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江戸時代以前の家族関係
- 江戸時代以前は家族という概念が存在しなかったのは本当でしょうか?
- 江戸時代以前の家族関係について詳しく知りたいです。
- 江戸時代以前の家族制度について、調べても情報が少ないです。
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http://www.econavi.org/weblogue/special/27.html http://www.econavi.org/weblogue/special/image/rikon_l.gif 明治31年に民法が施行されます だもんで、明治30年と明治32年では、離婚率が大幅に変化している。 実際の家族の姿が変わったわけではなく法律が変わったのでそれに合わせた。 家族とは家産の継承です。 http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%8D%E8%97%A4-%E6%97%A9%E8%8B%97/e/B001JOSN96/ref=dp_byline_cont_book_1 服藤 早苗さんの著書に詳しい。 貴族においては、家産とか家業というのが平安時代の後半に生まれます。 夫婦で家産なり家業を子供に継承させるために頑張っている夫婦。
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現在家族間の問題で多々問題が生じているのは充分了解しています。 ご指摘のURLの前後関係がよく分かりませんが、ご指摘されたサイトのみの範囲では同調しかねる部分があります。 要はURLの筆者は「家族」というものが社会制度として外部から強制的に作られるものだと考えているのではないのでしょうか。 現在の遺産相続法の考え方が家族間のトラブルの原因である、という先入観に固執しているのではないのでしょうか 親子の情というものは過去も現在も民族も国家も超えて同じです。 それに利害関係が絡んでくることから問題が複雑化しています。 現在は、核家族化によってお互いの扶養能力が不足してきています。 少子高齢化もこのことに拍車をかけています。 年金の財源不足も影響を及ぼしています。 扶養能力の不足を社会が負担すべきか、家族が負担すべきか、という議論を制度論で議論するのか価値観で議論するのかで、問題の取り上げ方も対応方法も変わってきます。 価値観としての「家」という考え方と「家族」という考え方が現在は輻輳しています。 歴史的な経緯を規範とするよりは、新しい対応方法を考える方が良いのではないのでしょうか。 家族という単位といいますか構成員の範囲が歴史的に増減していたのは事実です。 ただそれを特定の価値観で議論するのは、問題の解決を遅らせるだけではないのでしょうか。 ご指摘のURLの筆者が論拠としている「極東ブログ」は明らかに1960年代まで盛んだったマルクス史観に基づいた記載です。 農民は、権力者・権力者氏族に隷属していた。大規模な合同家族を形成するという形態が見られた と断定していますが論拠がどこにも書かれていません。 地主と小作という社会的関係と家族という習慣的関係とにどのような関連があるのか何の説明もしていません。 明らかに名田などの荘園内の制度について勉強不足です。 マルクス史観者特有の古いロシアの農奴制度を無理やり日本に当てはめて史実を記述しています。 「隷属」という言葉を頻繁に使っていますが、日本史上で旧制ロシアなどにみられる農奴という制度は一度も存在したことはありません。 このブログの論法でいけば大学教授も大学から給料を貰って地位肩書きを保証されていますから、大学に隷属していることになるのですかね~ 学奴とでも呼ぶのですかね~ 名田 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/名田 そもそも現在の村落の形態が発生して出来上がったのは室町時代以降です。 それまでは、家族単位で分散居住していました。 惣村 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/惣村 抜粋 百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。 「塵芥集」の話を持ち出してきていますが、これは正妻と妾の子供の関係の規定です。 これと家族という制度的習慣とは何の関係もないですね~ 末尾に「その後、家ができて、家を死後に持ち越すために墓ができて、墓の管理のためにも家の存続が必要になった」と書いていますが、日本の墓制の歴史を全く無視しています。 家の墓などというのは、戦後土地が足りなくなってからできたものです お墓は個人別が基本でした。 しかも遺体を埋葬する墓とお詣りする墓は全く別々に設けられていました。 さらに地方によってその取り扱いが違っていました。 江戸時代には都市の発達にともない寺院も墓地も度々移転していました。 移転にあたっては、墓石だけ移して遺骨は放置しました。 結果として、現在の東京でも、建設工事の際に古い遺骨が出土することは珍しいことではありません。 インドにはお墓というものが存在しません。 遺骨はガンジス川に流してハイ、オシマイです。 しかし家族というものは厳然と存在しています。 ご指摘のURLの筆者は下記の事柄をどのように理解されておられるのでしょうかね~ 弥生時代の竪穴式住居にはどのような人達が文字通り一つ屋根の下で暮らしていたと考えているのですかね~ 律令時代になぜ家族単位の戸籍など作ったと考えているのですかね~ 戸籍記した、日本最古の木簡 - 邪馬台国大研究 inoues.net/study/mokkan.html 万葉集の山上憶良の歌や防人の歌は誰のことを歌っていると考えているのですかね~ 瓜食うりはめば 子ども思ほおもゆ 栗食くりはめば まして思はしのばゆ 何処いづくより 来きたりしものそ眼交まなかひに もとな懸かかりて 安眠やすいし寝なさぬ 反歌 しろかねも金くがねも玉も何なにせむに 勝まされる宝子に及しかめやも 詠み人知らず 多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児のここだ悲しき 防人歌 防人に行くは誰が背と問ふ人を 見るがともしさ物思ひもせず わが妻はいたく恋ひらし飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして 三輪氏・物部氏・尾張氏・葛城氏・大伴氏・藤原氏・蘇我氏などによる外戚政治というのはどういう考え方が基本となっていると考えているのですかね~ 氏と血縁、家族とはどういう関係と考えているのですかね~ 家族なるものが無いというなら、奥州藤原三代の木乃伊がなぜ一つのお堂に祀られているのですかね~ 戦前の万世一系の天皇という考え方は何を基準としていたと考えているのですかね~ 僧侶の出家制度というのはどのように考えているのですかね~ 出家は文字通り家を出ることです。 この家を出るというのはどのようなことだと考えているのですかね~ どう考えても江戸時代だけが特別でそれが現代の家族の元だなどとは考えられません。
お礼
ありがとうございます。参考になりました。
- titelist1
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源頼朝の兄弟で、兄の義平の母はむ橋本宿の遊女、弟の範頼の母は池田宿の遊女、弟の義経の母は京の白拍子と父親の義朝は種付けだけして育てていない。源氏の武士でもこれだから、下々は追って知るべし。子は娘の親が育てていたのだろう。頼朝も父親に似て女のところを遊び回っていたに違いない。 家族は家系を保つためにあるのだから、家系の無い小作農民は家族を形成する必要が無い。しかし、地主農家や商家や武家や貴族は家族を形成する必要がある。家系の墓も作る必要がある。現在は家族があるので墓をみんな作っている。家族の数は墓の数しかなかっただろう。
お礼
ありがとうございます。 とても参考になりました。
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