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真田 信之 沼田城主?沼田城代?
真田昌幸は沼田城を奪取した後真田信之を沼田に入れます。 これが関ヶ原のおり独立勢力のように、父昌幸と対立して信之が家康につきます。 通常であれば沼田領はあくまで昌幸のもので信之は城代に過ぎず、城代を幸村に差し替えてしまい沼田城の勢力ももって家康に対抗しそうなものですが、いつのまに信之は沼田を掌握できていたのでしょうか?
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どこの大名でもそうですが、子どもには独立した家臣団を与えます。 有名どころでは武田家では、嫡男信義は80騎の武士団の頭であり、弟の勝頼は諏訪衆の頭でもある。 近世においても、各大名家でお家騒動が起こると、各々の家臣が対立し、場合によっては大名自身の指示に従わないこともままある。 沼田衆は信之に従っていますから、 >城代を幸村に差し替えてしまい沼田城の勢力ももって家康に対抗 実際にそれをやろうと開城させようと昌幸がやってきますが、講談などで有名な場面ですけど、留守を守る嫁の小松殿が緋色の甲冑に長刀姿で表れ 『我は伊豆之守の妻にて本多中務の娘であり、この城は我が夫(信之)のものなれば、主が留守の間はたとえ父子といえど誰も入れることは出来ません。力ずくでの所業とあれば一戦交えるも辞さない覚悟。』 と、舅を追い返す場面がありますが、真田家の当主である昌幸であっても開城できないということになり、信之の命令以外は利かないことになる。 つまり家臣は直属の将の指示に従い、旗色が悪くなれば裏切りもあるが、この時点では徳川家が敗戦したわけではないので、留守を守る信之の妻に従い、関ヶ原の結果でいよいよ危ないとなったら信之の妻子の首を差し出して逃げると言う事になる。
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- trajaa
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東西どちらの勢力が勝ちを収めても、真田の家名は残るようにと 長男が徳川方に付くことは最初から計算済みだった <-だから本多の娘だったか、家康の養女だったかを長男の嫁にしていた筈 だとすれば裏切った裏切られたではなく、端から長男付きの家臣団と自身の家臣団とで整然と切り分けた 弱小武士団の生き残り策として当然の措置
お礼
御回答ありがとうございました。
補足
御回答ありがとうございます。 強国武田家の80騎と真田昌幸にとっての沼田領(両国の4割?)では全然話が変わってくるように思うのですが。 御回答ありがとうございました。