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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神について)
神についての説明とは?
このQ&Aのポイント
- 神についての説明は、現実の問題に対して取り組む際に必要な情報です。
- 神とは、個々人の主観的な内面に存在する関係です。
- 神に関する説明の一例として、物体や魂の本性の変化に関する考え方があります。
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- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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お礼
まるく2ぼらんちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 不可知論’で検索の最初に出てるWikiやコトバンクでは、Agnosticismの訳語であり、人間の経験を越えた問題・事象としてますね。すると不可知’も<経験事象>ではない事になります。 ☆ たしかそうだったのです。ですから 《非知》と言い換え それと区別することは 急遽の策です。 不可知にかんして まるくさんのほうがおくわしいです。 そして ★ 一つ提案ですが、曖昧さをなるべく避ける為には、哲学概念は原語も記した方が却って判り易くなります。 ☆ は おっしゃるとおりです。 しかも しばしばわたしは 自分流の意味合いに《勝手に曲げて》解釈したり言いかえたりしています。そういうときには 日本語だけで通しています。 ○ 「ヘーゲルと神の存在証明」 ☆ これは あとで読んで 補足欄にてご返答します。 ★ 私自身は「神は非知」とするのには賛成できますが、この御質問で問われてるのは{共通認識}ですので私達の意見が通るかは不明です。 ☆ まづここの Q&A の場からです。ほとんど誰も言っていないことではないかと 臆面もなく おもうのですが。 ★ ヘーゲルが‘精神ガイストと云ったのは、プネウマも霊魂’も含意させようとしてたと思いますよ。カントの理性に対抗してですから。 ☆ そうですか。神にかんして因果応報説をとなえるというよりは 歴史の狡知を推し出したのは よいことでしょうが あまりにも《神による経験世界への介入》といった側面を印象づけているかのように感じられます。 《精神ガイスト≒プネウマ=霊魂》なのでしたら カントの《物自体》も 煮詰めてしまえば 同じ《非経験の場》として捉えられるように思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 魂Soul霊魂、あるかないか。アウグスティヌスが言う「魂=実体」、これはうっちゃれませんよ。 精霊Puneumtologyは西洋では重要です。キリスト教では<神=精霊>となり、魂の事も含めて、仰るように「非思考の庭」の領域の事と考えられてますから。神’と同等、感覚でも理性の対象でも無い、と捉えられてますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だったら ふるい見方で《天使》 そして一般には《ヒラメキ》でよいのではないでしょうか。 ★ インドのブラフマン―アートマン>は東アジアでは<魂―魄>、エジプトでは<バーとカー>でしたか。何れも区別してますね。 ☆ あっ。ええ そのようですが これも打っちゃってしまいます。《非経験の場(あたかも 磁場のごとくチカラをもそなえているかも知れない)》で一括したいと思いますが 乱暴ですか? ★ 解剖しても器官が無ければ、有るとも無いとも判りません。これは近代西洋人には非知’と言えるのですか? ☆ 人間のとらえていることとしては 《経験事象∽理性・感性》と《非経験の場∽非思考の庭》とそしてこれら両者を橋渡しする《天使 ないし ヒラメキ》とがあるだけだと見ます。 ○ 人間にとっての現実 = 事実 + 真実〔事実の写し + ウソ(想像・虚構)〕 そして じつは 《真理=非経験の場》は 狭くは 《ウソ》にあたかも通路があり 広くは これら全体の現実をあたかも覆い包んでいるものと見られます。後者は 《遍在》をベースにした捉え方です。 (ここでは わざと《ウソ》という用語にしています。たぶん わたしの中のいぢわるの虫です)。 ★ {祭司―戦士―平民}という、デュメジルの3機能説を思い起しました。 ☆ これは これも 《公民(あるいは もっぱらの公民)‐市民(≒人間)》の二者関係に分けられませんか? というような勝手なことを考えます。 じつは ひとりの人間 = 内に《市民‐公民》連関をやどした存在 と見ます。 ちなみに 言語を アマテラス語とスサノヲ語とに分けてみると おもしろいようです。 すなわちご披露しますと ・ あやまちうるふつうの人間語が スサノヲ市民語です。 ・ 普遍性を問い求めた結果 その精髄を取り出したものを アマテラス科学語およびアマテラス人格語と呼ぶ。 アマテラス普遍語は しばしば《神聖にして侵すべからざるもの》としてあがめられ 一般にも現代においても《あやまち得ないもの》と思われているキライがあります。無謬性の神話です。 ○ ひとりの人間 = 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語(科学語・人格語)》連関 ★ サルタヒコ ☆ これは いささか懐疑的に捉えるならば スサノヲ市民の中から出て アマテラス公民に仕える者ですよね。それで アマテラス予備軍〔症候群〕 と呼んだりします。そして 同じくスサノヲ市民の中から 公民層に成ろうとする場合を アマアガリ・シンドローム と呼んだりします。 ★ マツロワヌ者 ☆ その昔 人びとは 収穫のあとその穫り入れをムラにおいて神々にささげ神々と共食していた。つまり マツリである。 どんちゃん騒ぎをいま措いておいて ところが或る日或る時 どこか上のほうから 声がする。マツリゴトを始めると言う。ムラムラのマツリを全部すべからくたばねる。おまえたちは おれたちアマテラス公民に貢ぎなさい。その見返りにくにを統治し経営してやるからと。 スサノヲ市民であるオホクニヌシは これに《くにゆづり》をした。 おそらく アマテラス族は どうかおれたちにマツリではなく全国を統一したマツリゴトをやらせてくれと言って 拝みたおしたのでしょう。 オホクニヌシのふたりの息子のうち一人は じつは マツロワヌ者でしたが けっきょく戦って敗けてしまいました。 オホクニヌシともうひとりの息子(コトシロヌシでしたか)は 主戦論も非戦論も けっきょくは人間のよわさから出るもの。どうせなら いのちをとうとぼうと非戦論をえらぶ。くにゆづりと言う。 ただし 実際にマツリゴトが 始まった。《アマテラス公民圏主導‐スサノヲ市民圏従属》の連関体制は それはそれは かなしい歴史が待っていました。 けれども いちど《ゆづった》からには おめおめと返せとも元通りにせよとも言えない。スサノヲ市民たちは ときを俟った。ところが すでにスサノヲ市民主権がとなえられ実際にうたわれるようになったにもかかわらず 《アマテラス圏主導》の世の中に慣れきってしまった状態が 慣性の法則にのっとるかのようになお続いている。 うんぬん。うんぬん。 お粗末でした。
補足
○ 西羽義夫:ヘーゲルと神の存在証明 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5832/1/hs02-043.pdf ▼ ( p.48 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ 直接知は知識全般を否定するのではなく,有限者しか認識できない範疇による媒介知を斥け,真の認識は無媒介的な「直接知」あるいは「信仰」によるものとする。 直接知は信仰と知識を対立させ,信仰を採るというのではなく,媒介知と信仰の対立の中で直接知としての信仰を主張するのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 考えてみるに すでに どう言いましょうか 《われ と 神》とが〔すでに〕地続きだと言っているものと思います。だったら 無媒介としての《直接知》が成り立つという議論なのでしょうね。 次の見方だと思われます。 ▼ ( p.53 ) ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「神は現在的であり臨在的であって、精神としてすべての〔人間をも含めた〕精神の内にある」と言われるのである。人間精神と神の精神が別箇のものとすれば,人間の一人であるヘーゲルが神の精神について『論理学』等の著述を書くことはできなかったであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような傾向は 古代人のたとえばアウグスティヌスに必ずしもつねに見い出されるものではないと思います。神とのあいだには超えられないへだたりがあると見た上で 神との近しさを願っている。つまりは けっきょく恩恵の問題であると見ている。 このヘーゲルの《直接知》の説のような精神の世界に入って行くというのは どうなんでしょう プラトンのイデア論の影響なのかどうなのか。 つまり 出しゃばりますが わたしなら 神とわれとのつながりは――けっきょくやはり恩恵なのですが―― ヒラメキひとつに見ます。あとは 《精神世界におけるいと高き場としての直接知》うんぬんというふうに そもそも詮索しません。ヒラメキがあるかないか これのみです。 《純粋精神 ないし 純粋意識》といった方法は 使い勝手がよくないと自覚すべきではないでしょうか。船酔いをするのが せいぜいではないかと。 ▼ ( p.48 ) 「直接知並びに〔古い形而上学の〕媒介知も完全に一面的である」こと,「真実なものは両者の統一である」ことである。従って「直接知は〔真の〕媒介知の所産であり成果である」と把握されなければならない。 ☆ とは言っています。 同じく まさに《船酔い》の怖れについてはっきりと述べています。 ▼ ( p.50 ) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・即ち神は無規定的たらざるを得ないため,「宗教的自我自身」が直接知の「目的」,「対象」になることを意味する。 * 《神》ではなく 《宗教的自我自身》が目指されることになってしまうと。 次は 船酔いを超えて 蛸壺に閉じこもってしまう怖れのようです。 また直接知の主観が内容なき空虚な自己同一性,「抽象的直観」の境位にあることはこの主観が「自己の特殊性」に閉じ籠り,「他との共同性」を否定することであり,直接知の哲学は「若干の個人」の「秘教的占有物」となる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ ( p.50 ) ・・・宗教は表象 哲学は概念的把握を境位にしている。 ☆ ですから 《非思考の庭〔なる信仰の動態〕》としてのいまひとつ別の境地を忘れてはいませんかとなります。《表象》は 神を相手にする場合には しばしば観念の神――思考や想像の産物としての神(つまり 言葉の体系)――の世界に落ち入りがちです。 ▼ ( p.50 ) しかし,ヘーゲルは神は優れて「精神」であるとする。「神は最高の感情ではなく,最高の思想である。この思想は表象の中に引き下げられるとしても,この表象の内実は思想の国に属する。」 ☆ こうだとすれば それはそれで 開き直るすべはあるわけです。すなわち 神はあくまで補助線であり 補助線であるに過ぎないものだという大前提に立って 神学をかたちづくるという行き方です。 つまりこの場合は もう《直接知》がどうだこうだという思わくからは離れているはずです。どこまでも補助線を引いて行くのだという経験科学に徹するといったような学的方法。 次のくだりは 一方での《あくまで主観におけるヒラメキ∽精神の昂揚の世界における直接知の探究》と 他方での《補助線による経験科学としての神学の構築》といった両様の行き方を示しつつ まとめているように思います。 ▼ ( p.49 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2.4.3 直接知が対象を知る場合,それは単に知る(wissen)のみでなく,「確実な」(gewiss)ものとして知るのである。直接知には論証の入る余地はないため,真理の基準は意識の直接性,「信仰の核心」たる確信に求められ,「私がそれを確実に知るから正しい」という論法が行われる。 だが確実性(確信)と真理性,知と認識とは同じものではない。「知ることは何かが私に対して,私の意識の中にある主観的な仕方である」が,認識するとは「普遍的なもの」を「その特殊な規定に従い自己における連関として」知ることを意味する。 真理には確信が伴うが,確信があるだけでは真理とは言えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《補助線》ということにかんしても 出て来ますね。 ▼ ( p.53 ) しかし直角三角形からピュタゴラスの定理の結果にたどりつく証明そのものは,「補助線」を引く「我々」の介入で「事象の本性にあるのとは違った行程」を進み,この進行は我々の「目的」により規定されるのである。 ☆ そのあとにも続きますが そしてこの指摘は むしろ補助線の効用の無さまたは弊害をも言っているようですが わたしたちは《我々》の確信と試行錯誤の精神とで 補助線の作り出す科学という行き方もあると主張したいと思います。 そして結局は・先走るなら 《主観における確信としての直接知》と《補助線による幾何学的な冷たい間接知》とは さらに大きく人間存在の全体としては同じひとつの総合的な神学へと進められて行くものと考えたいと思います。 神の存在証明の本論をまだ残していますが ひとまづここまでをわたくしの批評としたいと思います。どう展開して行きますか。