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真田父子はなぜ上田城にとどまったのか…

関ヶ原の時真田昌幸と幸村親子が関ヶ原に布陣していれば情勢は変わっただろうし 小早川の裏切りも見抜けたと思います どうせ上田城は信之に任せるのだから明け渡して 関ヶ原に向かうべきだったと思うのです 秀忠軍3万8千を食い止めたのはすごいのですが それは大して戦局に影響はありませんでした… まぁだからこそ 15年後の九度山脱出~大阪夏の陣の家康殺害というかっこよすぎるストーリーが出来上がったと言われれば それまでなんですが…

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  • atcoffee
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回答No.1

>小早川の裏切りも見抜けたと思います なんでそんな事解るの? 判官びいきって言葉知ってますか? ただそれだけの武将で後の世にもてはやされただけですよ 昌幸や幸村は先見性のない所詮は無能な武将にすぎずそんな武将に何が解ったと言うんでしょうか? >どうせ上田城は信之に任せるのだから明け渡して 信之は昌幸や幸村と違って東軍派ですからね。 昌幸や幸村が城を出たらそれこそ上田は終わってしまいますよね。 家康の幾つかの軍勢が会津攻略からの関が原への出陣途中に上田を通過するのは素人でも解りきったこと。 それなのに関が原へ行けるはずが無いと思うんですが。如何でしょうか? >15年後の九度山脱出~大阪夏の陣の家康殺害というかっこよすぎる 果たして本当にそうなんでしょうか? 幸村の死体はどこへ行ったのでしょうか? ただ逃げただけなんじゃないですか? 後の物語を間に受けては行けませんよ。 新選組しかり 吉川英治の宮本武蔵しかり これらは一人の小説家が想像したものを元にしてさらに脚色したものです。 あなたの想像を膨らますのは良いですがあまり過度な期待はしない方が良いでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

分かりますよ 小早川の裏切りは西軍は見抜いてた ただ 裏切らないだろうと思い込んでただけ 信幸は東軍 もちろん知ってます 後に上田城をもらいますからね 真田家存続のために 昌幸は息子を東西に分けた それぐらい知ってるでしょ?笑 関ヶ原に行こうと思えば行けますよ 全然 幸村の死体?ちゃんとありますけどね 逃げようとして殺されたのは家康ですよ 笑 歴史のれの字も受け入れようとしないあなたは相当終わってますね 笑

その他の回答 (5)

回答No.6

真田が寡兵で徳川の大軍を食い止められたのは上田城あっての事です。 勘違いしちゃいけません。 篭城戦は篭城側に対して攻め手の数は最低6倍以上必要といわれます。 鉄砲が氾濫していたこの時期ではその比はさらに大きくなっていたことでしょう。 野戦になれば数の多い方が圧倒的に有利です。 それを覆しうる最高比もまた6倍といわれます。 たかが1千や2千の兵で3万以上の敵に挑むなどキチガイ沙汰です。 真田が篭城したのは全く正しい。 また、関ヶ原に2千の兵が加わったところで大勢に影響はありません。 むしろ、徳川の3万8千が加わる方がよほど困る。 第一、籠城に2千が精一杯の大名に、2千の遠征なんて出来るわけがない。 どれだけ費用がかかるか判って言ってますか。 真田が関ヶ原に赴かなかったのは全く正しい。 真田昌幸がどんなに智謀の主であろうと、小領主でしかない事実は覆しようがありません。 いくら裏切りを見抜けたとしても、それを汲み取れる核となる武将がいなければ無意味です。 もし三成に伝わったとしても、小大名の意見など取り上げられることはなかったでしょう。 これは大坂の陣でも再現されております。 つまり、至弱の真田は至強の中では機能しません。 上田で揺動に徹したのはまったくもって正しい。 以上、なぜに上田にとどまったかです。 PS:質問者は歴史に造形が深いと自負されているようですが、どうも物語や創作がごっちゃになっているようですね。 娯楽小説を間に受けず、もうすこし地に足のついた知識をもたれた方が良いのではないですか? それと、あなたの質問には既にあなたなりの答えが出来上がっているようですね。 そしてそれ以外の意見には傾ける耳を持っていない様に見えます。 ただ賛同を得たいがための質問なら、そのように書いておくことをお薦めします。 真剣に回答してくれた方々に失礼ですよ。

azuki-7
質問者

お礼

まぁ そう言わずに☆

  • izuhara
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回答No.5

昌幸・信繁が関ヶ原に向かうためには、中山道の東軍諸将の領地を通らなければなりません。その距離およそ300km。時速3kmでぶっ通しで歩いても8日以上かかります。籠城の兵力で2000といわれる軍勢が果たしてたどり着けるかどうか・・・。 そもそも昌幸は多くの家臣を養う大名家当主ですから、その基盤となる領地をほっといて、当時は主戦場になるかどうかもわからない関ヶ原に向かうなんて言い出したら、きっと家臣の猛反発(下手すれば反乱)を受けて西上どころではなくなるでしょう。 仮に関ヶ原合戦に参加したとしても、裏切るかどうかわからない小早川秀秋に対して、史実の西軍がした以上の対策はできなかったでしょう。もちろん、昌幸らの軍勢が関ヶ原に到着したとなれば、中山道制圧に割かれた徳川秀忠の3万8000の軍勢は無傷で関ヶ原に着けるでしょうから、昌幸の2000程度程度の参加に過ぎない西軍が余計不利になることは間違いありません。籠城ならともかく、野戦ですし。 昌幸を過大評価するのではなく、等身大の評価(死没前はひたすら赦免を望んでいたなどを考慮)をすべきでしょう。 大坂の陣での家康死亡は俗説ですね。確実な史料では全く見ることができません。

azuki-7
質問者

お礼

ん? 同じ文章?

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.4

昌幸・信繁が関ヶ原に向かうためには、中山道の東軍諸将の領地を通らなければなりません。その距離300km。時速3kmでぶっ通しで歩いても8日以上かかります。籠城の兵力で2000といわれる軍勢が果たしてたどり着けるかどうか・・・。 そもそも昌幸は多くの家臣を養う大名家当主ですから、その基盤となる領地をほっといて、当時は主戦場になるかどうかもわからない関ヶ原に向かうなんて言い出したら、きっと家臣の猛反発(下手すれば反乱)を受けて西上どころではなくなるでしょう。 仮に関ヶ原合戦に参加したとしても、裏切るかどうかわからない小早川秀秋に対して、史実の西軍がした以上の対策はできなかったでしょう。もちろん、昌幸らの軍勢が関ヶ原に到着したとなれば、中山道制圧に割かれた徳川秀忠の3万8000の軍勢は無傷で関ヶ原に着けるでしょうから、昌幸の2000程度程度の参加に過ぎない西軍が余計不利になることは間違いありません。籠城ならともかく、野戦ですし。 昌幸を過大評価するのではなく、等身大の評価(死没前はひたすら赦免を望んでいたなどを考慮)をすべきでしょう。 大坂の陣での家康死亡は俗説ですね。確実な史料では全く見ることができません。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.3

徳川軍主力3万8千が関ヶ原に居たら、関ヶ原で勝てるわけないでしょう。 真田昌幸は戦局において最高の働きをし、それにもかかわらず西軍は負けたんです。 大津の京極、田辺城の細川、もしこれらの兵がいれば吉川小早川は西軍についたかもしれず、逆に徳川本隊が関ヶ原についていたら、小早川も日和見など決め込まずもっと一方的な東軍の勝利に終わっていたでしょう。 主戦線から兵を引き離すこれらの籠城も、大事な役割だったんです。 また真田家の手勢はたかが知れています。 本拠地防衛だから農民兵を動員できるのであって、遠征したところでたいした戦力にはなりません。 それから途上の諸大名の動向を昌幸は把握していたんですか? もし途中で妨害する勢力がいたら、後ろから秀忠軍が追いついてあっという間に全滅させられますよ?

azuki-7
質問者

お礼

まぁ そうかもですね 一つの説として受け入れます ただ 真田は寡兵でも大軍を圧倒する戦いができた… という事実もあります まぁ 女子の戯言として聞き流してください

noname#204885
noname#204885
回答No.2

ある物語によれば、上杉・直江軍が関東に押し寄せる手筈になっており、その時には、秀忠の軍勢を上田城に釘付けさせた効果が生きてくる筈だった・・と言うことでしたが、これは後付けの創作っぽい気がします。 真田昌幸は石田三成を毛嫌いしていたようなので、その辺が理由なのではないでしょうか。もともと西軍に組みする気も無かったのでは。第二次上田合戦は、秀忠のぼけキャラもあって、どこかほのぼのしたムードが漂っており、悲愴感があまり無いですよね。

azuki-7
質問者

お礼

板ばさみか… 昌幸は三成が嫌いだが幸村は友人であり義理の親類でもあった… しかし幸村は三成より父に付く道を選んだ… やはり親子☆ 昌幸は秀吉から「表裏比興の者」と言われてましたからね… 幸村は秀吉を慕ってたみたいですが… 秀忠はボケすぎ 笑 小野次郎右衛門とか言う事聞かないで勝手に攻めちゃってたし どんだけ人徳ないのさって感じですね

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