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禅とマインドフルネス

禅は何かになりきる事 行為そのものになりきる事だと分かってきました。 一方、徹底的に気づくこと、完全に意識的になることがマインドフルネス だと分かってきたのですが、 つまりこのふたつは、同じ仏教の方法論としてそれぞれ真逆のアプローチなんでしょうか? 禅ではマインドを捨て、気づき においてはマインドになりきる? ということでしょうか?

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回答No.2

教化別伝 不立文字 渇!

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回答No.1

禅宗においては「直指人心・見性成仏」(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)といい、経教を用いず、座禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。確かに衆生はすべて仏とも言えますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であってその心をいかに見つめても仏心を観ずる事は出来ません。だからこそ釈尊は「涅槃経」に「願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であってその心を師匠とすべきでは無い、と戒められているのであります。完全無欠の仏を蔑にし、「是心即仏・即身是仏」(ぜしんそくぶつ・そくしんぜぶつ)などと凡夫の愚痴無慚(ぐちむざん)の心をもって、「我が心を観じることによって仏になる」という禅宗の教えは随分と増上慢な教えと言えましょう。