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記憶を失ったら仏教の悟りも失われる?
不退転の悟りを得た仏教徒がいるとして、その人が、頭を打つなどして過去の記憶を失ったとします。彼は、言葉は話せても、自分が何者で何をしてきたかすら思い出せません。そうなると、悟りも失われてしまうのではないかと思います。悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?それとも、不退転の悟りは記憶に依存しないと考えられているのでしょうか?
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その記憶喪失というのは失われたのは過去の知識のみであり基本的な人格そのものに変化はないはず。 悟りというのは机上の知識ではなく、悟ったことを覚えているから執着心がないわけでもなく、ゆえに過去の知識の有無によって失われることはない。 というのが私の答えです。
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- bananasand
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>「宇宙や自然は自己そのもの~境界はありません。」という表現で示唆しうるなんらかの実感は失われない 悟りを得ると言いますが、この表現が誤解のもとです。オリンピックで金メダルを獲得する喜びを得るのとは全く異質です。何度も記載しましたが、悟りを得る主体はありません。 悟りが海のようなものとすれば、主観、主体、エゴ、我というのは、水滴でしょう。水滴単独で海になることは出来ません。水滴が海に落ちて海と水滴が不可分一体となるにすぎません。一体となった瞬間、水滴は消失します。実感は、もともと海に帰属しているのであって、得ることも失うこともありません。しかし、海から、他の水滴に対して実感を伝達することは出来ないのです。
お礼
回答ありがとうございます。言葉は万能ではありませんので、表現には様々あると思います。「得阿耨多羅三藐三菩提」という言葉もありますので、「悟りを得る」という表現はそれなりに妥当な表現であると考えています。もちろん、おっしゃるような表現でもかまわないと思いますし、味わい深いたとえであると思います。しかし、質問の本質は、悟りがどのようなものであるかというよりも、「得阿耨多羅三藐三菩提」の状態がそれ以前の状態に戻るかどうかということです。
- noname002
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改めて問われてみれば、たいへん興味深い御質問と眺めさせていただいておりました。 辞書によりますと悟りとは 「迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。」 と、ありました。 つまりは迷妄あってこその、とも言えそうですね。「会得する」んですから。 そもそも悟りの境地を得たいと渇望すること自体、煩悩の強さを示すものだと思えます。 お釈迦様が過酷な修行の末に或る時、乳粥を召し上がった途端に悟りを開かれたという話が伝わっているのも意味深なことだと思います。 頭も打ちようによって程度の差は、いろいろでしょうが、深刻な場合ですと、なるほど、悟り以前に凡夫としての感覚や習慣を取り戻すほうが危急であろうと思われます。 もちろん「自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの」などという精神状態が、自他の境界がないからと悟りであるはずもないでしょうが。 >悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまう 逆にまた、執着心を取り戻すことが悟りへの前段階であると言えるかもしれません。 アイデンティティーと悟り、ということも思いましたが 「観自在」ということばを思います。
お礼
回答ありがとうございます。悟りを失ったとしても、一度悟った人ならば、人並の学習力が残っていて、機会さえあれば、以前と同じように、迷妄を見抜いて、悟りを再会得できるかもしれませんね。
ふーむ。 なんかこう、もっとシンプルに考えちゃ いけないのかなあ。 不退の悟りまで修行した、ということが大事なんだろうと おもうわけで 悟りが大事だとはおもえず、 記憶を失って自分が何者かさえ分からない状態で いったい悟りの修行の必要があるのか というと まったくないような気がする。 悟りよりも 箸の使い方や茶の淹れ方を修行せねばなるまいし 悟りが失われるか 失われないか とは 仮に失われないならば それは 残る というような類のものなのか。 悟り は残る残らないの質のものじゃないんじゃないかなあ。 それに到るかどうかの 距離をふくんだようなものであって。 距離を認識しなければ 道もないのだから 何もわからないなら 距離にも道にもふれようがないし。 専門家が答えているところで おこがましいけど。
お礼
回答ありがとうございます。悟りは、それを得ようと初心を起こした人からすれば、究極の目的なのだと思います。そうでなければ、ゴールのないマラソンをしているようなものであると思います。その悟りが失われて、しかも、悟りへの道も忘れてしまったら、その人が苦痛であると考えていた人生が再びスタートする可能性がある気がしました。もちろん、その人が人生を苦痛であるとははっきりと思わないかもしれませんけれど、具体的にいろいろ悩まされることだろうと思います。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
悟りが人間の脳機能に依存するものか否か これまで「主観」という言葉を多用してきたが、これは、主観と客観を分離し、要素還元主義で物事を判断してゆく方法のいわば象徴です。 主観を取り巻く宇宙、自然は(個人的に悟りは、自然や宇宙よりも大きく広い概念として捉えています。)、主観に対立する客体となりますが、いわゆる悟りの方向性は、宇宙や自然は自己そのものであって、主観が創造起源である客観、客体も単一の中に溶け込んでその境界はありません。 脳機能も悟りの一部なのであって、脳機能に悟りが依存することはありません。
お礼
回答ありがとうございます。脳機能が損なわれても、「宇宙や自然は自己そのものであって、主観が創造起源である客観、客体も単一の中に溶け込んでその境界はありません。」という表現で示唆しうるなんらかの実感は失われないということですね。
覚りは主観が無い状態ではなくて 主観を見分けることができるということ。 覚りにいたれば覚りは記憶に依存しないが記憶が外傷等により欠損すれば覚りは失われると思う。
お礼
回答ありがとうございます。 きわめてわかりやすい、というか、私が質問を立てたときに漠然と考えているような回答です。主観についても納得です。 記憶の欠損で悟りが失われるとすれば、悟りって一体・・・と思えてきます。輪廻を脱っしたというのならば、少なくともなんらかの形で、記憶の有無に依存せずに継続しつづけるようなものである必要があると思うのです。あるいは、特別な解釈をもって、矛盾がないことを理解する必要があると思っています。
悟りを自覚する主体はない。 悟りの状態に主観が無いと解るのは一体誰? 誰もそれが解る人がいないことになってしまうのでは と思ったのは私だけでしょうか。 私自身は記憶のなくなり方によると思うのです。 部分的に記憶が無くなった場合は悟りの状態は怪しくなりそう。 記憶野全体が無くなった場合は違った意味で悟りの境地に近いのかもしれないと思いました。
お礼
回答ありがとうございます。私も最初は回答者さんと同じような印象を得たのですが、質問を重ねるうちに、ここで繰り返し示される「主観」とは一種の判断能力であると理解しました。音を何の音楽であるとか、色を赤とか、黄色とか、そんなふうに判断する能力などではないかと思います。そうでなければ、悟り即白痴、もしくは植物状態のようなものということになると思います。 私も回答者さんと同じように考えて質問をたてました。
- rurubonpp
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まず、質問に問題があります。「不退転」というのは仏教用語で、一番初歩の悟りを得た聖者の位で「預流」・「シュダオン」と言いますが、質問はこの初歩の聖者の位のことを言っているのでしょうか。それとも悟り全般について言ってるのでしょうか。 悟りというのは、霊的なものが悟りを得るのであって物理的な脳とかが悟りを得るのではありません。したがって、たとえ記憶をなくすようなことがあっても、その人は無意識のうちに聖者としての振舞いをするでしょう。死ねば脳もその他の体もすべて失うのですから、そういう変化するものに頼らないものこそが真の悟りです。条件によって変わるような悟りは悟りとは言いません。それと悟りを開くと運命も超越してしまうのですからそもそも記憶喪失になるようなことは起きないでしょう。もし起きるとしたら残っている業を消すために自らの意志で起こしたものと思われます。ただ初歩の「預流」の段階では完全に悟りを開いていないので仏陀のようにはいきません。それでも記憶喪失になってもちゃんと預流としての行動をするでしょう。条件によって変わるのは初歩の悟りさえ開いていないのです。
お礼
回答ありがとうございます。悟りの種類については無知ですので、とりあえず、文字からして失われないと考えられる「不退転」という悟りを漠然と例示しました。不退転でなくとも、一度得て失われないと信じられているものであれば、それをここで悟りと見なそうと思います。 「無意識のうちに」という部分が興味深く思われました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>悟りというのは、少なくとも、絶対的なものではなく、相対的、 >有限なもので、 悟りが相対的、有限な事象に属するなら、人間が主観として全宇宙を支配する王が君臨するが如くに到達でき、いずれこの時空間の法則のみで科学的かつ論理的に説明が可能となります。 それは、ビッグパン以前には実存せず、宇宙の消滅に伴い確実に消滅するものに属しますが、それを悟りと言うのでしょうか。 ビッグバンは決して遙か遠い過去の事象ではありませんし、同様に宇宙の消滅も遙か遠い未来の出来事ではありません。悟りはこの狭い範囲を超越して実存するものと推定されます。
お礼
回答ありがとうございます。悟りが有限か無限かはわからないのですが、悟りが有限であっても、それは、人間が時空間の法則を理解できるということとは別の問題であると思います。個人的にはそれは無理だと信じています。とりあえずは、悟りの中身は抜きにして、悟りが人間の脳機能に依存するものであるかどうかに関心を絞っています。
- rokujuuban
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質問者さんは「悟り」というものの存在や、真偽に疑念を持って、この質問をされたのではないかと推察します。(違ったらスミマセン) 例えば仏陀の悟りについて、単なる方便か、後世の脚色か、彼自身ペテン師だったか、その何れかであったとしても全く不思議は無いし、後の仏教の隆盛とも別に矛盾はしないと思います。 私個人としては、修行者達が目指す理念みたいなものの中にのみ「悟り」が存在するように思います。
お礼
回答ありがとうございます。そうですね、悟りに疑念をもっていると言えると思います。例えば、悟りによって輪廻を脱したとするならば、それは絶対的なものであるので、脳がどのようになろうとも、執着などといったものは再びもつことはないと思います。仮に、痴呆になったり、記憶を失ったりして凡夫と同じように振舞う可能性があるとすると、悟りというものを(個人的に)改めて解釈する必要があると思っています。 修行者達が目指す理念というのは倫理の教科書に載っているプラトンの「イデア」のようなものでしょうか。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
悟りの状態に達した主観が悟りについて語る。ことは有り得ません。 主観が悟りについて主観自身の記憶、思想、信条に基づいて語ることはできますが、そもそも、主観は悟りに達することはありません。 主観が消失した無我の境地に悟りは現存するのであって、悟りが正確に、記録や記憶で主観に伝達されることさえ一切ありません。 無我の境地に達した仏陀の周囲の人間がそれを感じ取り悟りを語ることもあるでしょうし、仏陀自身が、悟りに達するまでの課程をぎりぎり直前まで語ることも出来るでしょう。しかし、悟りに達した地点から主観を通じて、言語、動作、手記などによって悟りを表現することはありえないのです。 仏陀は、自分が悟りに達したことを知っていたかどうかということになります。仏陀の記憶を第三者がとやかく言えるものではありませんが、悟り(完全な無、全知全能にして全物質全エネルギーの共存状態)は、主観(この時空間を認識する意識)と次元の異なる実存で、時間を現在しか認識できない主観には、その主観のまま悟りに達することはないのです。そして、他に正確に伝達することも出来ません。
お礼
回答ありがとうございます。悟りそのものを伝え得ないことは理解できます。また、悟りそのものについては、悟った人にしか経験できないことであるので、他人が知ろうと思ってもどうしようもないと思っています。悟りに至る過程、修行方法などに限り説明できることも理解できます。 しかし、悟りそのものについては知りえなくとも、悟りの必要条件は明らかになっていると思います。例えば、「執着を離れている」などです。しかし、そこで問題になるのは、記憶や脳の機能がおかしくなってしまうと、凡人と変わらない行動をとりうるのではないかという疑いです。もしも、そうだとすれば、悟りというのは、少なくとも、絶対的なものではなく、相対的、有限なもので、悟りもまた、依存の関係上にあるということになります。私の関心はそこにあります。 >仏陀は、自分が悟りに達したことを知っていたかどうか この部分についてが、この質問内での混乱のもとになっているのだと期思います。私は、悟ったという経験を仏陀が「知っている」ことを前提にして問いを立てています。しかし、それでは誤解を生むので、もう少し別の言い方をすると、悟りそのものは理性で噛み砕けなくとも、悟りに達したという抽象的な「事実」は認知していると思います。さもなくば、如是我聞から始まる経典は虚言であることになりますし、仏陀が修行方法などについて説明する意味はありません。盲人が盲人を先導することになります。
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お礼
回答ありがとうございます。なるほど。人格に変化はないという言葉に納得しました。記憶喪失の人であっても、仏典などの知識がないとしても、悟った状態そのままであるのかもしれませんね。