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悟り
仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?
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- 島崎 信也(@zakky74)
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ANo.1で回答しましたzakky74です。 > 釈迦の無我の思想は間違っていると? 無我とは悟りの一部分の側面ですが、それを間違っているとは僕は思いませんよ。ただ無我は、悟りの一部分でございますから無我をもって悟りを計る事は出来ないとは思っております。 また、僕がお伝えした内容はお釈迦様の内容から外れるものだとは自分では認識しておりません。逆に、質問者さまは一体どうしてここからお釈迦さまの無我の思想が間違っているという様に解釈されたのかを逆にお聞きしたいところです。僕の説明に飛躍や不足しているところがありそうですね。 もし宜しければ補足にてお教え下さい。 さて、ここからは多少の繰り返しとはなりますが僕がお伝えしたかった事をもう少し別の側面からもお伝えしなおせればと思っております。 質問者さまは、 > 自分というものを完全に客観的に見れるようになり自由自在に自分をコントロールできる状態 と書かれておりますが、まず明確に悟りを得ている人はこうした質問は出てきません。明確な悟りを得ている人は生きる目的が変わっておりますから、違う質問をするんですね。 明確に悟りを得ていない人が、悟りの事を理解する為には今の自分が悟りを得ていない状態である事を明確に理解し納得する事が第一歩です。それなくして悟りは有り得ません。悟りの理解も有り得ません。 悟ることは差を取る事ですから、そもそも自分と自分以外の差が無くなることでございます。自分と自分以外の差が無くなる一瞬間前には何が起こっているでしょうか?そこには、自分と自分以外の差がありますよね? 差があるから、差を取る事が出来ます。 自分と自分以外の差が、1回も1秒も、実は交わっていないくらいの強烈な分離・断絶である事の理解が明確になった時に、その差が解けてなくなる資格を手にします。それなしで、差が解ける理由、差が取れる理由がどこにあるのでしょうか? 故に、悟りを得ていないという状態では、自分というものを客観的に見たり自由自在というのは全く不可能な事である事に明確に気付く事だと申しました。それを超えた悟りの理解は、悟ってみた時に分かります。 それでは僕からの先の質問に対するご回答をお待ちしております。
- yuniko99
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何かを悟る事はよくあるけれど 「悟り」というと何かすべてを悟ったような意味合いになりませんかね 真理を悟る事はで来ませんよ 人間には。 物理学の最先端でも仮説ばかりで それも人間が考えてる概念の世界。 何もかも分かったような気がする事はありますけど。 僕もありましたけど。 自由自在に自分をコントロールというのは まず無理でしょうね。 メタ認知という事もおのずから限界が在る。 人間の目的を知って その為に尽くす事が出来れば上等じゃないでしょうか。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
私自身は悟りからほど遠い者ですのでそのおつもりで流してください。 悟りというのは人間の究極の状態を象徴していて、仏とか、死後だったり、神だったり、自由自在とか、宇宙の心とか、などなど、いろいろと想像できます。しかし、悟りが何であるかは、実際に悟りに達しないと解らないことです。 そして、悟りを得たという人が、本当に悟りを得ているのか、悟りを得ていない人は知り得ない、あるいはまた、悟りを得ていない人が偽りの悟りを語っていても、悟りを得ていない人には偽りを見抜けない ということがあるんですね。 結局、悟りというのは、悟りを得たお方が悟りとは何かを説くものであって、 悟りを得ているかどうかわからない方々を相手にそれを聞いて、 悟りを得ていない?あなたが納得したとしても、あなたが本当に知りたがっていた悟りの定義にはなっていないかもしれませんよ。 また、悟りを得たと言っている人が、悟りについてこんな風に言ってました と言う話は元の教祖のご威光を根拠なく信じるしかない、まさに宗教となります。 したがって、このご質問は、あなたが悟りを得たと思うお方にお聞きするしかないように思います。 以上、悟りを得ていない者からの一つの回答です。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 仏教的悟りやキリスト教的悟りなど ☆ というように――定義の前でとしても――並べていいものかどうか 議論のあるところでしょう。 それは措いてまづ前提について述べます。 ★ ~~~~~~~~~~~ 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? ~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこの状態をさとりと言うとすれば そしてひとが目指す境地だとすれば まだそのさとりに到っていない段階からどうしてそうだと言えるのか? という問いがたとえば来るはずです。来なければうそです。 仮りにその境地に到ったひとが言ったとしてもそれを聞いたひとが もしそれを そのとおりだと思ったとしたら それはどういうことを意味するか? です。 さとりをほんとうは知っている ということになりませんか? ですからもしこのことが腑に落ちたとしたら ★ 現代的に言うとメタ認知ですかね? ☆ というふうにさらに思考によって問うのではなく――ただしその定義が間違っているのか正しいのかは 別問題ですが―― すでにその腑に落ちたことを実践していなければこれまたうそです。そのように生活することを始めなければ まづ意味がないでしょう。 そうして もしひとはすでにおそわることなくさとりを知っているのだとすれば 《仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義がある》としてもその違いは大した意味もないことになります。 さとりは 一瞬の出来事です。或る晴れた日にふとあたえられます。 そしてその実際の現われは 相手に応じてそのつど異なったかたちになります。 もんだいは 交通(まじわり)において互いに話が出来たか 話がかみ合ったかにあると言っていいのではないでしょうか。同感しあうにしても批判しあうにしてもです。それは 関係(かかわり)が体得できたからです。 おのれの存在が ひとりであり・つまり孤独であり しかも社会においてその同じ《わたし》というひとりの存在が 孤独関係としてあるということ・つまり関係性を有すると知ることまた体得すること これが だいたいさとりの基礎を成しています。 そうしますと ★ 自由自在 ☆ とはどういう境地にあってどういう考えを成しおこないをするのか これが見えて来ます。おそらく ニヒルという答えからその底に突き当たってさらに底の底を模索しやがてそれを突き抜けるというような経過とかたちにおいて 自由自在を感得すると思います。 それは 相手がいかに自分の考えと能力において自由自在にふるまうことが出来るか。持ち前のちからを十二分に発揮できるか。これをつねに考えていること。これが 《わたし》の自由自在であるとさとることでしょう。 ゆづりあいという心です。 ここに《メタ認知》も入っていましょうか?
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? ○ 悟りでいいんですよ。立派な悟りです。 その悟りは禅宗的にいうと「明鏡止水」の状態ですね。 この悟りは悟りの山でいうと6合目ぐらいの悟りですね。これは立派な悟りですが、6合目から7合目の悟りには大きな断崖絶壁がありますので、これを越えて7合目の悟りに入るにはちょっと大変なのですね。でも6合目まででもすごいものですね。 7合目への鍵はキリスト教的にいえば「愛」、仏教的にいえば「諸法無我」なかでも特に慈悲ですね。 仏教では「真空妙有」の境地が鍵ですね。つまり「真空妙有」の境地の悟りの手前が「明鏡止水」の境地の悟りですね。「真空妙有」が個人の悟りから大衆救済に向かう菩薩の悟りへの鍵ということでもあるのですね。これを仏教では小乗から大乗への悟りともいいます。 悟りにもいろんな段階があるということですね。 参考まで
補足
とてもわかりやすかったです。ありがとうございました。
質問の背景が 悟りたいという願いならば「知らない」 知的興味からならば「間違いじゃないけど、すべてではないらしい」 と回答します。 悟りたいと願う方には迂闊なことは言えません。
- o-sai
- ベストアンサー率19% (199/1001)
現在の社会においては、理論物理学がいちばん「悟り」に近い研究テーマです。 仏陀の時代での仏陀の悟りとは「食物連鎖の法則」にすぎなかったからです。 ユダヤ、キリスト、イスラムなどの一神教では神への絶対服従が「悟り」であり、 個人の思考は否定されます。 宗派の教えが絶対であり、仏陀的「悟り」とは対極を成すものです。 新時代の「悟り」とは、宇宙の絶対法則をつきとめて世界を達観して哲学を構築するものです。 それによって人間を定義して社会の構造を考え、倫理や政治学の基本とします。 アインシュタインもホーキンズも、仏陀やモーゼより人類史に足跡を残すでしょう。 彼ら無くしては新ソクラテスも現れません。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
認識の深まりと言う捉え方は、深い浅いと言う量的な捉え方ですね。自然科学の専門用語で言うと、定量的な違いと言うことです。ところが、我々人間も含めてこの自然界には定性的な違いと言うものも存在しております。例えば、物理学で、ある量を数学の関数で表す場合、変数のある値のところでその関数自身やその関数の微係数等が無限大に発散してしまうことがある。その点の変数の値のことを閾値と言うこともあります。その場合には、その関数をその閾値のまわりで級数展開できなくなります。別な言い方をすると、ある点のまわりで級数展開をしたときの収束半径がその点のまわりでゼロになってしまうことがあります。その場合には、その関数はその閾値の前後の違いを量的な違いで捉えることが出来なくなり、全く質の違った振る舞いをするようになります。この場合、数理科学の専門家は定性的に違った振る舞いをすると言います。 さて、悟りに関してですが、それは定量的な変化ではありません。認識に関して量的に深まったのではなくて、そのような量の変化と言う概念では捉えられることの出来ない、定性的に全く新しい状態に転移したと言うことです。そのように理解することは、旧哲学の悪弊なのかも知れませんが、科学的には悪弊でも何でもありません。悟りに対する至ってまともな見方だと思います。悟ったと言う表現を、西洋では目から鱗が落ちたと表現しているようです。
こんにちは。 「大悟三回、小悟数知れず」どこだかの仏教の偉い人が言った言葉だそうです。 「悟り」にも色々あります。 主体が自分になっているのは真の意味では誤りではないと思いますが、大抵の場合誤りでしょう。 言葉にすると同じ事、しかしその内容は全く異なる事はよく在る事です。 「主体が自分」である事も真の悟りに一致しており、気の遠くなる様な途方も無い勘違いにも一致していると思います。 因に、「聖霊に与えられる悟り」というものもありますが、これは私は断言しても良いと思いますが、絶対人力ではたどり着けない境地です。与えられなければ絶対に悟る事はできないでしょう。 そして多分一番大切な悟りはこの悟りだと思っています。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
正確に可能なのは、(自己であれ環境であれ)認識の深まりのみ。 「悟り」などと自分勝手に難しい概念を作り出して勝手に悩むのは、旧哲学の悪弊です。
補足
悟りを自分勝手に難しい概念だと思ってるのはあなたですよね? 自己矛盾を起こしていますよ。
補足
客観的に見ることができないことに気づくことが悟りと仰られたので、 主観のみが存在するこということになりますよね。 それは独我論者であることを示していると思います。 つまりアートマン思想であり、釈迦が否定したものでもあります。 無我と対極にあるのではないですか?