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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《神を見た》という命題は 共有できない。)

神を見たれば 共有できぬ | 100字程度の要約文をまとめよ

このQ&Aのポイント
  • 《神を見た》という命題は共有できない。個人の主観によっては話すことは可能だが、一般的には妥当な命題として共有することは難しい。モーセの例を考えると、神との会話をどう解釈するかが引っかかりの一つとなる。
  • モーセが神との対話での中身がどう解釈されるかが問われる。神の顔を見ることはできず、人はそれを見ても生きていられないとされる。一つの解釈としては、神の背面を見たということや将来の起こるべき事件を予感したという可能性がある。
  • モーセが神との対話での中身はヒラメキにかかわると考えられる。声を聞いたという場合には何らかの経験現実としての意味を伴い、ヒラメキが関わっている可能性がある。そのため、一般的には《見た。話した》という経験は共有することが難しい。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」 >>これは、宇宙を表現しているのではないでしょうか?わたしの傍らに一つの場所があるということは、わたしは一つの場所にはおらず、その近くから見ているということですよね。おそらく岩というのは地球のことだと思います。 地球の裂け目に入れ、そして、わたしが通り過ぎるまでわたしの手であなたを覆うというのは、月食で太陽、地球、月が一直線上に並んだことで太陽の光を受けなくなるのを手で覆うと表現していると考えられます。 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るがわたしの顔は見えない。というのは、月食が終わりを遂げたことを意味していると思います。わたし=太陽。岩=地球。あなた=月。 わたしの顔は見えない。というのは自転か公転?の関係によって後ろしか見えないということですかね? つまり、私の解釈では神=太陽なのではないでしょうか? 神を見たというのは、月食によって地球のカゲに隠れた月が月食を終えて太陽を見ることが出来たという解釈ではないでしょうか? 間違ってるかもしれませんが、私はこう解釈しました。

bragelonne
質問者

お礼

 あーるけいわらわらさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  抜き書きされたくだりは ひじょうに詩想にあふれわたしたちの想像力を掻き立てる文章だとわたくしも思います。  ただ どうでしょうかねぇ。  うかがった限りでは 月食の場合にしても日食にしても 食が終わったあとには 月があるいは地球が 太陽を見ることができるようになる。わけですよね。  もっとも お日さんは 直接に見ることも出来ませんが。  とすると この《直接には日の源を見ることが出来ない。そこから出る光を(または光をとおしてものを)見ることしかできない。あるいはまた その光の明るさや暖かさはこれを感じることができる》。・・・  こういった事情に少しはかかわっていましょうか。どうでしょうか。  質問者としていま承知しているところを添えますが この21節から23節までのくだりは じつは このモーセのときからずっと時代をくだって 言わずと知れたキリスト・イエスの出現について表わしているとは聞いています。  簡単に言えば イエスという人間が神の子であり神であるそのキリストであったということは ついぞ十字架上の死に到るまで弟子たちを含めて人間は誰ひとりとして見ることはできなかった。わづかに 墓へ亡きがらをおさめたあとその死骸が消えてなくなっていたのを発見したそのあと――物語としては 復活したというかたちで―― わかったのだと言います。  つまり 弟子たちを初めとして同時代人は生前の姿は知っていますが そして特にははりつけの姿を知っていますが ちょうどそのように目に見える姿としては 神キリストの背面であるのだと言います。背面を見ることは 人間にも できたし できる。  つまりはしかも 神がその手で人びとを覆っていたので イエスとして生身のからだで生きていたときには キリストとしての顔も姿も見えなかった。見ることができなかった。そのあと 神が手を取りのけたとき その後ろ姿が見えた。  という話です。  この解釈としての話が 納得がいくものであるなら そのほかのくだりにモーセが友と友とが話をするように神と話をしたといった記事があるにしても それはのちに来るもののしるしであり きざしであり 予感であるのだと考えます。  もしそうであるなら   ▼ 11: 主は・・・顔と顔を合わせてモーセに語られた。  ☆ という明らかにしるされた文字どおりの中身についても そのままの受け取りはひかえたほうがことわりにかなっている。こう思われます。  こういった思いのもとに質問をかかげています。あらためて どうでしょう。  ▼ 20: また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」  ☆ ここだと思うのですが どうでしょう。  つまり 話をややこしくするかも知れませんが もしいわゆる文字どおりに聖書を受け取る宗派の見解がただしいとすれば このくだりについても文字どおりに受け取らねばならないはずです。だったら 上の11節などとは明らかに矛盾していますから その矛盾について説明をしなければならない。ですから その説明を是非ともうかがってみたい。納得いかないのですが? というこういう質問にもなります。  

その他の回答 (9)

回答No.10

確かに、人類が具体的に想像し得る【理想像】と絶対的な【イデア】との峻別の可否を巡りまして、古代から多くの方々が研究を続けてきたのだろう、と考えられますから、直接体験の内容の間身体的な翻訳の可否にはPPM(http://search.yahoo.co.jp/search?p=PPM%E3%80%80%E8%8A%B1%E5%BD%A2&aq=0&oq=PP&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt)的な調査の価値が有るのでしょうね。 でも、拙い私見では、記号の根源的な【不完全性】のせいで、経験世界にも人類の手に負えない未踏領域が残り続けざるを得ない、と思われますので、(リアルかヴァーチャルかに関わらず、)経験世界の解釈が深まる前にいきなりに非経験の世界へジャンプする勇み足的な発想・修行の異常な難しさを感じました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ヒラメキということが 人には起こります。  1. 直感としてイメージを得る場合。  あるいは  2. すでに何らかのまづは片言のような言葉をつうじての観想(テオーリア)が得られそこからさらにその片言の内容を経験思想としてととのえたかたちの理論(テオリ・セオリ)として得るもの。  ☆ これらは まとめてインスピレーションと呼ばれるもので 日本語で言うと少々語弊が出るかも分かりませんが 霊感です。  一般にスピリット=霊と言えば なんらかのかたちで《非経験の世界 すなわち 神》とのかかわりを持つものと捉えられています。  その限りで《神を見た》という表出は 主観にとどまる自己表出として 認められる余地があり ただしこれを経験思想として人びとが共有することはむつかしい。しかもただし これを《神の後ろ姿を見る》というふうに言いかえると 或る種の仕方で 経験思想としても 共有し得て話を交わすことができる余地がある。  こういうことを問うています。  ありがとうございました。

回答No.9

会話を通して受け取った場合に限られている事情が非常に重要ですね。 つまり、あらゆる意思伝達媒体が【記号】に留まっています故に、もし其処から意味を読み取るルールが共有されていませんのでしたら、同じ局面に同時に立ち会っていませんと、たとえ話題が特殊な事例に属していませんでしても、其の意味が共有され得ないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  1. そもそも人間の言葉とは どういうもので どういうことか?  2. これは 一般的には 記号論として説き起こして問い求められる主題で 幅広く人間存在の根底的な深さをも求められる課題である。  3. しかも いまは 非経験もしくは非思考と呼ぶ領域――神――を想定し その神学をもこの記号論ないし言語の表現論および伝達論にからませている。  といった工程表が考えられます。ところへ 少なくとも質問者は 強引に近道を模索している。こういう情況であり状態での問い求めであり そうでしかないと言わなければならないかも知れません。  やぎゅうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  やぎゅうさんは いまは (1)(2)の経験世界における そうですね まとめてコミュニケーション論としましょうか について究めようとしておられる。おもには 人間経験としての表現論・意志疎通論に重きを置いて 尋究しておられる。こう受けとめます。  《近道――しばしば邪道にしか見られないことがある――》としてですが たたき台をなお提出してみます。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところの――場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。(《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》を 非経験の領域についても 概念・観念・ことばとして単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。ナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。しかもこの神を見ただとか神の声を聞いただとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶようになっている。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているにもかかわらず 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人には事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場があるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであっても〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は その現実性をおそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の信憑性にかかっているであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つかは おそらくその検証が出来ない。ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来る。ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れないけれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《無心》という場合も その無心という第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにするものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。  ☆ こういうたたき台とそして 質問者の思わくから出発しています。

回答No.8

拙い乍らも此処で私見を纏めさせて頂きますと、非常に勉強になりますから、或る著名な武道家の方が無心状態の挙動の説明の為に使われていた内容を勝手に引用させて頂きながら愚拙なりの話しを進めて参りますが、何卒御容赦を御願い申し上げます。 「一振りの太刀の軌跡は【記号】である」と其の方(Knight称号保持者)は講演やら著作やらで語られていたのですが、其の内容からも類推され得ます通りに、文字・話し言葉・ボディランゲージを含めまして、あらゆる意思伝達媒体の表現が【記号】に留まっていますよね。 従いまして、若し酷く個性的な表現で其の体験談が語られたのでしたら、それ等の表現方法に適切な修正を施して遣りませんと、主観的な幻想の共同化さえもが容易にならないのではないでしょうか? つまり、意思伝達媒体の伝達内容の解釈手段を、最初の人類がどの様にして共有したのかが明らかになりませんと、【『善悪を知る』前の絶対的な閃きの共有の可否】という質問内容の共有が難しいだろう、と未熟な私には感じられました。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  質問者からはなおもご回答内容について疑問質問が残ります。お手数でしょうがよろしかったら その考え方をめぐってさらに分かりやすいご説明をたまわれれば幸いに思います。  ★ 【『善悪を知る』前の絶対的な閃き・・・  ☆ と規定されています。すなわちその焦点は  ★ 絶対的な閃き  ☆ の《絶対的な》という表現にあります。  どういうことかと言いますと  ○ 神を見た。  ☆ という告白は その人の主観〔とそれを聞いた人たちがそれは主観としておさまるものだと捉える限りでその主観内容〕における限りで  ★ 絶対的な閃き  ☆ と言うのと ほとんど変わらない。とまづ考えられます。  《見た》という言葉を文字どおりに採れば それは直感や直観としての《ひらめき》ではなく 実際の直接の一次的な知覚体験を言っていますが これを一人のひとの主観の中におさまるものと捉えておけば その扱いは 言わば間接的なものを扱うかたちと同じようになる。こういう但し書きのもとに まづ上のように考えられます。  そうしますと すでにそのまま じつは 何の無理もなく  ★ 主観的な幻想の共同化  ☆ は それとして ふつうに自然に(というのは 会話をとおして受け取った限りでということですが)出来上がります。  ★ それ等の表現方法に適切な修正を施して遣りませんと  ☆ という条件は 基本的には要りません。《まぼろし》に過ぎないと見ておけば足りますから。  確かに中には このまぼろしの主観が そこから経験合理性にも合った表現で示されるということもあって こうなると やはりふつうに経験思想や経験科学の目で互いに批評し合い評価し合えばよいということがあります。  回答No.1からのやり取りで 《神を顔と顔とを合わせて見た》というよりは 《神をその背面において見た》という捉え方を質問者からは提出して来ています。これなら 哲学として話し合いのできる主題になっていると思っているのですが どうでしょう。  けれども そうならば むしろこうなりませか? すなわち  ★ 【『善悪を知る』前の絶対的な閃きの共有の可否】という質問内容の共有が難しいだろう、と未熟な私には感じられました。  ☆ というよりは 質問内容をまづ共有し得て しかもそれにとどまらず  ★ 【『善悪を知る』前の絶対的な閃きの共有の可否】  ☆ についても すでに人びとは自由に・しかも経験合理性での問題として考え合い議論し合うことが出来るようになる。  ★ つまり、意思伝達媒体の伝達内容の解釈手段を、最初の人類がどの様にして共有したのかが明らかになりませんと  ☆ という条件は この場合 要らないと思われるのです。  どうでしょう?  * ヒラメキがあるところに いわばその《間接的な神体験》の言葉化があることだけで その内容もその内容についての人びとの見解をも 共有することができる。のではないか?  ただし 《神を見た》という知覚の第一次的な直接的な体験は いくら言葉にしても 人びとは共有し得ない。そうではないか? このように問うています。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 【Q:八方美人的な信仰】 ~~~~  「建て前」への準拠は騙し合いを含んでいるのでしょうか?    ~~~~~~~~~~~~~  ☆ このご質問に答えるのは ややこしくなると思いました。  1. 個人の信仰と信仰者集団と称する組織宗教とのきちんとした定義による区別  2. 《八方美人的な信仰》とは何か?  3. 社会一般における《ホンネとタテマエ》についての議論(定義)  4. そのあと (1)(2)と(3)とのあいだで 見方を展開することになる。  よって 回答が 正直に言って しにくい。こう思います。  やぎゅうさんの中では しっかりと整理されているのかと思いますが ちょっとどこから始めればよいかと 惑います。ので 少なくとも展開の仕方によって回答しやすくなったと見られないかぎり 今回は投稿を控えたいと思います。あしからず。

回答No.7

#3からの続きです。 例えば、怪しい健康食品とか通信販売の保健用運動器具とかの宣伝では、利用者達の体験談がよく引用されていますが、其の同じ言葉に翻訳され得る様な体験を他の顧客候補者達もが味わえる(共有し得る)とは限りませんね。 従いまして、其の宣伝の時に当該企業は『個人差の存在』を訴えて、「出演者達の感想の内容が主観的な情報に留まっている」という旨の言い訳による卑怯な【責任逃れ】をしているでしょう。 だから、ましてや信仰の場合には更に個々人の体験が共有され難い、 と考えられませんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  申し訳ないが 反対の見方を述べます。  商品の利用効果が人によって違うという問題。個人差があるということ その意味でも効果は主観の問題にとどまるということ。  そして そのような事情を持ち出すことは 商品の販売会社が 責任逃れにおこなっているのではないかということ。  以上のような内容は じつは おおむね人びとに共有され得ましょう。  ましてや この相対的な経験世界を超えたところのナゾに対する人の主観という問題にかんしては ナゾがたとえば無根拠として――想定されたあと それとして――確定されたなら その想定に基づく限りで類型的な外枠といったことは 一定の中身のあるものとして人びとに共有され得ましょう。  つまり 直感ないし直観としてのヒラメキという類型が 無根拠のナゾに対する主観というコトに共通に経験されていると見られるでしょう。  ただし 《神を見た。または 神と話をした》にかんしては その《見る。話をする》というそのコトじたいについては ひとりの主観を超えて共有されることはないと考えられます。  その意味は ヒラメキは要するに《神と人との関係》そのコトを表わしているのではなく そのコトをいわば間接的にしかもイメージとしてのごとく・ということは 仮りのしるしのようなものとして表わしているに過ぎないと思われるからです。《見た。話をした》という直接的な《神と人との関係》は 人間にとって知り得ない――ともかく何らかの表象からして出来ない――という見方です。  つまり 蛇足としてですが 共有しうるコトとして言えば:  神と人との関係としては 人が神を見たといった体験は 人びとが共有しうる類型をかたちづくらない。このことをも 消極的なことがらになりますが 共有しうると言えましょう。  そうして じつは 《見た》は共有し得ないけれども 《神の背面を見る》という言い方での類型的な体験の共有は 出来るのではないか。それが 経験世界を超えたところのナゾとの人間の関係のあり方になるのではないか。  こういった見方をしています。これが たたき台です。どうでしょう。

  • hekiyu
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回答No.6

神を見たという命題は共有できないが、 キリストの遺体が消えた、ということは 神が隠したということだ。 その「神が隠した」ということは共有できるだろう。 てことですか? あれですね。 この世界は存在する。 存在する、てことは誰かが創ったから存在するのだろう。 創った誰か、とは神である。 神を見た、てことは共有できないが、この世界が存在し それは神が創った、てことは共有できるだろう。 てことかしら。 訴訟でいう状況証拠(間接証拠)みたいなもんですかね。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は 関心の的が違っていました。  たぶん イエスの死骸を神が隠したかどうかにも あるいは 神がこの世界を創ったかどうかにも 質問者は関心はなく しかもそれは おそらく表現のあやという問題におさまることではないかと思っています。  ★ キリストの遺体が消えた  ☆ のは どうしてか あるいはほんとうに消えたのか これについては分からないのだと思います。なぜと言って そういう物語として語っているのであって 聖書記者は事実を追い求める仕事をしているわけではないからです。  ★ この世界は存在する。 / 存在する、てことは誰かが創ったから存在するのだろう。  ☆ これも 表現の問題です。この経験世界を超えたところにナゾの無根拠を置くとするなら それが絶対であり神であり この神については 絶対であるからには 絶対者として表現してもよい。さらには そのように人格に似せて表わした上に この相対世界の造り主だと捉えてもよいだろう。ということで 創造主に仕立ててすべての物語を編んだ。ということだと考えるからです。  《絶対なる無根拠》なら ブラフマンでもよいでしょうし アミターユス(阿弥陀如来)でもマハーワ゛イローチャナ(大日如来)でも構わないはずです。しかも 《無い神》でもよく 有神論と無神論とは互いに同等であると考えられます。  ○ 神の背面は人間も見る。(人間は神の後ろ姿を見る)。  ☆ というのは イエス・キリストの――物語に関する限りで――生きた生とその死のあとに弟子たちが受けた影響にちなんで 捉えたものです。  つまり 弟子たちを初めとして 誰ひとりとしてイエスが 神の子であり神であると見るほどの存在ぶりだったとは気づかなかった。磔で死んだあと――たしかに墓から死体が消えたということからでもあるのですが―― 弟子たちにとってイエスは〔むろん あぁ いい先生だったが しょせん人びとの中の傑出した偉い人であるというに過ぎなかったと思っていたところ〕 生きているという思いが どうしようもなく 湧き出て来た。  つまり そのことは――そしてそれが イエスは神の子であり神であるところのキリストなりということですが―― イエスの生前には決して全く分からなかった。気づかなかった。しかもただし そういうことは 生前にイエスは言っていたということにも気づいた。  《わたしが去らなければ おまえたちにおまえたちの弁護者である神からの聖霊はやって来ない》とも言っていた。  生前にその聖霊なる神がすでに人びとに現われたなら それは ただの魔術の力かあるいは人間の最高のだが理性の力か何かだと思ってしまう。  けれども 生前にそのような聖霊なる神のことについて伝えておかなければ 死後にイエスが復活したとしても それは おれたちもほんとうに心からイエスなる先生を愛し一体となっていたんだなといった思いを確かめ合うというただの一時的な現象に過ぎないと思ってしまう。  聖霊の力は 一人ひとりの身と心に 泉から湧き出る水のように どんなときにも力となる現実なんだと初めて知った。  ――これが 神の背面を人びとは見るということの中身です。  《神を見た》という命題は 共有できないということに代わって 共有できることは何かを考えるようになってしまいましたが。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

反証可能性がないから共有も出来ませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  あぁ えぇ 科学としての判断基準を持って来られましたか。    これは 二の句が継げなくなりましたが 考えてみると この質問は特殊な種類に属するかも知れません。  でも哲学であり 経験科学の観点からも理論的に扱い得るというところを 次のように考えます。  まづ明らかに《信仰》を しかもそれを土台として 扱っています。その限りで おっしゃるように経験合理性によっては判断できない命題である。こうなると思います。  ただし この非思考とも呼ぶべき信仰を 今度は 経験科学の観点から哲学すると どう捉えられるか? こういう領域にも入っていると考えます。  裏ワザのようにさえなるかも分かりませんが こうです。  ○ 非思考の領域のことについて ある人がそれを見たと宣言した場合 その宣言内容は ほかの人が共有することが出来るか。  ☆ 出来ないという答えをもって 問うているのですが けっきょく勘どころは いまの段階で考えるに その《見た》という事件のほうを扱うのではなく その見た結果としてどういう神についての観想や思想が得られているのか? ここに問い求めの的があるように思います。  どういうことか?  たとえまぼろしの物語のような話であっても その虚構が あたかも主観にとっては真実であるとうたっているときには 事実という情報とともに その二つの事柄で現実をかたちづくる。こともありうるのではないか?   いくら空想であってもそこになにがしかの人間の真実が含まれているという主観内容である場合 この《真実》とそして科学的な反証可能性を持つ《事実》とのふたつで 人間にとっての《現実》をかたちづくる。のではないか。  その例は ちょうどNo.1でのやり取りにも現われていると思っているのですが どうでしょうか。  もしこのまま話をすすめますと:  虚構を容認する主観真実を 大きく現実の中で 経験事実と絡み合わせて どう捉えるか? という哲学の課題が持たれることになるのではないか。  この主題をここではもう広げませんが それには よく耳にする《神を見た》という宣言をどう扱うか これについてしっかりとした答えを出しておけば 話が早くなる。と思われます。  したがって 《神を見た》といううったえに対しては  ☆☆(趣旨説明欄) ひとつの解釈としては 《神の背面を見た》あるいは《神を見たという将来の起こるべき事件を予感した》であるのではないか?  ☆ といった見方を固めておくとよいと思ったのです。  どうですかねぇ。あいまいなままに終わりましょうか。どうでしょうかねぇ。  * すなわち 《神を見た》をまんざら無下に門前払いするのではなく 神そのものを見たというのではなく そうではなく 神の後ろ姿 これは人間も見ることができるかも知れない。こんな見方です。

回答No.4

続きです。 数学・物理学等の場合の閃きの内容は再現され得ますが、 前回に申し上げました閃きの内容は【感性】に直結する物でして、 「(殆ど?)再現され得ない情報」の信憑性の乏しさに言及させて頂きました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ここは細かくまいらねばならないと考えます。  ★ 数学・物理学等の場合の閃きの内容は再現され得ますが、  ☆ 《ヒラメキの内容》が何を意味するか?  ヒラメキ(直感ないし直観――つまりおっしゃるように感性としての知覚ですね――)そのものの再現なのか。それとも そのヒラメキをすでに言葉にして説明したその内容の再現なのか。つまりは この後者はすでに思考において追認するかたちを言っていますが 明らかに再現可能です。  ヒラメキそのことの再現が 数学等の理論内容を持つことがらにおいてあり得るか?  たぶん 当人が 思い出しつつ追認しつつヒラメキに近いそのコトを再現することはありうるかも知れません。けれども 当人よりほかの人が 同じヒラメキを再現しうるか?  これは どうでしょう。何とも言えないと言うべきでしょうか。微妙ですね。    仮りに  ★ 数学・物理学等の場合の閃きの内容は再現され得ますが  ☆ として話を見てまいります。  ★ 前回に申し上げました閃きの内容は【感性】に直結する物でして、  ☆ このことには 誰からも異論は出ないものと思います。《思考を超えている》ことだと考えられますから。  ★ 「(殆ど?)再現され得ない情報」の信憑性の乏しさに言及させて頂きました。  ☆ ここで見方が分かれます。あるいは 質問者としては 《神に直結しない数学や物理学の理論につながるヒラメキ》の場合と神にかかわるヒラメキの場合とに分かれると見たのでした。  そして確かに 上に仮りの設定をしたように 前者の場合に《ヒラメキそのことの再現が可能であるとすれば》 もうそれは打ち捨ててよいということになります。神にかかわるヒラメキで すでにその再現が不可能だと思われる場合に限って話をすすめればよい。確かに こうなります。  さて話は絞られました。  ★ 「(殆ど?)再現され得ない情報」の信憑性の乏しさ  ☆ ところが ここでも上とは別の意味で 場合がふたつに分かれます。すなわち  ★ 情報  ☆ とは何を言うか? ここで二つの場合が考えられませんか?  ひとつは ヒラメキそのこととしての情報であり もうひとつは ヒラメキについてのすでに事後的に言葉で表わした内容としての情報のことです。  ということは 上ですでに《再現可能な情報については 第一次のヒラメキ自体についても――自然科学の理論をめぐる場合のように―― 共有することができる》と 仮定のもとに結論しています。  ということは さらに焦点が絞られ  ○ 神にかかわるヒラメキそのこととしての情報は 人びとによって共有されがたいだけではなく その信憑性も持たれがたい。こうであるか?  ☆ この問いに落ち着きます。  どうでしょう?   質問者としては ここで むしろずるい方法を用いて その問いにむしろ否で答えたいのですが どうでしょう。《信憑性は持たれ得る》という結論です。  (1) 〔答えとして〕:神にかかわるヒラメキは たとえ共有されがたいとしても 信憑性はむしろ確かなこととして人びとに与えられている。  (2) それは それこそが ヒラメキの中核としての《非思考という〈とき〉 もしくは 非思考という〈場〉》にもとづくかたちであると考えられる。それが 人と神とのかかわり(関係)あるいはつながり(神なる聖霊の人における宿り)だと――想定において――捉えられるからです。  (3) そして このことは 何度もおことわりしますが 《非思考》として起こる事件の想定における想定の内容そのものである。つまり《信じる》という発進およびその持続する動態である。こう考えます。  (4) なぜなら――どうして 信憑性が与えられると言えるのかについてですが なぜなら―― そうでなければ 無根拠で絶対なる神と言えない。そういう神を想定する意味も何もなくなる。  (5) 意味がなくなってもよいとすれば この世にこの人間の社会に ではどうして《かみ》という言葉があって用いられているのか? という問題に戻ります。そしてこの問題を問い求める限りで (1)から(3)までの答えに落ち着くものと考えます。  どうでしょう。  * 《神を見た》という命題は 共有できないが 《神》という無根拠なる存在(もしくは 無い神という存在)の想定は 人間にとって現実であるとしか考えられない。再現され得ないヒラメキが 無根拠のもとに人間にとって あらがいがたい現実を構成する。信憑性を超えた信憑性である。  質問趣旨のおぎないとして こう考えますので よろしかったらご回答内容をおぎなっていただければさいわいです。

回答No.3

たとえ自力で再現させられない内容が「神」に関わっていませんでしても、 もし集団と同時に其の閃きが経験されていませんでしたら、 それの信憑性が訝られやすくなる、と考えられます。 従いまして、「神」に関わる閃きは尚更に共有され難いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうとじぇいてぃーぴーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。(ご投稿が重複していますので どちらかが削除されましょうから こちらにも掲げておきます)。  ううーん。  ★ 「神」に関わっていませんでしても  ☆ この条件づけは どうでしょう?  正直に申しますが 神にかかわるかどうかで 天と地との違いが出る。質問者としましては こう考えます。  以下に理由を添えますが しかるべき場合には ご見解の中身をさらにあきらかになさってくださいますようお願いしておきます。  つまり  ★ もし集団と同時に其の閃きが経験されていませんでしたら  ☆ という条件に合う場合においても もし神に直接にかかわっていないなら その文章による説明をほかの人も共有することが出来る。こう思っています。  数学や物理学において理論をめぐるヒラメキの場合を事例とすれば よいのではないでしょうか。  あらためて 神に間接的にでもかかわる場合を考えてみます。ですがまづ《同時の体験》については  ○ ヒラメキは およそひとりの人間に起こることであり 同時にほかの人が経験することはないであろう。  ☆ と思われるのですが どうかということが ひとつです。(聖書には ペンテコステのとき同時に集団で一人ひとりに聖霊の降る体験が載せられています)。  言いかえると  ★ それの信憑性  ☆ は ヒラメキそのものの次元においてではなくなりますが・なくなるわけですが その中身については これを言葉で表現し得たならその内容を聞いてそれが妥当なものだと受けとめるかどうか そのようにして・そこで 決まると思われるのです。  その説明は あくまで仮りの表現です。たとえで伝えようとしているものでしかありません。  しかももし そこに 神のしるし・きざし そしてそれとしての人間の内面における予感 これらがあると仮りに受けとめたなら その人には 信憑性が持たれるでしょうし その人も――あくまで仮りの概念としてですが―― その概念の示す内容を共有することも出来ると思われます。  だいたいこのような事情を捉えていますが 問題はこのときの《ヒラメキの内容をめぐることばをとおしての(概念としての)共有》は すでに《神を見た》という次元を離れているということだと考えます。  それでは そのヒラメキが 《神を見た》ということそのものだったとしたら どう捉えるのか?  おそらく 《見た あるいは 話した》という――その人の主観におけるその人にとっての真実であると思われるところの――根源的なヒラメキであったとしたら そうだとしても 言葉による表現としての説明じたいは すでに《声を聞いた》という話になっています。むろんその《声》を再現するものではなく それは比喩です。  つまり あくまでその聞いたという中身を伝えて これをほかの人がどう受け取るかの問題になっています。神を見たという次元から離れています。  仮りに神を見たことが真実であり事実であったとしても その次元から離れます。そうだとすれば 離れてこそ生きる。  つまり ヒラメキに発する体験が 言葉をとおして考えるという思考の次元に降りて来ています。神にかかわっている場合を取り上げても そういうかたちになると考えます。  神を見たということは たとえそこにウソイツワリがなくても 人と人のあいだに伝わるというときには それは何らかの箱がかぶせられそのブラックボックスに入れられたかたちでしか伝わらない。のではないか。つまり 共有できない。  まとめますと:  ★ 従いまして、「神」に関わる閃きは尚更に共有され難いでしょう。  ☆ 一方で 神にかかわるヒラメキそれ自体を 共有することはないと考えられるとともに 他方で そのヒラメキについての――思考の次元に降りて来た段階での――言葉による説明をとおしてその中身を共有することは できる場合がある。  このように考えました。

回答No.2

たとえ自力で再現させられない内容が「神」に関わっていませんでしても、 もし集団と同時に其の閃きが経験されていませんでしたら、 それの信憑性が訝られやすくなる、と考えられます。 従いまして、「神」に関わる閃きは尚更に共有され難いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうとじぇいてぃーぴーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ううーん。  ★ 「神」に関わっていませんでしても  ☆ この条件づけは どうでしょう?  正直に申しますが 神にかかわるかどうかで 天と地との違いが出る。質問者としましては こう考えます。  以下に理由を添えますが しかるべき場合には ご見解の中身をさらにあきらかになさってくださいますようお願いしておきます。  つまり  ★ もし集団と同時に其の閃きが経験されていませんでしたら  ☆ という条件に合う場合においても もし神に直接にかかわっていないなら その文章による説明をほかの人も共有することが出来る。こう思っています。  数学や物理学において理論をめぐるヒラメキの場合を事例とすれば よいのではないでしょうか。  あらためて 神に間接的にでもかかわる場合を考えてみます。ですがまづ《同時の体験》については  ○ ヒラメキは およそひとりの人間に起こることであり 同時にほかの人が経験することはないであろう。  ☆ と思われるのですが どうかということが ひとつです。(聖書には ペンテコステのとき同時に集団で一人ひとりに聖霊の降る体験が載せられています)。  言いかえると  ★ それの信憑性  ☆ は ヒラメキそのものの次元においてではなくなりますが・なくなるわけですが その中身については これを言葉で表現し得たならその内容を聞いてそれが妥当なものだと受けとめるかどうか そのようにして・そこで 決まると思われるのです。  その説明は あくまで仮りの表現です。たとえで伝えようとしているものでしかありません。  しかももし そこに 神のしるし・きざし そしてそれとしての人間の内面における予感 これらがあると仮りに受けとめたなら その人には 信憑性が持たれるでしょうし その人も――あくまで仮りの概念としてですが―― その概念の示す内容を共有することも出来ると思われます。  だいたいこのような事情を捉えていますが 問題はこのときの《ヒラメキの内容をめぐることばをとおしての(概念としての)共有》は すでに《神を見た》という次元を離れているということだと考えます。  それでは そのヒラメキが 《神を見た》ということそのものだったとしたら どう捉えるのか?  おそらく 《見た あるいは 話した》という――その人の主観におけるその人にとっての真実であると思われるところの――根源的なヒラメキであったとしたら そうだとしても 言葉による表現としての説明じたいは すでに《声を聞いた》という話になっています。むろんその《声》を再現するものではなく それは比喩です。  つまり あくまでその聞いたという中身を伝えて これをほかの人がどう受け取るかの問題になっています。神を見たという次元から離れています。  仮りに神を見たことが真実であり事実であったとしても その次元から離れます。そうだとすれば 離れてこそ生きる。  つまり ヒラメキに発する体験が 言葉をとおして考えるという思考の次元に降りて来ています。神にかかわっている場合を取り上げても そういうかたちになると考えます。  神を見たということは たとえそこにウソイツワリがなくても 人と人のあいだに伝わるというときには それは何らかの箱がかぶせられそのブラックボックスに入れられたかたちでしか伝わらない。のではないか。つまり 共有できない。  まとめますと:  ★ 従いまして、「神」に関わる閃きは尚更に共有され難いでしょう。  ☆ 一方で 神にかかわるヒラメキそれ自体を 共有することはないと考えられるとともに 他方で そのヒラメキについての――思考の次元に降りて来た段階での――言葉による説明をとおしてその中身を共有することは できる場合がある。  このように考えました。

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