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元禄赤穂事件の狂歌と浪士たちの待遇
- 浪士46人は4大名家に預けられ、細川家17人、水野家9人、毛利家10人、久松家10人に分けられました。浪士たちの待遇は各大名家で異なり、狂歌『細川の水の流れは清けれど、ただ大海の沖ぞ濁れる』が残っています。
- 質問1:4家に振り分けられた基準は何で、待遇に差が出たのか?
- 質問2:この狂歌は、4家に預けられている頃にできたのか、それとも「忠臣蔵」上演後にできたのか?
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確証はありませんが、前後の江戸時代の状況からWikipediaの記載にやや不信感を持っています。 Wikipediaの筆者もこの狂歌の出典を明らかにしていません。 もし「狂歌忠臣蔵」であれば天保のころに編纂されたものです。 狂歌と呼ばれるものは古くからありますが、政治批判のような類のものは江戸時代の中期以降に盛んになっています。 赤穂事件の暫く後です。 待遇をあらためたようである。と推測文で記載し改めたと断言していません。 「江戸の庶民の批判に閉口したのか」とありますが、極めて現代的な感覚です。 武家という階級は、町民の評判などで行動を変えません。 江戸時代の下級武家が如何に貧困でも町民と同じ行動をとることはありませんでした。 町民と面子争いをするのは、現代の時代小説の中でだけのことです。 まして、藩の施政方針を変更するなどということはしません。 領民でもない江戸の町民に屈したこととなります。 文字通り武家の沽券に関わります。 武家は名誉、面目は命がけで守りました。 赤穂事件が起きた直後は、幕府もその処置には当初から二転三転しています。 幕府の意向が定まらない状況では、各大名家でも対応には苦慮していたと考えられます。 単に、赤穂の家臣と高家吉良との騒動と位置付けるのか、幕府の裁定に対する抗議行動と捉えるのかで、相当に対応は異なります。 万が一、幕府(将軍)の赤穂浅野に対する処断への抗議と幕府(将軍)が考えた場合は、文字通り謀反人を厚遇したことによる影響を考慮しなくてはなりません。 松平は藩主が病床にあり、預かり後に謁見した際には、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と語ったとされています。 ここで、注意しなくてはならないのは「幕府からの預かり人」と敢えて言っていることです。 毛利は外様の雄です。藩邸は江戸城の目の前(現在の日比谷公園)にありました。 常時幕臣の目に晒されていました。 「幕府からの預かり人」の処遇で手違いでも起こしたら、即刻責任を問われます。 外様である以上、責任を問われれば、最低でも減封は覚悟しなくてはなりません。 各藩にとって最重要課題は幕府との関係です。 改易になったのは赤穂浅野家だけではありません。 江戸幕府開闢以来綱吉の時代までに184の藩が改易(断絶)になっています。 綱吉の時代でも45藩が改易となっています。 江戸時代全体で225藩が改易となっています。 幕府との関係がおかしくなれば転封(国替え)減封(領地削減)改易(断絶)を覚悟しなくてはなりません。 自国の領民でもない江戸の町民の評判なぞ一慮だにしません。 現代でも、女房子供を抱えたサラリーマンが社外での自分の評判を気にして社長の方針に逆らいますか? 細川家が厚遇したのは、当時の藩主であった綱利が、熱狂的に浪士を受け入れたことに端を発しています。 前後を考慮した対応とは非常に考えにくい行動です。 上杉の家臣が吉良の息子である当主を抑え込んだのとは全く異なります。 上杉の家臣は単なる遺恨に基づく行動ではないと判断したようです。 市中で集団で武力を行使するのは、それだけでも幕政に対する反逆行為です。 現に、切腹の理由も、市中で集団で暴行を働いたことに対する処罰の形が取られています。 吉良家に対する遺恨とか、主君の仇討という事には触れていません。 当時幕府は、既に仇討行為の範囲を厳密に定めており、主君の仇討などという行為は認めていません。 充分に処罰の理由根拠となります。 江戸時代を通じて藩には江戸留守居役という役職があり、常にお互いに情報交換をしていました。 浅野内匠守の失態も元はといえば、浅野家の留守居役の怠慢から生じたものです。 伊達藩は初めから最後まで、主君が吉良と遣り取りをする必要がないように根回し手配りをしていました。 主君が、他家の当主と直接些細なことで遣り取りが生じないようにするのが江戸家老の責務です。 当時の藩というのは、現代の感覚でいえば独立国です。 現代でも、大統領や首相がいきなり儀式のやり方を教えてくれの教えてやるのとやったらどこの国でも大問題になります。 毛利家や松平も留守居役を通じて細川家に関する情報は入手していた筈です。 幕府が幕府に対する反逆者とはみなさないことが粗確定できた時点で、処遇を変えたのでしょう。 赤穂事件というのは、芝居や小説が先行してしまい史実を追跡するのが非常に難しい事件です。 史実の解釈にも芝居の影響が色濃く表れます。
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- tanuki4u
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1.4家に振り分けられた基準は? それで待遇に差が出たのですか。 細川家 150石~1500石 水野家 扶持 久松家 100石~200石 および部屋住み 大高源吾は20石だが父親は200石 毛利家 20石程度 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB このへんから拾ったらこんな感じなので、「武士としての階級別」ではないかと思われる。
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ご回答ありがとうございます。 そうですね、なにしろ階級社会でしたから、これが最も無難ですね。
- 0fool0
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真相はわかりませんが、「渡り中間」の存在が大きかったのではないでしょうか。 細かい事が中間に知らされる事はありませんが、珍しい事件ですからうわさのタネは家臣からでも入った事でしょう。 それが夜な夜な夜鳴き蕎麦や飲み屋、またはストレートに中間部屋での賭場等で広まったのでしょう。 周りの連中から聞かれれば、忠義心の無い渡り中間は、酒の肴に語った事でしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど! 渡り中間から広まった可能性もありますね。 その噂を聞いた人が、毛利綱元が甲斐守、松平定直が隠岐守であることを知っていて、早速この狂歌を作ったことになりますね。
- simonmagus
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そりゃ、出入りの商人達の口から広まったんじゃないですか。 細川家では義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すよう に命じる。 預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、 風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可を得て酒や たばこも振舞った。 さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢す ぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。 とwikiの細川綱利にあるので、17人分の食材を届ける商人が 当時の大事件の話を関して聞かれたら答えるのではと。 当然、他家の商人も同じで巷では双方を比べたり面白おかしく 話の輪が口から口へ伝わったのではなかろうかと想像してみ ました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 魚や野菜を運んでくる小僧から受け取ったのは女中たちでしょうから、あることないこと、ぺらぺらしゃべったのでしょう。 余計なことはしゃべるな、という指示はなかったのでしょうね。
お礼
丁寧なご回答に感謝申し上げます。 Wikiの内容にいちいち突っ込んでいけばきりがないですね。 質問のネタが溢れています。 「もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。」を見て、これはおかしいと思い、質問しました。 「忠臣蔵」の芝居が流行ってからできた狂句だと思っています。 >「江戸の庶民の批判に閉口したのか」とありますが、極めて現代的な感覚です。 >武家という階級は、町民の評判などで行動を変えません。 そう思います。納得です。 >江戸時代を通じて藩には江戸留守居役という役職があり、常にお互いに情報交換をしていました。 >浅野内匠守の失態も元はといえば、浅野家の留守居役の怠慢から生じたものです。 将にそのとおりだと思います。 津和野藩主・亀井茲親が勅使饗応役を務めたときの家老・多胡主水の例があります。 >毛利家や松平も留守居役を通じて細川家に関する情報は入手していた筈です。 >幕府が幕府に対する反逆者とはみなさないことが粗確定できた時点で、処遇を変えたのでしょう。 これが結論ですね。納得できます。 もし、処遇を変えていたのであれば、の話ですが。