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坐禅と悟り:仏教の解決策は神経症にも効果的か
- 私は神経症(対人恐怖症)に悩んでいる数年前から仏教に関心を持つようになりました。私にとって坐禅は神経症の解決策だけでなく、全ての迷いの解決策ではないかと思っています。
- 悟りについては古来から先人たちが証明しており、私もそれを信じています。悟りは神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するわけでもないと思います。それはあくまで気づきのようなものであり、理論的に説明できるものではなく、坐禅によってしか悟ることができません。
- お釈迦さんや達磨さん、道元さん、良寛さんなどの先人たちはただの人間であり、私たちも悟りに至ることができます。悟りという言葉が胡散臭く感じるかもしれませんが、それはただの言い訳ではなく、真実です。現代にも悟った人は存在し、坐っている姿が悟りであるという考えも単純化しすぎていると感じます。
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全くそう思います。 「悟りとは気づきのようなもの」 その通りだと思います。 我々凡人が体験する悟りとは気づくこと、なのでは。 ある事柄に対して、なるほどと気づけば、よきに計らえるのです。 その事柄に関しては、迷うことがなくなった、ということです。 迷わないこと。これを悟った、と言ってもいいのでは。 すべての事柄に迷うことがなくなったのが、釈尊。 この釈尊の境地が、究極の悟りの世界なのではないでしょうか。 そのためには努力が、修行が必要です。 その手段の一つとして、座禅という手段があるのでしょう。
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歴史と現実は違います。 現実の世界においては… 自分の書いていること自体の矛盾から精神に毒が回って、世の中全てが矛盾です。と主張しはじめるもの 魔がさして、神がかりとなり、自由だからいいじゃないか!私が書いていることは正しい!読んでから批判してください!とさけぶ認知の物体 「私の書いていることを読め」との宣伝を繰り返すだけの「おいぼれ」 わしの言っておることがわからないものは日本人ではない!基本がなってない!というのは、よくありますよね… 一番の問題は、 こういう種類の生物に「ゴマをする」知能の低い手下がいるという事実です。静観するしかありません。「半死」の具体例とゲーム脳の子分たちです。 寂光院の例でもわかるように、自分の寺の大宝物を焼失しても、表彰される世の中です。なんでもアリです。 あと臨床的には、パニック症候群・対人恐怖症の人が、禅をやると症状が悪化する傾向にあります。ご注意ください。
お礼
言うときゃ言います。 >あと臨床的には、パニック症候群・対人恐怖症の人が、禅をやると症状が悪化する傾向にあります。ご注意ください。 ですが、やらなきゃなんにもなりません。
- owlsjp
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しかし、やはり誰かが悪いとしたら、他者と、自分と、神が悪いんでしょう。
補足
究極を思えば悪いものは一切おらず、また良いものも一切おらないのでしょう。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
お子様 お地蔵様 お坊様 これらは、一般人が求めたが故に存在させられている、ある意味犠牲者、生贄としての存在かもしれません、 最初に「お」がつき、最後に「様」をつける、慇懃無礼な感じは、犠牲者、生贄として存在してもらっているという、後ろめたさから来る表現なのかもしれません。 ある種の不透明さ、欺瞞や誤謬がなければ、あらゆる人間の快楽や楽しみは存在できないと考えてよいでしょう。 したがって、お坊さんだけを悪く言うのは、やはり止めたほうが良いでしょう。 しかし、今の時代の、退廃した文化、爛熟を通り越して腐りかけてきた社会を助長させているのは、やはり質問者が感じている宗教を初めとする欺瞞、誤謬が原因でしょうから、怒るべき者にたいして順当に怒っていると言っても良いかもしれません。 ワカリマセン。
お礼
全ての坊主を悪く言っているつもりはありません。 坊主は本来はその本人がその本人の迷いから脱したいとすることの専門の修行者であり、そして解決した人はその指導者であると思っています。
- owlsjp
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>髪の毛フサフサの坊主がいても良いですね あ、それだと坊主とは言わないのか 訂正:坊主は剃髪状態を表す言葉ではないから フサフサでもお坊様はお坊様ということで。 しかし、本音として、お墓制度と、葬式のやり方は、変えたい。神式に。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
まあ、しかし需要があるから存在できているということもあるでしょうし、徐々に変化していくでしょう、急には無理です 髪の毛フサフサの坊主がいても良いですね あ、それだと坊主とは言わないのか http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%83%E9%AB%AA#.E5.89.83.E9.AB.AA
お礼
需要は九割九部、葬式でしょうね。坊主頭も浄土真宗などは自由みたいです。それもいいですね。服装も大昔のまんまで、時代遅れの着物や足袋にわらじなんて、もうイメージが過去の遺産になるのも納得です。伝統なんていらないです。そんなもの捨てちまってスーツにふさふさの髪のほうがよっぽどとっつきやすいし、興味を持とうとする人も増えるような。
補足
いっそのこと坊主は葬式、法事はしてはいけない法律ができたらおもしろいですね。坊主は出来ることがなくなりオロオロするでしょう。(本当は自分が実証して導くことなんでしょうが。。。)
- owlsjp
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坊主が悪いのではなく、坊主頭が悪いんです。(本気)
お礼
知ったかぶりの世襲坊主は仏教に疑問に思わないのだろうか。情けないと思わないのだろうか。
- pandaApple
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当の曹洞宗へ行って、坐禅なさっては如何ですか。 門戸は開かれています。 行って坐ってみれば、それが悟りか似非悟りかが分かるんじゃないでしょうか。 小生は、「坐禅=悟り」の人もいるし、いくら坐っても悟れない人は悟れないと思っています。 曹洞宗の人間のすべてが、お経の意味も分からず、ただただ坐ってるだけのなまくら坊主だとは思いません。そういう人も少なからずいるのは確かですが、少なくとも、真面目に修行している人は、ただ坐っているだけではなくて、お経の意味も、祖師方の言葉の意味もある程度は理解し、悟りの入口くらいには到達していると思います(事実、そういう人を知っています)。 特定の宗派(全体)を非難してみても始まらないでしょう。
補足
曹洞宗の師の下で坐禅してますよ。
- owlsjp
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>(号泣されます) が、かなりウケました。 同感。しかし、お経など、意味が解らなくても低い声を発声することでの、何らかの効果はあるでしょう。。
補足
いや、本当に大号泣されると思いますよ。そんなつもりで残したのではないってね。
- mmky
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[それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。] 笑えますけどその通りですね。「悟り」というものは悩みを解決する智恵を得ることですね。単に座っても智恵など沸いてこないでしょう。 本来の座禅というのは、釈迦の教えに従って、静かに今までの自分の考えや行動を見直すという反省瞑想が主体なのですね。心のゴミを日々掃除していくと、心に映るすべての事象が違って見えてくるということなんですね。 それ故、釈迦の教えがわからないで座禅してもただ座ってゴミ知識をかき混ぜるだけでしょうから意味ないのですね。 そういう意味でおっしゃるとおりですね。1200年前は漢文のお経の意味もわかって、座禅してたのでしょうがいまや座る宗教に成り下がってますね。むしろとんちクイズ教ですかね。
お礼
なんでまたお経が中国語のままやら昔の言葉のままってのも変な話ですよね。 だから現代人はお経を呪文だと思う人もいると思うんですよ。 お経なんて格好つけてないで、全部現代語でそしてはっきりと発音すればいいと思います。坊主は格好つかないけど。 でもそういうことが求める人を遠ざけさせて、まあこんだけいっぱいご近所にお寺があるっちゅーのに変な新興宗教にのめりこんで、社会問題にもなって。でもそれも一見、難解に見え、お高くとまる現代坊主軍団のせいでもあるんでしょうね。
> 私のように思われている方いらっしゃいますか? そういった煩悩(自我)を滅するために座禅を組むんじゃないの? 能書はどうでもイイです。 座禅によって気づき(自我の処理)を得られたら そのときはあなたの言葉を聞かせていただきたく存じます。
補足
煩悩は自我ですか? 煩悩がなくなったらどうやって生きますか? >能書はどうでもイイです。 >座禅によって気づき(自我の処理)を得られたら >そのときはあなたの言葉を聞かせていただきたく存じます。 あなたの為に発しているわけではありません。 私のように思う人がいるのか知りたいという欲求です。
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お礼
悟りなんて言うと眉をひそめる人が多いのは問題ですね。悟りというと何か凡人には到底達することの出来ない神々しい境地などとイメージしがちですから。悟りなんて言葉は現代風に気づきと言えば解りやすいですね。お釈迦さんだってただの元凡人だから誰だってできるものだと思います。
補足
昔インドに住んでいたシャカという人間が大発見してくれた事実を、信仰の対象や到底かなわぬものだとハナからあきらめたり、事実に気づくための手段としての坐禅本家が気づきなどないなどと言い訳する現実は変えたい。そのためにやはりまずは自分が実証するしかないです。努力します。 回答くださった皆様ありがとうございました。