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元禄赤穂事件の世評
元禄赤穂事件における幕府の裁定では世評も考慮したとされていますが、幕閣はどのようなルートで世論を読んでいたのでしょうか。 幕閣に意見を述べることができるのは、民間レベルでは「学者」だと思います。 幕閣は学者の意見を聞いていますが、これが世論のおおもととすれば、学者は何をもって世論としたのでしょうか。 そもそも、幕府は世評を気にしたのでしょうか。 よろしくお願いします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>幕閣はどのようなルートで世論を読んでいたのでしょうか。 公方さまは別としても、老中やお側用人は、城中に四六時中いたわけではありません。言ってみれば、毎日「通勤」をしていましたから、当然、世論が赤穂びいきになっていたことを耳にしています。 >>学者は何をもって世論としたのでしょうか。 当時は儒教の精神が徹底されていましたので、儒教に基づく「物事の良し悪し」で判断していました。 >>そもそも、幕府は世評を気にしたのでしょうか。 公方さまも、討ち入り後に大石内蔵助が幕府に提出した「討ち入り口上書」を見て、彼らの行動を「忠義である」と発言をしています。しかし、側用人の柳沢吉保は、「忠義だけで政(まつりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない」と反論しました。従って、幕府も世論を気にしていた・・・と言うことになります。 (よもやま話) (1)まず、討ち入りをしたのは、元禄15年(1793)12月14日夜、となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。まさに深夜の決行でしたし、それこそ、音もたてないように粛々(しゅくしゅく)と、本所松坂町の吉良邸へ向かっています。 また、当日は雪が降った後でしたので、物音(歩く音)なども消してくれました。 そして、深夜ですので、武家も町民も深い眠りの最中でしたので、直前まで誰も気付かなかった、と、言われています。 さらには、誰かが事件を知ったとしても、その頃の庶民、庶民ばかりではなく武士でさえ、赤穂浪士の討ち入りを歓迎する傾向がありましたので、訴え出る者は誰一人としていませんでした。 赤穂47士は、表門には大石内蔵助以下23人、裏門には大石主税(ちから)以下24人が固めていましたので、吉良邸から外へは一歩も出れない状況をつくりました。 (2)吉良邸の隣は「土屋平八郎邸」でしたが、もちろん、赤穂びいき。 高張り提灯を立ててくれましたが、もし、大目付などからお咎めを受けても、 「我が邸に逃げ込む者を防ぐためだ」 と、言い訳が立ちました。 当時は、町民はもちろんのこと、たとえ武士であれ、許可なく武家屋敷に入ることは「厳禁」でした。 ですから、大石内蔵助が、 「我ら、主君、浅野内匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばし騒動となりましょうが、平にご容赦、お願いたてまつります」 と、叫ぶと、土屋平八郎は急ぎ高張り提灯を何本も立てて、 「その方らの儀十分に承知。塀を越えた者があらば、どちらの家の者であろうとも討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」 と、返答した、と、言われています。 (3)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。 この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。 (4)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われて、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。 (5)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。 (6)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。 続きへ・・・
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- eroero1919
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江戸市中の幕府役人としては、同心や与力がいて、その上官として町奉行がいるわけです。おそらくこういったルートから「江戸市中の民意」というのが何らかの形で報告されていたと思います。 江戸市中には町人の他に各藩の藩士や御家人のような下級武士も数多く住んでいました。こういった人々の「民意」もあったと思いますよ。 吉良邸討ち入りから遡ること数年前に江戸市内で旗本奴と町奴がケンカし町奴が殺されるという事件が起きました。幡随院長兵衛で有名な話です。このとき町人であった幡随院長兵衛が旗本(武士)である水野十郎左衛門に謀殺されました。 武士は町人を「無礼打ち」ができるという話は有名ですね。しかしこのとき町人(任侠スジ)と(不良)旗本の対立はのっぴきならないところにきており、町人は武装を禁じられていますから、一見キセルに見える武器を持ち歩いていたりしていました。 んで、幕府はこの水野十郎左衛門を始め蟄居にしました。その処分で町人連中はおおむね満足しました。そして、世間がその事件を忘れた頃に幕府は水野に切腹を命じました。これにより実質的に無礼打ちは不可能に近くなりました。「無礼打ちすれば切腹」という前例ができたからです。 かように、江戸幕府ってのは結構町人の民意ってのを気にしているところがあるのです。 例えば江戸市内で火事や地震などが起きて被災者が出ると幕府は翌日には江戸城に備蓄されている米を被災者に無料で配っていたりします。これは現代の政府に比べても早いくらいで、当時の世界基準では中国だろうがヨーロッパだろうが「災害が起きたときにしもじものために国家が救済をしてくれる」なんて考えられなかったんです。 いわゆる「八百屋お七」の事件のときも奉行は「お前は十四だな」と聞いていますからね。お七が「はい」と答えれば彼女は火刑にならずに済んだのです。江戸の話じゃないですけど、箱根の関所も関所破りをして捕まると「お前は道に迷ったんだな」と聞かれて「はい」と答えれば関所破り(死罪)にはならなかったのです。だから江戸時代を通じて関所破りで捕まったのは四人かそのくらいだったと思います。 赤穂浪士が捕まる(自首ですけど)と、全国の藩から「ぜひ浪士を引き取りたい」という申し出が殺到します。「他藩預かり」になれば切腹にはならないわけです。 元々江戸という街は、夜になると木戸が閉められます。木戸番というのは怪しい奴が来たら戸を通してはいけないし与力や同心に即通報しなければいけません。赤穂浪士は怪しまれないために火消し(赤穂藩は大名火消しをやっていました)の格好をして二、三人に分かれてそれぞれ吉良邸に向かったのですが、火消しの格好した武装した(見れば槍だの刀だのを持っているのは明らか)連中がずちゃらずちゃらやってくれば木戸番も「ははーん」と一目瞭然です。だけど、どこの木戸番も「野暮なことはいわなかった」のです。一説には、与力を通じて「武装した火消しが通っても通してやれ」と通達されていたともいいます。つまり下は町人から武士に至るまで「行け、赤穂浪士、やっちまえ」と赤穂浪士を支持していたのです。今だって大人気ですからね。 吉良邸もいつ襲われるかもしれないと名のある剣士などを雇って待ち構えていたのですが、いざ討ち入るとほとんどの藩士は布団から出てきませんでした。このへんは決意の差ですよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 12月23日に評定所の意見書が出ていますが、意見具申した14名の中に町奉行3名の名が見えます。 与力がまとめた情報を奉行が耳にしたということですね。 積極的に指示を出して収集したのであれば、奉行所の記録(現存しているはず)にあるのかも知れませんね。
- SPS700
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>>幕閣に意見を述べることができるのは、民間レベルでは「学者」だと思います。幕閣は学者の意見を聞いていますが、これが世論のおおもととすれば、学者は何をもって世論としたのでしょうか。 幕府の諮問系統は二つあって法関係者と学者に分かれます。 1。法関係。将軍の諮問機関であった幕府評定所では、死罪を主張する側と、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいたようです。 2。学者。林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠はそれに反対したようです。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられます。 ですから意見が分かれていたのは明らかです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 >>そもそも、幕府は世評を気にしたのでしょうか。 世評は、どれだけ情報が迅速に広範囲に庶民の手に入ったかで、その信憑性が違うと思うのですが、瓦版のような情報源がどの程度信頼できる物だったかは不明です。ですから幕府が気にする程、公平な情報が流布されていたか疑問だと思います。 一般の世評があるレベルまでは影響があったと考えられるエピソードとしては、狂歌に「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」というのがあって、浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したもので、「江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである」というのがあります。 質問者さんは、幕府がもっと世論を読んでいたら,というお考えのようですが、僕は読むだけの世論作りが行われていたのだろうか、という疑問を持っています。今でさえ1時間以上のビデオを7分に削り、それを見せるとか見せないとか、国民の耳と目を塞ぐのに忙しいのが居る有様ですから。 以上,その場にいなかった者の、単なる推測です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 幕府が絶対権力を把握していた元禄時代に起きた、大名と高家という最高級の武士階級が起こした事件です。 幕府が武士の論理で裁定すればすむ話だと思っていましたが、世評云々という話を読んで質問しました。 私は、世評が裁定に影響を与えたとは思っていないのですが、よく分かりません。 幕閣が世評を気にしたとすれば、 討ち入り後の12月23日に評定を出してから、切腹の命を出す翌年2月4日までのわずか40日ほどの間だと思います。 その間に発行された瓦版に、幕府を批判する内容のものがあったのかどうか、知りませんが、幕府を批判する内容であれば即刻発行禁止できるわけですよね。 狂歌「細川の水の流れは…」は忠臣蔵の中の話ですね。 回答を頂くと、その回答からまた新しい疑問が出てきます。 参考になりました。感謝します。
- 川原 文月(@bungetsu)
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続き・・・ (7)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。 直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。 このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。 しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。 そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。 この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。 (8)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。 (9)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。 (10)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。 (11)内蔵助に密命(広島の浅野本家や浅野内匠頭の妻であった瑤泉院などへの「本懐」の報告)を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。 (12)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
- ojisan-man
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真相は分からないので、あくまで想像としての話ですが・・・ そもそも「赤穂事件」といわゆる「忠臣蔵」は全く別物であるという考えです。 無残な死に方をした主人の恨みを果たすために、忠臣達が団結して仇を取ったという美談は、後世つくられた「仮名手本忠臣蔵」という芝居の話だったということです。 そしてこの芝居の中で本当の悪役とされたのは、吉良上野介ではなく犬公方と呼ばれた徳川綱吉だったと言われています。 だから江戸の市民は拍手喝さいでこのお話をもてはやしたとも言われています。 本来の「赤穂事件」は、浅野内匠頭長矩が精神病を発症し、何の関係もない吉良に切りかかったのが真相ではないかという説があります。 こういう場合、本来は内匠頭だけで罰せられ、赤穂藩そのものは内匠頭の縁者が継承するというのが一般的であったのに、幕府は何らかの理由で赤穂藩をつぶし改易してしまったそうです。ひょっとすると幕府の財政問題、あるいは当時の将軍であった綱吉の個人的な怒りなどが原因かもしれません。 そのことに対し大石らは藩存続を訴え続けたのに、結局無視されたためああいった行動に出たのではとも考えられています。 つまり、もともと幕府側に引け目があったことから、赤穂浪士たちに対する処分もそれなりに寛大にならざるを得なかったのかも知れません。 以上、個人的な推測と想像です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 忠臣蔵は、芸能の話だと思っていますから、まったく関心ありません。 しかし、 「この芝居の中で本当の悪役とされたのは、吉良上野介ではなく犬公方と呼ばれた徳川綱吉だったと言われています」 については、大いに関心があります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「毎日、通勤をしていましたから、当然、世論が赤穂びいきになっていたことを耳にしています」とのことですが、この「世論」に町民は入っていますか。 私は、幕府安定期の江戸の世論には「町民」は含まれないと思って質問しました。 殿中の刃傷事件も吉良邸討ち入りも、武士階級で起きた事件ですから、町民がどのように捉えようと、武士の論理で裁定すればすむ話だと思っています。 この事件のせいで町民の生活に影響が出るわけでもなく、町民にとっては何の関係もないことで、世間話のネタになるだけのことですよね。 幕閣は、そんな世間話は無視して、武士階級の意見を聞いたと想像していますが、それを「世論」とするならば、では、その「世論」をどのように把握したのか、と思って質問しました。 柳沢吉保は、「忠義だけで政(まつりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない」と反論しました、ということであれば、では柳沢吉保は、どのようにして世情を知ったのか、という疑問です。 瓦版を見た家中の者から聞いたのでしょうね。 Bungetsuさんのご回答から多くの示唆を得ました。 ありがとうございました。