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《神を見た》とは?
- 共有できるものではない《神を見た》について考える
- 《神》は非経験であり非思考の場として人間が捉える存在である
- 人間の経験行為を拡大させ、ナゾや神秘体験として想像力を及ぼそうとしている
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こんばんば。 普段のbragelonneさんの文章は難しくて理解できないんですが、 この質問文は非常にわかり易く、 上から下までまさに正論の塊という感じでした。 僕の普段気にしてるところと重なるポイントなので。 突っ込みどころもすくないなーと。 それでは書くことがないのであえてお聞きしたい点を探すと (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。 これだけ唯一引っかかったんですが、言葉を通じて直接引き号の世界を捉えられるわけがないので、これは間接的に非記号の世界の描写に迫る? という意味でしょうか? それだと分かるんですが。 僕個人では、言葉を使って、いかに記号の世界を解体できるかが、間接的に非記号の世界を描き出すことにつながる、と思ってます。 (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は これは激しく同意です。 僕も、上の間接的な非記号世界の描写ともリンクしますが、背中、とは言い得て妙な表現だと思います。 普通に皆さん言うんですかねー? あまり聞かないので、これを読んでおおーと思ったので。 (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合 知らなかったんですが、bragelonneさんも、神と仏教の両方を扱ってるんですねー。 (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか? 一般の人にこれを言うと厳しすぎる気もするけど、哲学のカテゴリー内ではそうかもと思います。
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- codotjtp
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全てに当て嵌まる概念の定義は可能なのでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 全て〔に当て嵌まる概念の定義〕 ☆ を無造作に持ち出すのも 議論に困ります。 いまは 神の主題にしぼってください。 ○ 神とは何か? あるいは 神とは何でないか? そうして 《神は 神を人間が見たという体験を共有しえない存在として想定される》と ひとつの側面から切り込んだ定義について ここではその当否について問うています。 そうして その大前提には 普遍性を持つと思えて来ている次の定義があると言っています。むろんこれについても問い求めつづけています。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~ (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。 (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。 ~~~~~~~~~~~~~~ なお普遍性とは 人間の能力としての経験合理性にもとづく判断によります。あやまちうるという条件がついています。 ただし 哲学として普遍性が認められるという場合には 世界についての認識がまだ部分的なものであるに過ぎなかったというかたちで マチガイがあったと分かる場合が多いわけです。全面的に否定され捨て去られてしまうあやまちであるのでもないわけです。
- codotjtp
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神と神擬きとの峻別の一般的な根拠の有無が、 此処では問題になるでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 峻別の一般的な根拠 ☆ については 次のように述べています。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~ (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。 (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 神は想定によるというところに 根拠があります。この想定内容に照らして 《神もどき》を神にかんする勘違いとしてしりぞけます。 むろんこのような 神の定義についても問い求めているわけですが どうもこれがおよそ普遍的な定義の仕方であろうかと自負することができるようになって来ています。
> 《神を見た》は 共有できるものではない。 とは一概に言えないと思います。 たとえば アポロ計画で月に行った宇宙飛行士が 月から地球を見たときに思ったそうですが 「私は月を見るためにここに来たのではない、地球を見るために来たのだ。」 と 宇宙の漆黒の闇に浮かぶ青い地球は一体どのように見えたのでしょう。 真実のもたらす驚異的な感触は、《神を見た》とも言えるように思います。 見た者にとって、見る以前のヒラメキは不要です。 また、見ることに勝るヒラメキも無い状態だったはずです。 「個人における存在状況の一種のピーク」が見た時に訪れたと考えれば 見えたもの、そのものがヒラメキだったはずです。 つまり、有形のヒラメキだった可能性があるわけです。 そう考えれば、共有できる可能性もあると思われます。
お礼
へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ここは――この質問は―― げんみつにまいります。 ☆☆(趣旨説明欄) (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。 ☆ つまり もし宇宙飛行士が ★ 真実のもたらす驚異的な感触は、《神を見た》とも言えるように思います。 ☆ と言ったのなら それとして飛行士の主観の内において 真実だと言えると まづ考えています。 ただし問題は そのことが ほかの人びとによってそのまま共有されうるか? という問いであり 質問者のたたき台としては 否 だというものです。 ただし いま上に引いた一文は 微妙ですね。飛行士の主観の内なる体験を言葉にしたのではなく むしろその体験を追体験しているへたのすけさんの内面において 持たれた感触であるようにもうかがえます。 言いかえると そのような想像上の追体験においてすでに 飛行士の主観真実が ほかの人の内面において共有されたと たしかに見ておられるということかも分かりません。すなわち ★ ~~~ 「個人における存在状況の一種のピーク」が見た時に訪れたと考えれば 見えたもの、そのものがヒラメキだったはずです。 つまり、有形のヒラメキだった可能性があるわけです。 そう考えれば、共有できる可能性もあると思われます。 ~~~~~ ☆ というようにです。 そうしますと ひるがえって こういうことは 言えているのかも分かりません。 すなわち 飛行士の得た体験を想像するなら あたかもそこでは《神を見た》というような感覚をおぼえたのではないかと推理されうるのだと。 つまり《神を見た》というその真実の共有では必ずしもなくて きわめて微妙にそれとは違って 共有しえたのは 《神を見た》という感覚をおぼえたというような体験があったのではないかというその推定された想像内容が共有された。のではないかと。 たぶん ヒラメキ これも共有されることはないと考えます。 共有されうるのは そのヒラメキをすでに言葉にして表わしたその意味内容であるのではないか? そう考えると むしろ当たり前だとも思われるのではないでしょうか。 ですから こう考えられます。 神を見たというその本人は――その主観真実について 一般に真実だと見なすと想定しているのですから―― その真実をそのまま言葉にして表現することは出来るし ありうるし それを人に伝えてもよい。 ところが その《見た》という体験そのものが ほかの人によって共有されることはない。共有されるのは すでに言葉にして表わした文章をつうじて 成し得るものならば 神の仮りの姿が受け留められたといったコトであろうと思われるのです。 そしてこのように《神を見た》なる真実そのものではなく そうではなくそのあと表現された文章をとおして神の仮りの姿(偶像)が捉えられ そのように伝えられたというコト これなら 仮りの神が共有されたわけである。そしてこのような事態のほうが コミュニケーションにとっては ふつうに経験的におこなわれると言えるのではないか? ☆☆(趣旨説明欄) (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか? ☆ 《するなかれ》というのは その神体験そのものの共有のためにということです。表現すること自体は 自由ですから。 すなわち人びとは 《神体験の共有》を目指すのではなく そうではなく 神の仮りの姿の共有を目指せばよい。のではないか。
- NemurinekoNya
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まず、質問をします。 >>《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。 とありますが、 「非経験であり非思考」という言葉は、「いわゆる視覚などの五感の(経験)対象にならない、また(概念的)思考の対象にもならない」という意味に解釈してよろしいのでしょうか。あるいは、経験や思考を越えている、つまり、超経験的・超思考的で、そのメカニズムは説明不能なのだけれど、直観的・直覚的にのみ感得できる”何か”を意味しているのでしょうか。 bragelonneさんの質問を読んでいると、後者の意味合いが強いように読みとれるのですが、だとすれば、超経験的・超思考的と表現してもよいとも思うのですけれども、「非経験的・非思考的」という用語に何か特別な意味をこめていて、あえて使い分けをしているのでしょうか。 >>《神を見た》は その第一次的な知覚体験として… の「第一次的な近く体験」は、ある意味で西田哲学でいう「純粋経験」に近い経験にも思えるのですけれども、西田は「純粋経験」でえられる「何か」は真実であるという立場をとっていたと思います。もっとも西田の場合は五感の範囲内という制限がついていたように記憶していますが…。西田幾多郎は、自身の禅体験によって「純粋経験」という着想を得たといわれていますから、この純粋経験を非経験・非思考の場に拡張することによって、新たな展望が開かれるかもしれませんね。『善の研究』の中で、神の問題を取り上げていたようですしね。と、少し無責任な発言。 ☆☆☆ 今回の質問の核心は、 (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。 ですよね。 神的体験・神秘体験は、概念的思考や論理を超えたところに成立する個人的な体験ですから、ある意味で意味の最大公約数的な、普遍的な言葉や概念でそれを表現することは原理的に不可能ではないでしょうか。 比喩や、仏教の曼荼羅的な図像によってシンボライズし、概念的思考を離れて直覚的にそれを追体験(たぶんヨーガ的な手法になると思いますが)する以外、その真偽を確かめる方法はないように思われます。 神的体験、「神を見た」、「神を感じた」という《主観事実》に何らかの普遍性・真実性があるのならば、それが試金石になると考えますが、どうでしょうか? もっとも、僕は、「外界に事物は存在するかもしれないけれど、その存在性を確かめる方法は推測の蓋然性に求める以外にない」というかなり表象主義的な立場(bragelonneさん的な表現を借りると、僕は[心的・精神的、心的一元論的な]アマテラス論の立場になるのでしょうね、たぶん)をとりますので、神的・神秘体験すら人間の精神(論理、理性・悟性をはなれ、もっと広範な意味での精神、心理的活動という意味)内での事象、経験、表象と考えます。 したがって、神的・神秘的体験は、その体験者の主観事実として、その個別性・個人性の範囲内で、その存在性と「真実性」を有している考えます。 いやいや、さらに極論をすれば、(自然)科学的事実ですら、表象間の経験的(あるいは意味的)結合・関連、説明原理程度にしか考えていません。換言するならば、自然科学は、エネルギーや質量等々の人間の作り上げた記号にもとづく仮説であり、人間の自然理解の一つの方法に過ぎない、とすら考えています(この部分では、西洋哲学でいうヒュームの立場、仏教的に言えば経量部(きょうりょうぶ)の立場に僕は近いかも…)。[仏教哲学的に言えば、しょせん、自然科学はことば・記号による戯論(けろん)の世界にすぎない!!という立場] また同時に、『神・仏という概念ですら、表象、記号にすぎない』と考えています。 神・仏という表象、記号に対応する事物・存在が外界に存在するかどうかは、その(神的・神秘的)体験の個別性・個人性という観点からすると、理性・悟性(理性・悟性と言っても、それが数学的・記号論理的な言葉であれ、人間体験の個別性を除外した普遍的・抽象的な言葉による、言語的思考という意味で)の範疇外の問題であって、言葉・記号の抽象性・普遍性ゆえに、言葉や記号によるその存在証明は不可能と考えています。 (煎じ詰めると、この手の問題は、神学・哲学での唯名論とか普遍論とかの問題になるんでしょうね、たぶん。 なんて、しこたまアルコールを飲んだ、午前様帰りの酔っ払い僕の戯言です。間違っていたら、今日は笑って勘弁してください。) 以前、bragelonneさんの<<神の存在論敵な証明>>に対して、僕が苦言を呈したのはこの立場からの批判です。 ということを書くと、僕が《神は人間の精神である》《神は人間の想像の産物でしかない》と考えているように思われるかもしれませんが、そんなことはまったく考えていません。 《神》という言葉、記号は人間の創造物であるけれど、その言葉・記号が指し示すものが存在するかどうかは、人間の理性・悟性からは判断できない、「神は、存在するかもしれないし、しないかもしれない」というのが僕の立場です。もっとも、僕は「神や仏は、ひょっとしたら存在するかもしれない」派で、漠然とその存在に期待を寄せているクチですけれども。 卑近な例を上げると、 Aさんが食べたこともちろん、その食べ物の名称、存在すら知らない食べ物の美味しさを、Bさんがいくら言葉を尽くして説明をしても、Aさんにはその食べ物の味は分からない、と思います。その努力をするのなら、その食べ物を持ってきて、Aさんに実際食べさせる以外に方策はないのではないでしょうか。 もっとも、Aさんがその食べ物を実際に食べ、美味しいと感じてたとしても、その美味しさがBさんの感じた「美味しさ」と同一のものであるかどうかを、判断・判別はできないと、考えますが… その同一性を、bragelonneさんは、実際にできるかどうかは別にして、共感の観点からできるかもしれないと期待を寄せているように(「少なくともその努力は必要だ」と考えていらっしゃるように)思いますが、僕はこの点に関してはかなり懐疑的です。 「分からない人には分からない。この問題に関しては、理性や悟性、言葉・記号などというもの頼っても、無駄無駄。論理を超越し、感じろ!!それ以外に方策はない」という僕の立場は、この問題に踏み入ることをことさら避け、逃げていますかね。 ポリポリ。
お礼
この質問は 独立した主題を成すと考えていましたが 必ずしもそうではないようです。 ご自身の神観あるいは信仰について明らかになさっています。 ねむりねこにゃあさん お早うございます。 (1) そうですね。 ★ ~~~~ 今回の質問の核心は、 (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。 ですよね。 ~~~~~ ☆ と確認しまして まづ 神秘体験をめぐっての話の進め方にちょうどよい図式がありますので それを掲げます。 ○ ヒラメキの位置づけ(ロゴスの階層) ~~~~~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ (2) 問題は 《神を見た》をどう表現しどう伝えるかだと考えます。 すでにはっきりとしたかたちで言いかえると――No.1の sheep67 さんがそう表現されていたように―― 《神を見た》なる体験を表わすことをとおして 間接的に神を指し示すことができるか? 指し示すことが出来れば その間接的な表象が得られます。 間接的なという意味は 神についての仮りの表象(つまり 偶像)における理解のことでしょう。その限りで 人びとにとって経験思考としての共通の理解が得られるかも分かりません。たぶんこのことが目指されるものと思います。 (3) 前項を整理しますと 次のような段階に分かれていると思われます。 (あ) 《神を見た》なる体験。(★ 「純粋経験」?) (い) この主観事実の認識として 主観真実。 (う) 主観真実を言葉にして表わす。 (え) 自己表現された主観真実を伝える。 (お) それは どのような共通の前提に立てば 意志疎通が出来るか。 (か) 言いかえると 経験合理性にもとづく互いに共通の理解が得られるものかどうか。 (4) (3)の(お)ないし(か)が (1)で確認したように 問い求めの核心ですので たとえば ★ 西田は「純粋経験」でえられる「何か」は真実であるという立場をとっていたと思います。 ☆ は 口幅ったい言い方になりますが まだ(3)の(あ)から(え)までの段階にあるように思います。 その意味は こうです。《神は これこれである》と経験合理性において直接に認識することは無理であるという前提に立つからには けっきょく経験思考において理解が得られるというその中身は 神の仮りの姿が 合理的に捉えられたというものに過ぎない。これです。 極端な話として 《純粋経験》がたとえ真実ではなく出鱈目であったとしても それの説明文によって人びとが共通の《神の偶像》を理解しえてそれをとおして神が指し示されたとわが心において納得しえたなら それをコミュニケーションとしては 良しとするでしょうし そこまでのことであるとも言わなければならない。と。 (5) 目先を変えますが たしかに神とは何かは 神は何々でないという規定によって或る程度は共通の理解が得られると思います。 ○ 神は 経験存在ではない。 ・ 人間の感覚や精神ではない。 ・ 感性や理性は 非経験の場としての神を受け留め受け容れる非思考の庭と成ることはあっても それら自体が 神ではない。 ○ 人間の持つ自然本性としての能力によっても 人は互いにその闇の中にあっても光を見ることが出来ると考えられる。けれども それは神の光ではない。 ・ すなわち 人間の思いやりや慈しみなどの愛によって ひとは互いに心に暖かみを感じることが出来る。これも闇に差す光であるが 神の光は別にある。 ・ あるいは 人間は科学という営為によって さまざまな不都合な事態を克服していくことが出来る。健康を増進していくこともできるし 道具をつかって便益を増すことができる。これも闇に差す光であるが 神の光は 別にある。 ○ すなわち 人間はその愛や自然科学のチカラによって心の闇を照らすことが出来るが 神の光は そうではなく われらが心そのものの燈心をともすチカラである。《わが心は すでに湧きいづる泉である》と成らせるチカラとしての光 これは おそらく人間の持てる能力にはない。非経験の場を受け容れた《わたし》のわが心に非思考の庭が成るという事態であると思われる。 (6) たとえばこのような光については イエス・キリストという存在が表わしたと伝えられているので この存在の歴史的な事例を見てみるのがよい。 もしイエスが 人間としてのみ聖書にしるされたようなことを言ったしおこなったのだとすれば それは 人間の自然本性の持ち得るチカラを存分に発揮したという捉え方で終わってしまう。つまり 人びとの中で卓越していたとしても 愛や科学のチカラで済む。 もしイエスが 神としてのみ振る舞ったとすれば たとえば兵士たちの《もしおまえが神なら その十字架から降りて来い》という挑発に乗って 奇跡のごとく降りて来たかも分からない。けれども キリストなる神の子でありみづからも神である存在であるだけではなく イエスという名のふつうの人間でも同時にあった。ゆえに 槍で脇腹を突かれると 赤い血が流れ出て来たようにそして死を死んだように人間でありつづけた。 そのあと そのように人間の愛および科学のチカラの限界をしめしつつ・確認しつつ しかもそれ以上のチカラは どこにあるかを指し示した。と弟子たちの主観において 何かが起きた。 生前には ペテロがほかの弟子たちも同じくというかたちで イエスを否認し けっきょくイエスに人間のチカラをしか見ていなかった。見えなかった。覆いがかけられていた。 しかもひょっとしてこれは神の光でありチカラであったかも分からぬ。という事態が起きた。 神の顔を見ることは出来ない。通り過ぎてから 神の後ろ姿を見ることができる。出来た。という事態が起きたのか。 ともかく 弟子たちや遅れてパウロらに それぞれの心の燈心があたかも永久にともされてしまった。泉が湧き出てしまった。 (7) 百聞は一見に如かず あるいは プディングの味は 食べてみなければ分からない といったことわざを引いておられますので・そしてそのようにして――それでもなおまだ間接的にだと思われるのですが――コミュニケーションにおいては 互いの理解を共通のものとすることが目指されるし のぞましい。こう思われますので このような(6)の事例を提出しました。 しかもこの場合も けっきょく《神を見た》はそのままでは共有されておらず され得ないものと思われます。 (8) ★ ~~~ 「分からない人には分からない。この問題に関しては、理性や悟性、言葉・記号などというもの頼っても、無駄無駄。論理を超越し、感じろ!!それ以外に方策はない」という僕の立場は、この問題に踏み入ることをことさら避け、逃げていますかね。 ~~~~~~~ ☆ この点にかんしましては (1)の《ヒラメキの構図》で応答しました。そしてそこからさらに 言葉による表現にかんしても 仮りの姿を指し示すものとして 事例を提出したかたちです。 (9) あとは わたしは 神について 存在するとも存在しないとも証明は出来ないという立ち場ですよ。 ・ 西田幾太郎は 例の《絶対矛盾的自己同一》について 挙げた質問の中でやり取りしたことがあります。【Q:コインキデンチア・オッポシトールム】でしたか。 ・ ★ ・・・かなり表象主義的な立場(bragelonneさん的な表現を借りると、僕は[心的・精神的、心的一元論的な]アマテラス論の立場になるのでしょうね、たぶん)をとりますので、・・・ ☆ 《仮りの姿》をとおしての表象 でないとすれば それは人間のアマテラス科学語および人格語についての過信になりませんか? 経験事物については アマテラス語による認識は それとして妥当性を持つと考えます。 ・ ★ 自然科学は、エネルギーや質量等々の人間の作り上げた記号にもとづく仮説であり、人間の自然理解の一つの方法に過ぎない、とすら考えています ☆ わたしは 自己表現は すべて広い意味での《芸術》であると捉えています。似ています。 残したものがあれば 補足欄でものします。
お礼
ひつじ67さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 僕個人では、言葉を使って、いかに記号の世界を解体できるかが、間接的に非記号の世界を描き出すことにつながる、と思ってます。 ☆ 《間接的に・・・描き出す》というところに 同感です。ということは おっしゃるようにこの(7)は 舌足らずだったでしょうか。 ただし ★ これは間接的に非記号の世界の描写に迫る? という意味でしょうか? ☆ これとは微妙にちがうようにも感じます。《描写》には迫らない。のではないでしょうか? 間接的に もしそうとすれば ほのめかす といった感じではないでしょうか。 要するに ★ いかに記号の世界を解体できるか ☆ だけでも よいと考えます。この《解体》をとおして――あるいは脱構築の作業としてでしょうか(あまり つながりはなかったかも知れません)―― どこかに非経験のナゾのことが見え隠れしたかに感じられればよいのだと考えますが どうでしょう。 ★ 〔神の〕背中、とは言い得て妙な表現だと思います。 ☆ これは 出典があります。長いですが引いておきます。つぎの23節です。 ▼ (出エジプト記 33章) ~~~~~~~ 11: 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。 * 15: モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。 ・・・ 17:主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」 * 18: モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、 19: 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」 * 20: また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 * 21: 更に、主は言われた。 「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。 あなたはその岩のそばに立ちなさい。 22: わが栄光が通り過ぎるとき、 わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、 わたしが通り過ぎるまで、 わたしの手であなたを覆う。 23: わたしが手を離すとき、 あなたはわたしの後ろを見るが、 わたしの顔は見えない。」 ~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~ (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合 知らなかったんですが、bragelonneさんも、神と仏教の両方を扱ってるんですねー。 ~~~~~ ☆ 或る程度はです。 ★ ~~~~ (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか? 一般の人にこれを言うと厳しすぎる気もするけど、哲学のカテゴリー内ではそうかもと思います。 ~~~~~~ ☆ なるほど。一般の人は 平気で言いますね そう言えば。スピリチュアルの方面がにぎわっているようですし。 たとえば《神は 人間の精神である》といった見方があとを断ちません。なんとかしたいとさえ思ったりします。