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悟り

仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

みんなの回答

回答No.3

『自分というものを完全に客観的に見れるようになり』と云うことに付いては『ある程度』と云ういいかがが適当です。 そして、『自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか?」と云うことに関して言うなら『釈迦も弥勒菩薩もまだ修行中』と云う答えが正解だと思います。 人間は神や仏にはなれないからです。只現世の欲と得には『その筋書き』が見えるために人を羨んだりすることは無くなります。お金持ちを見たとしても、そのお金持ちの苦悩と喜びが同時に見えるからです。 お金を持つ事の良い点も悪い点も同時に見えるからです。そうしてそのお金を手にするための苦労も犠牲にする事も在る程度推察出来るからです。 人間を苦しめているものは『欲』と云う事がよく判ります。欲を捨てよ、と云う意味も判ります。欲を捨てよと言う本当の意味は『ものを欲しがるな』と云う意味では有りません。 人間の幸福を求める気持ちは判ります、或いは人間が体も心も健康を求める気持ちは判りますが、そういった欲を捨てよと言う意味になります。 意識して眠ろうとした場合眠れなくなります、或いは眠ったとしても、もっと眠ろうとしたりもっと熟睡したいと思う事があります。この場合求めれば求めるほど『求める事は』遠ざかってゆきます。 心や体の健康にしたところで同じです。求めたらその強さに応じて遠ざかって行きます。 お金にしたところで、同じように求めに応じて(お客が引く用に)遠ざかって行きます。 体の健康を自我意識が求めた場合に『自律神経失調症』になってしまう確率が増します。 感情(心)の浮き沈みを自我意識がコントロールしようとする事から『心や病む場合がある』という事です。 自分の行動を自我意識の計らいでコントロールしようとした場合には『眠る事』さえ出来ないかも知れません。話す事や、書くことも皆一緒です。人に会う場合に『堂々としていたい』と計らう事から対人恐怖にまでなってしまうかもしれません。 そのような事から身を守る教えが『悟り』です。悟りと云う意味は自我意識が自身の『命の働きのの意思』の働きを知ると云う意味があります。眠る事も、話すことも、人と会う事も、体の健康も、心の健康も『自我意識には出来なかった』と知るところにあります。 人間には生まれながら備わっている『生命』としての働きがあると云う事を知ると云う意味です。生まれたばかりの赤ん坊に備わっている働きです。心臓や肺やホルモンなどの調節をする機能です。 生命を保つための機構にも、ちゃんとした主人公(人格)が存在しています、自我意識には出来ない事を、脳の機能の関係から『もう一つの意識』には出来るようにセットされています。 そうして人間の悩みや疑問にも答えています。人間は何のために生きているのかと云う問いは、逆に『自身の命の働きからの』問いかけです。 脳の機能分化の完成によって、自我意識は顕在意識として表面に出ます。そうして言葉によって全てを把握しています。 もう一つの意識は『無意識の意識として』自我意識からは身を隠しています。このために心の問題は判り難くなっています。

  • hanniyagi
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回答No.2

人々は善は善である、と考え善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜であることをしらない。善と悪、美と醜、・・等々。相対立する二つの概念は互いに否定し規制しあいながらも、一つの統一体をなすものである。という、へーゲルの弁証法が書いてあります。 名は名にして常の名にあらず。の説明としての「老子」の2章です。 老子の考え(=私の考え方)は 善=善 では意味が起きない。名、としての存在にならない。善ー善=0 なのです。 存在となるためには、常でない名、が一体でなければならない。 善×(1/善)=1  となって。一つの統一体としての、名=認識単位 となる。 そして、(1/善)は、悪、と名付けられる。 すなはち 善と悪は、一体のものであり、一つの概念の表裏である。人を愛する心が人を憎む心であり。善に執着する心が、悪に執着する心である。 人を愛する心を滅した者が人を憎むことはなく、善に執着しない者が、悪に染まる事はない。 という事なのです。 、悟り、とは? との答えの難しさは、悟りという、名、言葉、と一体になっている、名、は何かが特定出来ない事なのです。それが出来れば答えは出たようなものでしょう。 老子の悟りは、無為自然、(作為、思惑を捨て在るものを在るがままに見て、あるがままに生きよ) とすれば。悟りとは、自分の生き方を見いだし、自ら決めること。となります。 キリスト教徒の悟りが、神の教え、導きを知る、であるなら。ある時、神の声を聞いた、神の啓示を受けた。というような、体験(錯覚?)と云うようなことになるはずです。 仏教、釈迦の思想に於ける、悟り、は。ブッデイズム、悟り=仏(導くもの)の形態であり。 悟り、とは、仏(自分を目覚めさせ、気づかせてくれる、縁)に出会い。この世界の在り方起こり方を知る。と云うようなものになります。 釈迦以前のバラモン宗教、そして、仏教を吸収する形で復活した、ヒンズー教では。 ・・と悟った者はこの世(心の世界)を捨てる。さらに・・と悟った者は、かの世(知恵の世界)を捨てる。心も知恵も超えた、精神的な、境地、が悟りなのでしょう。 メタ認知という言葉は、このサイトで始めて聞いた言葉ですが、認識の認識ということであれば、50年ばかり前によく言われ。私も考えた事があります。 知恵を深めるとはどういう事か、たとえば囲碁や将棋に、三手の読み、というのがありますが。 人間の脳が、今という認識単位で出来ることは、自分がこう打つと相手がここににうったら、自分はこう対応しよう。という、3っの事しか出来ないはずです。しかし、その答えを、最初の一手に置き換えて、繰り返すことは出来る。囲碁のあるプロが、読むだけなら1000手先でも読める。といってました。 珠算による暗算も、今という認識単位でやっている事は、数字を、そろばん珠の一に置き換え、それに、もう一つの数を加減乗除して、新たな、珠の位置を作り出す、そしてそれを繰り返す。というですが。訓練によって、数の桁を大きくし、何回でも繰り返せるようになり。暗算名人の計算力は、暗算力で知られる、インド人もびっくり、の能力になります。それが、知恵、とはなりませんが、人間の能力の可能性は示唆していると思います。タメ認知も、それだけでは、今の認識単位ですが。どう繰り返すか。繰り返せるか。の方法が見いだせれば、考え方、理法に成り得ると思います。 しかし、それは、悟り、ではなく、人間の内なる仏、ではないでしょうか。

回答No.1

逆でございます。 自分というものを、客観的に見る事は出来ないという事に明確に気付く事でございます。1回も1秒も客観的に見た事はありません。そして、そのままの状態では常に自分というものを客観的に見る事が出来ないんだと自覚する事です。 皆さん、よく勘違いをされるのですが自由自在に自分をコントロールできない事に気付く事が悟りの第一歩ではないでしょうか?思った様にならない、うまくいかない。 それが明確に心に落ちた時に、全ての差を取る世界に出会います。その出会いが悟る(差を取る)ことです。

noname#224523
質問者

補足

釈迦の無我の思想は間違っていると?