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悟りと気づきは違うのですか
仏教(特に禅)では悟りということをいいますが、日常生活であることに気付いた場合は悟りとは言わないのでしょうか。その区別はどこでつけるのでしょうか。宗教的な気づきを悟りというというようなことでは納得いきません。
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悟りと気づきは違うのですか ○ 同じものですよ。 「悟り(小悟)=気づき」ですね。「気づき」より「悟り」のほうがなんとなくカッコがよいからそのように漢文系の当て字を使っているだけです。 これは、認識力の向上の過程を表現している言葉ですね。日常のことでも非日常のことでも気づいて腑に落ちれば認識力が向上しますね。それは個人にとっての悟り、小悟でもあるのですね。 「気づき」を積み重ねてより大きな認識力を持った状態を「大悟」といいます。 認識力には制限はありませんから、目に見える世界の認識も目に見えない世界の認識、さらに地球という枠を超えた認識もあるわけですね。でも全てが小さな気づきから始まるのですね。 悟ったら何もなくなるというのは悩乱したものの悟り?ですから、気に留める必要はありませんよ。 簡単に、気づきの積み重ねを悟りと言っていると考えて間違いありませんからね。
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気づき、は自分の一部が増えるようなものではないでしょうか。 悟り、は自分が小さな塵になってしまうようなものかもしれません。 知覚の度合いが、気づきの場合は少し増えたとか、変化するといった事に伴うものだと思います。 悟りの場合は、急激なインフレーション、爆発のようなものかもしれません。 知覚の度合いの変化が、自身の精神的制御の範囲から一歩踏み出したものが気づきなのでしょう。 知覚の度合いの漸進的変化に伴ったものでしょう。 悟りの場合は、何らかのきっかけにより急激な変化がもたらされたものと思われます。 禅の見性の一例を上げてみます。 ある程度修行を積んだ僧が、調理のために竈で火を焚いていたそうです。 燃やしていた薪の火がぱちぱちと跳ねて、その跳ねた火の一つが目の前をふわっと飛んで消えていったそうです。 小さく赤い火が目の前を飛んで消えていった、その時に見性したという事でした。 そこに何を見たのかは本人のみぞ知る世界なのでしょうが ごくごく短い時間のうちに精神を一変させる体験を得たようです。 漸進的にではない、急激に訪れる知覚の変化とその内容が悟りなのでしょう。 その内容は、(軽く)分かった、というようなものではない気がします。 気づく、という自我中心の認識回路の崩壊かもしれません。 そう考えると・・・悟りとは素晴らしいもの・・・というよりは、空恐ろしいものかもしれませんね。 人間が人間でなくなるというような・・・感じが・・・して 下手な感想でした、ご参考まで。
お礼
ありがとうございました。悟りは爆発だ!とすると悟りは芸術に通ずるところがあるのかもしれませんね。
- tumaritou1
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気付きは、気が付くという意味です。ある事が分かるという意味です。悟りとは『分かる事と分らない事が分かる。』と言う意味があります。 原因があって結果がある訳ですが、『全体像が把握できる事』を意味します。その場合の事を『不昧因果』と表現しています。 悟ると言う場合『判る内容は』自分の心が自我意識の他に『もう一つの意識』との共同作業で成り立っている事が分かる、と言う意味になります。この場合には『自分自身が分る』=『見性』と言う表現方法になります。この意味は『自分の性が分かる』と言う意味です。 詳しく具体的に書くなら、心(意識)が発生する瞬間に『出会う事(立ち会う事)』を意味します。人間は普通の場合『自我意識のみで』生きていて、自我意識のみが身体と心を操作していると思っています。 この考え方が変わる事を『悟る』と表現しています。この意味は『意識の根底では、二つの意識が全ての物事を、二人で相談しながら、どちらの意識の出番かを、相談しながら、決めていると言う意味です』 この二つの意識が仲違いしたり、矛盾を起したり、対立したり、分裂する事を『心の矛盾』と表現出来ます。それは自分の心が、仲違いしたり、矛盾を起したり、対立したり、分裂する事を意味します。 この事を示す良い例が在ります。一つは精神病です。是は二つの意識が、『対立して、分裂をして、決裂している事』を意味します。 一つは神経症です、二つの意識が、矛盾を起していて、なかなかその交替制が出来ないでいる例です。 一つは自律神経失調症や心身症と言う場合です。 今挙げた三つの例は、もう一つの意識の機能的な事を『自我意識が分らないでいる事』=『無明』と云う事が原因で引き起こされています。人間の精神作用や、脳の機能の詳細側から無い事によっています。 例えば今の精神科医達は、心を病む場合『早期発見で早めに治療をするなら、早く良くなります。』と言う表現方法を取っていますが、その原因を特定出来ていません。原因が分らないにも拘らず『治る事、或は治す事ができる』と云う事を言っています。 ですが『薬漬け』にするばかりで、完治しない場合が多いようです。もし治ったとした場合も『寛解』を限度としています。その寛解という意味は『何時再発するか分からないですから、気を付けてください』と言う意味です。 治る事の本質と、治す事の本質を理解で来ていない事から、そういう表現方法になっています。今の三つの例においてその原因が分らない事に原因が在ります。 そこで科学的に研究された文献で悟る事を説明します。是は人間の脳内には二つの意識が存在している事を科学が証明している例です。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” もう一つの意識とは『右脳の意識』です。この意識は『命そのものを働かせている意識』です。命が芽生えた瞬間から働いている意識です。細胞分裂する事さえ初めから知っていた『意識』です。 生まれた瞬間には、笑う事も、安心する事も、不安と云う事も、恐怖する事も全て備わっている働きそのものとして働いている意識(人格)です。 命の営みに関して『身体も心も』実質的に支配しています。危険が迫った場合には『自我意識が知らないうちに』身体も心も支配して危険から身を守っています。この場合を『火事場のくそ力』と言ったり『思わずに手や足が出る。』と表現します。すなわち「自我意識が関与しない内に事が済んでしまう場合です。」そうした場合には『憶えていない事』が多くあります。 例えば眠る場合でも云えます。普通の人は『自我意識が眠っている』と思っていますが、是は大いなる誤りです、自我意識は眠っていません、只『無意識の自分と交替しているだけです』 心地良い眠りに入る場合、自然と『意識はなくなってゆきます』そうして、無意識の自分に心と身体を『安心して預けています』そうして、心と身体を預けられた『命の働き=無意識の意識』が心と身体を深い眠りに入らせています。 従って心を病むと言う場合には、無意識の自分を疑ったり、仲違いしているために、『無意識の自分と交替でき難くなっています。』その場合『無意識になる事を恐れていて』『意識を凝らして眠りに入ろうと努力しています』結果的に、心地良い眠りからは遠ざかっています。 悩みや苦しむという場合には、心が争う事を意味します。その意味は『抱え込んだ問題をどちらの脳に振り向ければよいのかの選択肢を、選ぶ事が出来ない事』を意味します。 左脳の自我意識は『有限の事が専門の機能から成り立っています。』言葉に代表されるように、物事を分析して、事細かに理窟立てて判断します。コンピュータと同じ機能です。一つでも不確定要素が在るなら『答は出せなくなってしまう機能から成り立っている。』と言う限界が在ります。 右脳の機能は、身体を全て取り仕切っています。発汗から呼吸からホルモンの調節から、兎に角生命活動全てです。そうして言葉では表現出来ないという機能です。言葉のない世界で出来ています。心(自我意識)とは脳梁を介して常に情報交換しています。 その情報を『自我意識』が受取ろうとしない場合が『心の矛盾』と云う事になります。脳梁から来る情報は『言葉によらない情報』です。分別脳である自我意識が、その情報を如何いう風に解読するのかで『全く違う情報として処理される事も在ります』 この場合に先に書いた例が生じ始めます。 右脳の意識には『始まりと終わりが』ありません、言葉を替えて表現するなら『永遠の存在』です。物事を分別しない機能とは、無限と言う意味が在ります。 人間が死に直面した場合に苦しい思いがするのは『有限の自我意識』VS『永遠の命』の矛盾と対立を『心が感じている為です。 禅問答は『言葉を持っていない意識、右脳が書かせた言葉』です。分別脳の機能では解けません。ですが自我意識には出来ないと『観念した場合』右脳の意識が出てきて『全ての問題を解決してくれます。』 是が『悟り』です。 苦しんでいる自我意識が、自分には出来ないと判断して諦めた時(大死一番)右脳の意識が自我意識の前に現れてその問題を解いてくれます。それは『意識の根底での事です』 人間の深刻な悩みとは『意識の根底で』悩んでいる事を意味します。意識の根底とは『二つの意識が出たり入ったりするところです』思う時全て『苦悩に包まれています』この現象を『一切皆苦』と言います。 自分を悩ませていた者が誰であったかを『意識の根底から分かる事』を悟ると表現しています。 それ以後『心の対立は解消されてしまいます。』つまり心の矛盾が解消されると言う意味です。心が限り無く静かになります。この静かになって静寂を取り戻した心境を『涅槃』と表現しています。 この実例を次のユウチューブで見て、目で確認して下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
お礼
ありがとうございました。脳科学の観点からでも説明できるのですね。
- miko-desi
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悟りとは、義務という概念が消えうせた状態です。 これは確信とか使命感と呼びます。 気付きは思い出すこと。 悟りも気付きに何ら意味や価値がなくても、 納得を生むもの、つまり納得そのものです。
お礼
ありがとうございました。使命ということに関係づけてきましたね。使命も興味ある命題です。人は使命感を持って生まれてきたのでしょうかね。自分の使命に気付いた時が悟りといえるのかもしれない。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
悟ってないので回答にはなりませんが…。 普遍度の違いではないでしょうか。 日常生活であることに気づいたり、宗教的な何かに気づくことは、そのことに気づいたというレベルなんだろうと思います。 その気づきが、自分の中で普遍化され、ものごとのありようというか、他とのつながりがすっきり見えた状態が悟りに近づいていくことなのかなと思います。 例えていえば、霧の中でも、しゃがめば足元が見えて、生えている草や虫を見つけることは出来ます。 それが気づきだとすれば、悟りというのは霧が晴れてすっかり見渡せた中で足元の草や虫にも気づくということだろうと思います。 気づきと悟りの境界線があるわけではないと思います。 もちろん、気づきの積み重ねだけではなく、飛躍というようなことはあるでしょうが、「これが悟りです。」と立ち止まったら、そこで悟りは消えると思います。
お礼
ありがとうございます。悟りというのは吾というのがついていることから、自分の本質に気付くことかもしれないと思いました。悟るということを禅宗ではよくいいますがキリスト教ではあまり使わない気がします。自分を凝視する方法が異なるのかもしれません。
悟りは覚め(冷め)を伴う気づきで、心を冷まし静かなまま保つという働きがあり、 気づきは心が静かでなく少しは心動いて、さらに気づこうとしたり知ろうともしたり、気づきを嬉しく感じたり 悟りは何からも遠のいて、静かな心を保つために、気づこうともせず知ろうともせず、言葉や考えごとを止め、喜びを得ようともしません 気づくことは悟ることと比べ、より限られたところのみへも心が向いていて、 悟りは自らをふくむ全ての物事から等しく間を設ける働きであって、とりわけ何らをも重んじないことにより心の偏りを免れ、まなざしから熱をとり、気づきを悟りの下に置いて見ることもなく、いくつかのものについてはそれらを比べあうことから足を洗い 気づきには悟りにはない熱い心が含まれることがあり、冷やすの逆で世のものごとをより騒がしいものとみなしたり、考えや言葉や比べる気持ちが活き活きとしたままだったり 気づくことによってものごとへの心やまなざしに熱がますますこもったり、悟りのない気づきであれば、自らをとりわけ重んじようとしたままで、他の人の幸せや優れたところに気づいたらすぐ妬みや怒りを帯びたり、おののきすぎたり、萎えるより強い否みの気持ちにおそわれたり、うまくいかないと滅入り 悟りをひらかないままだと、これから先の仕事がないというだけで、ゴミよりもつまらない重苦しいこの身と感じ、雨の降る休みの日にひねもす寝つづけることにもなり、ふと世の中にはパートバンクなるものがあると気づくと、それにたやすくすがりついて、これできっと私は救われうるだろうような気持ちに陥ります
お礼
ありがとうございます。悟りは気づきの一種、気づきは悟りの一種かも知れず、つながっているのかもしれませんね。こういう些細な気づきを重ねながらある日、悟った!と言えればいいのですが。
人間の認識の根底を成すのは、 我(自分)と言う思い込みなのですが、 これが本来は無いものだ(無我)と悟ると、 認識の最も奥深い部分が変化してしまいます。 でも、知的理解や、ただの気づきには、 そこまでの変化は期待できませんし、 自分では変化したと思っても、 時間が立つと元の認識に戻ってしまう事も多い様です。 気づきも、悟りも、閃くという点では一緒ですが、 知的理解の範疇に収まる閃きを気付きと言い、 知性を超越した閃きを悟りと言っている様です。
お礼
ありがとうございました。悟の一部を形成している吾がヒントかもしれないと思っていたので、自分は本来ないものだと気づいた時が悟りだというのは共感できます。若いころは我が我がと言って我を主張していましたが、だんだんそれも少なくなってきたので悟りに近づいているのかなとも思います。自我は宇宙意識の一部だと本心から感じた境地が悟りの境地というものかなと思います。
- ota58
- ベストアンサー率27% (219/796)
悟りとは相手の承認が必要です。 相手とは仏または仏の使いです。
お礼
ありがとうございます。禅問答でも答えかた(又は答えの内容)によって悟ったとか、まだ悟っていないとかいうようです。仏とか仏の使いというのは悟っている人のことですね。自分で悟ったと思ってもそれは悟りではないということですか。そうなると、悟りを得たとは「免許皆伝」を授かったようなものですね。
- MOG56222
- ベストアンサー率12% (6/50)
ちょうど調べた結果が関連するので回答します。 仏教でいう悟るは涅槃、無常、皆苦、無我を体験することで、気づくは念つまりサティのことです。禅でいう悟りは上記4つもしくは閃きを指しています。 いずれにしろ、最上位の悟りは涅槃であり、それは体験するものであり、気づくものではないといえるでしょう。
- yoshi20a
- ベストアンサー率20% (470/2291)
「悟る」は、物事の本質を理解することで、仏教上の悟りは、”無”になることだったかと思います。 日常生活で使ってかまわないと思います。 「死期を悟る」と言いますが、「死期に気づく」とは言いませんよね? 「悟る/覚る」は、運命的なもの、隠されていたものなどに使う場合が多いですね。
お礼
ありがとうございました。無になるとは無我の境地になるということでしょうか。無我を知識で理解しても体で納得していない場合は悟りではないのでしょうね。「覚る」ということばも引用されていますが、日本語では同じ「さとる」ですが、これをもじって「差取る」といって、すべてのものの差を取る、すなわち相対を超越して絶対に気付くことが悟りだといっていた人がいたことを思い出しました。
- DJ-Potato
- ベストアンサー率36% (692/1917)
宗教は山登りに例えることが多いですが、それにならえば 悟りは、登頂です。 気づきは、登山道の確認・認識です。 気づきを繰り返し、徐々に登っていき、悟りに達するのです。 そして、悟りに達したら、自分が登った山は富士山ではなく双子山だと気づいて、また登山が続くのです。 悟りは、「ぜ~んぶわかっちゃったぁ~」の状態です。 カレーは、 玉ねぎをアメ色になるまで炒めると美味しい、とか ガラムマサラをちょっと入れると美味しい、とか 気づきを繰り返し繰り返し、最後に 「美味しいカレーの作り方」という悟りに達するのです。 でも、悟ったつもりでも、ある日汚い定食屋で食べたカレーが泣くほど美味しくて、 自分の悟りなんてまだまだ気づきでしかなかった、とまた修行の道が始まるのです。
お礼
ありがとうございました。山登りのたとえはわかりやすいですね。つまり気づきは断片的なもので、悟りは総合的、包括的なものということですね。確かに、あるささいなことがきっかけで一瞬にしてすべてがわかってしまったということはありますね。
お礼
とてもすっきりとした回答をありがとうございました。