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慈悲とは無の悟りを補う行いである
- 慈悲は無の悟りを補う行いであり、お釈迦様の悟りにおいて「無」の内訳とは明白な分別を養うことである。
- 無に属することや無根の願いを求めることは、無い物ねだりであり、良識のある信仰も取りすがりである。
- 慈悲は信仰のありようが無根であり、お釈迦様はこのような無の観想を通じて慈悲をもって手向けた。悲しみを知らせる慈悲の必要性も述べられている。
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質問者が選んだベストアンサー
じぶんは釈迦がといたという膨大な一切経の教えを学んでいませんが、法華経(鳩摩羅什訳)に関して感じることがあります。 如是我聞という弟子の問いからはじまって28品の最後に去来而己でおわっています。つまり仏の得た悟りを求めるお弟子の姿勢をいいたいのです。自ら悟りを得たとおもいこんで退転する人が99.9%、戒めるべきことは途中で修行をやめないことです。機縁に触れてともに歩み学ぶことが「さとり」への第一歩ではないでしょうか。
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一信者としての所感をお伝えいたします。 密教においては、悟りを得ても大慈悲心を発する事がなければ未成の仏であるとされています。 大慈悲心を発する境地は、顕徳の成仏ともいわれ、衆生済度に尽くす境地でもあります。 大日経に「菩提心を因として、大悲を根とし、方便を竟意とす」とあります。 菩提心の果は、悟りのみならず大慈悲心による救済の方便を尽くす境地であるとも解せます。 そしてその事がどのようなものなのかは 「欲に対して利しながら済度して、真智を与え、涅槃に送る」という言葉に表されています。 大慈悲心とは戒定慧の三学の先にあるものなのでしょう。 それは、どのようなものに対する補いなどでは無く、仏果の直接の受持にさえ連なる至上の説法であるとさえ言えるのではないでしょうか。 教えの違いを超えて、苦界に身を投ぜられて救済に尽くされた方々の尊さは、万人が認めるところですが その心は不滅といっても過言ではなく、何ら付け足す必要のないもののようにも思われます。 至らぬ身ながらも、そうした心の一端に触れた者として信じる事に迷いはありません。
お礼
そりゃよかった。 それでこそですよ。 あなたの様な方には特に何も言いません。
補足
本文中にある、、、 > そして慈悲とはその信仰の有りようは無根である。 はっきりと、その信仰はかないようが無い。 そのように表すことである。 一方で私の信条として、信仰とは各々が自らの道を歩むことである。 このようにとらえています。 まず自らがその道を信じなさい。 そのように言いたい。 そうすると私は一方では無慈悲なんですよね。
- 勢十郎(@Arrogance1)
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無とは、悟りとは、など聖人になっても競争原理による感情は制御できないようだ 獣の論理に忠実ですね
お礼
君が生きている事は人類にとって損失だ。
補足
考察です。 慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因とかかわっています。 ようるに、悪だからこそ慈悲が必要になる。 私は人の心に悪が忍び寄ったとしても、「世」要するに「自然の摂理」にはあくまでも、、、 悪は無い。 罪は無い。 嘘は無い。 このようになります。 したがって私はあくまでも悪人を悪人と見なさず人間としている。 仏教の解釈では、それならば大悲であるとも言いうるかも知れません。 私はそのような解釈を拒否します。 人間存在は自然の摂理にかなっており、それと調和するものである。 要するに悪意をふっ飛ばせるし、我が事に限ればすでに吹っ飛ばした。 あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。 無我に置いて無我以外には悪は存在したと論説されてある。 これに我をもって無根である。 「そんなもんありゃしねー」。 このようにするのが、無我の無にあらづ、我の無です。 有神論と解釈するといいでしょう。 お釈迦さまに関しては他者の信仰への積極的干渉が明白である通り、当時のインドの初源の神の姿と密接にかかわっていた。 多くを語った無については、 無根であるゆえ文字通りの無である。「そんなもんありゃしねー」と、 我が信仰のみの事柄であり、それを表すすべを知らないし必要もない。非思考ゆえの信仰ある無。 この二つが交錯しています。 無神論の「無」とは、たんに神を一切言葉で表さない事を意味しています。 それから仏、要するに人間の姿を信仰とするのなら、それは神の姿を人間になぞらえて信仰する事です。 したがって無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 問題となるのは宗教上では縄張り争いばっかりでこの手の考察に検討する余地を見出さない事でしょう。
- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
priちゃんを救うつもりはありません。申し訳ない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 信じる道としてそれでも仏道を歩めるのなら言う事は無いんです。 その道のりは確かで実りあるものでしょうよ。
補足
質問の主文でわたし自身も仏道を潜り抜けたと書いてあります。 何が信仰であるかに迷いが生じたとしてもそれでも信仰の道は続くでしょう。 かようであっても十分心強いのです。