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親鸞とスーダラ節

植木等がスーダラ節の感想を父親(僧侶をしていた)に求めたところ、父は「親鸞上人の教えに通じる歌だ」、といったとのエピソードがあるそうですが、どう通じているのかわかりません。ちなみにスーダラ節は酒の飲みすぎはよくないとわかっていてもやめられない、という自制心のない男の歌です。(お礼遅れたらごめんなさい)

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回答No.3

 少しお話をさせていただきます。 >>植木等がスーダラ節の感想を父親(僧侶をしていた)に求めたところ、父は「親鸞上人の教えに通じる歌だ」、といったとのエピソードがあるそうです  これは有名なお話ですね。 >>が、どう通じているのかわかりません。  なるほど。 >>ちなみにスーダラ節は酒の飲みすぎはよくないとわかっていてもやめられない、という自制心のない男の歌です。  ここが、まさに浄土真宗的というか、日本浄土教が持つ「凡夫観」「悪人観」の要点が詰まっています。  まず、通仏教的なところから見ていきましょう。「お盆」という言葉は聞いたことがあると思いますが、このお盆という言葉はフルネームではありません。お盆のフルネームは「盂蘭盆」というのが正式名称です。これは簡単に言えば、「逆さまのお盆」という意味ですが、お客さんが来てお茶を出すときにお盆を逆さまにしてお茶を出す人はいませんよね??  しかし、私達はそんなことをしてるっていうんですね。例えば、スーダラ節の「酒の飲みすぎはよくないとわかっていてもやめられない」というのもそうです。また、個人的な話をすれば私はラーメンが好きなんですが、スープは塩分と脂分の固まりで全部飲んでは体に悪いそうですが、スープが一番おいしいんですよ。分かってるんですが、全部飲んじゃうんですよ。また、タバコを呑む人もそうですね。タバコの箱に体に悪いですよと書いてあっても、タバコを呑むんです。  この「盂蘭盆」は実はお盆のことではなく、古代の印度語サンスクリット語の「ウラバナ」は「逆さづりの人」となるわけです。『盂蘭盆経』には象徴的な形で目連尊者の母が逆さづりの人として描かれますが、本当は他人ではなく自分自身なのです。  ですから、日本仏教ではお盆というご先祖さんが帰ってくる期間くらいは「逆さづり」の生活を改めてみましょうよというのが、全てではありませんがお盆という行事の一つの意義になります。  しかし、これで改められるくらいであれば人間はみんな「仏様」になれちゃいますよ。それが「出来ない」と苦しんだのが親鸞聖人です。  親鸞聖人の師匠である法然上人の伝記「法然上人行状絵図(四十八巻伝)」にはこのことを語る上で欠かせない「遊女説法」というエピソードが出てきます。(以下、私訳)  法然上人が念仏弾圧によって流罪になられ、船に乗って流刑の地に向かわれていたときのこと。別の船が一艘近づいてきました。船には遊女が数人乗っていて、法然上人に、 「法然上人のお船がここを通ると聞いて待っておりました。世の中には様々な職業があるというのに、私達はどのような罪があってか、このような体を売って生計を立てる身になってしまいました。このような罪深い身で、どうしたら極楽に往生できますか?」 と問われます。すると法然上人は、 「確かに遊女とは罪深きものです。もし、遊女をやめて生きていく方法があるのであれば、早々に遊女をやめるべきです。しかし、遊女をやめては生きていくことが出来ない。だからといって世に絶望して死ぬことはありません。遊女そのままでよいから念仏をしなさい。阿弥陀仏は、あなたのような立場の弱い罪深い人のために誓願をたてられたのす。」 とお説きになられました。  これが浄土教の立場です。仏教において体を売って仕事をするということは「不邪淫戒」の立場からすれば悪以外の何者でもありません。ですから、法然上人は「遊女をやめて生きていく方法があるのであれば、早々に遊女をやめるべきです」とお答えになられます。しかし、それが分かっているけれども生きるためにはやめることが出来ないのであれば、その身の悪をそのままを背負ってお念仏しなさいと説かれるのです。  これが「悪人正機」説です。悪人正機は親鸞聖人のものと思われている方も多くいるとは思いますが、実は法然上人の言葉であったといわれます。悪人正機説の言葉は、  善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや という、中学の教科書にも載っている有名な言葉ですが、ここで言う善人は「私は悪いことなんてしてませんと思っている人」という意味で、悪人は「悪人の自覚を持った者」ということです。ですからちょっと乱暴な意訳すれば、 「私より悪いことをしてる人はいっぱいいるんだから、私は善人だと思っている人が救われるのだから、自分なんと愚かなのだろうかと自分自身を反省し続ける悪人が救われないわけがない」 ということになります。この言葉は、勿論ご存知の通り親鸞聖人に受け継がれていきます。また、お釈迦様の言葉で言えば『法句経』のなかに、 「もしも愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思えるものこそ、愚者というべし。 」 と説かれており、お釈迦様は「愚か者でありながら自らの愚かさを知る者」を「賢者」であると説いておられます。    このようなことより、スーダラ節の「分かっちゃいるけどやめられない」は浄土真宗における悪人の自覚ということになります。しかし、浄土真宗に帰依したからといってこの心が直るわけではありません。今一度親鸞聖人の言葉を借りれば、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし 『正像末和讃』 悲歎述懐」とあり、浄土真宗に帰依したからといって愚かな心がなくなって真実の心になるわけではないし、自分を良く見せようと見栄を張ってみたりする心のない清浄な心を得られるわけではありませんと説かれています。この「分かっちゃいるけどやめられない」という自己反省は、生涯続くものといえます。  また、スーダラ節の「スーダラ」は、お経という意味を持つサンスクリット語「スートラ」から来ているって話もあります。また、クレイジーキャッツの名曲「ホンダラ行進曲」の「一つ山越しゃホンダラダッタホイホイ」なんて歌詞を見ますと、「九品皆凡」という聖者から悪人までみんな凡夫(愚か者)ってことを歌っているように思えます。歌った植木等氏も素晴らしいですが、作詞した青島幸男氏もすごいなぁと思いますよ。  急ごしらえの文章のために誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。  合掌 南無阿弥陀佛

kokutetsu
質問者

お礼

自分も美人を見るとすぐ、スケベな想像をしてしまいます。仏門に入ったとしても、直りそうにありません。反省、自戒しつづけることが、大事なのですね。ありがとうございました。合掌。

その他の回答 (3)

  • ENERGEIA
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回答No.4

 結局は 「分かっちゃいるけどやめられない」  っていうのは自覚ではあっても 反省ではなく、他力(を願う)という事でもないということで。  「分かっているからやめたい」と言うなら、反省だろうね、他力か自力かは別として...

kokutetsu
質問者

お礼

自覚と反省の違いの考察、ありがとうございました。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.2

 人殺しあるいはそれに相当することが よくないとわかっていてもやめられない という自制心のない男の歌と 本質的には同じということになりますね...  「よくないとわかっていてもやめられない」のだから、許す。  と言うのは他者が言うことであり、本人が自分で「やめられない~♪」と言うのはまた... どうなんでしょう...他力でもないような...

kokutetsu
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.1

スーダラ節は、自分を社会が望むような人間像に 合わせようとせずに気持ちの成り行きのままに 生きているという内容です。 親鸞の浄土真宗は、人間のこざかしい計らいを 捨て、大いなる如来の御手に身をゆだね任せきるという 教えです。 なんとなく共通点があるような、ないような。

kokutetsu
質問者

お礼

他力本願ということでしょうか。ありがとうございました。

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