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ニート・引きこもり・うつなど精神疾患は社会源病だ
- ニートや引きこもり、うつ病などの精神疾患は社会の影響を受けるものであり、社会の病気と言える。
- 女性の交感神経の変化や社会的立場の影響により、女性は男性よりもうつ病になるリスクが高い。
- しかし、女性の社会進出が進むと男女の精神疾患の差が縮まり、女性にも男性特有の精神疾患が増える傾向がある。
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おはようございます。Hidocchiでございます。 Ano.3の方も言っておられましたが、デリケートな問題かもしれません。 ですが、愚生(自立支援医療を受けております)は、これら問題の根底には、何かしらの共通する原因等があるものと考えておりますし、もしあるのならそれを追求するのが、哲学の問題でもあろうかとも考えております。従いまして、ご質問をお続けになられることを切にお願い致します。 とは申しますものの、個人(そのご家族様も含みます)への誹謗中傷がみられる回答が散見された場合には、その回答に対しまして、今回は積極的に、”通報”をしていこうかとも考えております。 > たしかに言挙げせずとも以心伝心で分かり合えるという側面も 日本人どおしにはあったのだろうけれど これも通用しなくなって来たのだと思われる。 大きい声でともかく論理を通した話をすればよいというアメリカニズムのどちらかと言うと悪い一面と そして日本人の間に見られる事なかれ主義とが合わさって 最悪のサラダが出来上がったのでしょうか。そこまでは行かないでしょうか。 愚生は、お互いの“悪いとこ取り”をしてしまっているように、考えております。 アメリカニズム賛美のもとに、“個としての尊重”といったものが、“個としての確立および自立心なき、単に駄々っ子なだけの個人主義”へと向かい、また、それとは逆の、“家元制度的慣習”・“事なかれ主義”を後生大事に存在させているという、ある意味、奇怪な現象が現れているものかと思っております。 さらに申しますと、思考停止させているところをも 鑑みますと、日本社会では、幼児化現象が起こっているのかもしれません。 話が変わりますが、ただ、もし仮に、一個人の問題と解してしまいますと、近年増加しております、うつや引きこもりは、自己責任になってしまいかねないかと考えております(実際、そういった論調はネットでも結構みられます)。つまり、これもまた増加傾向にございます ”自分のことは棚上げし、人様に対しましては「他責」的な人達(人様に責任をなすりつけ、自己の精神の安定化、もしくは優越感を抱くような人達です)” が増えてきているのも事実かとも考えております。従いまして、個人のみの問題ではないものと考えております。 では、何が原因なのかと問われますと....... 残念ながら、すぐには回答を用意はできていない状況でございます。もし、考え等が見つかり次第、駄文、お聞きいただければ、幸いでございます。 ご参考になれば、幸いに存じます。
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失礼ですが、ニート・引きこもり・うつを併記して疾患と表現するのは少々強引すぎるかと存じます。 補足と成りますが、ニートや引きこもりは、精神疾患ではございません。 手元に精神疾患カテゴリーの指標チャートがございます。両概念とも記載がございませんので、 質問自体が成り立たないのではないでしょうか、 場合によっては差別的表現となります。慎重な対応をお願いいたします。表題を変更しては、いかかがでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 お言葉に接して調べるという体たらくですが つぎの記事を知って 表現をまちがっていると考えました。むろん 世間一般では・しかも医学においても《精神疾患》だと言われているが それは 《社会つまり人間どうしの交通において時代とともに現われる人間の性格ないし特徴にもなりうる思想や行動の傾向》であるに過ぎないという言おうとしているものです。 たとえば麻薬によって引き起こされる症状に焦点を当てるのではなく 麻薬を服用することへと追い込むような社会としての交通 そのあり方を問題にしています。 ドーパミンのはたらきが通常ではない傾向を帯びるとすれば その症状に焦点を当てるのではなく その症状がなぜ起こるか こちらに問題を探ろうという考え方です。 ▲ (ヰキぺ:ニート) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88 § 類型 内閣府の調査では、ニートを非求職型と非希望型に分類している。前者は、就業を希望するものの具体的な就職活動等行動を起こしていない者のことで、後者は就業自体を希望していない者のことである。 § 分類に関する誤解 ニートは「働く意欲が無い者」あるいは「ひきこもり」などと混同されている場合が多い、しかし前述の定義に該当する者であれば、理由の如何に関わらずニートに分類される。 したがって進学・留学準備、資格取得準備、家業手伝い、病気・怪我の療養、結婚準備、介護・育児、芸能芸術プロ準備、などの状態にあっても、定義上はニートに分類される。趣味・娯楽、特に何もしていない場合も同様である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 表題を変えて設問することにします。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろんぬさん。お久しぶりです。 金木犀@酔っ払い中です。 休止中ですが、つい現れちまいました。 >ニート・引きこもり・うつなど精神疾患は 社会源病だ。 :いいえ。 そうではありません。 ちがいます。ちがいます。 個人の、問題、です。 個人の、問題、です。 個人が、社会を作ります。 社会に、個人が作られることは、 ありえません。 しかし、個人は、 社会の中で生きるしかありませんから、 「とりあえずの、既存の、よいこと」 (=アマテラスさま?)に、 半分、脚を、突っ込んでいないと、 生きていることができないだけなのです。 ある意味、みんな、半分「アース」です。 それだけのことです。 たとえば、簡単な例ですが、 「地面」というものが、 下にあるのか上にあるのか、 右にあるのか左にあるのか、 このようなことが分からないまま、 立つ、ということは、むずかしい、 それだけです。 これほどまでの「自由の刑」を受けるのが、 とてもむずかしい、というそれだけです。 だから、みんな、半分「アース」なのです。 それだけです。 生きていることが優先ですから、 そうしないではいられないのです。 このようにして、片方の脚を、 既存の社会に突っ込んで、生きつつ、 空いた方の脚をどのように使うかです。 これは、やはり、個人の、問題、です。 個人が、しゃべるべき、こと、です。 今日は、これぐらいしか話せません。 しかも次にいつ現れるか分かりません。 とりあえず思ったこと書きました。 読んでくださりありがとうございます。 もうしばらく「休止中」です。
お礼
ニュウトラルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 こちらへ移動したことは分かると思って ことわり書きをしませんでした。 なかなか投稿が集まらなかったのですが 深い海底に光を当てようかという回答を No.1にいただきました。あらたな出発点になると思います。 そこでは ▲ (回答No.1)ニートもしんどい、高官もしんどいとしたなら、誰が楽して生きているでしょうか。 ☆ と指摘しています。 ○ ガミガミ役もアース役も 広く大きな社会の仕組みの中の役割分担なのだ。 ☆ というふうに受けました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、個人は、 社会の中で生きるしかありませんから、 「とりあえずの、既存の、よいこと」 (=アマテラスさま?)に、 半分、脚を、突っ込んでいないと、 生きていることができないだけなのです。 ある意味、みんな、半分「アース」です。 それだけのことです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《アマアガリ症候群》になったりするのも致し方ないところがあるのだと。症候群という言い方も捨てたほうがよいのでしょう。《出世願望》のようなことです。 あるいは《アマテラス予備軍症候群》も 《アマテラス依存傾向》であり 寄らば大樹の陰というに過ぎないかも知れません。致し方のない社会生活の一端なのであると。 ★ ~~~~~~~~~~~~ >ニート・引きこもり・うつなど精神疾患は 社会源病だ。 :いいえ。 そうではありません。 ちがいます。ちがいます。 個人の、問題、です。 個人の、問題、です。 個人が、社会を作ります。 社会に、個人が作られることは、 ありえません。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうでしたか。軌道修正がつづきます。 まっ 《社会源病だ》というのは その反対に《個人の努力や内面や器質だけの問題だ》という見方があるのに対抗したものではあったのですが そのように断定する言い方では 責任や主体性の問題に抵触するかたちとなる。もっともですね。 相互の影響関係であるとか いわゆる《しわよせ》の社会における輻射・対流の構造的な関係過程であるとかいう必要があるようです。 ううーん。ただし一点 いま気がつきましたが・つまり思い出しましたが どうも《しわよせ》の終着駅があるかも知れない。こうは考えられませんか。 子どものときから・ということはその意識の排泄をはねのけるすべを持たないままアース役を知らず知らず引き受け《終着駅》だけのかたちで分担する結果となって来たという人生の場合です。 わたくしなどは アース役として振る舞ったということを いつも事後的にしか認識しないという脳天気人生の気があります。その排泄として受けた意識を内容として捉え 一般に批判であるならばその批判内容を自分に当てはめ その欠陥を内的に(じぶんの欠陥として)憎み 徹底的に憎み これを内的に棄てる。そういうごみ処理工場となっています。そのあとふたたび脳天気です。白紙状態になります。 ★ 生きていることが優先ですから、 / そうしないではいられないのです。 ☆ というときの《ガミガミ役であったりアース役であったりすることをしないではいられない》のは たしかに大野裕が言うように ◆ 精神疾患は単に脳の病気や心の病気だけでなく 社会の病気なのだと思えてくる。 ☆ を確認すると同時に それゆえにこそ《個人が一人ひとり自覚し それぞれ自分の主体性において責任をも負う》ということにつながるでしょうか。 ここで連帯責任という言い方をしてよいかどうかは まだ分かりません。互いに気をつけようという表現で言って行くことは出来るかと思いますが。 ▲ (回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~ どうしたら自由になれるのか、どうしたらもっと柔軟になれるのかを考えることがこの問題の解決につながるのかと思いました。 主導することと、懐の深さのあること、と言いなおしても良いでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここにつなげることも 必要かと思われます。 《自己の欠陥として捉え 内的に棄てる》というごみ処理方法は ここで有効かどうなのか。或る意味で――われながら言うのも変ですが―― 《ふところは深い》かも知れません。《主導すること》にはどうつなげるか。 むつかしいですね。出物腫れ物ところ構わずといった性格がありますから。 これが《主導》できれば 中国も沖縄を欲しがるまでのことはしないようになると思うのですが。 一歩一歩ですね。 (言いっぱなしになりますが)。
ニートと言う言葉はもともとイギリス発祥だと聞いたことがあります。その発音が、日本ではドイツ語のニヒトにも聞こえて、その当事者を何処か否定的な視線で見てしまうと言う、ネーミングの問題もあるかと思います。 たしかに何かのしわ寄せが、ニートや引きこもり、種々の精神疾患となって現れているものであると思いもします。しかし、高い社会的地位を得た人でも精神疾患を抱えたり、あるいは酷いプレッシャーに晒されたりして、楽ではない生活をしていると思えば、種々の軋轢やぎすぎすしたもの、疲れなどのもともとはどこにあるの?という疑問に私は行き着きます。 ニートもしんどい、高官もしんどいとしたなら、誰が楽して生きているでしょうか。結局みんなしんどいのではないか?それはどうしてだろう、と言うのが問題の行き着く先ではないでしょうか。 >大きい声でともかく論理を通した話をすればよいというアメリカニズムのどちらかと言うと悪い一面と そして日本人の間に見られる事なかれ主義とが合わさって 最悪のサラダが出来上がったのでしょうか。そこまでは行かないでしょうか。 最悪のサラダとはおもしろい表現ですね。自由ではない、柔軟ではない、とするなら、かなりまずいと思います。しかしこのようにはなせるだけでもうまい社会と言えるのではないかとも思います。 何か難しい話になりそうですが、どうしたら自由になれるのか、どうしたらもっと柔軟になれるのかを考えることがこの問題の解決につながるのかと思いました。 主導することと、懐の深さのあること、と言いなおしても良いでしょうか。 雑文になりました。
お礼
あらたな出発としてうけたまわりたいご回答をいただきありがとうございます。 ★ 主導することと、懐の深さのあること、と言いなおしても良いでしょうか。 ☆ ここに注目なさいましたか。われわれは一人ひとりもっともっとさらにさらに度量を大きく広くして行かねばならぬと。 たしかに 公民 A と 市民 S との逆立ちした連関制――つまりあるいは ガミガミ役とアース役とのコンビ制――に原因を求めましたが ひとり上役あるいはお二階さんに責めを負わせてもらちは開かない。ガミガミ役はたしかに何かと下役に対して あること無いことを意識の排泄として請け負わせるかと思われます。けれども これもおっしゃるように 社会としての仕組みの一部であると見なければならないようです。 ★ ニートもしんどい、高官もしんどいとしたなら、誰が楽して生きているでしょうか。結局みんなしんどいのではないか? ☆ だから《ガミガミ役》というように からくりの一部だという意味を込めてやはり《役割分担》でしかないことを――もう少し前までは そうは見ていなかったところがあるのですが―― 言おう・見ようともしたのでした。 いまでは 《 KY 》ということが言われます。いわゆる空気社会のことです。前質問から引きます。そこでは 《観念の運河》という捉え方をしています。 ☆☆ (【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】No.10お礼欄)~~~~~ ・・・そしてもっともっと大きな要因は 一人ひとりの自由意志の主題であるとわたしには思えてなりません。《わたし》がわたしの意志を決め これを表明する。そこでこれらを互いにつき合わせる。練り合わせる。ときにすり合わせる。その弁証法過程をたどる。 ところが〔* 空気社会にあっては〕 波風を立たせないようにするのが 人間の徳であり日本人の美意識であるという交通憲法が叩き込まれています。わたしたちが一歩家を出ると目の前には 《観念の運河》が掘られていて ここを通ってでなければ 社会に出ることは出来ない。出たことにはならない。声は届かない。 観念の運河についての航行規則が 決まっている。お上にはさからうな。長いものには巻かれろ。寄らば大樹の陰。やがて 事なかれ主義。 アマテラス公民の無謬神話に支えられていたものと思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この公民の無謬神話は 旧厚生省の管轄する社会保険制度の崩壊寸前という事態等々を受けて 崩壊しかかっています。 ですから 空気を読まないという現象が起こったか もしくは前々からあったのがあらたに事件として注目を浴びることになったかだと考えられます。よって 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html ☆ という勇み足の課題をも問いました。 ☆☆ (上記質問の趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~ 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ したがって ★ 主導することと、懐の深さのあること ☆ には KY に対しても懐深く包み込むことができることが 含まれていなければならぬ。 ニートや引きこもりに対して同じくやさしく対等に接して 対話を絶やさないこと。 うつを病む人たちに対しても 余裕をもって――会社としてもいささか無理をしてでも余裕をもって―― 共生していくのだときっぱりとその方針をかかげてすすむこと。 《最小不幸社会》の実際の施策として打ち出すこと。 ★ どうしたら自由になれるのか、どうしたらもっと柔軟になれるのか ☆ 《宇宙のみなし子》(ニュウトラルさんの言葉)にはならないというヒトとしての能力をもった人たちを むしろ未来社会のさきがけとして うやまうこと。 宇宙のみなし子になっても 地位が上がり財産を持てればよいという考えは 人にとってその能力の欠如であると考えること。《宇宙船から皆が勝手ばらばらに飛び出していくという遊泳人間にはならない》ということは まさしく人間の力強い息吹きであり輝かしき能力であるということ。この能力を復活させるということ。 長い道のりが待っているようですね。
お礼
あらためまして ご回答をありがとうございます。 精神の傾向にかんする原因を 一方で社会にありとするのは それでは個人の主体性や自由を確保しがたいといううらみを残す。他方で個人の責任に帰されると言いきってしまうには 問題は大きい。つまり人びとのあいだの関係やその構造的な錯綜という方面にも 見過ごせない原因とおぼしき要素があるのではないか。 この趣旨をうかがって ベストアンサーと受けとめました。 そしてそのような見方は なお具体的に社会総体としても個人ごとの個別にとしても なお探究すべき課題が横たわっている。このように思います。 ○ 《悪いとこ取り》という傾向: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 愚生は、お互いの“悪いとこ取り”をしてしまっているように、考えております。 アメリカニズム賛美のもとに、“個としての尊重”といったものが、“個としての確立および自立心なき、単に駄々っ子なだけの個人主義”へと向かい、また、それとは逆の、“家元制度的慣習”・“事なかれ主義”を後生大事に存在させているという、ある意味、奇怪な現象が現れているものかと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 《思考停止》の現象: ★ さらに申しますと、思考停止させているところをも 鑑みますと、日本社会では、幼児化現象が起こっているのかもしれません。 ☆ これにはわたしは ひとつには 《独我論》の影響があずかっているのではないかと見ています。発信はするが 受信は鎖国状態〔でよいと考え尽くしたすえにたどり着いたと思っているところの状態〕にある場合です。 発信といえば 何らかのかたちで《思考》ですが むろん型式化しています。紋切り型で ひとの文章を批判します。というよりも ほとんどただ気に食わぬと言っているだけのようなのですが。 ○ 《すべてを個人の自己責任に帰せかねない》おそれがある: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 話が変わりますが、ただ、もし仮に、一個人の問題と解してしまいますと、近年増加しております、うつや引きこもりは、自己責任になってしまいかねないかと考えております(実際、そういった論調はネットでも結構みられます)。 つまり、これもまた増加傾向にございます ”自分のことは棚上げし、人様に対しましては「他責」的な人達(人様に責任をなすりつけ、自己の精神の安定化、もしくは優越感を抱くような人達です)” が増えてきているのも事実かとも考えております。従いまして、個人のみの問題ではないものと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《逆立したアマテラス‐スサノヲ連関》の普及でしょうか。 アマテラス学術語およびアマテラス人格語は およそあやまちを侵すことなどあり得ないというほどに その科学的妥当性および人格の高貴性をほこりますが たしかにそのとき スサノヲ人間語は どこまでも残念ながらあやまち得るという人間およびおのれの存在に立ち へりくだる弱さをほこります。 けれどももし アマテラス公民の無謬神話がくずれて来たとすれば その《アマテラス‐スサノヲ連関》は たしかに逆立ちしています。頭で立って歩いています。 その意味は この逆立 A - S 連関が普及したということにおいて すでに学問にただ首を突っ込んだというだけの時点で人格形成に道なお遠しという場合にさえも すでにこのガミガミ役( A )とアース役( S )との連関が 勝手に成り立ってしまうという風潮をいうのではないか。到る処に 昔もし威張っていたときがあったとしたならその時のような小さなアマテラス天皇が出没し始めた。のかも知れません。 その天皇ごっこをしない人たちも それを見て見ぬふりをしているのか そんなことはもうどうでもよいと思っているのか いづれにしても 何も言わなくなったのでしょうか。 (そう言えば 現代の天皇は アマテラス人格語を体現しようとしている姿があったでしょうか。そう見ることは幻想でしょうか。いづれにしても その天皇アマテラシテの性格や振る舞いにかんする場合にも 社会現象が絡んでいるかに思えます)。 試行錯誤です。そしてさらに無神経のところがありましたら 直してまいりたいとは思います。
補足
ひどっちさん お声を寄せてくださってありがとうございます。 デリケートな問題について無神経だったと反省いたします。 表題を変えて 質問を挙げたいと思います。 お礼欄は 閉め切りのあとも 書き込みできますので 残しておきます。 もしよろしければ ニュウトラルさん そしてNo.1のあらたに投稿してくださったライトヱーヴさんともども そちらの新しい質問へ お手数ですがいまいちどあらためてご投稿なさっていただけないでしょうか。そのほうが 読んだりするのに重宝するとは思います。