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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:生前の絶対無と死後の相対無)

生前の絶対無と死後の相対無とは?

このQ&Aのポイント
  • 自己の誕生を他者達が認識した「後」には、生前の無が認識され得ますが、その『無』は誕生後の有との比較に依存しています。
  • 自己の死後にも、自己の死を他者達が生存との比較によって認識していかざるを得ませんので、その死さえもが『相対無』として認識され続けさせられるのでしょう。
  • 他者達からの認識に囚われ続けていますと、誕生によって比較され得ない頃の絶対無へと還元され得ないだろう、と考えられます。しかし、朱熹の考えとの齟齬を来たすのではないか、という疑問があります。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

 他者の認識の中での相対は,認識の主体たる自分自身と客体たる認識の関係を考慮していません。認識の対象がその領域に限定されるなら,絶対者を論ずることができないと思います。  そこで他者の認識自体を相対有とみなし,他者自身を相対無とするのが妥当かと思います。自己においても同じことが言え,主客が成立し認識可能である状態は,認識=相対有に対して自己=相対無であろうと思います。  死後のように認識の主客が不成立である状態は,相対する者同士がいないということですから,相対者は存在せず絶対者となるのだと思います。この絶対者は,生存する他人の生死に依存しませんから相対者になりえません。  以前の回答で,無極(絶対無)と太極(相対無)としていながら,無極即太極としましたが,軽率でした。無極も太極も絶対無であるから無極即太極であろうと思います。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 前回の展開(http://okwave.jp/qa/q6755450.html)を振り返りまして、質問内容の説明不足の残留に気付きましたので、私なりの推敲の上での再投稿を試みさせて頂きました。 因みに、『自己を【他者達による認識の客体】である』、と見做す着想の根拠は、「シュレディンガーの猫」からの類推です。 確かに、対象が死を迎えた処で、彼等の遺体が残り得る、という事情を踏まえますと、『【死】と【不在】との(安易な)結び付け』は成り立たないのかも知れません。 でも、その遺体をミイラ化させていませんでしたら、それ等は何れかの日に壊れていきますので、【不在】の状態になり得るだろう、と考えまして、この質問を提出させて頂きました。 つまり、「『シュレディンガーの猫』の死」が【相対無】なのか【絶対無】なのか、という問題に繋げているつもりで、申し上げております。 でも、矢張り、「死後」の状態は「(他者達からの認識によって比較されていない)生前」の【絶対無】と同じなのでしょうか?

その他の回答 (6)

  • el156
  • ベストアンサー率52% (116/220)
回答No.7

#2です。 私は質問を取り違えていたのかもしれません。自己が誕生する前の「無」を他者が認識可能かどうか、という点については、ここでは問題の対称範囲外のことだったのでしょうか?

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6875166.html 此方への回答をも賜れますと助かります。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 解説を加えさせて頂きますが、若し下記の内容を既に御存知でいらっしゃいましたら、無礼への御容赦を御願い申し上げます。 周知の通りに、未発見の事象の分量は無限なのですが、その中には、技術が無限の進歩を辿りましても見付かり得ない物(存在不可能者)もが含まれていますね。 しかも、厄介な事に、『存在不可能者』達が具体化され得ないせいで、【存在証明】・【不在証明】のどちらの場合にも集合の纏まり(領域)でしか為され得ない筈です。 従いまして、そういう厄介な具象は存在しているのか否かが分からないせいで、たとえ喪失されましても、『それが無くなった展開』を知りようが無いのですから、そういう事態を仮に【〈絶対無〉即〈絶対有〉】と呼んでいるのです。 つまり、そう考えますと、この問題のややこしさが見えてくるでしょう。 そもそも誕生前の本人は認識の能力を養われていませんので、たとえ認識の対象の喪失が本人の周辺で起きていましても、それを本人が認識し得ない故に、その状態は上記の「絶対無」になりますし、死後でも同じでしょう。 然し乍ら、此処で朱熹による指摘が絡んで参ります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97#.E5.84.92.E6.95.99.E3.81.AE.E6.B0.97 即ち、「【太極】と【無極】との同一性」です。 確かに、「生前と死後との時点で対象に関われない、という意味での【絶対無】」の状態は、主客の一体性を志向していますので、それが【太極】に該当するのは分からなくもないのですが、若し【太極】が【無極】と一致しているのなら、先ず【無極】と【太極】との相違を把握している第三者の存在が必要になるのではないか、と思われたのです。 そこで、自己の誕生の前を『予想し得ない』他者達の存在を盛り込みまして、此の質問を提出させて頂きました。 因みに、Wikipdiaでも【太極】と【無極】とを安易に同一視していますが、2つの用語が鼎立している事情から類推して頂けます通りに、両者の起源は別です。

回答No.6

No4です。  他者達の認識の中において,猫の生きている状態と,猫の死んでいる状態は,生命の有無の観点で相対的ですから,生=相対有,死=相対無とするのが妥当かと思います。  死=絶対無との論が入り込む余地はおそらくないと思います。なぜなら,死体が猫の形を留めぬ無機物に分解拡散したとしても,彼らにとっては生命なき相対無であることに変わりはないからです。同様に彼らにとっては,誕生前も生命なき相対無でしょう。  生命の精神的側面は他者達には観測不可能です。もし,気の状態を観測する装置でもあり,環境の気とは明確な境界を持っていた集合気が,離散していく時点を特定できるなら,個の統合を失ったその時点が死と推定できるでしょうし,絶対無へ還元される時点だと考えられます。こちらの考えでは,生と死が不明瞭な期間はあるにしても,確率波解釈の歪曲解釈のような生死が同時に存在するということはありません。  シュレディンガーの猫の実験については,毒薬と猫の代わりに記録装置を置けば済むことです。一定時間後,記録を読み「10分前に崩壊した」とか「まだ崩壊していない」と事実を知るだけのことです。記録を読むまでは,崩壊したか否かは定まらないが,崩壊記録が残っている確率が時間とともに大きくなるというだけことです。  人間の認識には限界があって,個別の詳細が分からなければ,大数の法則で現れる統計的現象として捉える事しか出来ないのでしょう。そもそもマクロ事象は本質的には統計的事象でありながら,そこに古典的な物理学が成立しているのです。ミクロ事象においても量子的確率波の解釈がでてきて,こりゃ大変と騒いだのは物理学的方法に反しているのです。複雑なものを本質において単純化し体系化した知見として多面的に用がたせればそれでいいのですから。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 勿論乍ら、【死】は「相対無」に留まっていまして、それが「絶対無」になる可能性は無い、と予想されます。 但し、厄介なのは『【生前】との無関係性』の規定でして、【誕生】の前に【生前】の存在が分からない故の『絶対無』の有り方を朱熹が見落としていまいか、という視点にも注目しまして、前回の問いからの流れが展開しています。 因みに、次のURLにもスピンオフをさせています。 http://okwave.jp/qa/q6773469.html

  • el156
  • ベストアンサー率52% (116/220)
回答No.5

No.2です。 動物と虚数の例は、Aさんの例に直せば、私がAさんの存在有無を判定するする能力を持たない場合に相当し、最初の例に当てはめるなら「他者」が当人の存在有無を判定する能力を持たない場合にあたると思います。当人が存在している状態を知らないことと、その存在有無を判断する能力を持たないこととは同じ結果を生じるでしょうか。仮に「他者」が(これから生まれる筈の)当人が存在している状態を知らなかったとしても、人の存在有無を判断する能力を持っているのだとすれば、世界じゅうを歩き回って存在する人全てを確認した後に、「それ以外の人は存在しない」と言う事ができます。この結論は「(これから生まれる筈の)当人は存在しない」を論理的に含むのではないかと思います。 No.2の例に戻って、質問者が「Aさんは居ますか?」と聞いたとしても、「Bさん・Cさん・Dさん・Eさんと違う方はいますか?」と聞いたとしても、私は「Bさん・Cさん・Dさん・Eさん以外は居ません」と答える事ができます。その際私はAさんを特定する事ができませんが、私の「…居ません』という文脈は、論理的に「Aさんは居ません」という文脈を包含します。私の答えに含まれている訳ですから、このとき私はAさんの存在可能性は認識していないが少なくともAさんの不在だけは認識できていることにならないでしょうか。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6773469.html 此方にも派生の内容が御座います。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 すいません。 私の追加説明が不足し過ぎているのかも知れませんね。 更に事例を申し上げますと、生まれてきたばかりの嬰児達は、預言的にも【自分達の『子孫』の誕生の可能性】を知らなくとも構わないですよね。そして大人でも自分達の子孫と必ずしも巡り会えるとは限らないでしょう。 従いまして、子孫の誕生の確認の後に、その子孫の存在性と比較し得る場合には、【相対無】になりますが、【誕生】の絶対性が保証されていない子孫が想像されている場合には、実際の存在との比較を致せませんので、【絶対無】に留まっている、と思われますが、私の謬見なのでしょうか?

  • el156
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回答No.3

No.2です。 私は哲学をきちんと勉強している訳ではないので「質問に回答する」と言う程の知識を持ち合わせてはいませんが、最初の部分について一緒に考えさせていただいてもよろしいでしょうか。(申し訳ありませんが後半の無極、太極については知見がありません。)「A」という言葉の存在の可能性の予想さえも成り立たない場合というのは、普通にあることだと思います。その後、「A」という言葉の存在の可能性があることを認識するのはいつの時点なのかについて考えると、2つの場合が考えられます。一つ目は実際に「A」を見たりして知ったとき、2つめは「この質問を受けたとき」です。後者は厳密には前者に含まれるのかもしれません。ここでは後者の場合について考え、私の最初の例に当てはめてみます。簡単の為に「そこにAさんはいますか?」と聞かれたのは「私」だとします。私は質問を受けたときに初めてAさんの存在の可能性を知る訳ですが、その瞬間にここにはAさんがいないと答えることができます。果たして私は質問を受けるまでAさんがここにいないことは認識できず、質問を受けた瞬間にそれが認識されたと考えるべきなのでしょうか。仮にそうだとして、少なくとも質問を受ける前には「Aさんがいる」という認識ではなかったはずですから、「いない」か「わからない」のどちらかだったはずだと思います。しかしAさんに限らず、XさんにしてもYさんにしても、質問を受ける前からいない事は明白だったはずですから、Aさんがいないこともやはり質問を受ける前から認識されていたと考えるべきではないかと思います。「無い」ことは一般に初期値となっているのではないでしょうか。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

この質問は下記のURLのページの内容に基づいています。 http://okwave.jp/qa/q6755450.html

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 例えば、【数】の概念の存在を知らない動物達が、『実存的な【虚数】の不在証明』の是非を論じるのは不可能ですね。 つまり、『【虚数】の相対的な存否』の議論は『【実数】との比較』に依存している訳ですので、『【数】の概念の存在可能性』を認識し得ない動物達には、『【実数】との比較』さえもが致せないでしょう。 従いまして、その場合には、【虚数】の客観的な存否に関わらず、その動物達の認識の中には少なくとも存在していない、と思われます。 そこで、#2で引用して頂いている事例に当て嵌めますと、こうなります。 即ち、「Bさん・Cさん・Dさん・Eさんと違う方はいますか?」という事でして、【絶対無】の場合には、矢張り”A”の特定が為され得ないのです。

  • el156
  • ベストアンサー率52% (116/220)
回答No.2

質問に直接お答えできるだけの知見は持っておりませんが、冒頭の前提に興味を持ちましたので、この部分についてコメントさせていただきたい思います。何かが「無い」ことを認識する為に、その「何か」を知っている必要はあるのでしょうか。例えば、「そこにAさんはいますか?」と聞かれた場合、もちろんAさんを知っていればいるかどうかを判断できます。しかしAさんを知らなくても、そこにいる他の人がBさん、Cさん、Dさん、であることを知っていれば、少なくともAさんがいないと判断できます。「Aが無い」と「言う」ためには、Aを認識する必要があります。しかしそれが必要なのは、「Aが」という主語を言う為に必要なのであって、「Aが無いことの認識」の為には必須ではないと思います。従って他者が私を知らなかったとしても、私が「無い」ことを認識するのは可能と言うべきではないかと思いました。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

【絶対無】の場合には、不在が『【有】の価値』を損わない故に、その”A”が存在しなくても構わないのです。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 無理難題の解釈への御協力を賜っていながら畏れ入りますが、仰っている事例を拝借して此処での問いを説明しますと、 「『A』という言葉の存在の可能性の予想さえもが成り立たない程に深刻な状況だ」、と言えます。 つまり、印象的に申し上げるべく、敢えて私は【自己の生死】を事例に引き出していますが、【未知の自然現象】もが是に当て嵌まります。 従いまして、質問文で私が申し上げました通りに、【絶対無的な無極】と【相対無的な太極】とは相容れない、と言えるのではないでしょうか?

回答No.1

「他者」そのものが、「自己」の認識の中に生ずる、 「自己の成立のためのもの(原理的相補の射影)」 だとすれば、「他者による自己の生前の認識」は、 更にその相補的な二次的射影に過ぎません。 もちろん、宇宙は137億年前から存在しており、 その結果=物質進化>化学進化>生物進化が、 階層現象性として自我を成立させている以上、 「自己」の中には137億年の時が折り畳まれており、 「自己の成立のため=137億年」の必要として、 137億光年の宇宙は生じているのですから、過剰に 「自己」の肉体(現象表面的自我)に固執して、虚無 主義に陥るのは、認識が浅いと言わざるを得ません。 (物理を知らずに人間原理を振りかざす危険性)

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 矢張り、朱熹による説明は正鵠を射ているのでしょうか?