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教育格差とその再生産問題

教育格差とその再生産問題(親の所得と願望で子どもの学力が決まってきているという統計が取れたとの研究)に興味があります。平等な競争が出来ていない、競争の以前に機会の不平等が問題であるということが言われているのをよく見受けますが、そもそもこの現状の何が問題なのかということがいまいち理解出来ません。出来れば哲学的な視座からこの問題について考えたいと思っているのですが、何か助言を頂けると大変助かります。

みんなの回答

noname#145704
noname#145704
回答No.8

簡単に言えば、大学まではあらゆる手を駆使すれば日本に住む多くの人が行けるかもしれないが、お金持ちの家庭の子供の方が東大をはじめとする上位大学に入りやすく、貧しい家庭の子供の方が大学に進学しても底辺大学にしか入れない、ということだと思います。 上位大学の方がキャリア組になり(給与が高い側)、底辺大学の方が使われる側(給与が安い側)になるわけですが、こうなってくると、親の格差がそのまま、子供に引き継がれることになります。あまりにその格差が開いてしまうと、あたかも、身分制のようになってしまいます。公平な競争であるはずなのに、公平になっていないのが問題です。 無論、大学に落ちる理由は、有体に言って、様々です。当人が怠け者であったとか、風邪を引いたとか、試験の山が外れたとか、いろいろあるでしょう。また逆に、合格者にも、お金のない家の子供がいることでしょう。だから、お金がない家に生まれたことが全ての要因ではありません。ペーパーに正しい答えを書けばよいという意味で、公平性は保たれているわけです。しかし、考えてみてください。進学塾に通い、家庭教師に支えられている方が、それは、能力的にも高くなるでしょう。お金もちの家の子供同士は公平に競争しているかもしれないが、お金のない家の子供は、そもそも、競争にさえなっていないのです。 いや、私は独学だったという方もいるかもしれません。独学と言っても、勉学に敬意が払われる環境で、県立図書館など大きな図書館に通い、静かに、心行くまで勉強できるなら、それは貧しい家でも、関係ないかもしれません。独学の方が、天才が多そうなものです。が、これを想像される方は、夢物語を念頭に置き、現実問題が全くわかってらっしゃらないと言わざるを得ないのです。つまり貧しい家庭であるということは、家計を支えるためにバイトをしなければならないとか、親兄弟が勉強をすることを快く思っていないとか、環境が勉強させないようにしてくるわけです。勉強する場所も、時間もとれません。 奨学金があるじゃないか?という人もいるかもしれません。しかし、それが採れるのは上位校だけです。開成高校の生徒が奨学金を申請して落ちることはまずありません。しかし、偏差値30くらいの高校の生徒に、奨学金が支給されることは、稀です。しかも奨学金を貰ったらもらったで、これで家族を養っている可能性まであるのですから、奨学金があるから勉強に専念できるということはありません。こんな不利な状況を子供が跳ね返して東大に入学したら、それは見事でしょうが、普通は環境に潰されてしまいます。 なるほど、現実問題、完全に公平な競争などは不可能なのです。しかし、格差を是正することは、常に考えなければなりません。質問者の方は、哲学的に考えてみたいとおっしゃいますね。それは目の付けどころが鋭いと思います。教育格差の原因が貧困であるというのなら、逆に言えば、貧困が解消されれば、教育格差も解消されるであろうと言えます。実際、それはそうでしょう。というのも、単に教育の質の問題なら、現場の教師が頑張ればいかもしれませんが、その程度ではどうにもならず、子供が勉強できる環境になるように根本から改善を図らないとならないと考えられるのです。勉強しろ!と言ったにせよ、生徒が家計を支えるためにバイトしているなら、叱咤激励するだけ罪な話です。さりとて、高校教師が生徒の家計を支えるわけにはいきません(大学院なら、指導教官が院生の生活費を面倒見たりすることはありますが……)。 では、どうすれば、貧困から子供が抜け出せるシステムが作れるのか。そのためには貧困というものの特質を知らなければなりません。貧困というものは、様々な統計から浮かび上がるものですが、データを総合して、一つの特性を導かなければなりません。そういうことができる学問は哲学です。さて、話を端折りますが、哲学的分析の下支えの下に生まれた概念として注目されるのが、フランスやイギリスで盛んに言われるようになった、社会的排除 /包摂の考えです。この点は質問の趣旨から少し逸脱するし、また質問者の方のご関心も分からないので、「社会的排除」でネット検索して論文でも見つけてくださいということにしますが(すぐに見つかります)、貧困は、当人の努力だけで容易に抜け出せないという考え方が基本にあります。

  • kaxuma119
  • ベストアンサー率29% (108/363)
回答No.7

この問題を考えるにあたり、まず、何をもって教育格差と呼んでいるかをはっきりさせておく必要があるでしょう。 教育の成果は対象者に社会性や協調性を身につけさせたり、リーダーシップを育んだりすることも含まれますが、そもそもの目的は学力を身につけさせることです。教育格差とは学力の身のつき方に差があることを意味します。そしてご要望の哲学用語的に言えば学力とは「自明の知識体系の再現力」です。分かりやすく言えば「答えが分かっている問題に早く正確に答える能力」でしょう。学力の評価方法、つまり試験を考えれば自明です。この能力は、もともとの素質にも依存しますが、かなりの部分は訓練により習得されます。 日本では小中学校は義務教育です。これらの学校教育は、子どもらに同等の教育プロセスをくぐらせるだけのものであり、学力が身につくかどうかは子どもしだいになっています。むろん、子どもが本来持つ能力の差はありますが、学力を身につけることに注意を払う家庭の子どもは、そうでない環境にいる子どもより、家庭で、あるいは家庭が外部委託する訓練機関(学習塾など)で、問題に早く正確に答える能力をより高いレベルまで磨いてもらえます。結果として、国が行う教育は同等であっても、家庭環境が子どもが身につける学力に大きな影響を与えることになります。 学力を身につけその恩恵を知っている者は、自分の子どもにも同様のあるいはそれ以上の教育環境を与えます。他方、学力があまり身につかなかった者は、その恩恵が理解できないので、自分の子どもの学力獲得にはさほど熱意がないことが多くなります。この結果、学力は世代を超えて引き継がれることになり、家庭の社会格差が固定的になる傾向が出てきます。 「平等な競争が出来ていない、競争の以前に機会の不平等が問題である」というのは、今の公教育システムは、学校という入れ物の中で子どもらに同じ授業を体験させるだけの仕組みであり、授業内容を吸収し身につけることは子どもと家庭まかせであることから、一人一人の子どもにとっては平等な競争が出来ていない、競争の以前に機会の不平等という主張です。 ただ、私はこの見解には同意しません。というのも、子どもに本物の学習意欲があるなら公教育の中だけでもそれなりに学力は身につきますし、親の理解が乏しくとも、奨学金を得て、高度な教育を受けることはできるのが今の日本です。現実的に、家庭環境まで含めて平等な社会なぞ望ほうが無理です。社会格差が歴然とあることを認めて、その階段を自らの努力で登って行こうとする者がどんどん出てくる、それを支援する社会システムがあることが、活力ある社会をつくるというのが、私の持論です。

  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.6

現代の日本において、真の意味での教育格差は存在しません。 孤児でも義務教育は受けられます。 奨学金制度を使えば、高校も大学も進学可能です。 もちろん、頭脳優秀な子供が努力すれば、東大だって入れます。 「哲学的な視座」というのは難しいですが、統計から格差を算出する場合、 「個人の努力」という尺度を入れるのは難易です。 「もの凄い努力」といっても、たかが数日眠らなかっただけでもそう感じる人はいます。 たかが数年、遊びも恋愛もTV観賞もせずに勉強したぐらいで、「もの凄い努力」と称する人もいます。 格差を語る場合、数値に出来ない「努力」と、やはり数値に出来ない「生まれ持った気質と頭脳」は無視されます。 つまり、「馬鹿が大した努力もしないで金持ちになりやがる!」というヒガミでしかないからです。 私的には、格差の問題など存在しない、と感じますよ。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

鳩山兄弟は、両方とも東大出ですね。 親の収入と、学歴は関連性があることが判っています。 そして学歴と生涯年収とは関係しています。 大卒と高卒とでは、大きな開きがあります。 それで何が問題か、というと。 1,理念から。 結果の平等を図るのは、社会主義みたいになって 好ましくないが、機会の平等を保障しないのは 正義に反する。不公平だ。    2,実際の弊害から。 かかる不平等が蔓延したのでは、社会のバイタリテイ が失われてしまう。 これは社会主義国が崩壊し、新自由主義的傾向が強くなったことの 一環です。 つまり、新自由主義の弊害の一環でもあります。 放送大学で今やっている「格差社会と新自由主義」 てのが参考になると思います。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.4

そのような事態を問題視するというより、まず社会学ないし社会科学的に、要素データを抽出して構造分析を試みたという点が重要だろうと思います。 日本は資本経済によって体制を整えている国家ですから、国民の家庭生活を相対的な指数に換えて把握するにあたって、所得額がひとつのバロメータになりえます。この指数をさまざまな市場に照らし合わせ、各市場の流動性を分析しさらに予測することができるでしょう。また、労働や人材育成における現場の創出や環境整備において、国民生活の傾向的な表れや社会の望む形を反映させ、生活指数と現場との間にズレが生じないことが求められているといえます。 そこで、ご質問の分析結果をフィードバックするのは、1つには教育産業市場、もう1つには教育現場ということになります。つまりそれらにとって役に立つ以外の意味がないと思われます。 公教育の体制を決定づけていく要因、方針をつけていく動機は、即そのまま社会の軸芯と重なるはずです。親の収入が高いと子供の教育が高くなるという傾向は、明治以降のエリート養成意識による学校制度の産物でしょう。まさに誰にでも門戸が開かれている養成所をくぐり抜ければ晴れてエリートになりうる、という仕組みが招いた結果だと思います。江戸時代までの日本では、見抜く目を持った人々が優れた人材を取り立てるという仕組みが底辺から上層まで機能しており、曖昧かつアナログ的に、何人にも渉る監視のもとに1人の人間が練られたといえます。明治以降は集団養成教育です。つまり社会制度の違いが教育制度の違いとなっていること、そして社会構造が機会差を生んでいることは明らかです。そうした現状分析は、社会の構造分析にほかならないでしょう。

回答No.3

哲学的に考えると、教育を受けない自由というものも考えなくてはなりません。 教育を受ける権利、すなわち年齢や、親の収入にあまり影響されずに好きな時に好きな教育を受けることができる制度をととのえ、その制度を周知しておく必要があるとおもいますが、そのうえで、教育を受けたくない人、教育を受けさせたくない人などの自由を保障すれば、自然と教育の格差が生じ、再生産もされてゆくと思います。 日本では、義務教育を受けさせたくない親の権利が認められていないですね。富国強兵そして軍国主義の時代の名残でしょうか。

  • bara2001
  • ベストアンサー率30% (647/2111)
回答No.2

親の格差はありますが、教育格差というものはどう定義するのでしょうか? 親の熱意は親の格差と言えますが、所得格差はほとんど教育には影響しないと考えます。 その親の熱意ですら、親は良かれと思ってやっていることにもかかわらず、実はそれで子供を潰している例をいくらでも見ています。 昨年のニュースですが、東大生の親の年収を調査した結果、リーマンショック前には世帯収入が年収450万円未満の学生が9.3%だったのが、ショック後は17.6パーセントとほぼ倍増しています。 たしかにその一方で年収950万円超の学生は51パーセントいることも事実ですが。 これをみれば、お金があったから東大に行けた、と単純には言えないと思います。 実際、私は田舎の公立中学、公立高校から一浪して東京大学に進学しましたが、塾に通ったのは浪人中の1年間だけです。特別にお金を使ったのはその時だけです。 両親からちゃんと躾を受けていれば、自分で勝手に勉強します。これは親の格差といえるでしょう。 浪人中はさすがに勉強の仕上げとしてテクニック的なものを学ぶために塾に通いました。 両親は一応大学を出ていますが、ネットでよく言われるFランクの大学です。 ものごとをきちんと考えることができるという意味では頭の良い両親でしたが、もっている知識は正直なところお粗末なものでした。 きちんとした教育理念を持てる親(世間一般で言うような教育ママなどではなく)であれば、普段の生活もきちんとしているでしょうし、それであればそれなりの収入を得て当たり前です。 あと、地域格差はあるでしょう。 首都圏で働けば、物価が高い代わりに給料も高くなります。 田舎では物価が安い代わりに給料も安くなります。 東大生の親はやはり首都圏在住が多いですから、その分平均年収を押し上げます。 機会の平等・不平等などということをいいはじめたら、生まれた赤ん坊を全部一か所に集めて小さい頃から同じように育てるしかありませんが、それは不可能なことです。 私の感想として、教育格差というのはただの幻想。 金さえ払えば教育ができると思っているダメ親が、思うような結果が出ないことを僻んで、自分を納得させる理由を探しているだけです。 親の格差は教育に影響を及ぼすが、所得格差はよほどの極貧でない限り教育とはほぼ無関係、と考えます。

回答No.1

まず教育以前に、十分に社会性の発達した組織において、 ある個人だけの独占的利益は、全体の個人消費の抑圧に つながる社会悪である、という本質がある。 あらゆる個人の利益の増進は、社会全体の順調な運営の 上に成るのだ。 たとえば税金は、決して政府の運営資金としてではなく、 累進税率による徴税と社会保障によって富の再配分をし、 社会の需給をつなぐ血流である貨幣が、一ヶ所に死蔵され ることを阻止する機能がある。 教育や医療においても同様だ。 僕が暮らしたケニアもブータンもソロモン諸島国も、どこも 発展途上国であるが、教育費も医療費もタダだった。 もちろんその結果として、病院は慢性的な薬剤不足だし、 学校は教室不足で1教室を2クラスで使ったりしていた (午前と午後で別のクラスが使う)。 それは初等教育だけでなく、大学に到っては手当てが出る 学校もあった。 優秀な人材が高等教育を受けて、その能力を発揮する事は、 国家=全ての人の福利につながるからだ。 ひるがえって、日本のように繁栄ボケし、『金持ちをもっと リッチにすれば、貧乏人は憧れて必死に働くだろう』という 拝金主義的な政府の愚考が、累進税率の所得税や法人税の 減税と抱き合わせの均等税率の消費税導入~増税(あるいは 健康保険や年金といった社会保障の裨益者負担増)という 貧富の格差を生み、日本人のアドバンテージだった個人の 意識の社会性の喪失、精神的荒廃を招いてしまった。 その一環として、高度成長による社会コミュニティの希薄化や 核家族化による家庭教育の崩壊は、学校教育への過度の 依存~塾への依存を招き、教育の機会均等という何よりも 大事な社会的資産を失った。