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火事場の馬鹿力と閃き
- 武術で無心状態が体得されますと、インバウンド型テクニックが可能になります。
- 無心状態では身体的な癖が助長されるだけで、極限状態からの回避の優先が強いられている際には、新しい身体操作技法を閃きにくいです。
- 思考休止中に閃きが湧き起こりやすいのか、理解が停滞しています。
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補足がありましたので追加の回答です。 現代科学はそれ程立派でしょうか? 標準生理学第6版には人体のフィードバック機構の10パーセント程しか研究されていないと載っています。現代科学はその程度なのです。現代科学を信頼しすぎるのも良いことではありません。私はソクラテスの『無知の知』を覆せるほどの科学は知りません。 <小野田少尉を極限状態から救った判断は素晴らしいものですが、 <(仰る通りに、)有数の剣士になれた経験の賜物でそれが実ったのですから、 <其の経験が『助長』されただけに過ぎない、と言えます。 そうですね。銃弾を避けたのは剣士としての経験の賜物です。しかし視力が一気に上がり、真夜中でも周りが明るく見えるというのは剣士として得られる経験の賜物とは思えません。 <極限状態へ追い詰められた際には、幼少時代から体験し続けてきた文化的な基盤のせいで、 <民族的な個性・癖に基づいた『判断基準』への依存が露呈しやすい。 これはあります。小野田少尉も最初は極限状態で切り込み玉砕を試みました。これは日本民族特有の判断基準の賜物と言えるでしょう。 <(2)たとえ極限状態の中で技術的な進歩を体験し得たとしましても、 <思考停止状態に於いて其の判断が<行なわれやすい故に、冷静な状態に戻った際に、 <必ずしもそれを記憶に残せているとは限られず、 <そういう体験を味わった方々の多くが意図的には其の技術を再現し得ずに留まっている。 これにつきましては、私はその時の戦闘の技術を今、再現しようとしても可能です。一応、記憶には残ってはおります。ですのでこれも例外はあると思います。 <(3)『発明の様な閃き』と違い、咄嗟の判断は当事者達の特殊な状況にしか役立たないかも知れず、 <応用され難い。 そうですね。私自身は発明的な閃きという何かを一新するほどの閃きは人生の中では無かった気がします。私自身の人生経験や命がけの戦闘の際でも『閃き』と呼べるものは無かった気もします。閃きというのは本当にあるのでしょうか? 逆にあなたは閃きとして得られたものに何がありますか? <つまり、たとえ極限状態に追い込まれましても、最先端の現代科学を学んでいませんでしたら、 <現代科学の理論に立脚した閃きが舞い込んでくる、という可能性は殆ど期待され得ないのです。 現代科学はそれ程立派でしょうか? 私は英英辞典や医学大辞典などの専門書を10冊以上は校正した経験を持っていますが、それで感じたのは「学問は芸術でしかない」です。現代人の科学に対する一種の盲目的な気持ちは危惧しています。 <従いまして、#2の欄でも触れました通りに、 <極限状態での閃きのレベルは普段の経験によって大いに制御されるのです。 それは正しいと思います。一方で経験だけでは説明できないことも確かにあると思います。 こういうご時勢ですので回答の文面も冷たいかもしれませんが、悪しからず。読んでくださって有難うございました。
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連投すみません。 そういえば小野田少尉も戦場では危機に陥ると集中力が飛躍的に高まったそうです。 彼は絶体絶命の危機では20メートル先の葉の葉脈ひとつひとつが完全に見えたそうです。また、真夜中なのに回りが昼間と同様に明るくなったそうです。同時になぜか精神が異様に安定し、絶対に生き残れると自信に満ちあふれたそうです。 ちなみに小野田少尉は一直線にお腹へ飛んでくる銃弾をかわしたという経験もあります。県下では有数の剣士だからこそここまで辿りついたのでしょう。 <其の極限状態の時に、何らかの新しい閃きが舞い込んでくる訳では御座いませんでして 小野田少尉、私の極限状態を考えてみるとこの前提も違っているのではないでしょうか。 色々と反論ばかりして申し訳ありませんでしたが、読んでくださって誠に有難うございました。
補足
有り難う御座います。 反論だとは思われませんが、 矢張り、少しの矛盾が含まれている様です。 小野田少尉を極限状態から救った判断は素晴らしいものですが、(仰る通りに、)有数の剣士になれた経験の賜物でそれが実ったのですから、其の経験が『助長』されただけに過ぎない、と言えます。 つまり、たとえ極限状態に追い込まれましても、最先端の現代科学を学んでいませんでしたら、現代科学の理論に立脚した閃きが舞い込んでくる、という可能性は殆ど期待され得ないのです。 従いまして、#2の欄でも触れました通りに、極限状態での閃きのレベルは普段の経験によって大いに制御されるのです。 因みに、江戸時代には、大火事が町屋で起きましても、逆の手足を出す西洋近代体育的な走り方を当時の庶民が知り得ませんでしたので、其のせいで、多くの方々が其処から逃げ遅れたそうです。
<無心状態では身体的な癖が助長されるだけ という前提は正しいのでしょうか? 私自身、完全に無心状態(命がけですが)で闘ったことが何度かあります。(その時のことは記憶にも殆ど残っていないほどです。一応、その際には全て私が生き残ったのですが。)その時、自らの身体能力は確かに飛躍的に上がっていました。一方で、『普段は使わない技術』も無心の中で確実に使われていました。生き残る為に、普段では絶対に行わないような技術ばかりを使っていたといっても過言ではありません。また、無心状態になると雑念が消えて動きが洗練されるものです。少なくとも私はそうでした。ですので上の前提は間違っているのでは無いでしょうか。 <極限状態からの回避の優先が(建て前で)強いられている際には だからこそ回避する為に新しい身体操作技法を身に着けるのでは? 人は危機に瀕しているときほど様々な事柄を習得するものです。それは人生の全般に言えることです。逆にぬるま湯につかってはあまり成長しないのが人の常です。 逆に書いていて勉強になりました。有難うございました。
補足
回答を賜れまして、大変に有り難いのですが、 少しの食い違いが御意見の中に含まれている様です。 そもそも、【咄嗟の判断】は【発明の様な閃き】の一部に過ぎないのだろう、と私には思われます。 と申しますのは、答えを見付けられなくて悩んでいる時に、諦めて小休止を挟みますと、逆に其の御蔭で妥当な答えを閃かせて貰える可能性が高まったりもするからです。 しかも、次の3つの問題もが此処には関わって参ります。 (1)極限状態へ追い詰められた際には、幼少時代から体験し続けてきた文化的な基盤のせいで、民族的な個性・癖に基づいた『判断基準』への依存が露呈しやすい。 (2)たとえ極限状態の中で技術的な進歩を体験し得たとしましても、思考停止状態に於いて其の判断が行なわれやすい故に、冷静な状態に戻った際に、必ずしもそれを記憶に残せているとは限られず、そういう体験を味わった方々の多くが意図的には其の技術を再現し得ずに留まっている。 (3)『発明の様な閃き』と違い、咄嗟の判断は当事者達の特殊な状況にしか役立たないかも知れず、応用され難い。 従いまして、仰っている説明だけでは、思考停止が閃きを生む仕組みの解説の十分条件にならないのではないでしょうか?
- 雪中庵(@psytex)
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人間と似たような行動は、1cmの虫にだってとれる。 人間は、巨大な脳を持ちながら、なぜ虫と大差ない行動しか とれないのか? 虫のような条件反射的行動ではなく、脳内に巨大な外界を 再構成する事により、そこでの判断を介して「反射」する事で、 予測や抽象化(~言語)を可能にする。 しかし、そのインパルスのルートの長さが、処理速度を遅く するので、武術や直感的発想には向かない。 放心状態においては、そうした意識による反射反応の抑制が 解けて、第六感が蘇生する。
補足
度々ながら的確な説明を下さいまして、 誠に有り難う御座います。 因みに、身体機能の面では仰る通りなのですが、 それと科学的な発明の閃きとはどう関わって参りますでしょうか?
お礼
更に別のページ(http://okwave.jp/qa/q6881587.html)へと話題をスピンオフさせて頂きましたから、御覧になって下さいませ。
補足
有り難う御座います。 御存知でいらっしゃるかも知れませんが、江戸の庶民が火事場で万歳ポーズをとりながら慌てている、という絵画が残されています。 従いまして、其処からも伺われます通りに、ナンバ歩きしか知りえなかった庶民の場合には、たとえ「火事場で馬鹿力」を惹起されましても、其の能力を適切に扱えずに無駄に力まさせられるだけなのかも知れません。 つまり、普段からの稽古こそが突発的な緊急事態の為のフォールトトレラント的な準備になるのではないでしょうか?