わたしも、「ゆとり教育」なるものに大きな疑問を持つ一人ですが、そんな言葉が生まれてきたことについての理解は、しているつもりですので…。
教育とはもともと、その時代その時代に国が求める人間を育てるものであると言っても過言ではありません。特に「公教育」と呼ばれるものは。
戦時中の「国のために命を捧げましょう」などという教育が、その顕著な例でしょう。
戦後の日本は確かに、教育レベルの高さと勤勉さで、経済成長を支えてきました。
しかし、そこには、現在と全く違った社会背景があったとは思いませんか。
敗戦後の「経済復興」、それを支えるための「科学技術の進歩」この大きな国家課題が、教育に与えられました。
そして、これが成し遂げられた最も大きな要因の一つ目は、
その教育を受ける国民の願いも、同じだったという点です。
つまり、「貧しさからの脱却」です。
もう一つは「困難に立ち向かえる精神力」という点です。
食料さえも満足になく、兄弟の数は多く、父母は働きづめ、そんな環境で育った、当時の子どもたちの精神力と、物がゆたかで兄弟も少なく大人がいつでも甘やかしてくれる、という環境で育った今の子どもとの精神力は、比較にならないものでし
ょう。
つまり、何事においても努力したり、わがままを我慢したり、
たとえ、高等教育を受けなくても生活のために一生懸命働く、
そんな時代にはできた教育が、今の時代にはできないのです。
「すぐあきらめる」「努力しない」
そんな子どもたちに対して、親の方も豊かな生活を送っているので、危機感を持ちません。ましてや、今の状況を続けていったら、日本がどうなるかなどと言うことも、平和ボケしている日本人の大多数は(もちろん全てではないです)…。
そして、生まれたのが今回の、教育改革という名の下での「ゆとり教育」。
これは、これまでの緩やかな流れとしての「学校にゆとりを」といったものとは、大きく違うものだと、私は捉えています。
2002年からの「ゆとり教育」それは、学習内容の削減、という国際社会に逆行した取り組みなのです。
こうまでしないと、「勉強はいやだ」「学校に行きたくない」などと甘ったれている今の子どもたちには、勉強してもらえないというのがその導入の理由です。
また、今は経済成長よりも、「少子・高齢化」「環境問題」「国際問題」などの「問題解決力」の育成を国が求め、「総合的な学習」が導入されるというのももう一つの側面です。自分で社会の問題点に気づき、解決するような人間を育てたい、というねらいうです。
というように、わたしは、学力の低下や青少年の問題行動の原因は、「教育」のみにあるのではなく、このような教育をしなければならない国全体の変化、社会の変化、人の変化にあると思っています。
今、国が「こんな国にしましょう」といって、
それに耳を傾け心から努力する人間は、どれだけいますか?
また、誰もが納得できる教育改革を行うことのできる政治家がいますか?
わたしは、今の子どもたちが、または、将来の日本がどうなっていくのか、本当に心配です。ぜひ、ご意見を伺いたいと思います。
補足
やらないからレベルを下げるというのはどうなんでしょう。 やる気のある子の権利を侵害していると思うのですが。 とにかく、ゆとり教育は即刻撤回されるべきだと思います。