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悟りとは主観と客観の一致である。
ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。
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#4さんのお礼欄によれば、森田療法の森田博士の言葉ということですが、 その解釈に限れば、意味はさほど広くありません。 自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。 砕啄同時といって、 雛が卵の中から「狭いよう、苦しいよう、やってらんないよう」と力任せに殻をコツコツし始めると、 親鳥が「もう卵から出る頃かな」と嘴で殻をコツコツしながらついばんでやるのです。 期が満ちて、そのときが来ると、殻を破るためには中と外で同時に働きかけがあるということです。 西洋の精神療法に比べ、森田博士は、主観・観念の打ち消しや矯正をはからないのが特色です。 思い込み、病のなかにある思考や判断といったものが、事実でないことを事実と思い込む、 そのような主観を捩じ伏せることなく、 自然に主観を離れられるような心のしつけを繰り返して、客観的な事実をありのままに素直に受け入れる時期が来る。 粘土をこねながら粘土になりきるかのごとく、闇鍋みたいな心の中を見つめていないでありのままの事実を見られるようになる時が来る、 ご質問のくだりはその程度の意味だと思います。
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- agripapa
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兎は亀に何故追いつけないか。。 ・
- kadowaki
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No.12、13です。 >能動的なら「観」に執着するという事もありますが、受動的な見る「観」なら執着から離れているような気がします。 おっしゃる通り、同じ「観」でも「能動的」と「受動的」との違いはありそうな気がしなくもないところですが、唯識論の立場からすれば、「受動的な見る「観」」にしても、遍計所執性(虚妄分別性)、つまり主観的な計らいに囚われた、言わば妄想の産物にほかならないということになります。 唯識論は、われわれをして「受動的な見る「観」」へと執着せしめる動機や目的にしても、それがより根本的な原因との因縁によって生起した、あくまでも仮のものでしかないことを明快に解き明かしております。 ということで、「観」にしても、因縁がなくなれば消滅する以上、とても「悟り」たり得ないと結論するしかないのです。
お礼
唯識論の本は手元にあるのですが、難しいので理解が不十分の状態です。 御陰で、理解が進む気がします。 説明ありがとうございます。
- sheep67
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どうも納得行かないので再追加です。 下の話をまとめると、りんご=未知の物体X と言ってもいいはずです。 りんごが何なのか、わかりません。 食用なので、別にわからなくてもいいということです。 別にこのパソコンモニターでも時計でも道行く人でも同じですが。 本来りんごは全く過去何かわからないし今もわからないし未来もわからないのですが、 そこに人の目的意識や経験を注入して、初めて意味あるものとして成り立ちます。 食用の果物、とかです。 りんごという名前もある意味ただの偶然ですね。 すべてのものは自分との関連で、自分の目的のために意味が生まれ、意味あるものとして成り立つだけで、 自分の関心の範囲を超える意味まで考えると、意味不明になります。 逆に言うと、このへんの、未知に対して人が勝手に意味を導入することが、象徴の仕組みとも言えるかと。 意味は無限に変化するのでこのあたりは固定しません。 よく他人には価値のないものだけど、ある人には生命より大事、ということもありますし。 それはもう言葉の機能の限界は悲しいくらいで。 この側面から考えると、悟りがそんな特別なものとは思えないですし、 逆に言うと、悟りもりんごも同じくらい特別なものとも言えますし、 どっちにせよ、直接表現の不可能なものであることに変りないと想像しますが、 りんごと悟りの大きな違いは、 りんごは食べられたらいいのだし、それ以上の意味や本質は求められません。 つまり、りんごに関して、りんごとは何か? という質問は要求されません。 (農家の人なら、多少は作る必要上追いかけますが) でもなぜか、悟りに限らず、宗教哲学では、その言葉そのものの意味がダイレクトに問われます。 こんな事な日常生活ではありえないですし、おもしろいところですねー・・・ 言葉の意味を正確に表現することは、誰もできたためしのないことですし、 直接の単語の意味の説明は不可能なまま、まただれも知らないまま、問題なく世界が成立してます。 何かの本質が、象徴によって単語化される構図を考えます。 本質→象徴作用→日常の言葉 というふうに生まれるとします。 この構図において、りんごは、日常の言葉です。図の右側です。 でも悟りは、象徴作用によって変質する前の本質を指す言葉です。図の左側です。 (りんごの意味も 本当はそれは何か?と追求すれば本質にまで遡るという点では悟りと同じですが) 個人的な余談でした。
お礼
回答ありがとうございます。 質問の意味が自分でも深く理解できた気がします。
- sheep67
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もうちょっと付け足しで、 ちょっと脱線してるかもしれませんが、これを悟りの表現方法の問題としてみると よくヨーロッパでは、プディングの味は食べなきゃわかんない、ということわざがありますし、 りんごがどんなものかを表すときに、 赤くて、丸くて、酸っぱくて、硬さ、大きさ、原産地、由来など、ほぼ無数にりんごについて表現する言葉がありますが、 結局どれひとつそれらの説明はりんごそのものではなく、 それらの説明をすべて集めても、りんごそのものにはなりません。 論理的に非常に正確にりんごを説明したいと思うなら、りんごはりんごだ、りんご=りんご というしか、誤差の一切無い表現はできなくなります。 これは、ある種の循環論法で、自家撞着にも似たような感じです。 自己言及的表現は、何かを説明してないからこそ正確、という意味のない話です。 言葉が、永遠にりんごを正確に表現することがないように、そもそも言葉には対象物を正確に表現する能力などないですし、 なぜなら言葉は象徴にすぎないからですが、 なので、同じことは悟りの場合にも当てはまると・・・たぶん、思いました。
お礼
言葉の限界、逆の悪い作用(誤解を招く)について、また考えさせられました。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんばんは。 どんぴしゃりな内容なので、追加することがないように思いましたが、 つまり、悟りが主観と客観の一致だ、というのはそのものズバリと思うので。 ただ、しばらく見てるうちに思ったのは、 その表現は、悟りのやはり多面的な表現の一つ、と思いましたし、 真に、悟り=主観+客観であれば、これを読んだ人は皆悟ることになるんですがそうはなりませんし、 つまり、これは正しい表現だけど、 主観と客観の2元論の止揚だ、というのをその通りだなーとは思うんですが、 (一致と止揚はたぶん同じと思うので、この場面では) より正確には、 悟り⊃主観と客観の一致 「⊃」は、部分集合、という意味です。 というとまだ、ちょっと表現として正確さが増えるかもしれません(余計混乱するかも・・) つまり・・正しいけれど、これで全部じゃない、という、当たり前のことを言ってるだけ、かもですが。 これは、りんごは丸い、と言ってるようなもので、 正解だけど、りんごじゃない・・・的な感じがします。
お礼
回答ありがとうございます。 >真に、悟り=主観+客観であれば、これを読んだ人は皆悟ることになるんですがそうはなりませんし、 そうではなく、 悟りとは、主観=客観 そう言う意味だと理解して質問しています。
- agripapa
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ぎゃはは わざとらし過ぎ さて。。。 ;しかし、純粋知覚や、個人を超えた意識とは何か?と問われても、 ;そういうものがあるとしか答え様がありません。 ;それはいくら考えても理解出来る様なものでは無いので、 ;自ら体験して納得してもらうより他は無いです というあたかも分かったかのように表現するその純粋知覚とか個人を超えた意識とかのさとりを通して ;この「あるがままの世界」こそが、 ;悟りの世界であり、世の実相なんです どのような実相を見 ;その様にして世界の本来の姿を覚知した人、即ち「悟った人」は、 ;世界を解釈するのも、しないのも、自由自在となるので、 ;後は自分の思う様に生きていきます 世界を解釈するのも自由自在となるので、思うように生きています となっていくのかなぁ。。 どのようにこの世の実相を見 阿羅漢から何を思って あえて世俗という苦の中に入り どんな関わり方をするかということこそ 小乗から大乗へと移行する時に意味を与える重大事であると言えるのに。。。。 今日本が抱える様々な問題をどう解決していくかといったことに対して 例えばユークリッド幾何において点から始まり、線、面と展開していくことで、より複雑そうに見える問題も解法させていけるようになるように 今ある社会を受け入れ、思考の連続性を保ちながら、より上位に来る命題を一つひとつ堅持していくことで 様々に抱える問題を総合的に解決させうる可能性のある具体的な姿とそこに至る具体的な道筋を整合性を以って自らのイデア界に結像する時 時の為政者と対峙する大慾に至るということになる それがどんなに遠回りであってもめぐりめぐって今の自らの苦を解放することにつながると思っているから 政治とはそういうものであると この過程は 訳の分からない純粋知覚とか、個人を超えた意識とかいうような意図的に誤謬を含ませたような表現のものから導き出されるようなものなのではなく、自らが実相をみ、聞き、洞察されることから自然法とか道理とかによって導き構成したものであり 言語化することで他者の意識の俎上に上りそれぞれの内部において検証されるといったようなものです さとりとは主観と客観が一致することというのは、さとりを開いたかどうかということの判断ではなく、その後に来るものの主観と客観が一致した時ということができるということになるのかも知れない さとりにおいて純粋知覚とか、個人を超えた意識というような表現をしてしまうこと自体が実相をそのまま見るということから逸脱し何らかの先入観から自らが勝手に想像し迷妄を生み始めてるはじまりと言えるのではないかな さとりとは阿羅漢としてであろうと菩薩としてであろうとさとりを開いたその後のあり方の方に本来の意味があるのであって 実相として自らの身を通して世界をどのように見、何を思い、何を感じ、どう考えてきたかといった総合的なものが集約されて導かれるようなもので、今までどのように生きてきたかといったことが組み合わされてその後を分かつ かのように ;世界を解釈するのも、しないのも、自由自在となるので、 ;後は自分の思う様に生きていきます というさとりの境地から俗世への移行するときの軽さは、さとりを開きそこへ至ることを求めて踏み込んだ動機やその道程に比べて、そのさとりを開いた状態の後に来るものの比が軽すぎて、いかにもそのさとりは偽物ですと言ってるかのようにみえます そしてあるがままの実相を見る時 毒矢の喩のように、宇宙の起源がどうの量子がどうのといっている場合ではなく 現代は今、人類の存続に係わることに直面しているといえるのではないの。。 かな? そいでもって さとりとは現実から乖離した詭弁とも言える精神論を展開するキリスト者のいう信仰という地点からは決して見ることのない次元の違いを確認しそこに明確な境界を見る みたいな 追伸 森田療法については以前読んだことがあります その手法を否定するものでは決してなく、むしろ有効かと思っております 表題の一節に関してだけの考察でありますのでご了承ください ・
ANo.22の補足について、 コメントをさせて頂きます。 言語化した時点で、真理は真理で無くなってしまうので、 真理そのものを言語化する事は出来ません。 しかし、言語は言語で大変に便利なものですし、 実際、相当な所まで表現する事が出来ます。 まあ、他人に理解してもらえるかは、 また別の話ですけどね・・・。 言語は思考の産物であり、 本質的には「迷い」に過ぎません。 でも、言語の限界を知ってこそ、 言語を弄ぶ事に飽き果ててこそ、 真実を知ろうとする心も起こるんです。 思想の矛盾の先にこそ、 言語化される前の「あるがままの世界」が、 世の実相が、真理が、あるんです。 畢竟「迷わぬ者に、悟り無し」です。
お礼
回答ありがとうございます。 森田博士も「大きい迷いがあって、大きい悟りがある。」みたいなことを言っていますね。 同じ事を言っているんだと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.27ですが 舌足らずだったようです。 ☆☆(回答No.26) さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることです。 その《具体例》は: ☆☆(回答No.27) ~~~~ えぇ ですから〔* この《池》というのが〕 ブディズムならブディズムとしての教義あるいは一般に主義主張のことです。 ○(回答No.26) さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言います。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《洪水》とは何を言うのか? 何でしょう?
お礼
具体例をお願いしたら、洪水とは何か聞かれてしまった・・・ 洪水 wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E6%B0%B4 お馬鹿ですみません 。・゜゜・(>_<;)・゜゜・。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.17&26です。 ★ (No.26お礼欄) ~~~ >さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることです。 興味深い意見だと思います。 具体例を上げて説明してくれると、嬉しいです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ えぇ ですから ブディズムならブディズムとしての教義あるいは一般に主義主張のことです。
お礼
具体例・・・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.17です。 ★ 自由な意見 ☆ これを寄せます。 ○ さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることです。 ○ さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言います。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。 ○ 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方です。 ○ そのような池は 要らない。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないでしょうか? (ただし その溜め池をつくったりすることは なおも怠らない。必要でありましょう)。 ○ 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりです。つまり 動態です。 ○ 単純には 縁起共生と言うと思います。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということでしょう。 (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。 (ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。
お礼
回答ありがとうございます。 >さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることです。 興味深い意見だと思います。 具体例を上げて説明してくれると、嬉しいです。
お礼
回答ありがとうございます。 amaguappaさんは、時折回答書き込みを見かけますが、森田への造詣も深いのには驚きました。 >自由な意見を募集してもあまり建設的ではないかと思います。 色々な意見が聞けるので、もう少し回答を受け付けたいと思います。