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江戸時代の家制度

江戸時代といえば、家制度に拘束され個人には職業選択の自由どころか恋愛や結婚の自由すらない理不尽な暗黒社会だった、と私が学生の頃は学校で教わったのですが、調べてみると一部の例を除いてそうでもなかったようですね。 特に、男尊女卑の象徴ともされる三下り半も女性の側から男性に求めたり、離縁後の女性は再婚には不自由しなかったようです。結婚のアドバンテージは現在と同じ様に女性が握っているようにさえ感じられます。。 こうした背景の中で何故、政府による家制度が生まれ一部では現在でも残っているのでしょうか?

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  • hukuponlog
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回答No.1

ここ10年ほどいわゆる「江戸ブーム」で、江戸時代の見直しが様々な分野でされていることは事実です。ただ、そこで描かれた「江戸」というのは、大抵の場合19世紀前半の文化・文政期のほんの30年程度の、しかも江戸という限定された都市の姿でしかない、という点について留保するする必要があります。 まず江戸時代というのは260年以上続いており、化成期というのはその1/10の時間に過ぎません。たかが64年程度の昭和時代だって、どの時代(戦前・戦中・高度経済成長期・バブル期)を描くかで印象は全く変わるはずです。戦中から終戦直後の6年程度(つまり1/10)の風俗や文化を描き、それを「昭和時代」と一言で言われれば、現象自体は事実だとしても、私達は納得できませんよね。全く同じ事が、「江戸時代」についても言えるのです。まして、江戸時代は260年ですよ。 次に、化成期というのは、大きな天災も病気の流行もなく、また政治的にも締め付けがゆるく変化の少ない安定した時期でした。でもこれは、長い江戸時代でもどちらかといえば例外に属する時期です。その直後には、大飢饉・天保の改革が始まっていますし、コレラの大流行もありました。 さらに、情報・流通が少なく、それぞれの藩が独立した国家のようになっていた江戸時代では、「江戸」という非常に狭い土地の文化や風俗が日本全国全てでは、当然ありません。 つまり、「化成期の」「江戸という都市の」「町人の」文化や風俗、考え方を説明して、「これが江戸時代だ」というのは、例外を取り上げて、全てを説明しているようなものなのです。 時代小説を読んでみれば分かりますけれど、大抵の場合舞台背景は化成時代前後です。そうでなくても、文化や習俗は化政文化を前提に書きます。これって、戦国時代にマシンガンが出てくるような荒唐無稽な話なんですけれど、小説だから、まぁ許されるのでしょうね。 したがって、このような「俗論」は、作家によってよく描かれます。例えば、Iという作家が、「江戸時代の日本全国の米の生産量は3000万石、人口も3000万人程度だから、飢饉などそれほど起こるわけがない」などと馬鹿な事を書いています。これは、藩というのが独立国家だということを忘れた議論です。 現に21世紀の今日だって、アメリカや日本では食糧が捨てられ、肥満に多くの人が苦しんでいる一方で、餓死する人がいるのが世界でしょう? Aという藩で豊作だったからといって、飢饉のBという藩に米が支援されるわけがないのです。まして、江戸時代は流通経路も情報も現代よりずっと少ないのですから。 以上は「前置き」です。このことが分かっていないと、多くの誤解を生みます。さて、ご質問のイエ制度ですが、三行半についてはおっしゃる通りです。これはかなり研究が進んでいます。 三行半の意味についても、一種の「再婚保証書」という位置付けが重要だったというのもその通りです。 ただ、江戸町人の三行半はこれまた例外で、より大きな離縁の理由は、まさにそのイエ制度の保持のためだったのです。イエ制度にとらわれなかったのは、貧しい(保持すべきイエそのものが無い)町人だけです。 それ以外の圧倒的多数の農民・武家にとっての離婚とは意味が違います。もっとも、武家が三行半を書いたかどうかは別問題です。 江戸時代、人口の圧倒的多数を占めた農民は土地を私有していますから、イエが途絶えるということは大問題だった。子供は跡継ぎだけではなく、労働力でもありますから子どもが生まれなければ「嫁の価値」は無いのです。これは武家も同じ事。 ところが一方で、「子供が生まれない女」にこそ価値がある場合もあるのです。江戸時代は死亡率が高かったですから、主婦として・労働力としての嫁が早死にし、旦那と子供が残される場合もままあった。 そのような場合に、「子どもが生まれずに離縁された女」はむしろ都合が良いのです。つまり後継者問題でもめることがない。一方、女の方もそれを前提として再婚ができるのですから、悪い話ではない。 どちらにしても、イエ制度保持のための需要と供給を円滑に進める手段として、三行半があったのだ、というのが最近の議論です。 ただ、「何故、政府による家制度が生まれ」というのは歴史的事実ではありません。明治時代には有名な民法論争が起こっています。『民法出デテ忠孝亡ブ』という有名な言葉ある通り、むしろ明治政府の民法は、江戸時代のイエ制度を尊重する立場からは、「日本伝統の家父長制度を否定する婚姻を基調とした家族法」だと批判をされているくらいです。 だからこそ、「一部では現在でも残っている」のです。

busido2006
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 思っていた以上に奥が深いですね。。

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