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浄土真宗が大教団になれたわけは?
少し前に、長い間気になっていた親鸞上人の言葉について質問して教えてもらった者です。 その後歎異抄の解説本を買ってよんでみました。 歎異抄二条を私なりに解釈すると「宗教的な命題は本当かどうかなんか言えるはずが無く、信じるか信じないかしかない。」ということを言っているのだと思いますが、800年も前にすごいことを言う人がいたもんだと感心しました。 しかし、宗教の教祖というより哲学者に近い考えで、これでよく日蓮なんかに対抗して教えを広めることができたもんだと、不思議な気がします。当時の日本の民衆はこのような思想に簡単になじめたのでしょうか?
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お礼
何度も丁寧なお答えをいただきありがとうございます。 > 少なくとも日蓮聖人の理論武装に、引けをとるということはないはずです。 > そういったことを親鸞聖人が唯円を含めた関東の御同朋にお伝えしていない > はずありません。ですから、そういった理論的な教義を踏まえたうえでの > 「信ずるほかに別の子細なきなり」というお答えになったのではないでしょ > うか。私自身はそのように解釈しています。確固たる論証にもとづいたうえ > での「信心」のあるべき姿という事です。 なるほど、理論武装はちゃんとやっていたんですね。ここらへんは、善導大師の本とか教行信証とかを読まないとわからないのでしょうね。でも、さすがに素人には難しいんでしょうね。 私の我流の解釈だと、「親鸞におきては、、、」という言い方から、信仰は個人的なものであり、個人的に信じている以上、その人にとっては真理であり、念仏無間などと言われる筋合いはない、という考え方もあるのかな、と思っています。 いろいろ、素人の質問にお付き合いくださり、ありがとうございました。