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「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」とは?

壁にぶつかったとき、親鸞聖人が法然上人から教えを受けて 「真実を体得し、真実を生きる生き方」から「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」へ転換されたのです。 とある本に書いていました。 どういう意味でしょうか? 分かりやすく教えてもらえないでしょうか? お願いします。

みんなの回答

回答No.8

 ANo.7  度忘れを補足:  知の作業や気負いでやれるとおもったら、とんでもないことです。ということ。    また蛙。真理の大洋(または広大な池)を前にして意気込む。  “よし、全部の真理の水を呑み取ってしまおう”  不可能であるし、自己の破壊となる。  おぅなんじゃ全部が真理のなかのことであったか。わたしも真理の中にいつの間にか生まれ、そして存在、いや私が存在しているとおもってきたわい。  何、真理を起源に真理から全てが生まれ、その中に全てがみえるわい。  真理以外に何が存在していようか。存在が可能か。  という二種ともいえます。  一種の境地であり、更にここから真の精進が開始します。  これが私たちのSelf-Realization Fellowshipです。(URLは先に書いたと存じます。今見つかりませんが)

回答No.7

 完全に自力、だからこそ他力。他力なくしては自力は不可能。 という私たちヒンドゥの教えに、全く同じ内容戸為ります。 (Self-Realization Fellowship http://www.yogananda-srf.org/ ) 「真実を体得し、真実を生きる生き方」は往々壁にぶつかるというか、生前から解脱し、衆生を救う為に地上の肉体で訪れた方以外は、不可能に近いというのが多くの場合だと存じます。  まぁよくて何年かはできるでしょう。努力して。でも本物になりにくい。  だからちょいとしたことで、地金がでてきて崩れていく。上田秋成の青頭巾の主人公の僧侶みたいに。  本物、自己の自然な状態になるためには、心身も自己自身のあり方も根本から変えないといけないでしょう。  線路の切り替えです。 「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」は、「志向し、忘れることなく志向する。その中にとっぷりつかり、全部が真実になり、真実の中にいる。真実だけを頼りにしている。呼吸している。」  自分と真実の区別がつかなくなり、その中に溶け込んでしまっている。そんな修行ではないでしょうか?  概念や知識ではとても無理で、飛び込んでそのままに為ってしまう。 「自己の中に取り込むのでも、自己がそれを表現していくのでもない。」そんな威張ったものではない。  一匹の蛙がかれにとっては馬鹿でかい牛をみた。  池に帰ってきてもう一匹に話した。もう一匹は空気を吸い込んで自分を膨らまし、これくらいか?と訊く。  いやいや。じゃこれくらいか?いやいや。・・・と続き空気を吸う蛙は破裂した。  仏教(ヒンドゥ思想でも)でいう真実を自己に認識する、把握する、自己のものにすることは実は無理で、もともと存在というものはその真実の中におり、その真実に活かされているのだ。  そのことをはっと気付き、それをその通りに生きるようにするのが私たちSelf-Realization Fellowshipの者なんですが、親鸞聖(上)人のおっしゃることにおなじだなぁと、会の出版物を読書したことがあります。  あぁでも親鸞聖(上)人は幾つかの評論や紹介書、そして小説を読んだだけで、直には勉強も精進もしていません。家内の実家のお寺さん(檀家なんですが)のご住職は浄土宗です。  その方を私は尊敬し大好きです。その方は親鸞聖(上)人を批判しているのですが。  でも修行と生活のやりかたですからね。私は親鸞聖(上)人の方が私には合っています。  精進するには生活的、現実的です。凡人凡俗なんです。

  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.6

レベルが下のものに説得されてしまった、みたいな。

回答No.5

宗教家でもなく、哲学者でもないので、的を外しているかも知れませんが、少し。。。 「体得し」とか「生きる」とかは、能動的な言葉であり、「体得しようとする真実」や「生きようとする真実」が真実かどうかを見極めるだけの人智が必要になります。 しかしながら人智というものには、限りがあります。 真実だと思い込んでいたものが、そうではなかったということは、往々にして生じています。 物質についての知識が豊富になり、原子力エネルギーを制御して取り出したりすることができると思い込んでいても、それを上回る想定外の事態が生じます。 「真実」だと思い込んでいたものは、自身の思索内に取り込まれ、もともとの全体から切り離された影でしかないのです。 一方「仰ぎ」とか、「生かされる」とかは、受動的な言葉です。 人智にて全ての「真実」を峻別し、ひとつの道を選び抜いて生きようとするのではなく、全体から切り取られた影しか認識し得ないという人智の限界を知って、決して得ることのできない全体としての「真実」を仰ぎ、切り離されることのない、その一部でもある自身が、全体との関わりあいのなかで「生かされている」と感じ取ることも重要だということではないでしょうか? 一点、注意しなければならないのは、「生かされている」と(受動的に)考えること自体が、そういった思索に基づいて「生きよう」と(能動的に)考えることと表裏一体だということです。 どちらか一方のみではなく、能動性と受動性の両方があってこそでしょう。 すなわち、「生きる」と「生かされる」の両方が必要になるはずですが、片方のみ「真実」だと思い込んでいた場合には、「そうではない考えがあるよ」と示されることで、そちら側へと傾き安いこともあるでしょう。 引用された文章が、そういった過程のできごとだと考えてみることも(受動・能動の表裏一体の思索へと繋がるであろう)「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」のひとつになるかもしれません。

  • JoyWorld
  • ベストアンサー率13% (6/45)
回答No.4

私には他人の発見した「真実」を仰ぐ生き方を選択した、というふうに読みました。 要するに思考停止して偉い人の教えに従い、楽に生きようってことじゃないでしょうか。 私はそれをゾンビになった と以前表現しましたが・・・。 そうなったらオシマイですね、少なくとも哲学者としては

回答No.3

そのことと直接関係あるかどうか分かりまへんがね、親鸞は法然と相談した結果、禁止されていた肉食妻帯(にくじきさいたい)をしてしまうのですよ。頑張らなくても良いよって、うつ病患者に対するアドバイスみたいのされたんかいなぁ。 善人なおもて往生す、況や悪人おや! ちゅうてな、肉食妻帯飲酒から遠ざかっておる善なる坊主でも往生するんやから、肉食妻帯の悪坊主でも往生すると思うたんかどうかしりまへんがな、その後それ以外の坊主もみな、肉食、妻帯あげくのはてには飲酒など俗世間の快楽に溺れるようになってしもたんや。 親鸞がどこまで深く考えて肉食妻帯したかは仏教の歴史家に聞いて欲しいが、その他の坊主どもが何も考えんと肉食、妻帯に溺れるようになってから、仏教の信者も真剣にならんようになった。今や墓石不動産とか、葬式サービス株式会社みたいに落ちてしもうたんやね。 仏教では三宝と言ってな、仏・法・僧、つまり仏様(お釈迦様)と、お教と、出家坊主の三つを大切にしてきたのじゃが、今や、出家坊主も在家信者と同じようにセックスなどに明け暮れておる。寺を私物化し、子供を産んで、自分の子供に寺を継がそうなんて考えておる坊主がよけいおるで。 法然や親鸞は、近寄りがたい仏教を大衆化した功績、つまりファミレスや回転ずしの商売人のような貢献度はあると思うが、本間の仏教の凄さは薄まったんちゃうかなぁ。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

「真実を体得し、真実を生きる生き方」から「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」へ転換されたのです。 どういう意味でしょうか? ○ 仏教の本道、悟りに至る道は難しすぎてさっぱりわからないので、あきらめてキリスト教的な「救い」にすがる道を選んだということですね。 当時の正当な仏教から言えば、外道といわれる道を選んだともいえますね。 今ではその外道の道が浄土教系仏教といわれるようになりましたが、本来の仏教ではありません。まあ、キリスト教が日本に広まらなかった理由は親鸞のおかげともいえますね。 そういう意味ですね。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

他力ってことじゃないでしょうか。 自分が真実を実行して生きているのではなく、真実によって生かされている という他力の考えだと思います。 仏教って他力だったと思います。

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