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日本人の哲学研究における宗教と無我の関係とは?
- 日本人が哲学研究を行う際には、西洋哲学の手法で仏教や神道に関して論理の枠組みにはめて考える必要がある。
- 宗教に関して考えることと哲学に関して考えることの違いがあり、日本人の哲学は無我でありながら我として考えるという苦し紛れがある。
- 仏教哲学の枠を超えた考え方をすることが本当の哲学であり、それを解脱や悟りとして表現する。
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我れというものは無い また 我がものというものは無い すでに 我れ無しと知らば いかによってか 我がものがあろうか 無我を発見したブッダの言葉です。 無我の発見に至った縁起の考察の中核を占める十二因縁とは以下の通り 無明 過去の二因 行 〃 識 受胎の一念 名色 胎内育成 六処 六根具足して誕生前の胎児 触 二、三歳の頃の、苦楽を知らないで、触れるのみの位 受 六、七歳後苦楽を識別する位 愛 十四、五歳以後の愛欲を生じる位 取 成人し利欲に執着する位 有 愛取の煩悩により種々な業を作り、来世の果を有する位 生 未来の二果 老死 〃 注意すべきは この中の「触」の状態のみが無我と解されやすい その一般概念は横山大観の描いた「無我」の絵に象徴されている ブッダは輪廻の実相の観見から 縁起の考察へと進み 無我の発見に至ったとされている。 無我の発見からの先におけるブッダの悟りの内容は記述されていない その理由は 般若心経に記されている 矛盾概念の記述の証明にみる事ができる。 心経の「是故空中」以下の 無明から老死に至る記述がそれに当たる この記述は 十二因縁であり 輪廻の否定と肯定を同時に表している 空と表記されたものが 概念以上のものでなければ この記述は成立しない 空とは 唯一絶対一元的なるものを指す言葉として選ばれたに過ぎない 空という言葉のもつ言語的本質は 概念以上のものを指す という意味である このような考察から一般的表現として用いることは不適切である事から ブッダが無我以上の悟りの内容を説かなかった事は当然のように思われる。 空とは 矛盾概念の止揚ではなく 悟りの一元性に基ずく包括である それは 第八識に到達して観た輪廻の光景である このような視点から見れば 無我の認識とは 空、涅槃という より深い悟り以前の境地において生じたものであり 現象(諸法)に自性は無いという発見であったように思われる。 深般若における空の悟りの直前の悟りだったと思われる。 それは 三法印が二法印で終わらない事からも明らかである。 また ブッダ同様の体験を経ずとも 禅定体験によって速やかに無我の境地に到達できる事を先徳は示してきたはずです。 もう すでに テキストも事蹟も尽くされてきたのです。 あとは どれを選ぶかでしょう。 以上です。 答えというか 余計なおせっかいはここまでにします。 ご自由にどうぞ。
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- tumaritou1
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自我は『我思うゆえに我在り』というものです。無我は『思わずに出来た』と言う意味です。この違いを説明するためには、メンタル面が強い「自我意識が出ない状態(無意識の自分でいること)」と云う事と、メンタル面が弱い=「自我意識が出たままで、無意識の自分の力が、借りられないでいる状態」と言う意味を知る必要が在ります。 自我意識単独で行動する場合では『神経症的』な考え方や行動になっています。この意味は『自分の我の、計らいによって行動する。』と言う意味です。この場合の治療が完成した場合では、『思わずに行動する事が出来た場合です。』 自我意識単独で『身体的な機能を果たす事が出来る、と言う勘違いが』=自律神経失調症や、難治性の心身症です。この中には過敏性腸症候群等も含まれます。 自我意識単独で、考える事や、湧き上がる感情を制御出来るとする場合『心を病む』と表現出来ます。 今書いた三つの病症群に欠けているものが『無の思想です。』 この意味は、人間には『自我意識』と『無意識』と二つ意識がある事を見落としている事です。無意識の自分が心臓や胃腸や肝臓やホルモンの調節やその他全ての『生命維持装置として働く、機能を兼ね備えている事です』 又、自分の無意識が、心や行動に及ぼす影響が考慮されていない事を見落としている事を示しています。 この意味は人間の脳の機能に関する『無知』=『無明』から始まっています。この無明からの脱却をお釈迦やキリストは教えようとしています。 人間の苦しみは『心の矛盾』を、各種の苦しみとして感じているという意味です。この解消が仏教では『悟りを開く事』キリスト教では『神と和解する事』を結論付けています。 その意味は『自我意識』VS『命の働き=右脳の意識=無意識の自分』との戦いの終焉を意味します。 脳卒中の為に右脳の意識と左脳の自我意識が、代わりばんこに出ている動画がありますので、載せてみます、参考になるなら有り難い事です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
お礼
色々な学問から理屈を引っぱり出して理由付けしてるね。 こうすると論理として支離滅裂であったとしても確認できなくなってしまう。 しかしだ、どこかから持ってきただけの論理の文脈を整えただけの場合よりは、ブチ切れマジギレの文章の方がまだ理解できるのだよ。 それから西洋哲学と東洋の哲学の違いを何とか浮き彫りにしようとする試みは今回の質問趣旨に織り込んであってね、要するにありがちなこの手の論理構成をする事自体がやり玉なのさ。 哲学はたっぴょうする本人が正しいと正直になり必要があってね。 信じる事を語るのと同様なのさ。 そこで神と人間知性の関係は切っても切れない。 今回は良く頑張ってくれたよ。 ありがとう。
- MOG777
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無我とは何かを考えるならば、自我とは何かを感じる必要があり 自我を感じるためには、無我を感じる必要があります。 では、自我の恩恵とは何か。 それは諸行無常の変化を概念上ではあるが止めて、世界に関する概念を形成することにあると思われます。 それが可能であるから、知識の共有が可能になり社会を形成できる。 一方、自我の弊害とは何か。 共有を守るために、変化が無いものとみなされる。 概念を守るために現実が殺される。 こんなとこでしょうか。
お礼
ああ、お釈迦様の言った事される研究にならそんなこともあるかもしれないね。 いい回答だよ。 ありがとう。
補足
そろそろおかまを連れてこい
- Y Y(@yy8yy8az)
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「欲望」にも良し悪しがあります。 真実、真理、を求めようという「欲望」は神、佛、に依る思い心の現れ。
お礼
真理とは森羅万象全てだよ。 君の言う真理とは君の本音の事でそれは、おちんちんがかゆい。そう言っているだけだよ。
補足
簡潔に言うと神を否定しようとすると自らも否定する事となり無我だと言ったな。 これ自体だと信仰の合理性の証明だが、西洋で莫大な懸賞金がかかっている神の存在の証明まであと一歩だ。 もちろん私はそれをやる。
- Y Y(@yy8yy8az)
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真実、真理の世界には“制約”というモノが存在しないらしい。
お礼
君には制約が必要で君を飼いならす神を必要とする。
- kurinal
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「喉の渇き」を癒す、癒し得るのは、大量の水か、はてさて。
お礼
ひとり言回答が横行しているね。
- Y Y(@yy8yy8az)
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俗っぽい「欲」ではないからこその疑問、質問なので他人の評価はまったく問題にしていないことを理解しています。 真理、を求めているからこそ、と思えば本気でこの世界に心を住まわせて考えてみたい。
お礼
君は真理を避け否定すらしているのではないか
- kurinal
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Flareonさん、こんばんは。 仏教的には、たぶん「何かに駆られる」という状態は、好ましくないものと思います。 「あんなに欲しくて仕方がなかったものが、手に入った途端、どうでもいいようなモノになってしまった」とか、 ・・・「「欲」に駆られることの愚かしさ」ということでしょうか。 じゃあ、どうすればいいのか。 >「自助が大切であり、テメーで何とかしろ。です。」 ・・・テストで100点取っても、所詮、「他者の評価」に過ぎない。
お礼
欲を理解する事は目標の一つだね。 おりゃー忙しいんで聞くな。 テメーで何とかしろ。
- Y Y(@yy8yy8az)
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仏=我 ではないので、矛盾が生じるのです。 我(われ)に“仏性”はあっても“我(が)”に覆われているので、なかなか気づかない、と仏教は教えています。 “我(が)”が意識しない“仏性”が有るからこそ、その“仏性”が“我(われ)”に“疑問”を起こさせているのだと思います。 ☆ 宝石も本(もと)は鉱物。磨いてこそ光り輝く宝石と成ります。 “疑問”は磨け、という仏(ほとけ)のシグナルなのでしょう。
お礼
君のモンキーダンスは容認しておくよ。 それも勉強熱心だからだろう。
- Y Y(@yy8yy8az)
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求め心 なぜ、誰もがこうして「何か」を求めているんでしょう。 「何か」は“なぜ?”につながっているようで・・・ 齟齬、食い違い、を感じているから。 我々の心に宿る「齟齬」 人間だけだよね。 不思議だ!
お礼
そごって言う言葉を今回初めて聞いた。 むずかしいよ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3です。 ★(No.3お礼欄) 西洋の哲学のように神と人の対比から思考すると、本を読んでいても内容が良く判らないのですが、私は仏と言う言葉の現代語訳は人間だととらえていて、そもそもこの枠内で思考すると完結する。 ☆ そうですね。わたしの考えを述べます。 ★ 神と人の対比 ☆ これは 同じ次元ではありませんよ。神が人をつつむことはあっても ひとが神をつつむことはあり得ませんから。 ★ 仏と言う言葉の現代語訳は人間だととらえていて ☆ まづゴータマ・ブッダは 《仏》ですが 《人間》です。まぎれもなくそうであり それ以外の存在ではないと おそらく自分で言っているものと思います。 ただし 《一切の衆生 悉く仏性有り》というときの 仏性は 人間にやどるのであるけれど アートマンと同じく神の霊です。 ★ とても便利なのですが、それを神がいないと言う思考に持っていこうとすると、神じゃなくて我がいないと言う事になる。 ☆ その場合の《我》は アートマンのことで 神です。神の霊です。つまり無我(アン‐アートマン)説=無神論 ということだと思います。つまり 《神じゃなくて我がいないと言う事になる》というよりは ○ 神がいないと言う思考に持っていこうとすると 神もいないし 我もいないことになる。 ということだと思います。 ★ これは今のところ考え以前の瞑想じみた直感で言葉に整えてみようと考えています。 ☆ ええ。
お礼
情報交換として今回は久しぶりに機能してるね。 ありがとう。 理解は及んでいるようだけど繰り返すと、神と言うあなたの言う謎と対比する場合と違って、人間と言う自己を打ち立てると、思考は自己完結する。 ここで自己完結のみで神に由来しないと言う考え方を試行するならば、とたんに我を見失う。 この点は神と人との関わりでまた違う題材だが、無我はこれだろう。 我を失ってもなお、神のみは存在する。 その神が私を照らし、そして私は私を自覚する。 これが観念上で一回死んでみてたちどころに蘇生する輪廻の夢物語だ。 おそらく釈迦様が無我を説いたのはそんな信仰を自覚する初心を大切にしなさいと言う事で、彼ですら死にっぱなしではなかっただろう。
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お礼
おやまあ。 教養を感じる理性的な内容で良い回答ですね。 色々と調べ物のとっかかりになって、お礼を書く前に検索してみたりしましたよ。 遠慮なく煮て食ったり焼いて食ったり好きなように料理させてもらいます。 ありがとう。