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ニート・引きこもり・うつなど精神の傾向は社会現象である
- ニート・引きこもり・うつなどは、ふつうの社会現象に過ぎない。
- 精神疾患は社会の病気であり、立場や性別によって現れ方が異なる。
- 女性の社会進出が進むと、男女の精神疾患の差が縮まってくる傾向がある。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ お二階さんの責任回避だともいうことですが この《自己責任》論は どうもけっきょく《しわよせ》理論であるに過ぎないようですね。 ご賛同いただきまして、どうもありがとうございました。 ・レイオフ:原則、従業員の責任は問われないと思われます。 ・失業:求人倍率が低いため、誰かにしわ寄せが来ます。これは単に経済状況の問題であるため、一個人、さらには企業も含めまして、誰もが責任は問われないと考えられます。 ・過労死:これは、一概には言えないのですが、労災の対象になろうかと思われます。従いまして、これも原則、責任は問われないかと思われます(労災におきまして、従業員の過失が問われますと、確実に過失相殺されますので、従業員は無過失として扱われるのが一般的かと思われます)。 > ガミガミ役とアース役との織り成す社会力学の模様の中から スサノヲ語を大切にしたいと暗黙のうちに言って 枡の縁をこぼれ出た人たちあるいは枡の均(なら)し棒で均されて押し出されてしまった人たち これを公正な科学的アマテラス語は どう捉えるのか? A 語と S 語とを総合しまとめ切った人間の言葉によって考え出された人間〔と社会と自然〕の科学は どうすれば実現しましょうか。 一般には、憲法とは、為政者を縛るために存在すると言われています(通説)。 つまり、憲法を盾にとり(必要ならば、新たな条文を追加することをも含めまして)、スサナオ市民がその権利を主張していく、もしくは、お二階様の権力の乱用を阻止していくとうのが一般的かと考えられます。例えば、25条1項では、主語は国民、そして、その権利を認めるのが為政者(国家)となります。2項では、主語が国家(為政者)となり、誰の権利かと言われますと、当然、国民となります。 一方、単なる似非お二階様(ガミガミ役)の場合ですと、私人-私人関係となりますので、憲法の範囲外となるかと思われます。ですが、かような似非お二階様も結局は自分で自分の首を絞めていることがわかってくるかと思われます。以下に、新卒者の就職人気ランキングを載せております。 過去の就職人気企業ランキング(1976-2007) http://rank.in.coocan.jp/shu30year.html 就職人気企業ランキング(2010) http://www.rbbtoday.com/article/img/2010/03/10/66268/98048.html 約20年ほど前では、理系の場合、ソニー、NTT、日本電子等が上位を占めていましたが、今では、ソニーがかろうじて残っているぐらいでしょうか。ですがそのソニーも、リストラを断行しているようでございます。 “ソニーがリストラ計画を発表、全世界で1万6000人削減へ ” http://eetimes.jp/article/22640 つまり、“明日は我が身”であることは自然と分かってくるように思ってはいるのですが….. > Neutral様からも、ご意見が出ておりました、 会社(準二階?)が、国(二階?)に 苦しいぢゃないか!一階さんとかいろいろ! と訴えることができたとして、 ピラミッドの一番上(終着駅?)の人は、どこに何をしゃべったらよいと思いますか。 終着駅は、大臣級の人たちかと考えられますが、“我こそは”と なりたがっているのを見ますと、苦しさ よりも その権力の方が旨味があるのではないでしょうか。 一方、天皇陛下の場合ですと、宮内庁がその役を担っているのでしょうが、しょせんは宮内庁長官も天下り集団ですので(下記をご参照くださいませ)、当の天皇陛下は確かに、言えない 状況下にあるかもしれません。 http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2009/12/post_1562.html 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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すいません、訂正です。家の外は言いすぎだとおもいました。
お礼
了解しました。 親はありがたいものだと思いますよ。うるさいですが 存在だけとしても。(筋違いの発言かも)。
補足
だらだらといった感じになるのも避けようと思いますので 閉めることにしました。 引き続き 問い求めてまいりたいと思います。 みなさん ありがとうございました。 たいへん充実していたと思います。 総論のまとめとしてのご回答をベストアンサーにえらびました。
一応言っておきますが、NO19さんへ私は何かを言いたかったわけではありません。(その回答に少し反応しましたが)詩は詩です。 ところで、前回の詩の、きみは泳ぐことをやめたようだ の部分に反応しました。 自分は、世間の競争に敗れたと言うか、不戦敗みたいなもので、どちらかと言うと一階さんでもなく家の外にいる人間です。しかも今は、神経内科にも通っています。ですので、当事者的にこの質問には参加しているつもりです。ですから、きみは泳ぐことをやめたようだ のフレーズにはいたく反応しました。やめたわけではないのですが、もう手足は動きません的な気持ちになることもあります。しかし、時もたてば機運も変わります。おおらかな人間になって、世間をわたって行けたらと思っています。 少し話がそれたでしょうか・・・
お礼
そうでしたか。ご回答をありがとうございます。 ★ 不戦敗みたいなもので、どちらかと言うと一階さんでもなく家の外にいる人間です。 ☆ わたしの場合は いまのような方向でずっと問い求めていましたので 少しじっくりと話をすれば まづその話からは――二十歳前後から少しづつ中身も煮詰まって来るにつれ―― 周りの者は耳を貸さなくなりました。世間は高度経済成長の大波に乗って行きました。いわゆる負け組に成って行きました。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~ きみは泳ぐことをやめたようだ いま ひとつの大きな毬となって 浸りきっていた横町の構造に 花びらのように接しているのだ ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ といったふうでしたね。もっとも考えをさらにつづけて 《ふたたび レアリテをくどく》ことも 《書物を生きる》ことも 《書信をささやく》ことも止めないでいました。 ☆☆ ~~~~~~ おおいなる 物語りよいかれ おおやけなる 組み込まれる 和歌よ しかも匂え ~~~~~~~~~ ☆ と思いましたね そのときから。そしてどうでしょう 四十年ですかね。 ★ しかし、時もたてば機運も変わります。 ☆ いまでは 潮の流れは 変わるのが早いでしょう。自民党の政権交代は考えられなかったですから。 ・・・
人の言葉にいちいちと 反応してたらきりがない だけれど話し相手のその言葉を 聞かないわけでは無いよ だけれど自分に向かってくるその言葉を 聞かないわけでは無いよ 自分に届きそうな言葉に 耳目をふさぐこともないよ それが思い込みだったなら それはそれでいいよ 自分も詩を書いてみました。コミュニケーションについての詩です。
お礼
その回答者は ▼ カキコすみません ☆ とも書いていたのに わたしも真剣に答えてしまっていました。もっとゆとりを持って対応していればよかったかなと。 ★ 耳目をふさぐこともないよ。 ☆ これを入れておけばよかったかなと。
NO16の返答は難しくて理解できなかったのですが、詩の方は読むことができました。 また、リンク先の国家についての質問は、コマースさんの良回答を読むことができました。全部は読めていません。 インタムライスムについては、理想的なことだと思いました。それも広義の意味でのくになのでしょうが、新しいイメージかと思います。争いがなくなることは多くの人が望んでいることだし、そのような理想が実現すれば私もすごいことだと思います。その想像される細胞のような村々の形態から、ポストモダニズム的な印象を受けましたが、そのあたりはどうでしょうか。イメージはあっているでしょうか。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ インタムライスムについては、理想的なことだと思いました。それも広義の意味でのくになのでしょうが、新しいイメージかと思います。争いがなくなることは多くの人が望んでいることだし、そのような理想が実現すれば私もすごいことだと思います。 ☆ たいへんありがたいことだと思います。けっこう自信を持っていましたが――ただし 世の中のことは情況の変化によって考え方を変えて行くようになることもあるかと思いますが―― きちんと正面から賛同をいただくのは それほど多くはないのです。 ★ それも広義の意味でのくになのでしょうが、新しいイメージかと思います。 ☆ インタナショナルなインタムライズムを基軸としますが その過程でまだまだいまの国家(つまりお二階アマテラストゥーム)も残っていますから それとの兼ね合いや協力が大事になると考えます。 ★ その想像される細胞のような村々の形態から、ポストモダニズム的な印象を受けましたが、そのあたりはどうでしょうか。イメージはあっているでしょうか。 ☆ この主題と言いますか 切り口のようなものですね つまり位置づけということですよね。わたしの場合 構造主義にかかわることは 何とも歯切れがよくなくなります。 1. もしデカルトからと言われるコギト――理性信仰でしょうか――に基礎を置く〔のみ〕の科学主義を乗り超えるという意味でなら 《ポストモダン》にインタムライズムは入ると考えます。 2. 《記憶(秩序・組織論)‐知解(理性・科学)‐意志(愛・経営・自治・共同自治)》という三つの行為能力について なるほど《知解・コギト》は――それによる経済活動ということから言っても―― 基礎だと考えますが それと同じほどかそれよりもさらに大きな重みのある行為能力(また能力行為)として 《意志(愛)》を 人間行為の中軸としたいと考えています。 3. 資本主義にかんして モノ(ないしカネ)がみづからを拡大再生産するという論理は おそらく一人歩きするものと思われます。ただし《資本》というのは もともと――社会資本という言い方もあるように――モノやカネをめぐる人間たちの関係(その社会的な構造でもあり過程でもある)だという見方も成り立つのではないかと考えています。 モノやカネとしての資本の論理は 《知解・コギト》という基礎に対応し 人間の社会的(もしくは会社的)関係体としての資本の論理は 《意志(愛・自治・経営)》という中軸に対応するのではないかと。 後者を重んじるなら この質問の《ニートや引きこもりあるいはうつなど》の主題についても みんなの知恵を出して行けるのではないかと考えます。 4. 構造主義についてのいちばんの批判は 社会を《無主体の過程》と見るところに向かうと思っています。観念の神――これをニーチェは死んだと言った〔のみ〕――という《実体》のもとに 人間を確固たる主体と見たモダニズムを批判するのはいいとして やはり人は曲りなりにも自由意志の持ち主として 互いに意志表明を行ない合いつつ 社会をいとなんで行くものと考えています。 その点 構造主義では 人間をもはや主体ではなくなっているものと見ているかに映ります。 たとえばフーコは その情況(ないしそのエピステーメーなる知的装置)にみちびかれて互いに権力(つまりむしろ広くガミガミ屋ですね)を行使する存在でしかないと見ているように映ります。 ⇒【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html 【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4858613.html 5. そしてそもそも ソシュールの《言語記号の恣意性》説にわたしは異をとなえています。 恣意性説により 《人間=無主体》説が出ているのだと。あるいは 人間は 《非自然としての文化》としてのみ存在しており 動物とちがって《自然》から抜け出ていていわば《狂乱せるヒト homo demens 》だという説は 極論すぎるのだと考えています。 ⇒【Q:name と名前 は同じ発想か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5761266.html いろいろ書きましたが つまみ食いでもしてみておいてください。
調子に乗るのは そろそろこれぐらいにしておくべきかなあと思いますよ。 「彼女たち」はやめてください。 きもちわるすぎます。(カキコすみません。キモ過ぎて我慢できませんでした。)
お礼
ご投稿をありがとうございます。 ふたつの側面があると思います。 ひとつは 自己表現を思い切り言い尽くすときは尽くすものだと思われること。哲学の問い求めに切りはないでしょう。 もうひとつには 詩の問題。これは 読む人の読み方にすべてがと言っていいほど従うものだと考えます。受け取るのも捨てるのも自由。そういうものだと考えます。 詩を書いて いやだと言われて あぁそうですかということもないと思います。もっともその贈った相手から言われれば そうかぁと思って引っ込めますが。 ★ 「彼女たち」はやめてください。 ☆ 《かのじょたち》です。別の表現です。 それと 調子に乗ったのは わたしだけです。回答者とは別です。
そこで、おもいやりとは何であるかというと、安寧をもたらすもの、やさしさの類族、などと言い表すことができるでしょうか。安寧をもたらすものとは、やさしさであると思います。 それとは即ち、やさしさの事ではないのかと。 言葉、それは相手に伝わる自分自身であり、おもいやりであり、安寧をもたらすものであり、やさしさであり、やすらぎであると。 人に生まれたからには誰しもがこの安らぎを得ることができるはずです。
お礼
調子に乗っていまひとつの詩を。 これは自分に向けて書いたのですが 読むと 読む人つまりわたしとは別の相手に向けて書かれているように受け取れてしまうようです。そのいやな感じを超えて受け取っていただけるとありがたいです。 * 花びらのように よろしい きみの言葉を信用しよう その個性を注目したわけではない きみという身元のわからないひと 少し前から ずっと前からそこにいた いま見つけたのだ 言葉たちが 広大の内なる海を語っているからではなく かすかなさざ波に託して かのじょたちが 外なる亜大陸に信書を寄せているから 和親でなくとも 何の布告を発していなくとも その海をきみが受け入れたとき 新しい世紀が始まったのだ きみについて語ろう きみの海が閉じており いまだ芽吹かずとも その無秩序の水源が 遠い岸を 幻影のうちに取り巻いている きみについて語ろう ・・・ きみは泳ぐことをやめたようだ いま ひとつの大きな毬となって 浸りきっていた横町の構造に 花びらのように接しているのだ きみのなかの 沈黙も喧噪も きみの言葉が たとえ海の豊かさを奏でなくとも 原初の日常のさなかの 語らなくてもよいもの 嵐のような貧しさだけを 発見の種族を語っていさえすれば ぼくはきみの位置について語ろう きみの魅惑的な貧窮について語ろう
その人の、つまりことばを発した人の、内なる何かとは何かというと、存在、神、スピリット、その人自身、と言ったものではないかと思います。形而上的になってきますが、ことばにすると、思いやりということになるでしょうか。相手に伝わるその人自身とは、おもいやりの事であると。
お礼
人間 S 語の泥の中の泥 《もっともわたくしなるもの(その場)》にこそ 普遍的な光としての A 語がやどるというふうに思っています。ただの A 語 ふつうの A 語も大事ですけれど その場その場の思いやりになるかと。 * 華のにほひの 最もわたくしなるもの が語るもの ふたたび レアリテをくどくもの 書物を生きるのも わたくしが 書信をささやくのも おおいなる 物語りよいかれ おおやけなる 組み込まれる 和歌よ しかも匂え 歪みを彩る 最もわたくしなる 華のにほひの
ここでは、広義の意味での国と言う言葉を使いたくおもいます。ある個人がそこに在籍している共同体と言う意味です。問い求めているところのS-A連関の共同主観と言うのは、言い換えれば、国を内包した個人と言うことになろうかと思います。まさしく公用語、通じる言葉を入手した存在、一市民であり、この限りにおいては、言葉の面だけではその交通は差し障りないかと思います。 しかし実際には、育ち、文化などによって多様性が加味されて、そこで同じ言葉をモチーフとしていても、その解釈や咀嚼、理解や飲み込みが異なる、つまりずれが生じてくるのだと思います。 そのズレが言語交通の不便や、ストレスとなって人々を襲っているのであると私は考えます。 その交通の混雑やストレスはいかにすれば解消されるのかと言えば、言葉の方向性を確りと意識することで、交通の場合にはバイパスや抜け道を、ストレスの場合には柔軟性や回避を以ってそれぞれの問題を解決できるのではないかと思います。 言葉の方向性とは、即ち我々は何故言葉を交わすのかと言うことの答えでもあるかと思います。 それは、一人ではないからではないでしょうか。精神・身体としての独立性と言う意味で、自身の孤独を謳うことはあったとしても、言葉の方向性という意味では、一人ではない、という命題が挙げられるのではないかと思います。ここで注意したいのは、言葉とは言語ではなく、サインやジェスチャーも含む広義の言葉であると言うことです。意味と言ってもよいかもしれません。 もし、言葉がなくなったら、それが本当の悲劇であると思います。 一人ではないから、人は、自分以外の人があるから、国、あるいは集団があるから語るのであって、誰に向かって、何へ向かって語るのか、言葉の目的に、通じ合うところの真価があるのではないかと思いました。 言葉とは、必然的にその人の内面を反映して現れてくるものだと思います。人に見られることを恐れて口ごもることも誰しもに経験があるのではないでしょうか。勇気を出してもその恐れを完全に取り除くことは難しいと思うし、臆病ならば言葉を発するのが難しくて当然だと思います。しかし、言葉は運んでくれる。その人の内なる何かをです。その意味では、安心してよいのではないでしょうか。それは信じるに値するものです。
お礼
わたしも撞かれた鐘として鳴り響くことをいつも旨としていますが ライトヱーヴさんも 鐘として響いてくれますね。 ★★ 日本人はもっと砕けた方がいいですよ。 ☆ のとおりにこなれた表現になっていると思います。 こなれない表現を合わせてかかげます。 * § 記憶・知解・意志(愛) 1. 身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶行為》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。 2. 同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。 3. 何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。 4. 精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(つまり 愛とは 自治・共同自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。 また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。 5. 記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。 6. また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕《観念の共同》を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。 竹島は 身体や精神の一部ではないにもかかわらず 或る種の仕方で《共同観念》にみちびかれるかのように 自分たちのものであると思っているおのれの気持ちを発見することがあります。 そのつてで言えば 専守防衛と言えども軍隊を持つことは 共同観念として現実です。 7. 従って言いかえると一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は生きることになります。 8. 新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。 9. そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。 10. いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S 者共同体である市民社会が基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が乗っているかのように S 圏の上にも A 圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。 ・・・ スサノヲ( S )・・・アマテラス( A ) 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
補足
この際 さらに先へすすんでいただきましょう。 おこがましいのは重々承知の上でですが 次の議論を合わせて吟味するようお勧めいたします。 【Q:国家とは 幻想である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6231451.html ☆ こまあすさんが やり取りのお相手をしてくださいました。
今までしてきた回答と前後する回答になりますが、プレッシャーを感じないKY組と、プレッシャーを感じるKY組というのがあって、後者のほうがつまり解決されるべき課題を持っているのではないかと思います。そのためのブレンド語であるなら、それはどのようなものでしょうか。 Sの特徴は、素直、飾らない、素朴、口語的、男女差があまりないと思う、友好的など。 Aの特徴は、肩肘張っている、きっちりしている、文語的、論理的、格式的など。 まったくの私の主観で述べていますが、このような印象を受けます。 世間に通用するためには適度にA化しなければならないと思うのですが、ブレンド語の特徴と言えばずばり何でしょう。物怖じしないと同時に、忍耐があるとか、からっとしているけれど言う事は言っているとか、相反する要素を両方備えていてしかも調和が取れているといった印象を持ちます。 物怖じしないは、フラストレーションがたまらない。忍耐があるとやわらかい。からっとしているとストレスがたまらない。言うこと言っていると交通がスムーズ、など。 各自これらを生成?するかんじになるのでしょうか。
お礼
ひかりの波さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いやぁ ぜんぶおっしゃるところのようだと思います。 ★ プレッシャーを感じない KY 組と、プレッシャーを感じる KY 組というのがあって、後者のほうがつまり解決されるべき課題を持っているのではないかと思います。 ☆ この点は 気がつかなかったところです。前者のほうは 何らかのきっかけを得て 自分の課題や社会における問題といったことを意識し知るようになるというところでしょうか。 ★ ブレンド語 ☆ という言い方も分かりやすくてよいと思いました。 そのほかについては 《肩肘張った》理論として わたしも考えたことがあります。ひけらかしが好きなようで かかげておきたいと思います。 * § 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関 1. 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。 2. 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。 S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会における生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となると言えるようです。 3. わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。 これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。選挙権を行使したりします。 ここで差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 4. 次に初めに帰って S者が身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。 これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。A 語は 学術語あるいは人格語です。 5. 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。 6. すでにここで客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。 7. このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 一般的な性格を持ち 《共同の観念》をかたちづくると見ます。 8. 主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。 より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。 9. 主観が社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 共同観念は 思潮や風潮であるとかあるいは大きくナショナリズム(民族主義・国家主義などなど)だと見ます。 共同主観(つまり A 語普遍性をうまくブレンドした S - A の連関としての主観)が さしあたって問い求めるところだと考えます。
今までしてきた回答と前後する回答になりますが、プレッシャーを感じないKY組と、プレッシャーを感じるKY組というのがあって、後者のほうがつまり解決されるべき課題を持っているのではないかと思います。そのためのブレンド語であるなら、それはどのようなものでしょうか。 Sの特徴は、素直、飾らない、素朴、口語的、男女差があまりないと思う、友好的など。 Aの特徴は、肩肘張っている、きっちりしている、文語的、論理的、格式的など。 まったくの私の主観で述べていますが、このような印象を受けます。 世間に通用するためには適度にA化しなければならないと思うのですが、ブレンド語の特徴と言えばずばり何でしょう。物怖じしないと同時に、忍耐があるとか、からっとしているけれど言う事は言っているとか、相反する要素を両方備えていてしかも調和が取れているといった印象を持ちます。 物怖じしないは、フラストレーションがたまらない。忍耐があるとやわらかい。からっとしているとストレスがたまらない。言うこと言っていると交通がスムーズ、など。 各自これらを生成?するかんじになるのでしょうか。
お礼
ひかりの波さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いやぁ ぜんぶおっしゃるところのようだと思います。 ★ プレッシャーを感じない KY 組と、プレッシャーを感じる KY 組というのがあって、後者のほうがつまり解決されるべき課題を持っているのではないかと思います。 ☆ この点は 気がつかなかったところです。前者のほうは 何らかのきっかけを得て 自分の課題や社会における問題といったことを意識し知るようになるというところでしょうか。 ★ ブレンド語 ☆ という言い方も分かりやすくてよいと思いました。 そのほかについては 《肩肘張った》理論として わたしも考えたことがあります。ひけらかしが好きなようで かかげておきたいと思います。 * § 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関 1. 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。 2. 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。 S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会における生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となると言えるようです。 3. わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。 これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。選挙権を行使したりします。 ここで差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 4. 次に初めに帰って S者が身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。 これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。A 語は 学術語あるいは人格語です。 5. 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。 6. すでにここで客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。 7. このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 一般的な性格を持ち 《共同の観念》をかたちづくると見ます。 8. 主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。 より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。 9. 主観が社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 共同観念は 思潮や風潮であるとかあるいは大きくナショナリズム(民族主義・国家主義などなど)だと見ます。 共同主観(つまり A 語普遍性をうまくブレンドした S - A の連関としての主観)が さしあたって問い求めるところだと考えます。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ☆☆ A 語と S 語とを総合しまとめ切った人間の言葉によって考え出された人間〔と社会と自然〕の科学 ☆ というふうに述べたときには 現行の政治経済学を超えた――ふるい言い方では経世済民としての――社会科学を志向しましたが 取り敢えずは 具体的に当面の課題として・つまりその対処の仕方として 答えていただきました。すなわち ☆☆ ガミガミ役とアース役との織り成す社会力学の模様の中から スサノヲ語を大切にしたいと暗黙のうちに言って 枡の縁をこぼれ出た人たちあるいは枡の均(なら)し棒で均されて押し出されてしまった人たち これを公正な科学的アマテラス語は どう捉えるのか? ☆ についての対応になります。 ★(要約) けっきょくのところ 社会のいとなみについて基本原則がある。たとえば憲法でありその25条を取り上げるとしても そこにうたうところを きちんとしっかりと実現させていくのがよい。 ▲ (憲法25条)~~~~~~~~~~~~ 1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 安心・安全の生活の基礎が固められれば そのあとはそれこそ自己責任での自由な活動であると。 《社会保障》は 健康・仕事・老後などなど生活の全般にわたっていますから その基礎をたしかに固めていくことに尽きるように思います。 あとは むしろ S 者市民どうしの間での人間関係の問題となる。国家としての A - S 連関関係が 或る種の仕方で共同体としての生活のごとくに 上のように憲法の目指すところを実現して行くならば 市民のあいだでの 似非 A - S 連関制も その似非ぶりがあぶり出されてくるであろうと。 憲法の精神を体していても 私企業としては 致し方のないところがあるのでしょうか たとえばリストラにも踏み込まざるを得ないようです。 国として受け皿を確保する あるいは リストラする企業が 分社化したりして新規産業分野に乗り出すことによって仕事の確保を図る こういったことが基礎固めなのでしょうが なかなか思うようには行かないというところでしょうか。 単なる感想ですが 昔の人間から見ると 味の素・資生堂・明治製菓が人気の上位に入るのは 珍しさを伴ないます。 NEC が元気がないようですね。 大臣級の終着駅は 軽くいなす術に長けているということのようです。つまり 受けとめないということになります。言葉で答弁を済ませば それだけでもう放っておくことができる。となりましょうか。 或る意味でおのおのの仕事においてその分担する役職やその立ち場で すでに目指すところは分かっているのだから その役割をきちんと果たしていけば 案外社会としていいところにすすみ行けるというものかも知れません。 ここまで来ましたが もう少し開いています。