふ~う、今日の、織田信忠面前での徳川家康とのやり取りは見応えがありましたね。 面白過ぎます!!! それから、榎木孝明さん(穴山梅雪)も、結構重要な役で真田太平記に出てたことを思い出した!!! 勘違いや物忘ればかり、困ったものです(涙)
お礼
zico さん、続けて行きます。 >済みません。今日は4話でした。1話勘違いしてました(涙) ああ、そんな事どうでもいい話です。 >ふ~う、今日の、織田信忠面前での徳川家康とのやり取りは見応えがありましたね。 真田と家康との因縁はとにかく深い、当然最終回まで絡む重要な役どころですから、時折この種の丁々発止のやり取りが披露される事になるのでしょう、きっと・・。 >それから、榎木孝明さん(穴山梅雪)も、結構重要な役で真田太平記に出てたことを思い出した!!! この人も大河ドラマの常連ですねぇ、個人的には 『 八代将軍吉宗 』 で演じた 柳沢吉保 役が印象深い。 >勘違いや物忘ればかり、困ったものです(涙) 皆同じですよ。 再度の回答ありがとうございました。
- oya_zico
- ベストアンサー率19% (397/2006)
isokenさん、こんにちは。 >久し振りに1年間お付き合い出来そうな大河ドラマに出会えたとの印象です。 本当におっしゃる通りです。 私も大河ドラマを見るのは何年ぶりでしょうか?毎週、楽しみにしています。 それにしても、脚本家の三谷幸喜の粋な計らいでしょうか、以前の大河ドラマではないNHK時代劇『真田太平記』で、幸村役を演じた草刈正雄さんが、今度は昌幸役を演じている。 >そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、 そうですね。戦歴や外交を見ても食えなさが伝わってきますし、『人は城、人は石垣』といって、騎馬隊と街道の整備にばかり傾注してた武田家中において、城造りは名人級、本当に食えない男だったと思います。 『真田丸』第二話での偽密書を奪わせる計略も、昌幸の食えなさを表現するにはピッタリのエピソード、今後の脚本・展開が益々楽しみですが、 やはり、私の中では、まだ『真田太平記』を超えていない。。。 丹波哲郎さん(昌幸)の女好き…(妻の妹にまで手を出してる) 渡瀬恒彦さん(信行)の先見の明…(織田徳川に付くべきと主張) 草刈正雄さん(幸村)の爽やかさ…(格好良すぎる) 忍者キャストでも、 夏八木勲さん(忍者の長)はシブいし、 遙くららさん(お江)は艶があるし、 石橋蓮司さん(敵甲賀)は本当に憎かった。 とは言いながら、今回の『真田丸』は、幸村が主役なので、信幸が多少間抜けでも、本多忠勝が藤岡弘、さんでも、イメージが合わないな~と思っても、面白いからまあいいか~と楽しんでます。 今日は、第3話。はてさて、どうなることやら!
お礼
zico さん、こんばんは。 >私も大河ドラマを見るのは何年ぶりでしょうか?毎週、楽しみにしています。 ここ何年かの大河ドラマは、ほぼ初回で嫌になって以降観ませんでした、ところがこの 「 真田丸 」 はそうじゃない。 近年では稀な視聴率を上げるんじゃないでしょうかねぇ。 >それにしても、脚本家の三谷幸喜の粋な計らいでしょうか、以前の大河ドラマではないNHK時代劇『真田太平記』で、幸村役を演じた草刈正雄さんが、今度は昌幸役を演じている。 草刈正雄さんも大河ドラマは随分と長い、私の記憶が正しければ、海音寺潮五郎氏著 「 風と雲と虹と 」 ・・に於いて、何やら笛を吹いて登場する美貌の青年役で出演されたのが最初だと思いますが・・。 NHKも数字が欲しかったのでしょう、故に当時超人気であった草刈さんにさほど重要とは思われない鹿島玄明という役を宛がい、クローズアップしてみせました。 >私の中では、まだ『真田太平記』を超えていない。。。 いみじくも30年前の 『 真田太平記 』 との比較目線で、草刈さんがインタビューに答えておりますが、この人はやっぱりカッコいい。 その中で 昌幸 というオイシイ役をもらった事を、素直に喜んでおりましたが私もそう思う、何せ九度山で没するまで出続ける事になります、しかも主役の幸村と遜色が無いほど重要な役どころでしょうから。 >今回の『真田丸』は、幸村が主役なので、信幸が多少間抜けでも、本多忠勝が藤岡弘、さんでも、イメージが合わないな~と思っても、面白いからまあいいか~と楽しんでます。 真田幸村を演じる堺雅人さん以上に、真田信幸 = 大泉洋 というキャストには、当ドラマの方向性を示唆する大きな意味があるんだろうと思いますよ、つまり真田に纏わる従来のシリアスな匂いを払拭し、コミカルなタッチで終始するという・・。 従来の信幸像は、重厚で思慮深いというものでしょうから・・。 回答ありがとうございました。
- fujic-1990
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波瀾万丈で、二股膏薬のようにあっちに貼り付いてみたり、こっちにくっついてみたりと悪口を言う人もいますが、私は高く評価できる一族だと思っています。 農民も城に入って徳川と戦ったという話を聞けば、それだけ民に善政を施したのだろうと感動的でさえあります。 爪先立ちて登る古城の山 観望一刻千里の夢を辿る 武農和して逐う天下の兵 たれそ笑う千曲の流れを 真田山だったと思いますが、真田本城の山から眼下を望み、作った歌です。中国語を勉強して平仄を覚え、絶句にしたいと思いましたが、忙しさにまぎれて挫折しました。手つかずですが、披露させていただきます。 「結」の部分は、真田がさまざまに主を変えた、変えざるを得なかった歴史の流れを、曲折の多い千曲川(信濃川の長野県側呼称)の蛇行になぞらえて、「笑えないだろ」と言ってみました。
お礼
fujic さん、こんばんは。 大変失礼ながらPF拝見しましたが新潟県にお住まいとの事、でしたら長野とは県境を接しておりますし、謙信・景勝は言うに及ばず古より越後と信濃は随分と縁が深い・・、東京に生まれ育った私とはまた違った切り口の、信濃像をお持ちであろうと思います。 それにしても BA率58%は凄いですね・・。 さて本題、 >波瀾万丈で、二股膏薬のようにあっちに貼り付いてみたり、こっちにくっついてみたりと悪口を言う人もいますが、私は高く評価できる一族だと思っています。 あの大乱世を小なる真田が生き延びた理由は無論幾つもあるのでしょうが、その一つに大勢力に対し決して己を安売りしていない、その点が挙げられると思います。 一時の苦境を凌ぐただそれだけの理由で無条件に属してしまいますと、人質を取られて雁字搦めの果て、戦では必ず先手衆として便利使いされ、いざとなれば真っ先に切り捨てられてしまうのは目に見えている。 ところが真田は物申す小豪族でした・・実力も見せた、例えば一時徳川に属した事もありましたが、北条と裏取引をした家康が沼田城を明け渡せと迫った時は断固拒否、反旗を翻し徳川軍を迎撃して痛打を浴びせた上で、秀吉に幸村という人質を送りその傘下に入りました。 そもそも秀吉とは、無条件で有象無象の小豪族を助けるほど甘い男では決してない、但し真田には北条・・それ以上に徳川に対する駒としての価値を見出した、恐らくそういう事であったろうと思います。 その点は現在に住む我々に対する戒めでもある、つまり苦境に陥った際先ずは自分で何とかして見せる事、・・でなければ他人は助けてくれないという事でしょう。 >真田山だったと思いますが、真田本城の山から眼下を望み、作った歌です。中国語を勉強して平仄を覚え、絶句にしたいと思いましたが、忙しさにまぎれて挫折しました。手つかずですが、披露させていただきます。 それは中々・・、私はよく分からないのですが、何やら格調の高さは感じます。 >「結」の部分は、真田がさまざまに主を変えた、変えざるを得なかった歴史の流れを、曲折の多い千曲川(信濃川の長野県側呼称)の蛇行になぞらえて、「笑えないだろ」と言ってみました。 なるほど、その辺りのメタファーは非常に興味深い、野暮天の私にはとても無理なようです。 そう言えば謙信が作ったとされる有名な七言絶句がありましたね、越後の方は詩心がおありなのでしょうか・・。 霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征 回答ありがとうございました。
- 投稿削除メガネ(@chacha0035)
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isoken先生、こんばんは。 大河の「真田丸」はDVDが出てから一気見する予定ですw 個人的には、武田四天王に真田の名前が入ってないのが不思議! 「武田家家臣どんだけ層が厚いねん!!」って感じですww やっぱ外様だからですかね? 長篠の合戦で山県・内藤・馬場・他が討死したのは昌幸的にはラッキーで、 こいつらがいなくなったお陰で昌幸の才能が発揮できたのかなぁってゲスイ事を思っちゃいますw 関係ないけど、一つ都市伝説を・・・ 鹿児島には、大阪夏の陣で敗れた秀頼公は幸村と嫡男大助に連れられ薩摩に落ち延びたって都市伝説があるんですよw 鹿児島には秀頼公の墓まであるんですよ。 眉唾ですw
お礼
chacha 師匠、こんばんは。 >大河の「真田丸」はDVDが出てから一気見する予定ですw 結構高いんじゃないですか、大河ドラマのDVDの相場は大体4万円前後だった記憶があります。 >個人的には、武田四天王に真田の名前が入ってないのが不思議! >「武田家家臣どんだけ層が厚いねん!!」って感じですww >やっぱ外様だからですかね? 外様であった以外の理由は考えられません、但し武田二十四将には2人入ってます、幸隆と信綱。 >長篠の合戦で山県・内藤・馬場・他が討死したのは昌幸的にはラッキーで、こいつらがいなくなったお陰で昌幸の才能が発揮できたのかなぁってゲスイ事を思っちゃいますw それはちょっと、センテンス・スプリングかも知れませんよ。 その辺りは正直微妙なんですが、信玄時代の主流を成した山県昌景・内藤昌豊・馬場信春辺りは一歩引いて勝頼に仕えておりますね、その分穴山梅雪を筆頭とする親類衆の発言力が増しておりました。 その一方で勝頼が頼りにしたのが跡部勝資そして長坂釣閑斎、言わば彼等が家老格、その端に連なった昌幸は勝頼の個人的ブレーンと言っていいのでしょうが、武田家内での身分はさほど重くなく飽く迄もその一格下、しかも跡部勝資とはそりが合わなかったようです。 ただ跡部・長坂は文官です、依って信玄以来重きを成した宿老の多くが長篠で戦死した後、軍事面で昌幸の発言力が相対的に増したのは間違いありません。 >関係ないけど、一つ都市伝説を・・・ >鹿児島には、大阪夏の陣で敗れた秀頼公は幸村と嫡男大助に連れられ薩摩に落ち延びたって都市伝説があるんですよw >鹿児島には秀頼公の墓まであるんですよ。 >眉唾ですw 実は以前歴史カテで、 「 秀頼の薩摩行きの真偽は 」・・という質問がありBAをもらったのですが、私は以下の通り回答したんです。 『 大阪に30万もの大軍を集結せしめ、水も漏らさぬ陣を構えた家康最大の目的は、豊臣家の係累を根絶やしにする事にあった、依って他の有象無象はともかく、紅蓮の炎に包まれた大阪城から秀頼が脱出する可能性は万に一つも無かったはずです。 仮にというか奇跡的に薩摩に逃れ得たとしても、旧政権への感傷と取り潰しのリスクを秤に掛け、島津が秀頼を匿う可能性はゼロであったでしょう 』 ・・と。 恐らく間違いないと思います。 回答ありがとうございました。
isoken さん、真田丸、キャスティングが面白く今後の展開が楽しみです。 真田といえば、子供の頃に読んだ猿飛佐助、霧隠才蔵の真田十勇士を思い出します。 あくまで、講談の中の架空の人物なのですが、ことに猿飛佐助は 絵本漫画や映画でも子供のころからなじみ深いです。 http://ecx.images-amazon.com/images/I/81ga-BG9WzL._SL1500_.jpg 映画の原作が檀一雄ってのも印象深い話です。 十勇士の中で根津甚八なんて、その名をもらった役者のほうが有名です。 他にも三好青海入道、由利鎌之介とかいるんですけどご存じなのは kamejroさんぐらいでしょうか。 佐助というとTVでは藤井隆が演じていますが猿飛佐助は絵本漫画以外にも 白土三平の漫画サスケが印象深いです。甲賀流忍法のサスケと伊賀流の対決 我々の子供時代は「忍者」がヒーロー。風呂敷被って玩具の刀を背負って 階段の途中から飛び降りたり、短く切ったホースを咥えて風呂にもぐったり して「修行ごっこ」をしたものです。 信州は風光明美で夏も冬もレジャーのメッカなんですが、いまだにアタマの中に地図が 描けません。松本、長野、上田の位置関係はわかりますが、自分の行った 上高地、安曇野、白馬、伊那谷、原村 志賀高原などが地図のどのあたりに あるのかわからないのです。 そもそもこの明確なランドマークのない土地で長野県民はどうやって迷子に ならずに暮らしているのか不思議でなりません。 佐久出身の友人の結婚式で軽井沢高原教会へ行き万平ホテルに泊まったのが 35年以上も昔のことですが信濃路は行くたびごとに異なる顔を見せてくれる 場所です。安曇野の山葵田の澄んだ水の流れ、白馬八方尾根の連なる白い山並み など目に焼き付いた風景の多くは長野のものです。 軽井沢には藤田宜永、小池真理子夫妻や馳星周などの作家やコラムニストの 勝谷誠彦が住んでいたりしますがいずれも一癖二癖ある人達で面白いです。 軽井沢というとアウトレットに日帰りか72でゴルフということの繰り返しでしたが 今年の夏はカミさんとのんびり二泊三日で信濃路を楽しんでみようという気になりました。
お礼
ex さん、こんにちは。 >isoken さん、真田丸、キャスティングが面白く今後の展開が楽しみです。 事前に仕入れた情報では、女性陣・・特に綺麗どころが手薄で長澤まさみちゃんも少々手垢が付いておりまして、旬と言えるのは辛うじて吉田羊嬢辺り・・、私は逆にキャスト的に苦しいかと思ってたのですが、意外や意外これが中々面白い。 必ずしも豪華キャストがいいという訳ではないんですね~。 >あくまで、講談の中の架空の人物なのですが、ことに猿飛佐助は 絵本漫画や映画でも子供のころからなじみ深いです。 名前は有名ですが実はよく知りません、子供の頃の忍者物と言えば 「 少年忍者風のフジ丸 」 辺りでしょうか。 >白土三平の漫画サスケが印象深いです。甲賀流忍法のサスケと伊賀流の対決我々の子供時代は「忍者」がヒーロー。 サスケはよく知ってます、テレビでもやっておりましたし・・。 確かに忍者はヒーローでしたねぇ、チャンバラもよくやりました、ただ甲賀と伊賀の違いが長い事分からなかった、何故敵対しているのかも・・。 あとスパイごっこ、サンスターのスパイ手帳ってのを買ってもらいましたが、水溶紙なんてのに驚いた記憶があります。 >短く切ったホースを咥えて風呂にもぐったり >して「修行ごっこ」をしたものです。 水遁の術には憧れましたねぇ、竹の節にキリで穴をあけたりしましたが、肝心の潜るところが風呂場しかなかった・・。 >信州は風光明美で夏も冬もレジャーのメッカなんですが、いまだにアタマの中に地図が描けません。松本、長野、上田の位置関係はわかりますが、自分の行った上高地、安曇野、白馬、伊那谷、原村 志賀高原などが地図のどのあたりにあるのかわからないのです。 右に同じです、長い事長野県と群馬県が県境を接している図がイメージ出来なかった。 未だに位置関係はよく分かりません、ただそれは北海道も同じなんです、札幌と函館・稚内辺りを除いた場所がよく分からない。 >十勇士の中で根津甚八なんて、その名をもらった役者のほうが有名です。 目で演技する良い役者さん・・男の色気もありました、その早過ぎる引退が惜しまれます。 >軽井沢には藤田宜永、小池真理子夫妻や馳星周などの作家やコラムニストの勝谷誠彦が住んでいたりしますがいずれも一癖二癖ある人達で面白いです。 馳星周は贔屓にしてる作家の一人、特に初期の作品が好きで全て揃えておりますが、金城武主演で映画にもなった 「 不夜城 」 シリーズは面白かったですねぇ。 >軽井沢というとアウトレットに日帰りか72でゴルフということの繰り返しでしたが 随分行ってませんが72はとっても良かった、特に夏のカラッとした気候がいいですね、さすがは軽井沢・・記憶に残るゴルフ場の一つです。 >今年の夏はカミさんとのんびり二泊三日で信濃路を楽しんでみようという気になりました。 いいですね~、実は私もその気になってます。 回答ありがとうございました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
isoken さん、こんばんは。 そうですね。小大名ですが、後に天下をとった徳川家と3度対戦してすべて勝利した。という点では特別は一族ですね。もともと幸隆の代から信玄のもとで調略だとかを行っていましたから、元からそんな一族だったのでしょう。 私としては池波正太郎の「真田太平記」で大河を見てみたいかったです。
お礼
ithi さん、こんにちは。 >そうですね。小大名ですが、後に天下をとった徳川家と3度対戦してすべて勝利した。という点では特別は一族ですね。もともと幸隆の代から信玄のもとで調略だとかを行っていましたから、元からそんな一族だったのでしょう。 山岳地帯に蟠踞する豪族の常として、諜報活動に怠りが無かった為、江戸中期以降講談に出て来る真田十勇士の原型が生まれた、そういう事でしょうかねぇ。 さて真田の武勇は世に隠れなきもの・・それはそれとして、個人的には昌幸の嫡男にして藩祖信之の手腕に唸ってしまうんですよ。 関ヶ原そして大坂の陣で、敵方一方の主将となった2人近親者を持ちながら、真田家200有余年の礎を築き上げた一事を以ってしても、並々ならぬ政治と外交・折衝の才があった事は明確です。 もっとも徳川秀忠には、随分と辛く当たられたそうですが・・。 >私としては池波正太郎の「真田太平記」で大河を見てみたいかったです。 真田を語る際の必読書でしょうね、連載は8年に及んだそうですが、あの詳細な描写の陰に一体どれほど取材に費やした御苦労があったのか・・。 回答ありがとうございました。
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お礼
sq さん、おはようございます。 最近はどうもいけません、ウィーク・デーの夜は脳が全く機能しない且つ気の利いた文章も出て来ない、目には見えない疲労の蓄積があるのでしょうかねぇ、自分ではまだ若いと思ってるのですが・・。 ・・とまあ、お礼が遅くなった言い訳を滔々と述べておりますが、何卒御容赦下さい。 >以前から思ってたわけではなく今ふと思ったのですが、日本のアフガニスタンではないかなと。 戦国時代の信濃が甲斐武田・越後上杉、その他織田・徳川の草刈り場となった事を思えば、実に的を得た御指摘であろうと思います。 それにしても有史以来一体どれほどの異民族支配を受けたのでしょう、このアフガニスタンという国は・・・。 ざっと思い付くだけでも、アケメネス朝ペルシャ・アレクサンダー大王・モンゴル帝国にティムール帝国、そしてオスマン・トルコにイギリス。 確かに東西交易の要衝ではある、シルクロードの1大拠点でもありましたが、ただそれだけでは説明が付かない気がします。 実は学生時代にアフガニスタンを目指した事があります、2度ばかりパキスタンのペシャワールまで行ったのですが、ソ連の軍事侵攻後国境が閉鎖されまして、遂に諦めざるを得ませんでした。 そんな時代もありました、今振り返ればまるで夢の世界での出来事のようですが・・。 >もちろん戦国の世の事ですが。大大名は現れようもなく、小勢力に別れ局地戦に終始している。 現在のアフガニスタンは一般旅行者には無縁の土地ですね、一体どうなっているのやら皆目見当も付きませんが、長らく彼の地に潜伏していたウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタンで殺された5年前の GW 、私共夫婦はベトナムのホーチミンに滞在しておりまして、帰りのタンソンニャット空港は異例の厳戒態勢、イミグレと税関審査に3時間近くを要しましたが、それもこれも遥か昔の出来事のような気がします。 >雲が近いですよね。手を伸ばせば掴めそうな錯覚にすらおちいります。 信州で交差する中央道・上信越道・長野道といった高速道路は、当然の事ながらほぼ例外なく高地を走るわけですが、そこから遥か先に臨める槍ヶ岳他の大パノラマ、あの絶景は果てし無い平野が続く関東ではお目に掛かれません。 >NHKの大河ドラマは随分長くご無沙汰。 >そうですか・・久しぶりに観ようかなと言う気持ちになっちゃいます笑)。 kamejrou さんにも申し上げたのですが、エンターテイメントとして御覧頂ければ、それなりだと思います。 >昌幸がもし三英傑を生んだ濃尾平野か三河に生まれていたらどれほどの働きをしたでしょうか。そんな事も考えます。農業の収穫高が桁違いですものね。 織田信長という英傑に率いられはしたが、弱兵で名高かかった当時の尾張兵が、何故甲斐・越後の強兵に伍して戦えたのか・・、これはもう農業及び商業の先進地帯であった経済的な優位性が明確な兵農分離を可能にせしめた、その一点であったろうと思います。 後進地帯の兵卒といえば農家の次男坊三男坊が主ですから、大将といえども田植えや稲刈りの心配をしなくちゃならない、あの上杉謙信が12万もの大軍で小田原城を包囲したが遂に落とせなかった理由の一つは、その辺りにもあるのでしょうね。 ところが貨幣経済に移行し農本位制を捨て去った織田信長は、豊富な資金を背景に専従の兵隊というものを作り上げた、これはもう或る種の革命でありまして、故に5年もの長きに渡りあの本願寺を包囲出来た訳です。 その一方で経済の先進性は、地方ごとの気質を隔てる大きな分水嶺でもある、例えば秀吉などはその典型ですが、御存じの通りホップ・ステップ・ジャンプで一挙に天下人への階段を駆け上りました。 彼の場合先ず外交ありきですね、大きな投網で洗い浚い掬っちゃう、それでも尚駄目な場合にのみ軍事行動に移る、つまり遥か後年 クラウゼヴィッツ が唱えた 「 戦争論 」 が既にここで展開されております。 ところが地方の武将にはこの投機的なイマジネーションが無い、ただひたすら一砦・一城を地道に落とす作業に明け暮れた、つまり信長に始まり秀吉・家康に引き継がれた天下統一の大事業は、GDPが数倍に伸びたとされる応仁の乱以降の100年余りで、戦国期の経済成長が齎せた最大の果実と言えるんじゃないでしょうか。 その視点で申せば真田昌幸は誠に可愛らしい、離反と権謀術数の限りを尽くしはしたが、そんな彼が手にした領地が僅か10万石足らず・・、その辺りが彼の限界であったのかも知れません。 >ここに信之の父・昌幸の意志意向がどれほど関与しているかでしょうね。 そこに関しては、2つの視点があると思いますね。 東西のどちらが勝つか・・というよりもむしろ、どちらに勝たせれば最も真田の利益になるのか・・、先ずはその点で算盤を弾いたのでしょう。 ところが三成は甲信2ヵ国を提示して来た、つまり西軍が勝てばあの信玄がその生涯を掛けて切り取った版図に近い大大名に・・という欲が、怜悧な彼の目を曇らせてしまった。 加えて徳川とは悪い方に浅からぬ因縁がありました、故に家康が勝っても精々数万石の加増が関の山・・となれば、彼に迷う余地は露ほども無かったでしょう。 まさに情と欲との二人連れ、秀忠を喰止めた戦にはさぞや力が入った事でしょう、もっとも西軍はその種の空手形を濫発しておりましたが・・。 その一方で如何に利を食らわせられようと、負ける方に付く訳には行かない、主家が滅んだ惨めさを武田崩れで身を以って体験した昌幸は、 sq さんが仰る通りリスク・ヘッジに走った、それが東西に分かれた最大の理由でしょう、本多忠勝の女婿であるから云々は、もっともらしい後付の理由・・、私としては勝手にそう受け止めておりますが・・。 >勝頼は凡庸ではなく知略と武勇に優れた武将であったと思います。ただ信玄の庶子であり四男である事。加えて実母の出自からすれば云わば外様。信玄の直系の重臣から見るとう~~んと言う存在だったのでしょうね。 >家臣団上層部の支持を必ずしも得られなかった・・そういう事だったのでしょう。 世に言われるほど勝頼は愚かな大将ではなかった・・、私としても全く同感、少なくとも傲岸不遜な人ではなかったようです。 勝頼が有した出自こそが、武田内部で軽んじられた最大の理由だという御意見にも組します、これはもう慧眼であろうと・・ 例えば武田凋落の元となった長篠の戦に於いて、真田昌幸の献策もあり一度は撤退に気持ちが向きかけた、ところが穴山梅雪を始めとする親類衆の手前突撃せざるを得ませんでした、この点が鶴の一声でどうにでも軍を動かせた父信玄との最大の相違でしょう。 そこには信玄の没後起こった、武田内部の家政力学の変貌が見て取れます。 そもそも信玄の時代その帷幕で重きを成したのは 山県昌景・内藤昌豊・馬場信春 といった面々でありましたが、棟梁の交代で相対的に浮かび上がって来た親類衆から、出過ぎる事で叩かれるリスクを恐れた、故に真剣に勝頼を補佐しようという空気が感じられませんよね。 但し勝頼に問題なしとも言えません、先ずは優柔不断な性格ではありました、例えば信玄の時代に送られて来た織田の人質を安易に返してしまった点、これは大きな失敗でありましたね、その一事を以って信長は勝頼の弱気を察し、最終的に武田攻めを決意したようですから・・。 加えて比較の問題・・となれば当然信長 VS 勝頼、少しばかり酷な話です。 回答ありがとうございました。