- ベストアンサー
唯一とか絶対とかの語に向き合う仕方について
- 「唯一とか絶対とかの語に向き合う仕方について」
- 質問1: 「絶対」「Infinite」「永遠」について、知的な認識と把握ができないことから、認識と把握は無用であると思われるが、それはおかしいか?
- 質問2: 「絶対」「Infinite」「永遠」は日本の伝統的な心性とは馴染みが少ないのか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「絶対」があってもなくても困らないし、「ある」前提で話を進めることも「無い」前提で話を進めることもできる。 厄介なのは「ある」ことを証明しないと先に進めない人。 「絶対」についてだけ徹底的に考えるんだったら永遠にやっとれ!って感じ。 >>> 神道では「弥栄」という言葉によって永遠を考えているが、 その永遠とはキリスト教や仏教が論じているような無時間的で不変という意味での永遠ではない。 神道の考える永遠は、死と呼ばれる生の断絶が存在することによってこそ成立するような永遠である。 すなわち、先立つ者の命を後に来る者が継承することにより良くしていくのである。・・・ >>>
その他の回答 (2)
- mashumaro2
- ベストアンサー率58% (99/170)
こんにちは。 大変僭越ながら長文の抜粋をさせていただきます。 質問1&2:天皇は神であるといふとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ、さうかといつてクリスト教的な神でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神に対抗し、それに牽制されて、なんとなく絶対者のやうな色彩をおびてきたのです。…結論からいへば、日本人もまた絶対者を欲しているのだ。 昔は知らない。 が、明治になつて、絶対者の思想を根底にひめた西洋の思想、文物、人間にぶつかつてみると、対抗上、どうしても絶対者が必要になつてくるのです。 しかも、日本にはそれがないから、なにか手近なものにそれを求めようとする。 天皇制もそれですし、プロレタリアートもそれです。 元来、絶対ではないものを絶対と見なさうとする。… …私はここに哲学めいた議論をしようとはおもひません。 さきにいつた例でいへば、絶対者の前には、強者もまた裁かれるのです。 絶対者の前には強者もまた弱者の立場におかれるのです。 そして、その絶対者を裁くものは存在しない。 それゆえに絶対者なのでありますが、それが超自然のものであるがゆえに、現実のなかには絶対的なものが存在する余地がない。 現実はすべて相対的なものであります。… …洋の東西を問はず、この小さな島国に流入してくる思想をかたはしから消化していく。 といふとていさいがいいが、それぞれの思想がいかに自分と遠い距離かがあるか見分けがつかず、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。 それらを、自分が考へていたもの、あるいは自分が欲していたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。 自分とのちがひに気づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと張り付いてくるのを除けながら、しかも、それを操るといふことを知らない。 もちろん、相手が思想であらうと生きた人間であらうと、こちらから入れあげなければ、ほんたうには身につかないことは、いまさらいふまでもありません。 それを承知のうへで、私は、対象との距離感の喪失を、私たち日本人の弱点とみなさざるをえないのです。… …西欧を先進国として、それに追ひつかうといふ立場から、「アジアの前近代的な非人格性」を否定し、西欧の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。 それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。 私はあくまで西欧の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつているのです。 目の前にある西欧を、それに追ひつかねばならぬもの、あるいは追ひつけるものとして眺めることはまちがつてゐます。 まづ異質のものとしてとらへ、位置づけること、さうすることによつて、「日本および日本人」の独立が可能になるでせう。 それを私は日本人の個人主義の成立とみなすのです。 いまさら私たちは西欧の個人主義をまねることはない。 そんな猿まねなら、戦前、戦中、戦後を問はず、いたるところに見うけられました。 それが私たちの歴史的悲喜劇だつたのです。 いや、今日においても同様、見るもの聴くもの、さういふばかばかしいことばかりです。 西欧の精神史に語られている個人主義といふことなら、それはもう限界に来てをります。 西洋人自身、うすうすそれにきづいている。 さういうものを、私たちはとりいれる必要はありません。 近代主義だの自我意識だの、すべて同様であります。 そんな干からびた形骸だけを輸入しようとするから、しかもそれが身に合はぬ大きなものであるがゆえに、私たちの足もとは崩れるのです。 同様に、西洋の近代主義が悪いからといつて、「坊主憎けりや、袈裟まで憎い」式に西洋そのものを否定し、アジア、あるいは日本のうちに閉ぢこもることも愚劣です。 さうすればさうするで足もとは崩れる。 なぜなら、私たちのうちには、すでに西洋が生きてゐるからです。「日本を思ふ 福田 恆存 日本および日本人 昭和29年」文春文庫 質問3:ピーテル・ブリューゲルの描いた「バベルの塔」の絵画が複数存在しますが、 中には不気味とも思える暗雲が立ち込め、後の姿をうかがわせるものもあります。 http://collectie.boijmans.nl/en/work/2443%20(OK) この主題に何を意図したのかは定かではないものの、若桑みどり氏によると、 烈しい宗教対立による争いの最中にあった16世紀に描かれたことをふまえ、 単に従来の旧約聖書に記されているような言語の不通による離散という以上に、 プロテスタントに対して当時強大であったカトリック教会の象徴として、 後の体制崩壊と解釈できるそうです。 そしてこの離散は「個」の到来に繋がるのでは。 以上、「唯一」「絶対」の知的認識の放棄ではなくて、積極的に理解に努めてもよろしいのではないかなと思う次第です。
お礼
補足欄から: 【「唯一」「絶対」の知的認識の放棄ではなくて、積極的に理解に努めてもよろしいのでは】における、「積極的理解」の手法は、単に機械的知的な論理演算で終始することではないと存じます。 つまり価値志向的な、所謂る叡智的理解だと思っておりますが。 Sllenしか存在しない。 seinというものの存在本性はforceであり、それはSollenでしかない。 と私は此処数年、感じております。 物理知見とも、そして精進しているヒンドゥの勉強とも整合するのではないかと存じております。 全ては価値的存在であり、価値的認識と理解として存立していると。 机にしろ、雲にしろ、森羅万象、万物は価値的説明の中で理解し、その伝達が可能なのだと存じます。 単なる形状や物象説明は人間の認識ということはいえないと存じます。 そこの価値性については、言語表現や概念観念だけを指していません。 ありがとう御座いました。一応締め切りますが、又の機会にどうかお教えを賜れますように。
補足
mashumaro2さん、おはよう御座います。 此処数回、お邪魔ばかりしておりましたが、よくおいでくださいました。 福田恆存氏の、この旧かなでのご本は読んでいませんでした。ありがとう御座います。 日本における異文化の受け入れ・syncretismや、私という個人の勉強とか人と交際での影響され方の反省として私も殆ど同じような思いをいつも抱いてきました。 天皇が神、或いは日本の神々というとき、所論のような波風を受けながら醸成した内容もあるのですね。 そして様々な事柄をその縁ってきている経過や基盤、ないしは距離性の考慮もなく受け入れ、(日本人的生真面目性の中で)信奉化してきているのですね。こういう性癖が歴史経過であったのですね。 私だけかとか思っていましたら、所謂る頭で歩こうなんて人の傾向なのかもしれませんね。 欧米の絶対性って超物象界であり、物象界というこの現実はすべて相対的なものであるので、“政治的、社会的、そして経済的強者も絶対者の前には弱者であり、裁かれる存在”であるのですね。そこを通り過ぎてはいけませんね。 それにしても異文化との交流や受け入れ、個人たる人とのそういう関係というのは私はとても難しい。 距離も、そして事情の顧慮ができない。これが私の短い人生の長い課題であり続けております。 60数年前、私を普通を理解できない、単なる奇行の奇人と評した恩師は、更ににいいました。 「お前は無産だ、つまり何もないのだ。だから何でも受け入れている」と。 蓋し、欧米文化に接する日本人も同じような轍を歩んだのかも知れなかったのですね。 今、書物読書と思考の範囲内では、理知次元での欧米的心性や文化特性の価値性を私は認められなくなってきております。 しかしそれで推し進んでいくことも間違いの原因となるということは感じております。 それは私達の中に、もう欧米が生きているからだけではなく。 “この離散は「個」の到来に繋がる”ということですが、そうすると“この離散”以前は「個」は到来していなかった。 そして“この離散”が「個」は到来をさせ、体制崩壊へと繋がっていった。 というご論説は蓋し首肯できます。 それがカソリックという強大な権力性の、近代への崩壊というわけなんですね。 お礼欄に継続します。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
また回答してみます。 質問1 無用とはどんな状況においても、という意味ではないはずです。 絵を描くのに絵具と画用紙が必要だとしても、料理には無用でしょう。 永遠を求めながらも日々の生活に追われる私たちには知的認識は必要ですからね。 霞を食べて生きていけるようになれば無用かもしれませんが。 質問2 普通の会話で出てくる単語ではないけれど、解脱や涅槃がそれに該当するのではと。 質問3 私は結構そういう主観的な生き方が好きなほうです。 ばらばらという事は他人に依らず自分の足でちゃんと立っていると思いたいですね。
お礼
shift-2007さんありがとう御座います。 質問1 《知的把握、認識》ということで私は、それを唯一の方法、プロセスとして終始し、自己の知識として取り込み、格納し、自己所有することを意味しました。 知的ということにもいろいろありますが、所謂る論理の演繹式、弁証的推論方法という意味でした。 それとは違う叡智次元の一定の価値思考的な知ということを意味するなら、無用とは言えない事はいうまでもないと存じます。 質問2 日常会話では出てこないようですね。(日常)心性としてもこの観念が存在しているようには感じられません。ヒンドゥでの解脱や涅槃はそういう世界ですが、当たり前のことかもしれませんが日本化した解脱や涅槃もやはりそうなんですね。 質問3 ここのご回答は、shift-2007さんとの私の個性というか、受容の感覚の持ち方・切り口が異なるようですね。 ありがとう御座いました。
補足
shift-2007さん ここでいろいろやり取りして勉強させていただくのも一つの方法ですが、一応ここで締め切らせていただき、更なる機会に私の欠陥につき、お教え戴ければありがたいです。 ありがとうございました。
お礼
ausfeperさん、ありがとうございます。 『話の進めに「絶対の」有無は問題ない』とは、示唆の深いご表現ですね。結論はそうなるのだろうと存じます。 「永遠にやっとれ!」とは至言です。 それでこの永遠が価値性への志向を忘却した、草の下の虫さんの取り止めのない生命(いい声の秋の虫に失礼な比喩ですが)継続でしかないのでしたら付き合うのもほどほどですね。 おう「弥栄」って永遠性の志向も指していたのですか。まぁそうでしょうね。 ここに何か民族性と心性をれんそうできますね。 ありがとう御座いました。
補足
ausfeperさん。 ありがとう御座いました 私達、日本人は西洋的な“絶対”を問題にする必要がないほどに、実は絶対が桜花爛漫として我と全てを包み、且つ、吾身の中にあるのですね。 猿猴の智恵がお数珠のようにいくつも繋がり、繋ぎ、湖面の月影を把捉する必要は私達には無用です。 私達は、湖面に月影が映じて、静かな我が存在に眺めることで充足しています。 わざわざ知的に把捉するまでもない。 自己なんてないのだから。猿の浅智恵では心の湖面をかき乱すだけですね。 それは把捉せんと働いて、水を波立てるだけですね。 存在自体にも思考にも、そして何の推進にも絶対のあるなしは、私達には無用でした。 思考や理知の機械的演算で結論を出そうなんて、猿が湖面を乱して月影を失うようなものですね。 日本人の素晴らしい存在性と心性なんですよね。 心身から何の訴えもない健康であれば、心身の心配は必要ない。 絶対の中で絶対を抱いている現実の我々は、絶対をおしゃべりする必要がないのです。 瞬間も絶対と離れてはいないのですから、欧米人のそんなものわかりません。 ありがとう御座いました。