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赤穂事件。寺坂吉右衛門の役目。
忠臣蔵の季節がやってきました。 寺坂は、討ち入り成就を伝える使命を大石内蔵助から命じられていた、と思っていたのですが、寺坂には逃亡説もあるそうです。 ということは、「使命説」を確定する証拠がないということになりますね。 「使命説」の根拠となる最も有利な証拠は何なのか、教えて下さい。 大石は、討ち入り成就を誰かに伝えるよう寺坂に指示したはずですが、その誰かが、寺坂から話を聞いた、と書き留めた日記か手紙などはありますか。 もし、あれば、なぜそれが使命説の決め手にならないのですか。 「逃亡説」が正しいとかの反論ではなく、「使命説」の根拠を知りたいです。 よろしくお願いします。
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こんばんわ。 NO1.のbungetsuです。 >>浅野本家に行ったという事実は証明できても、寺坂が逃亡はしていないということを証明できない、と学者先生は考えるのでしょうか。 張ってあったURLも読みました。 つまり、諸記録で、赤穂にも立ち寄った。そして、広島の浅野本家にも行った。とは書かれているようですが、 寺坂が浅野本家で何を言ったかの記録が全く残されていないようです。 通常、大名(家)は、「日記」などを残し、場合によっては藩主の善政を後の世に残すものですが、おそらく、浅野本家の記録などに、寺坂吉衛門が何を言ったかが記されていない(らしい)。 そこが問題視されて、「逃亡説」や「密命説」の論点となっているのではないでしょうか。 そのため、ある高名な歴史作家は、 討ち入りをしたご褒美に、浅野本家に行けば雇ってもらえると考えたのではないか・・・・。 などと言う途轍もない「推論」を堂々と展開しておられる方もいます。 私も、どちらかと言えば「密命説」を支持したいと考えています。 なぜなら、これは仙石伯耆守の「大目付記録」の中に、自首してきた寺坂を一時預かり、その後、10両を渡して解き放した。 と書かれてあると聞きました。(これも私が実際に見たわけではありませんのであしからず)。
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- dayone
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No.2で「答える術を持ち合わせていませんが…」と投稿しましたが、 いわゆる「黙契説」などのほか何れの見解に立つにしても 傍証の積み重ねの上に成り立つているに過ぎないように思いますので、 おっしゃる「使命説」を裏付けられるような古文書・古記録等が 現に存在すれば恐らく逃亡説の生じる余地も消滅するでしょうから、 少なくとも現状では「使命説」を決定付けるような文書・記録は 見つかっていないか或いは存在しないと考えられます… 何て言えば、単なるレトリックとのお叱りを受けそうですが^^
- dayone
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御質問が、 ・ろんがいひ>総目録 赤穂事件関係>本伝(4)討ち入り 寺坂逃亡論争の問題点 http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0008.htm 上記の論争までを含む場合には、際限がありませんので、 残念ながら答える術を持ち合わせていませんが… ふつうは下記の新聞記事(昭和9.6.12)の公表時点で 少なくとも逃亡でないことは明らかなように思いますが如何でしょうか? ◎神戸大学附属図書館 新聞記事文庫 人物伝記(5-053) 神戸又新日報 1934.6.12(昭和9) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10087077&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 赤穂義士の手紙を百三十三通も発見 元禄快挙、白日の如く瞭らか 斯界に狂喜の旋風 …元禄十六年二月四日義士切腹の前日吉田忠左衛門から十郎太夫に送った手紙などは 寺坂吉右衛門の後事を伊藤氏に託した極秘の手紙で現在義士研究家とし名ある 徳富蘇峰翁外二、三学者の発表している寺坂吉右衛門逃亡論が根底から覆えされている、 その一部を抜萃すれば 一、吉右衛門事、先日伝右衛門御口上にて承り申候、此段を唯今は是非申し難く候、 一旦公儀へ指遣し候書付之あり候に付、仲間にて是非申されす候、 御供にて追日御のおり候以来を御了簡にていか様共然るべき様頼み申候、 上より少しも御障りは此もの猶更これ無き儀に候、 伯耆守様にて旧臘十五日に右書付候内私租の者一人欠落いたし申候と申上候、 その通りと御挨拶に候とかく御登り己来御了簡にてこれ有宜しく頼み存候、 その内も御了簡にてうかつ事は申さず候様に成され下さる可く候 とある、… ほか御参考まで ◎『徳富蘇峰氏の寺坂吉右衛門逃亡説は妄断なり/福島四郎/婦女新聞社/昭和6』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095019 ◎赤穂義士史料館>史料館入口>赤穂事件辞典【い】伊藤武雄(048)> 伊藤武雄(いとう たけお)1872~1939 http://www.age.ne.jp/x/satomako/048.htm 以上
お礼
ご回答ありがとうございます。 「神戸又新日報」の記事は、当時、大きな反響があったことでしょう。 これで、“決まり”といった感じですが、なぜそれが使命説の決め手にならないのか、疑問です。 平成元年、赤穂市史編纂時、「使命説」で決着すればよいものを、なぜかそうしていません。 学者先生には何か引っ掛かるモノがあるのでしょうね。 寺坂吉右衛門 http://www.geocities.jp/toshio2003jp/terasaka.html 幕府には「私租の者一人欠落いたし申候」と申し出ているので、これが幕府の正式な記録になってしまったが、事実は、内蔵助の命を受けていたのだ、とすれば分かりやすいのですが…。 使命説を支持する私の感想です。 しかし、「使命説」の根拠は分かりました。 いつも詳しく調べて下さって感謝しています。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 >>「逃亡説」が正しいとかの反論ではなく、「使命説」の根拠を知りたいです。 これは、私自身も実際には見たことはありませんが、次のサイトで、「四十七士か四十六士か」の段で、 「伊藤家の史料」及び「堀部言真の書簡」で、寺坂吉衛門が広島の浅野本家に行ったことが記されているようです。 http://pedia.mapion.co.jp/art/%E5%AF%BA%E5%9D%82%E4%BF%A1%E8%A1%8C http://akouroushi.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 <伊藤家の文献に寺坂が広島の浅野本家に行っている事が書かれており>ということですね。 回答していただいておりながら、勝手なことを言いますが、「なぜそれが使命説の決め手にならないのですか」という疑問です。 浅野本家に行ったという事実は証明できても、寺坂が逃亡はしていないということを証明できない、と学者先生は考えるのでしょうか。 私は、状況証拠から「使命説」を信じているのですが、平成元年、赤穂市史編纂時にも「逃亡説」と「使命説」が問題になったそうです。 寺坂吉右衛門 http://www.geocities.jp/toshio2003jp/terasaka.html
お礼
何回も回答して下さってありがとうございます。 >そこが問題視されて、「逃亡説」や「密命説」の論点となっているのではないでしょうか。 なるほど、すっきりしました。 難しいことはさておいて、歴史ファンとしては「密命説」を信じることにします。