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家制度とは?江戸時代と明治時代における意味とは
- 家制度は、日本の経済生活と親族組織の両面を持つ制度です。
- 江戸時代には経済面での統治単位として機能し、明治時代には国家を支える基本的な単位となりました。
- 江戸時代では年貢の取り立てなどが含まれ、明治時代では徴兵などが含まれていました。
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多くの要素があって、難しいと思いますが、主には徴税が目的と思います。 幕府時代は、もし、各々の家族の子供達に均等な権利で相続させると、皆が貧しくなったり、主君-家臣の関係があいまいになったりします。 また、明治から太平洋戦争にかけても、富国強兵などを進める為には、十分な税収を確保する必要がありました。そこで、各々の家の相続等の際には長子(長男)に財産相続を集中させ、長子から安定に税を徴収する事を狙いました。 従って太平洋戦争までは、家を継いだ長子が大きな権力を持っていました。こうする事で社会の変化も少なくなり、政府の統治が容易になったとも思います。豊かな家族などの場合は分家も行われたでしょう。 単純にたとえると、1ヘクタールの田畑を持つ農家に子供が3人いたとします。子供達に均等に田畑を相続させると、一人当たり0.3ヘクタールと狭くなり、どの子供もまともに生活できないし、税も納められません。ですから長子に全部相続させて、次子以下は長子に従って暮らす事になります。
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- ohg-jiya
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江戸時代には農民レベルで言うと、ムラ社会という生活共同体があり、五人組(五軒)とか庄屋単位などで連帯責任がありました。 江戸府中の町人も大家と店子(借家人)で連帯責任グループを構成していました。 明治以降はこのような共同体の最小単位を「家」に置き、その責任者として家長を置き、その集合体を国家という概念でくくったわけです。 現在の家族構成を「核家族」と称しますが、実は誰も核になる者のいない「非核家族」集合体です。 グループにリーダーが存在しなければ、よほどの内部合意が無い限りやがて迷走する。 江戸時代の年貢とムラ制度は、例えば年貢が納められなくてムラ単位で夜逃げするなど、かなり緊密な関係にありますが、明治以降の「家」を徴兵制度と直接関連付けて説明しようとするのはいささか苦しいと思います。
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お礼が遅くなり大変失礼しました。どうもありがとうございました。ベストアンサーは迷ったのですが、一番早く回答してくださった方にいたします。
- jkpawapuro
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江戸時代について言えば、農家よりも武士に対しての説明としたほうが適切です。 武家は無条件に家禄(領地・収入)の相続を行い既得権益としてこれを保持しています。 一方動員がかかった場合、領地の禄高(石高)に定められた人員を集め、馳せ参じなければいけません。 これも戦闘員たる武士と、その下働きをするための中間などと呼ばれる奉公人まで、きっちり人数が定められています。これは当主が70歳であろうと5歳であろうと同じで、当主が適齢にない場合は弟や叔父甥などが当主に代わって出陣します。 あとは江戸時代の家制度の経済的な背景として、独立した領地なり農地なり収入を持たないと、独立できず家がもてない、つまり結婚できないという状況を生みました。 これにより人口が国家の生産力に似合う程度に抑制され、過度な人口増大・社会不安を抑えた効果をもたらいています。 江戸の庶民の暮らしなど同時代の他国とは比べ物にならないほど、(裕福ではありませんが)勝手気ままで優雅なものです。
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- blackhill
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直接、回答する知識はありません。しかし、江戸時代についての質問には、別の解釈がありそうです。 この制度には農民だけでなく、武士や町民も含まれます。したがって、農地に掛かる年貢で説明するのは無理でしょう。さらに、年貢は、村請といって、個人や家族単位ではなく、地縁組織である村全体に所定の金額が割り当てられるので、血縁組織である家制度と直接結び付けるのは無理ではないでしょうか。 http://www.mus-nh.city.osaka.jp/sakuma/jes45sato/kada.html
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非常に分かりやすい説明どうもありがとうございました。納得できました。