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悟り

仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

みんなの回答

回答No.23

「悟り」って何でしょう? 仏陀は正自覚者となって「成すべきことを成し終えた」と言ってますね。 私も、この難解な問いに答えが欲しくて、様々な学問の碩学の書物を読み漁り、その度に「これが真理なのかな?」という思いを持ってきました。 結論は、仏陀の言う「全ては無常である」が分かることではないか?と考えています。 「悟り」と言う言葉は宗教的な解釈がもっぱらですが、「神」も「悪魔」もその他、信仰対象となる全ては偶像であり、全ては人間の想像でしかないです。 一方、この世界を構成している根本は何か?という問いに対し、数学者は数学で、物理学者は物理学で、哲学者は哲学でという具合に、様々な学問でその難解な疑問に取り組んでおり、時代に合わせて真理は変遷していますね。ある時代に真理だと思われていたことが、後の時代に否定されることはよくあることです。 その中で私自身、現時点で否定しようのない、厳然たる事実だと確信しているのは、仏陀の言う「全ては無常である」だけです。後は「生命あるものはいつか死ぬ」ということでしょうか? 仏陀は無我と言いました。「永遠に変わらない私」が存在しているというのは、ただの誤解、幻想ということですね。確かに人間のどこを探しても「私」という確たるものはありません。全ては発達した脳細胞が作り出した幻影です。しかも人間はその「私」なる存在は永遠に変わらないと信じている。その「変わらない私」が、自分の思うとおりの人生を歩こうとして、もがき苦しんでいる。 確かにその通りで、仏陀の言うように「世界も自分自身も一瞬の遅滞もなく変わり続けている」と分かれば、この世界はただ変わるために変わり続け、人間も生きるために生きているということに得心がいきます。そうすれば、「今」を生きている「私」と次の瞬間に何かに捉われている「私」は違うということが分かります。世界もそうで、窓外の風景を眺めたり道行く人々を眺めたりするだけでも、全てがただ「変化し続けているだけだ」ということが分かります。 その変化の無窮の連鎖の瞬間である「今」が私達が知覚できる現在の世界の実相ですが、やがてその世界も未来には大きく変化しているのでしょう。 その世界の実相を見続けている「今」現在の「私」と未来の「私」も違っています。肉体を構成する細胞は生まれ変わり続け、ただ「死」に向かっているだけです。その生命というか世界の実相というか、その全てはただ変化しながら流れ流れているだけだと分かれば、「永久不滅の私」は存在しないのだから、物に執着したり怒ったり嫉妬したり嫌ったり恨んだり憎んだりということは無くなるのでしょう。仏陀は「愛」すらも煩悩の一つと言ってますが、ようは「悟り」を得ると全ての煩悩が断ち切られ、二度と生まれないと言ってます。 仏陀は「輪廻転生」を否定しています。仏陀が言うのは、人間に魂のような根源的なものがあって、肉体をもって生まれ変わっているということではなくて、その煩悩のエネルギーが自分以外の他者(家族や友人知人や後世の人々)や事物に影響を与えるという意味で、「悟り」を開くと、そのような煩悩のエネルギーが消滅するという意味だそうです。 これらを私は知識として知っています。 自分自身で「そうだ!」と確信を得たわけではないですが、これが混沌とした世界の実相のさらに深い本質と捉えると、非常に納得できます。 「全ては無常である」というのは、読んでも書いても簡単この上ないものですが、このごく当たり前のことを真理と捉えると、いろいろなことが物凄く納得できます。 また、「オレはいないのか?」という自暴自棄になるような解釈ではなくて、世界と共に自分自身も変化し続ける存在だと分かれば、「今」という瞬間瞬間を「清らかに生きる」ことで、そのエネルギーが自分以外の同じように変化し続ける他者や自分が影響を与えるであろう変化し続ける世界の実相にも、良い影響を与えることになるのでしょうね。 私は「全ては無常である」と思い始めてから、何だか肩の荷がおりて、日々が楽しくなりましたよ。

noname#184135
noname#184135
回答No.22

しらね。ほかのところのよんだ。そこらに、さとりみたいの、ありうるかもと。たまなげなら、はやいたまは、わかると、ちかいとこにあった、なあーんだ、こんな事だったかと。たとえば、小学校低学年だて、だれにもおしえてもらわなくてもなんなくできるが。水すくうみて、あっちへ、水とばし、じょじょにちからつよいのでやる。しまいには、ありったけぜんぶちからだしきる。

noname#184135
noname#184135
回答No.21

しらね。おれは、ちしきねし、ちいさいときから、だめばかりだし。かりに、予言なら、予言、前、よげん、あたり、とかなにか、予言、あと、とか、ある。もち、前、だて、ばかにされる、あたったって、もち、ばかにされる、あと、だて、もち、ばかにされる。が、もち、まえ、なら、あたり、により、ちかいか、はずれかとかある、あたたなら、あたり、あるが、反対派からは、もち、くちからでまかせが、たまたま、あたりに、かすったんだとかか。まえ、かえって、かんがえれば、あたりに、よりちかいか、はずれか、とかは、ありうる。とてんが、たいへんな、め、あうは、にねんいじょう、前、わたかちやた。反対からは。まぐれだ、とかなにか、いうんだろが。まんがいちさ、たいさくに、せいだしてればさ、もしかしたら、ひがいちいさくできたかも。蟻も、こたいさ、あんがいでかかった、ふつうは、ずうたいでかいやつでも、さんみりかなにか、すなまちぶみたいのはこびあげるにも、いやなるくらい、まちがい、くりかえした、すいちょくかべで、おとしたり、しやめんおいてずずーとすべりおちたり、ふあんていおいて、ごろんおちちやたり、いやなるくらい、なんどもなんども、まちがえた。....、2cm三角石、すてられたのいた、たまげた。なんで、そいつは、できるんだろ、謎。胎児だて、かんがえる。あかちやんだて、かんがえる。幼児だて、もちかんがえる。あたまごつんぶつかったり、ものすごくいてえ、が、どうしたらいいか、おれには、さっぱりわからなかった。ついに、ある日、あいであでた、つねにまわりぜんぶかくにん。なくならないが、へってった。おれは、小学校卒業頃でも、ひざ、きりきず、あんがい多かった。たま投げ、なら、とちゅうまで、いって、やめて、ひきかえした、おれにむかないとおもった。ある日、速いたま、世界一、やりたくなった。やりはじめて、のべ、1時間かなにか。やったは3、空き缶ころがし15分。すりんぐしょっと30分。たますりんぐしょっと15分。【到達、二塁から∟、大リーガーだて、ちんぷんかんぷん、わかるやつは、いまは1人も、いるはずが、ない。】のち、説明かんがえてとおもいだした、小学校低学年だて、だれにもおしえてもらわなくてもなんなくできるが、水すくうみて、あっちへ、水とばし、じょじょにちからつよいのでやる。しまいには、ありったけぜんぶちからだしきる。小学校6年とき1度だけやったは、わざとばかでかい雪かたまりつくった、地面から両手で、よっこらしょもちあげあっちへ両手で、とばして命中。小学生だて、そのばとっさできたんだから、こんきよく。やれば、こつ、わかるかも。らくてんには、おれはしつこく、すすめたが、だめ、だたな、ふつうは、みんな保守なんだな。あ、おれは。のれーたま、こまとぎやくかいてんやった、のれーたまももち、直角まがる、せんかいみてのじやない。直角定規。まさか、直角まがる、なんか、大リーガー、に、いますぐは、わかんねんべ。

noname#141994
noname#141994
回答No.20

悟りて、あまり言葉で聞いても理解できないと想いますよ。 宗教的違いも、言葉の違いによるものが大きいです。 仏教で言えば、仏。 キリスト教で言えば、神。 それて絵や、物にすると違う存在に見えますが、 本質的には同じようなものと考えてもおかしくないですから。 禅 も似たような所あります。 で、このまま言っても質問者様の意図に答えれてないと思いますので、 お答えしますと、 悟りとは、覚悟した状態です。 己が仏である事に目覚める事です。 言葉で説明しても、納得のいくものじゃないと想います。 言葉や文章で理解しようとする事ばかりしていると、宗教にハマっていく人になりますので。 あまり、意味がないと想うので、良き師匠と出会うか または内側からでてくる声を信じて生きる生き方をした方が良いかと想います。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.19

『悟り』とは、何か特別な人間が特殊なことをして為すものではなく、さして難しいことではなく、その字体が示すように立心偏に吾(われ、おのれ)、つまり、『心』=『吾』であるということを覚知することを『悟る』ということであり、それは『心』こそが自分自身、本質であって、鏡に映る肉体はその所有物ではあっても、決して自分そのものではなく、その肉体を見て自分と認識している心こそが自分そのものであるということを言っているのです。なぜなら、肉体というものは、時間の経過によって変化していきますが、心というものは不変だからです。    たとえば、ある人の5歳と25歳、50歳と80歳を比べれば、その外観は明らかに違って見えますが、その心はいくつになろうが、一貫して「私と思う心」に変化はないはずです。つまり、年齢によってその心が別人に変化することは無く、徹頭徹尾、同じ心であり続けるはずです。しかも、その心という本質は、その肉体が朽ちえたとしても、存続しつづけ朽ちることはないのです。つまり、我々の本質というものは永遠に続くのです。それでいわゆる宿業というものが存在することになるのです。つまり、その心の為す善悪の所業が、その本質に刻まれて、その善悪の報いを必ず受けていくことになるのです。いわば自分で蒔いた種は、必ず自分で刈り取らなければならないということです。  よく聞く話ですが、「自分は別段、何も悪いことをしていないのに、なぜ、こんな境遇なのか」と嘆き、その原因を自分以外に求める場合がありますが、これも過去世に刻んだ業の悪果かと思われます。これを分かりやすく言えば、ドライバーと車の関係みたいなもので、ある違反をしたとしてその車を乗り換えたとしても、その罪はそのドライバーに付いて回るので、たとえ何台車を変えたとしても、それから逃れられず、必ずやその罪の報いを受けることになるようなものです。また、生まれながらにして平和な国や戦乱の国、金持ちの家や貧しい家、健康体や病弱な体等々、そのような違いがなぜ生じるのか。当然、生まれる以前にその原因を求めたとしても何ら不合理なことはなく、自然かと思われます。  ともかく、我々自身の本質は決して朽ちることなく永遠に存在し続け、その因縁によって様々な境涯を得ては繰り返し、繰り返しその営みを続けていくのです。つまり、本来の自分というものは「死んだら終わり」では決してなく、それはあくまで自分の所有している肉体のみの話で、自分自身は永遠の存在であるということです。ところが世の中、本末転倒というか、大部分の人は本当の自分ではないものを自分自身と思い込み、それに執着しては悩み苦しんでいるのが現状かと思われます。  それでこの本末転倒に気付いた(覚醒した者=ブッダ)釈尊が、このことを教えようと説き始めたのが仏教の始まりであり、ですから、以上の話からでも「自分は本来、永遠の存在である」と確信できるのであれば、『悟りを得た』と言ってもよいかと思われます。

  • ctaka88
  • ベストアンサー率69% (308/442)
回答No.18

悟りなぞないと私は思っています。 座禅をしていると、一種ハイな状態になって世界との一体感を感じるときがあります。もしこれを悟りなどと思ってしまえば、ここにとどまってしまいます。これは野狐禅でしかないでしょう。 大悟数度、小悟数知れずとも言います。 日常の生活の中で、自分にも人にも恥じることのない生き方を貫くことこそが、菩薩業であろうと思って生きています。

noname#129150
noname#129150
回答No.17

神仏の境地へ近付いて行く過程段階を実感認識して行くことのようなものだと思います。 一例ですが、 (1)地獄→(2)普通人(3)善人→(4)阿羅漢聖人→(5)菩薩天使→(6)如来大天使→(7)仏陀救世主 こうした境地段階を経て行くことを、悟りが深まって行く、と言うことと思います。 各境地段階の特徴の一面は、 (1)自分や他者を害す方が多い (2)自分や他者を害す方が少ない (3)善心善行に喜びを感じる (4)更に向上に努め、善人を導くことができる人格や認識力等を備える (5)自己確立を一定程度修め、神仏の慈愛で生かされていることを実感認識し、他者へ尽くすあり方自体が自身の幸せであるとしたあり方境地 (6)一層深い法則的智慧や慈悲を体得し、太陽のように多者を照射する如きあり方境地 (7)宇宙的歴史観世界観を認識でき、人類を導いて行くあり方境地 以上は「永遠の法」「太陽の法」(大川隆法)という書籍からの概観です。

noname#156094
noname#156094
回答No.16

多分そうしたものかもしれませんね。 mmkyさんがおっしゃっておられるように段階があるのでしょう。 それらの境地における意識の及ぶ範囲があり、高い境地からみれば段階ありと映るのでしょう。 境地とか、心とかいう表現は外面的な捉え方のような気もするのですが、実際には意識の通じる働きや範囲を指すようにも思われます。 覚性といわれるものですが、そこのところは 因位には識といい、果位には智という、智すなわち覚なるがゆえに・・・と表されています。 狭い範囲での感性的な悟りは、ただの思い込みにすぎないものかもしれません。 智といわれる程のものとなると、全てが意識に直結した世界となっているのかもしれません。 その場合の意識とは日常的な意識とは違っているようです。 最近ですが、日本人として初めて宇宙飛行士になられた秋山さんという方がTVで ちょっと危険な話ですがと前置きしながら言っていました。 宇宙から地球を見ていて感じた事で、宇宙の中では色彩を音として感じる、という事を言っていました。 これも体験による実感だと思いますが 一般的な日常的感覚ではない事は明らかです。 危険ですが、という前置きは、理解され難いという思いがあっての事でしょう。 体験なくしては語れないもの、語るべき相手なくしては語れないもの、それが悟りなのかもしれません。

回答No.15

> いくら言葉で語ろうとしても「空」ですもんね・・・・ そうですね。 しかし「空」さえも、悟りの一側面。悟りの部分的な側面にすぎませんよ。 「空」をもって悟りを計る事も出来ません。 悟りを理解しようとする際に重要な事は、まず何をおいてしても完全に自分を客観化する事は出来ないんだという事に明確に気付き(1回も、1秒も客観化した事はございません)、その状態では当然にして自分自身を自由自在にコントロールする事も到底不可能である事を、明々白々に理解する事です。 それなしで、次はあり得ません。

回答No.14

zakky74でございます。早速のお応えをありがとうございます。 質問者さまは、無我を悟りだと思われているという事ですか?そして、我を悟りではないと思われているという事ですか?もしそう思われているのでしたら、確かに質問者さまのコメントは理解ができますし、納得でございます。 僕が観ている悟りの観点はそれとは違う事をお伝え致しました。また、お釈迦さまもその様には観ておりませんよ。彼も我が悟りだとか無我が悟りだとは伝えておりません。それっぽく聞こえてしまい、その様に解釈を間違えてしまう事はあるかもしれませんが。 ANo.13でお応えさせて頂きましたが、無我は悟りの一部分であり一側面の姿です。同様にしまして、我も悟りの一部分であり一側面の姿です。ですから、無我をもってして悟りを計る事は出来ませんよ。そして、我をもってして悟りを計る事も出来ません。 そして、我も無我も悟りの一側面の姿ですから、お釈迦さまの無我の思想を間違っているとは僕は思いません(現代においては伝達方法として未熟さが残るとは思いますが)。また、僕がお伝えした事と無我の思想もちゃんと絡み合いがあるものでございますよ。 再度、読まれてみて、もしまた分からないところや足りないところがございましたら僕側の説明不足である可能性も大でございます。その場合は、補足にてご質問下さい。

noname#224523
質問者

補足

いくら言葉で語ろうとしても「空」ですもんね・・・・