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古典文法:格助詞「の」の識別の事例相談

○次の文<尼入道の・・・>の「の」について 格助詞の「の」と考えていますが・・・・。但し、用法の種類が「比喩・類似」(~ノヨウナ)なのか「「固有名詞を受けて下の語を限定する用法(~トイウ)」なのか迷うところです。その判断が正しいかどうかも含めて、その根拠を確認したいのです。よろしくお願いします。 <例文> 「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。」 (『一枚起請文』より)

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  • hakobulu
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回答No.4

#1です。 >ただ、説得力のある根拠・説明については、まだ不安があります。 : なるほど。 そのおっしゃっていることはよくわかります。 では、多少なりとも一助となり得るように願って、 「「固有名詞を受けて下の語を限定する用法(~トイウ)」 ではない、というに視点から述べてみたいと思います。 この場合の「限定する用法」というのは、たとえば、 「富士の山」「北海道の熊」などのような例が挙げられるでしょう。 ここで、 【「尼入道」とは固有名詞なのか?】 という関門がまず立ちはだかります。 個人的には否です。 しかし、仮に、そうではない(=「尼入道」は固有名詞)としましょう。 「の」は限定用法なので、 『尼入道は無智のともがら(無智の仲間)の一人である」 ということになります。 そうすると、 「尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせず」 は、 「尼入道という無智のともがらと同じであるように努めて、智者のふるまいをせず」 という文意になりますね。 ここで、 『「尼入道以外の無智のともがら」と同じではいけないのか』という疑問が生じます。 たとえば、『「尼入道以外の【○△】という名の無智のともがら」と同じではいけないのか』ということ。 答えは ノー でしょう。 「(誰をたとえに出しても良いが、)無智のともがらと同じであるように」振舞うことが大事だというのが、この文の本意です。 「誰彼ということではなくて、無智であること自体」が重要だと説いているわけです。 尼入道は、その一例として取り上げられているだけです。   

noname#221896
質問者

お礼

御返事が遅れ申し訳ありません。2回目以降の掲載が何故か遅れているようです。 「尼入道」は職業名(又は身分名)と思われますので、確かに固有名詞とは言えませんね。 大変参考になりました。有り難うございました。

その他の回答 (4)

回答No.5

#2&3です。 【根拠】について私なりに考えてみました。 それは古文の助詞の注意すべきポイントで、【格助詞】の 「の」 と 「が」の位置づけです。 ●尼入道の無智のともがらに  ●尼入道が無智のともがらに・・(この表現ではだめだった理由を考えてみました) 何故・・「が」ではいけなかったのでしょうか? 「の」と「が」はともに主格・連体格・準体助詞用法と共通の用法が多いです。 めだった違いといえば「の」には、この他に同格・比喩といった用法があることです。 しかし  ●もうひとつ「の」には重要な違いがあります。 それは、連体格・準体助詞用法の「の」「が」が、ある個人を表す語につく場合です。 ●「の」は自分より身分が上の人、関係の遠い人、官職名につき、 ●「が」は自分より身分が低い人、関係の近い人、個人名につく、からです 現代語では「私の」「私たちの」という言い方をしても、古典文では「わが」「われらが」と言い、「わの」「われらの」とは言わないのはここに起因しているからです。 【根拠】ですから 尼入道 と 無知のともがら  ●この両者の関係が遠い関係にあるから「の」を使用していると結論づけます。

noname#221896
質問者

お礼

御返事が遅れ申し訳ありません。2回目以降の掲載が何故か遅れているようです。 丁寧な説明をいただき感謝しております。

回答No.3

●<失礼しました> <例文> 「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。」 ______________________________________________________________________ ●「比喩・類似」(~ノヨウナ)なのか が「正しいと訂正します。」 南無阿弥陀仏と申せば、必ず浄土に迎えとられると確信して念仏をする人は、たとえお釈迦さまの説かれた教えをよく学びとっていたとしても、自分はその一文字も弁(わきま)えることができない愚かものと少しも変わりがないものであると、自らを卑下し ただ頭を丸めただけで、仏法について何も知らずに在俗の生活を送っている男女のような、無知のともがらと同じ身であると弁え、決して智者であると見せかけることなく、驕り高ぶりの心を捨て、ただひたすらに称名(しょうみょう)念仏を行ずべきである。 やっぱり 文脈の訳し方から判断して、格助詞の古文法=のは、比喩として約したほうが、文章の収まりがぴったし来るみたいです。 根拠は、信ぜん人は、、~とも/学んだとしても ~中途略~尼入道のような、無知のともがらに(と) 同じうして/ おなじであると弁え ~終段落へ向うと現代文に約するとなると考えました。

回答No.2

名詞を受けて下の語を限定する用法(~トイウ)」=若しくは「が」でないでしょうか? <尼入道の・・・>の「の」は格助詞ですけども・・・ ●下の句を活用形で結ぶときは、おおむね(連体形)で、結びますから、 <例文> 「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。」 <注釈> 念仏を将に信じた人は、譬え一生の間に釈迦の一代聖教の教えをすべて学ばなくても(途中略) 尼入道が(という)、無知のひと達と同じように、解ったような振る舞いはしないで、ひたすら念仏にはげみなさい。 ●得道したばかりの尼さんが・・無知のひと達とおなじであるように・・・ ●トイウ限定の意味になると思います。

noname#221896
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。 限定用法の根拠がないので、相変わらず困っています。また、「●下の句を活用形で結ぶときは、おおむね(連体形)で、結びますから、」という意味が限定用法とどんな関係があるのかがよくわかりません。

  • hakobulu
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回答No.1

「比喩・類似」(~ノヨウナ)でしょうね。 尼入道のような、ただ剃髪しただけで俗世間の人間と同じような生活をしている無智のともがらと同じだろ考えて、智者のようなふるまいをせず、ただ一向に念仏すべし。 という意味になると思います。 根拠と言えるほどのものではありませんが、この部分の要点は「無智のともがら」であって、「尼入道」はその一例として挙げられていると考えるのが文意からみて自然だからです。   

noname#221896
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。 確かに解釈すると、うまく繋がるように私も思います。ただ、説得力のある根拠・説明については、まだ不安があります。

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