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般若心経における悟りとは何でしょう

私は無宗教ですが、般若心経について少し興味があるので教えてください。 「悟りとか煩悩の克服にこだわると悟れない」とあるサイトに書いてありました。経を唱えるとか、写経とか、修行とか座禅などは悟りの境地に近づくためにするもの、つまりこだわっているものだと思っていたのですが、このへんがよく理解できません。 また、「悟りを得るための仏教の教義にこだわることも間違い」という説明もありました。仏教の教えを守ろうとすることも間違いという意味なのでしょうか? 「一切のこだわりがない状態が良い」というのが教えだとしたら、般若心経の教えを理解しようとする気持ちもない状態が良いということになるのでしょうか。また、仏様を崇拝する気持ちもない方がよいということなのでしょうか。

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  • les-min
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回答No.6

#5です。  お礼有り難うございました。  コメントの件ですが、「真理を体得した人」をお探しになろうとすると、怪しげな新興宗教にでもひっかかりそうで危なかしいような気がしますが・・・  お寺さんと接する機会の多い仕事をしていますが、お寺さんにもいろんな方がおられますからね。地方の一寺院の住職さんで終わるにはなんとも惜しいなーという方もおられるのは確かですが、「真理を体得した人」というような意味合いとははずれますし・・・(たいていのお寺さんは、お話ししていて楽しいし、接していて勉強にはなりますが・・・仏陀のような方には、残念ながらお出会いしたことないです。)  日本の場合、高名なお寺さんであっても、どうしても「宗派」の枠内での話しになってしまいますね。もちろん宗旨が違っても、それぞれが悟りに至る道筋であることに変わりはないのでしょうけれど、「どんな宗派の誰がどう見ても文句無く悟った人だ」という方はおられないのではないでしょうか。  また、「自身が真理を体得する」ことと「他者を諭し導く」ことは、(究極的には、ひと続きの「同じ」ものだとは思いますが)ある種、別の問題だとも言えると思います。仮に今生きている方で、真理を体得した人物がいたとしても、その人がわれわれにわかるように教えを説いてくれるかどうか、あるいは、われわれに理解できる能力があるかはわからないと思っています  蛇足ですが、お釈迦さまを偉大だと感じるのは、「自身が真理を体得する」ことと「他者を諭し導く」ことを両立された点です。(←個人的な考えですが・・・)  蛇足ついでに。梅原猛氏の講演録「梅原猛の授業」シリーズの 『仏教』や『仏になろう』(朝日新聞社)あたりが読みやすいかなと思いましたが・・・  また、好き勝手に書いてしまい、すみませんです。では。  

wreath
質問者

お礼

分かりやすい説明をありがとうございました。私は無宗教なので、分かりやすい説明がとても参考になります。 また、本の紹介もありがとうございました。機会があれば読んでみたいと思います。 私は昔ある知り合いに何の説明もなく集まりに呼ばれて行ったことがあります。行ってみて宗教の勧誘だというのが初めて分かったのですが、ある意味面白かったです。素朴だけど大きな疑問にその人たちがどう説明するかと言うことに興味があるので。

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  • neil_2112
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回答No.10

いろいろな受け止め方があると思いますが、ここでは般若心経の代わりに、「金剛般若経」という同じ系統の経典をご紹介して説明します。「空」の説き方が定型化する以前の経典で、般若心経よりもこちらのほうが、「空」を何とか正面から表現しようと努力している分、中身が少しわかりやすいと思うからです。 どんな宗教でも善行を積むことを目的のひとつにおいています。大乗仏教ももちろん例外ではありませんし、ひとに何かを与えるといったこともその善行に含まれます。ただ、その善行をおこなうにあたって、初期の大乗経典の作者たちは、こんなことを考えたのです。 「善を善だと認識して行っているうちは、本当の善とは言えないのではないか」 例えば、何かをひとに与える時に、私たちは見返りを意識しがちです。意識していないつもりでも、例えば高いか安いかという交換価値を判断したうえで行っていますし、ひとの目にうつる自己像や自尊心だとか、いろいろな思いをめぐらした結果として、いわゆる「善行」を行っています。実際には、純粋な贈与と呼べるような行為はなかなか実践できないわけです。 初期の大乗仏教に属する人たちは、こういったことを一種の思想的な汚染だと考えました。そして、どうしても人間を飲み込もうとするこの汚染から免れようとする人を、菩薩と呼んだのです。 結果、金剛般若経は、最初のうちは「何かにとらわれて施しをしてはならない」、「跡を残そうとして施しをしてはならない」などと説きました。やがてその教えは、「菩薩は菩薩ではない。このゆえに菩薩である」といった表現をとるようになっていきます。純粋な善をおこなうためには、善の意識を離れなければならない。だから、善をおこなう菩薩は、善の意識を離れて初めて本当の菩薩となる、というのです。 「善」の意識を離れるということは、単に「何が善いことか」を考えない、というだけでは済みません。「善」が「悪」に対立する概念として生まれてくる以上、「善」について考えないということは、「悪」の意識も離れることに他ならないからです。「善と悪」という、ものごとを二分して価値づける私たちのものの見方が根本的に問われることになります。さらに仏教は、「善悪」だけでなくて、「正邪」、「美醜」といったわけ方で世界を見ること全体(こういう見方を仏教では「分別」といいます)を放棄することを理想とするようになっていったのです。 こういった理想を実現しようと思えば、究極的には当然、「自分」と「他人」という分類にたっている、私たちの生活自体が問題とならざるをえません。なぜなら、「自他」を分けたうえで、その自分の利益や快楽、体面などを知らず知らず求めてしまっていることが、分別の根底ちかくにあるものだからです。こうして、金剛般若経では、「自分という思い」や「自己という感覚」を完全に離れた人を究極の理想像として、悟った人、つまり「如来」と呼んだのです。 その如来も、金剛般若経の言葉を借りれば、「如来は如来ではない。このゆえに如来である」と表現されます。なぜなら、悟った人には「悟ったという意識もない」し、「悟ったとされる自己もない」からです。そもそも「悟り」というものも、「悟りと迷い」という分別の結果として意識に上るものでしかありませんから、この経典は、「如来の悟りといわれるようなものも存在しない」とまで説くことになります。悟りとは何か、という疑問にこだわると悟れない、というのではなくて、悟りそのものがもともとないのだ、というのです。 「空」というのは、ものごとに実体がない、という思想で、やがては言語そのものへの批判に向かいますが、まずはこういう「理想の人間像」を描いて理解するのでなければ、単なる認識論として上滑りしてしまいます。対立する概念をおしあてて世界を見ること、それは私たちの普通の生活のあり方ですが、それが仏教の理想とする人間像の形成にとっては障害となる、そのことを明らかにするためにこそ、「空」という思想が説かれたのです。 ですから、「空」というものは別にどこかにある実体的なものではないし、もちろん悟りの中身でもありません。理想的人間がいろいろな執着をとりはらって、日々をあるがままにふるまうさまをなんとか説明しようとした言葉に過ぎない、といってもいいのではないでしょうか。 しかし、ものごとを実体的にみることが人の常ですから、「空」を悟りの中身としてまつりあげたり、ドグマとしての「空」にこだわってしまう、という危険な落とし穴が常に存在します。執着を離れるための「空」が、逆に執着の対象になってしまうのです。 「空」を説く初期の経典は、ですから、「空の教えは偉大な薬だが、逆にこれに執着して病気になってしまうと治しようがない」(『大智度論』)だとか、「空亦復空」(空もまたまた空である、『大般若経』)などと、そこにとらわれる危険性を繰りかえし説いています。「空」に執着する思いもまた、常に解体する努力をしないといけないのです。 答えになったかどうかわかりませんが、般若心経でも事情は同じです。「空」という言葉に迷わされてあまり観念的な認識論におちこんだり、「これだけが正しい解釈だ」という一種のドグマにひきずられたりしては、本末転倒といわれかねません。仏教は人間の営みから始まってそこに帰るものですから、経典から求められる人間像を大きな枠でつかもうとすることが大事ではないかと思います。 ※雑駁に書きましたので、わかりにくいところがあれば補足に応じさせてもらうつもりです

wreath
質問者

お礼

丁寧な説明をありがとうございました。とても分かりやすかったです。私なりに解釈すると次のようになりますが、合っているでしょうか。 「火事になって取り残された赤ちゃんを救うために自分が焼け死ぬことも考えず火の中に飛び込む親の愛情」つまり無償の愛ですが、この愛を(この例の)放火して赤ちゃんを殺した相手に対しても持つことができるのが悟りを開いた人。 別の点から。 NHKの「心の時代」を見ていたら、お坊さんが「人に優しくしてあげること」と言っていました。私はこの「してあげる」にとても引っかかります。「優しくすること」と言えばいいのにと思ってしまいます。

  • hisya
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回答No.9

>悟りとか煩悩の克服にこだわると悟れない。 これはスポーツ選手が金メダルにこだわると、それがプレッシャーになり結果的に取れないというのに似てます。ただ、自分にできるいいプレイをしようと思ったほうが、結果的には成績がよくなる。 これを仏教で言い換えると、悟りや煩悩の克服にこだわると、それが1つの執着になり結果的に悟れない。ただ、仏教の道に精進しようと思ったほうが、結果的には悟りの境地に近くなる。 なお、仏教で悟れるのは一万人に1人しかいないと言われていて、よほど宗教的な素養がないと真の意味の悟りは得られないのです。また、悟りにも小悟・中悟・大悟と段階があって、凡人は悟っても悟っても、まだ上があるので慢心しては駄目だそうです。 >悟りを得るためには仏教の教義にこだわることも間違い。 キリスト教の教えに、<言葉は殺すが霊は生かす>というのがあります。これは宗教を1つの学問のように研究する態度への戒めです。煩雑な教義への解釈に明け暮れると人生の真理から遠くなるということです。 仏教においても悟りは言葉を超えてると言われます。だから、教義を研究しても、頭での理解であって、体験的なことが伴わないと駄目ということでしょう。仏教の修業でも、三学に戒・定・慧とあるように、戒律を守る事や禅定をすることが先であり、智慧はその後からついてくるものです。

wreath
質問者

お礼

回答ありがとうございます。悟りとはどういうものかは言葉では説明できないし、悟ったものにしか分からないということなのでしょうか。 なお、私は「悟り」の良さもわかりませんし、「悟り」を得たいとも思いません。宗教を信仰しようという思いも全くありません。ただ、知りたいという思いはあります。

回答No.8

仏教の話とはちょっと違うかもしれませんが、例え話です。 「お前にはやさしさが足りない、なぜもっと人にやさしくしないのか」などといって、人を追い詰めている、一見やさしく見えるけれども、その実はやさしさが足りないような人もいます。 戦争反対のデモ行進をしていながら、警察隊とぶつかってけんかしているような人もいます。 人は総じて、純粋を求めすぎて、おかしな方向へいってしまうことが多いようです。その辺のところを言っているんじゃないでしょうか。 もっと掘り下げて理解すれば、もっと深い意味があるのでしょうが… 間違っているかもしれませんが、理解の手助けになれば。

wreath
質問者

お礼

回答ありがとうございます。興味深い話ですね。

  • 1941
  • ベストアンサー率14% (4/28)
回答No.7

失礼ですが、あなたは『こだわる』の意味を解っていないと思います。  仏教で言う『こだわる』は自分を中芯に置いた感情です。 解りやすくいえば、 『世間に評価されたい』  『認めてもらいたい』  『充足した人生を送りたい』  『いい女を彼女にしたい』などの感情です。 判断の核が『自分の快楽、利益』なのです。これを『こだわる」というのです。 あなたが、『般若心経』等を勉強したいという心はすばらしいことです。 『こだわり」とは全く別の次元であって、何も悩むことはない。がんばって勉強ください。

wreath
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分の快楽、利益にこだわるというのは煩悩ですね。この煩悩をなくそうとすることにもこだわるなとか、悟りにもこだわるなというのがよく分かりません。

  • les-min
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回答No.5

こんにちは。。  ご質問者さんが、般若心経関連以外で、書籍をあたるなどされて研鑽されているなら、的外れなアドバイスになってしまうのですが・・・  #1の方のご回答の中で紹介されている問答に投稿した際に、記そうか記すまいか迷ったことがありまして、(あくまでも個人的な考えですが)般若心経から仏教の教学に触れようとすることは、あまり適切な入り方ではないのではないか、と常々考えています。 (仏教への接し方は人それぞれだと思うので、心経から入られること自体はどうこう言うつもりはないのですが・・・)  般若心経は、広く親しまれているといっても、読み解き易いお経ではないと思いますし、仏教思想の歴史では、中ほどを過ぎた頃に成立したお経ですから、結局、短いお経の内容を知りたいと思ったのに、山のような解説を読むはめに陥る、といった事態が容易に生じます。しかもその解説・解釈が何通りもあり、独学では、どれがどれだか・・・という状態になる場合も考えられます。(単に自分がかつてそうだった、ということでもあるのですが・・・)  回り道でも、仏教の歴史に沿った形か、お釈迦さまと大乗仏教を網羅的に扱っている本などから入られた方が良いかな、と思います。  仏教は、仏の教えであると同時に、自身が仏になるための教えであると言われます。自身が仏となれば、「仏様を崇拝する気持ち」など持たなくてもよいでしょうし、自分自身が仏という教えを顕現した境地に達するなら、「仏教の教義にこだわる」こともないでしょう。  仏が慈悲深いのは、この世の真理を体得する(悟る)ならば、すべてが全一相として捉えられるからというのが理由だと思います。  仏には彼我の区別がないので、世の中のあらゆる物事を自分のことして感じ・捉える(文字通りすべてが「我が事」)ようになるのだろうと思います。そのような感覚から、あらゆる物事への慈悲というものが生まれるのかな、と個人的には解釈しています。  ですから、まだそんなところまで悟っていない者にも、「慈悲の心」を説いて、仏に倣うように教えるのだろうと・・・    勝手にいろいろ記しましたが、ご容赦ください。では。    

wreath
質問者

お礼

仏教における般若心経の位置を教えていただいて、大変参考になりました。ありがとうございました。 私は仏教も他の宗教も詳しくないので分からないことだらけです。 現在の日本の人で、仏教で言う真理を体得された方は誰かを知ることは出来るのでしょうか。高名なお坊さんなどはそういう人なのでしょうか。

回答No.4

こだわりを離れることは容易ではない。 なぜなら、こだわりを離れようとするそのことそれ自体がこだわりに他ならないからである。 こだわりは執著の現れであると知る人は語る。 こだわりの裏には必ず嫌悪が潜んでいる。 執著(嫌悪)は欲望に基づいて起こるものであり、欲望は感官の接触によって生起し、感官の接触は人が心に名称と形態(nama-rupa)を有しているという事実によって生じている。 そして、人はこだわりゆえに目を眩ませ、結果的に覚りの境地に至る正しい道を自ら踏み外してしまうのであると言っても過言ではない。 こだわりは、詰まるところ人が自分ならざるものに依拠しているために現れ出るのであり、もし人が正しく自らに依拠するに至ったならば瞬時にしてあらゆるこだわりは消滅する。 したがって、それが如何に重要で価値有るものとして目に映ったとしても、人が自分ならざる何かを大事に思い固執するならば、それは実にこだわりであると知られ、そのように知られねばならない。 そして、こだわりをもつ人は本当に大事なことを大事だと思わず、本当に大事なことに出会ってもその意味を理解せず、この世において稀有に耳にする最上の言葉を聞いてもそれが法の句(=諸仏の智慧)であることを知ることはできない。 すなわち、人はまさにここに迷っているのであると知られる。 それゆえに、諸々の如来はこだわりを離れることの利益(りやく)と大いなる功徳とを説く。 もし人が、自ら覚りの境地に至ることを欲し願いつつも、現実問題として特定のことがらから離れられないでいる自分を知ったのであるならば、本当に大事なことを大事だと理解しない(愚かな)自分のままでいることをこそ畏れ、特定のことにこだわるというつまらぬことを正しく捨て去って、一切世間の如何なるものにも束縛されない生活を送るべく心がけ、まさしくその心がけをたもつべきである。 そして、そのように不断に心がけて日々を過ごす人は、ついには欲を貪ることも離欲を貪ることもない安らかな境涯に至ってこころを安寧ならしめ、それ以前に抱えていたあらゆる見解がまったくのこだわりに過ぎず、またそのこだわりゆえに埒のあかない堂々巡りを繰り返していた自分自身のありさまに気づくことになる。 勿論、人は覚りの境地に至ることを真摯に目指すのだということを(こころに)忘れてはならず、忘れるべきでない。 しかし、かと言って特定の何かを大事だと考えてはならない。 なんとなれば、すでに覚りの境地に至った人は一切についてこだわりが無く、特定の何かをつかまえてそれがこの上もなく大事なことであるなどと言うことは決して無いからである。 こころある人は、覚りの境地に至る道の真実がこのようであるとこころに知って、こだわりを離れ捨て去り、たとえ如来説く真実の言葉を耳にしてもそのことそれ自体に固執することなく、よく気をつけて世間を遍歴すべきです。 それを為し得たとき、人は一切のこだわりを完全に離れた自分自身を一種の驚きとともに発見することになるでしょう。 ***

wreath
質問者

お礼

回答ありがとうございます。素人の私には、なんとなく分かるような分からないような感じです。 私にとっては「如来の説く言葉は真実なの?」という疑問があるのです。仮に真実だとして、「如来が説いたこと、それさえにもこだわらない」ということになると、「こだわりを離れることにもこだわるな」ということになるのでしょうか?

  • g6200
  • ベストアンサー率43% (88/202)
回答No.3

#1です。 >全ての物や心にとらわれないという教えと、生き物に対して慈悲の心を持っている仏様はどういう関係があるのだろうかと? 基本的に「般若心経」は「空」とか「無我」とか仏教の教えの根幹である世界観・宇宙観・自我観を中心に述べていて、仏様のご慈悲自体はそんなに詳しく説かれてはいません。それに「般若心経」だけで仏教すべての教えを包含しているわけでなく、「法華経」「阿弥陀経」「華厳経」「法句経」など数限りない経典において仏様のご慈悲が説かれています。一番手っ取り早いのはやあり「諸経の王」と言われている 「法華経」 を勉強されるのが一番です。このお経は大きなお経ですが、大乗仏教の総決算的なお経で日本仏教のあらゆる宗派に影響を与えてもいるお経です。法華経に関する分かりやすいサイトをご紹介しておきますね。 仏教の世界は想像以上に広くて、深いです。 <法華経ノート>

参考URL:
http://www.parkcity.ne.jp/~chaichan/chai/myouho.htm
wreath
質問者

お礼

法華経の紹介をしていただきありがとうございました。 参考URLを見させていただいて、回答のとおり広くて深いというのがなんとなく分かりました。解説を読めば読むほど疑問も増えてきてしまいます。

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.2

 般若心経が「こだわりの心を捨てる教え」というとらえ方自体が表層的解釈に過ぎません。  あくまでも瞑想修行の実践を説く教えです。それと、心経本文の境地は世間的価値観を超えた、さらにその上の境涯を説いているので、段階的修行の実践をしなければ、その内容は単なる机上の空論に過ぎません。  つまり、まず自分自身は何か。それを見極めた境涯を得た上で、それをも上の視点が「空観」です。まだわれわれは、自分自身が何であるかすら気付いていない状態です。階下が無ければ上階が成り立たないように、段階的な実践が重要なのですね。  より詳しくは以下を参照してください。 「般若心経のほんとの意味」 http://www.mikkyo21f.gr.jp/hannya_honto/concept_hannya.html

wreath
質問者

お礼

参考URLの紹介をありがとうございました。 難しいですね。悟りを開いた人は、私のような門外漢にも分かるような易しい言い方で説明をされていないように思いますが、これは無理なことなのでしょうか? 修行をしたいとは思わないのですが、何を言っているのかには興味があるのですが。

  • g6200
  • ベストアンサー率43% (88/202)
回答No.1

仏様しか答えられない、というのがホントの答えになってしまいますね(笑)。 >経を唱えるとか、写経とか、修行とか座禅などは悟りの境地に近づくためにするもの、つまりこだわっているものだと思っていたのですが、このへんがよく理解できません。 仏教における真理の追究は励まなければなりませんが、こだわってはいけません、というのが答えになるかと思いますが、私も正直よく分かりません。仏様ではないので。 般若心経は「空」という仏教独自の世界観・現象観を述べたものです。専門的には以下のトピックに回答があります。「色即是空、空即是空」は心経の中心的記述ですが、ご覧の通り、解釈は千差万別です。 <色即是空と空即是空は同じ?> http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2053526 >仏教の教えを守ろうとすることも間違いという意味なのでしょうか? 字面の「教義」にこだわる事はもちろん間違いでしょう。真理を追究していく姿勢こそが仏教の真髄であり教えなのです。仮にいま自分がこれが「仏教の教え」だと思っているものが、実は違っていたり、理解の浅いものだったりするならば改めなければなりません。そうすると真理を追究していく姿勢にこだわるのも間違いなのか、と反論されてしまいしょうですが、それもまた真理です。 >仏様を崇拝する気持ちもない方がよいということなのでしょうか。 確か臨済宗だったでしょうかね。悟りを拓くためならば仏をも殺せ、といった教えを説いた書物があると聞きました。 >般若心経の教えを理解しようとする気持ちもない状態が良いということになるのでしょうか。 というか自分と心経の教えが全く同じものになって空、無我の境地になれってことじゃないでしょうかね。とにかく心経は徹底的に物事を否定して、否定して、否定しきるお経です。人間は日頃些細な物事にこだわってしまうので、こういうお経の教えが人間の常識を打破する一種の劇薬、特効薬になるのだと私自身は考えています。 答えは恐らく人様々、千差万別でしょう。 関心をお持ちになれば、自ら般若心経を読経、写経され、解説書などを読まれて勉強なさったらいかがでしょうか? この回答が仏教の秘密をあなた自身が解く鍵を見つけるきっかけになりますように…。

wreath
質問者

お礼

大変詳しい回答をありがとうございました。無我の境地が何かも分からないので、その良さもよく分からないというのが私の今の状態です。 喜怒哀楽を超越している状態という気もしますが、そうすると慈悲(あわれみ、いつくしみ)の心があるのに無我の境地とはいかなることかとまた疑問がわいてきます。 全ての物や心にとらわれないという教えと、生き物に対して慈悲の心を持っている仏様はどういう関係があるのだろうかと?

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