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死刑は許されるべきか
- たとえどんな悪人でも、救われるべきだと思う。
- なぜなら、その人が悪人になったのは、悪にならざるをえない過去があったから。
- 死刑は、その人に更正をする機会を奪うものである。ただでさえ不幸な過去を生きた人間から、命まで奪うのか。
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#22です。 >私たちは、他の生命を無駄に奪うことには抵抗がある生き物である それを取っ掛かりとして、どのような考えを生みますか? : そうですね。 まず、この「>取っ掛かり」は、人間が人間足り得ている基本的な要素であるように思われます。 つまり、私たち人間が他の生命を奪う必要性に直面した場合、それが「本当に必要であるのか否か」つまり、「無駄な殺戮ではないのか」「それを避けるためにあらゆる工夫がなされたか否か」ということに関して、日常的にという意味ではなく、あくまで理念として、ですが、常に問い続ける必要があります。(念のためですが、私は菜食主義者ではありません) その理由は、単に、私たちが「他の生命を無駄に奪うことには抵抗がある生き物である」という事実があるから、というだけに過ぎない、ということです。 殺戮に直面している対象に対する思いやりでも憐憫でも、高尚な論理でもありません。 そうするのが自然なように人は作られているし、そのようにするのが人間として無理のない行動である、ということです。 殺戮とまで言わなくとも、他者に危害と加えようとする者の顔は必ず歪んでいます。 良心の呵責なしに他者を誹謗中傷することは人間にはできません。 殺戮や無意味な誹謗中傷が回避されるべきであるのは、このような単純な理由によってです。 悪という現象は存在しますが、人間が、その悪自体であることはあり得ません。 ゆえに回避されることによって救われる者が必ず存在することになります。 回避しないことによって救われる場合もありますが、これは、そのような土壌に、はっきり言うと、不自然な精神状態に、その人自身が立脚してしまっているからにすぎません。 この場合は、また別の問題になりますが、長くなるのでここでは述べません。 やや前置きが長くなりましたが、 「他の生命を無駄に奪うことには抵抗がある生き物である」という認識は、様々な方向に敷衍できるでしょう。 たとえば、 ・人間にとっての無駄とは何か。 ・「他の生命を無駄に奪うことには抵抗がある生き物である」と考えてはみた(誰でも、特に幼い頃に、このように感じたことの無い人はいないことでしょう)ものの、それを自らの自然な欲求として発揮できない結果にしばしば至ってしまう、という現実があるのはなぜだろうか。 などといった検討課題が思い浮かびます。 たた、この「(超自我的)取っ掛かり」は、もうひとつ別の「私は私として生きなければならない」という「(本能的)取っ掛かり」とセットになっているという事実があります。 これらを統合するのが「(これら両者の)バランスを適正にとることによって自らのアイデンティティ確立を果たす」という「(自我的)取っ掛かり」と言えるでしょう。 「>どのような考え」を生むかと問われれば、多様すぎて一概にはお答えできませんが、方向性としてはこのような視点で常々捉えるようにしています。 ひとつだけ述べてみると、 たとえば、殺人者にせよ、悪態をつくことしか知らない駄々っ子にしろ、彼らにとっては、それが精一杯の自己表現である、ということになるでしょう。 本来的にそうしたくないことでもやってしまう、せざるを得ない、殺人者の哀しみ、駄々っ子の辛さ、というものに思いを致すことができなければ、根本的な解決への道はおそらく開けません。
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- 勢十郎(@Arrogance1)
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論理の現実性 『悪も救われるべき』という、あなたの論の現存の社会への責任や保証のために、犯罪抑止力に関する記述が無いという指摘をしたが、まったく反応しないのはソレを重視していない証拠ですね これは社会を知らない子供だという証明にもなる 大人なら責任や保証には真っ先に反応します 社会では最も重視する部分ですからね そもそもが希望論にすぎない、あなたの論を理解する必要がありません 自分の感情を法則性もなく切々と語っているだけです そして僕の文を理解してくれる人を待てという指摘がありますが…子供に理解される必要がありません 現実に社会に触れていない子供の意見は通用しません ↑このように感情の一切を感じさせないのが大人の文章です 子供の文章は必要最低限で構成できないために無意味に長い 他にも子供が多数居るようで、このサイト自体が残念でなりません 20未満の方には、できれば僕に対してブロックというものをお願いします 僕側からは、くだらないアクションをしたくありませんので
>死刑は許されるべきか べきです。 死刑が重篤犯罪防止に役立たないという意見がありますが、死刑廃止以後の日本の犯罪傾向の100%予想が不可能である限り、死刑廃止は危険だと思います。 哲学的真理がたとえ死刑廃止を結論づけたとして、以後の重篤犯罪の犠牲者とその家族がそれで納得するでしょうか?死刑囚とその家族の人権擁護は大切ですが、やはり無辜な犯罪犠牲者の発生をこそ極小にすることが一番重要だと思います。 犯罪者が死刑を免れたら、いずれは社会へ復帰する可能性があります。死刑廃止はこの危険性を高めます。再犯防止を考え、慎重にこれを行う必要があると思います。もちろん冤罪を防がねばならないことは当然ですが、別の問題だと思います。 >たとえどんな悪人でも、救われるべきだと思う 非常に崇高なご意見です。貴方のような方こそ率先して更生者を保護し、世話される施設を立ち上げられるべきです。
- miko-desi
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>社会の中で生きることを選択 大まかに日本国憲法では「国民の義務」として 予防接種や義務教育の習得、勤労、納税、などあるわけで、 保証されている「自由」は住居地や職業選択、信仰、表現の自由など。 では国が国民に与えている「権利」は 「人間らしく最低限の生活を営む権利」といいながら、 実際にありがたく行使する権利ばかりを与えてもらっているわけではない。 最低限の生活能力(経済力、知力と精神衛生、容姿、情報収集力など)を 備えた親から生まれる権利を国が保証しきるのかと? 結局は権利を与えられてはいても 個人の実践(もしくは寛容さ、機転)なしに成し遂げられるものはなく 成し遂げられないならば「命の価値を認めない、保証を断念する」 というのが「死刑」ということ。 人によって行使できない権利を与えられて、 何に恩義を感じて国に対して義務を果たしていけばいいのだろう。 となってしまう。 価値を表明するのは普遍なものではなく 人間だけの専売特許概念であると理解していただけるなら 価値は嗜好、つまり快、不快、要不要なものと判断されただけのことで 善悪の判断基準も価値判断に便乗されてしまった所以でしょうね。 それで「嫉妬関数」というのがあるのですが上手く調べられませんでした。 私は数式アレルギーなこともあって、詳しい方からの情報があらば助かります。 嫉妬深さは万人に平等に与えられているはずの時間も変える力があると思います。 利益や財産はお金だけじゃなく時間のこともあるかと思います。 回答として未完ながらとりあえず自分が忘れないでいたいがために投稿しました。
補足
嫉妬関数ですか 面白そうですね。 調べてみます
- kigurumi
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ちと間違えた。 誤:正しい選択ができるようにしたという意味。 正:正しい選択ができるように しようとした という意味。 でした。失礼しました。
- kigurumi
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>では何が原因になるのか、一文でお答えください 盲目が原因。 って終わっても理解できないですよね。 本質を見れない人は外箱しか見えない。 イエスは盲目の人の目を治したとあるが、視覚障害者を治療したという意味ではない。 本質を見れず分別がつかず間違いを犯すしかない人に知恵を与えて分別がつくようにし、正しい選択ができるようにしたという意味。 あなたは環境のせいで殺人を犯したと思っているわけですよね。 物事を本質を見れていないから、そう思うしかないわけです。 しかも不運すぎることに、自分は目が見えないという自覚が無い。 ソクラテスは知識人に物事の本質が見えていないことを自覚させようとしましたよね。 知識人は自分は目が開いていなかったとわかったはずですが、目を開かせようとしたソクラテスを殺した。 あなたも私を殺しますか? その方がプライドを保てますよね。 プライドが高ければ、自分のプライドのために私を殺すしかないわけです。 私を殺す以外にもう一つ選択肢があります。 さて それはなんでしょう。
補足
テレビドラマより、みなさんの回答に現れる心情を読むほうが何倍も面白いです。
- cyototu
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>そういう虚構の勝利を得ても あんたも哲学やりたいんなら、哲学以前に学問て何だか判っとかにゃだめだよ。学問てのはディベートやゲームじゃないの。だから、勝っただの負けただのって言うことはどうでもいいの。何であんたって勝ち負けにそんなことに拘るんだろうね。きっとあんたって学問に向いていない性格なんかね。昔も私の学生の中にそんなのが一人居たが、そいつと来たら、学問で物を創り上げるってことがどう言うことだか全然分ってなかった。物を創り上げるってのは、なんか引っ掛かって気になっていることを一先ず形になっていなくても良いからこちらから相手に打つけてみる。判ってん何ら学問する必要も論じる必要も無いから、曖昧で判んない形で打つけることしか出来ない。そしてそれ質問を受けた奴が、その質問によって出て来た見解をたとえ論理的に整合していなくてもいいから相手に返してみる。そうすると、その回答者が触媒になって、はじめに聞いた質問者の頭に変化が起こり、前より少し整理されて新たな認識を生み出し、その変化した認識をまた相手に打つけてみる。相手も今度はあんたを触媒として、その新しい認識に影響され、相手の頭に変化が起こり、それをまた相手に返す。互いが互いの触媒になりながらそれをぐるぐる繰り返して行くという高度に非線形な過程を経て行くと、その質問者にも回答者にも前もって分からなかった概念や論理の構造が自発的に段々と出来上がって来るんじゃ。だから、物を創る段階で勝ったの負けたの、細かな論理的整合性だのと言うのはどうでもいいことなんじゃ。 人間てあんたが思っているよりも遥かに頭が良いから、始めから論理的にスッキリと整合しているよなもので、その事実がまだ知られていないなんちゅうもんは最早何も残って居やしないんだ。そんなスッキリしていることが書いてあるのはもう完成した物っきり書いていない教科書だけだ。これ、あたしゃ自分の経験で体得して来たが、それと同じことをかの有名なハイゼンベルグちゅう物理学の大天才も言ってたんだね。「あんたの議論は余りにスッキリしている。どこにも神懸かった狂気が無い。だからそんな事はとっくに知られているか、あるいは、それが判ったってもどうでも良いことじゃ」って。 あんたは、きっと今まで教科書だけで勉強して来たんだね。そのかつてのあたしの学生も、その場の論理的整合性ばかりに拘り、論理の勝ち負けだけに拘っていた。だからそいつが学位を取った後であたしゃそいつに、あんた学問よりも商売人に向いているから、そちらに行ったら必ず成功するよって励ましてやった。実際彼は商売人になってあたしよりも何倍も金を稼いで、今では幸せに暮らしている。あいつが学問に拘っていたら、きっと毎日不満分子だったと思うよ。人間、自分の性格に合ったことをやれるほど幸せなことはない。 あんたも教科書でソクラテスの産婆ってのを勉強したことがあるだろう。あたしの回答の中にはあんたの質問から何かを創りあげる種がごろごろ書いてあるつもりじゃ。だが、あんたにはそれが見えないようだ。それはそれで、あたしもあんたも文句は言えないな。あんたとあたしや今のところ共鳴出来ないようじゃから、一緒に何かを創る出すことは両方に取って今は時期尚早だって言ってるだけだものね。作るんじゃ無くて創るんじゃ。それが出来るのは人間だけなんじゃ。 こんな遣り取りをしていても、こっから先は勝ち負けのゲームになっちまって、何にも創り上げる事なんて出来そうも無いと見た。この遣り取りがあんたのためになったかどうか判らんが、また、「おっとっとっと、お若いの一寸待った」とカチンと来たらまた邪魔するかもしれないんで、そちらは迷惑かもしれんが、今後とも宜しくな。
補足
最初の一文を読んで、回答じゃなかったのでそこから下は読みませんでした。 結局逃げるんですね。 期待して損しました
- amaguappa
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冤罪の可能性は慎重に議論されねばならず、 そこには司法の限界がつねにあると考えております。 その点を考慮すると、審理のやり直しを何度でも行うことが出来る法制度のほうが、 死刑制度廃止よりも大切であり、 また、捜査の精度を挙げて解決に取り組むシステムの整備のほうが、 死刑制度廃止よりも重要であると思っております。 つまり、裁くにあたってどれほどの手間も惜しまない、ということに尽きます。 その終着地点の極北に、死刑を設けるべきかどうかは、 更生(過去を断ち切って社会的生を生き直すこと) という視点から糸口が掴める問題ではありません。 なぜなら、 社会は人に生を与する義務が、人は社会的生を全うする権利があり、 それらに何度でもやり直す機会が伴うことは基本理念であり、 更生とは、そうした基本理念にもとづく義務と権利の遂行なのです。 しかし、 近代国家における死刑は、 社会が人に生を与する義務と、人が社会的生を全うする権利を否定するのではなく、 社会が人を罰する権利と、人が社会の罰を受ける義務の、極限にあります。 社会は権利を濫用しないという一点に、死刑という問題が掛かっているといえます。 ところで、 刑とは過去の清算であり、法のもとの更生とは社会生活をやりなおすことです。 過去と現在の鎖を結び変える処置にほかなりません。 質問者さんは、現在が過去の結果であるべく犯罪も招かれるとお考えですが、 更生教育とは、自己洞察をもって過去への内省を深めることにより、 過去のくびきに自己を囚われることなく、意思の力で、社会での居場所を 自分で切り拓かねばならない、ということを学ぶものです。 つまり、過去のせいにしてはならない、 過去は変えられないが未来は変えられるとの理念を、社会的に正常な理念とするのです。 質問者さんのように、過去に不幸な出来事があるから現在に犯罪を ひきおこすけれども更生の余地がある、とするのではなく、 更生は誰にでもある基本的な権利であり、 さらにそのうえで、過去の不幸が、個人の内面に照らして 量刑に情状酌量の余地を与えるかどうか、検討されるのです。 ただし社会性にかかわる存在であろうとするとき個人は、己の社会性に照らして 過去の不幸を犯罪の理由としてはならないのです。 さきに述べた、 二つの権利、二つの義務は、天秤にかけられているのでしょう。 わたしは、このように思います。
補足
>更生教育とは、自己洞察をもって過去への内省を深めることにより、 >過去のくびきに自己を囚われることなく、意思の力で、社会での居場所を >自分で切り拓かねばならない、ということを学ぶものです。 それが事実かどうかはわかりませんが、わたしはそうあるべきだとは思いません。 >個人の内面に照らして 個人の内面を作るのも過去だというのが、わたしの主張の肝です
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>原理(げんり、羅: principium、英: principle、独: Prinzip、仏: Principe)は、哲学や数学において、学問的議論を展開する時に予め置かれるべき言明。 そこから他のものが導き出され規定される始原。他を必要とせず、なおかつ、、、 あんたには辞書や受験用の知識はお在りのようだが、原理を自分でトコトン考えたことは無さそうだな。学問の世界では人のことを鸚鵡返しに言えるようになったことで評価される訳じゃないんだ。その言葉や概念を使って何かを創造出来るようにならなきゃならん。理屈は捏ねられても、その創造の営みの経験をまだなさってはいないと見た。 >それと、私の知る限り、どの学問も原理によって作られています。 そんなこと言っとるから、あんたは半人前と言われてしまうんだ。原理に拘らない学問は幾らでもある。例えばあんた理学と工学の違いを考えたことあるかね。例えば物理学でも電子工学でも量子力学を徹底的に教わる。電子工学では電子の振る舞いを知らなきゃ何も出来ないからだ。ところで質問だが何で同じことを教わっているのに物理学科と電子工学科が別々にあるんだかあんた知ってるか。多分あんたは考えたこと無いだろうから教えてやる。 工学の本質は人に役に立つことをやることだ。そのために物を作れなくてはならん。ところが、物を作るためには原理と言う物は、二の次三の次じゃ。ある現象が実験的に否定することができないくらい確認されていれば、それがどんな原理に基づいて成り立っているかなんてどうでも良いことだ。そして、そのような確立された現象は幾らでもある。例えば電流のに関するオームの法則が良い例だ。この法則の原理的正当化は未完じゃ。しかし,その正当性を疑る奴は居ない。だから、その事実から出発し、その後の数学的整合性を問題にすれば良い。その法則がどんな原理から導き出されたかなんて言っていたら何の機械も出来やしない。そういる立場の現象の把握の仕方を専門家は現象論と呼んで居る。現象論は、繰り返しの実験に基づいた否定出来ない事実を基に精密な数学を使って色々な現象を説明するので、工学者の至上目的、即ち役に立つと言うことに関して十分なんじゃ。だから、電子工学屋は量子力学を教わっても、その裏にある原理には二義的にしか興味を持っていない。自分がこれから作ろうとする物に関する個々の現象を緻密に正確に予測出来さえすれば十分であって、だから現象論的把握で十分なんじゃ。その立場から言うと、世界の認識は現象論で十分であり、したがって、物理屋の言っている統一原理の存在の仮定などの未だに検証出来ていない余分な仮定をしなくちゃならない世界観を理解することが出来んのじゃ。 一方、物理学屋は個々の現象に興味なんか持っていない。この連中はその個々の現象の裏に、何かそれを統一する原理があると信じて居る物理教信者だ。そして、その統一体としての原理が分るようになれば、個々の現象の緻密な分析なんかには全然興味を持っていない。だから今まで物理屋にやらしても役に立つ機械など出来た試しがないんじゃ。 同じ量子力学をやっていても、この工学屋の現象論的な把握法に拘る文化と物理屋の原理に拘る文化とでは、量子力学の理解の仕方も全然違ったものになる。だから、物理学科と電子工学科を一緒にしてしまうと支離滅裂になってしまうんじゃ。 私は、かつて「物理学とは原理に拘る個性を持った学問だが、化学にはそれ固有な文化や世界観として何があるか」と著名な化学屋さんに聞いたことがある。そしたら、「化学にも勿論固有の文化がある。それは化学式じゃ。化学屋は原理でも現象論でもなく、化学式と言う独特な言語で世界を見て居る」って言ってたぞ。確かに化学式てのは途轍もない世界の見方だ。例えば化学方程式は量子力学が発見される100年以上も前から使われていたが、そこで使われている概念の多くは量子効果を先取りしていた。物理屋は原理という言語を通して世界を見、化学屋は化学方程式という言語で世界を見、工学屋は現象論と言う言語で世界を見て居る。それらは、皆複雑に絡み合いつつも決して同じ物の見方ではない。それが人類の知的な営みを多様で豊かにしているんじゃ。 こんなのはほんの一例じゃ。どんな学問でもその学問に関して一度でも創造的な寄与したことのある連中にはこの文化の違いの存在は自明なんじゃ。 そこで質問だが、哲学が哲学たる所以の本質的な個性、即ち他の学問と区別される固有な文化とは何なんじゃね。あんたが哲学でかつて一度でも創造的な寄与をしたことがある一人前の哲学屋なら、そんなこと直ぐ答えることができる筈じゃ。それを是非聞かせてくれ。 それが同定出来ないようだったら自分は半人前だと認識して、人の言うことにまだ黙って従っておきなされ。
お礼
追記 ちなみにお礼には、あなたの質問の上にある、長文に対しての間違いの指摘もあります。 本当は無視してもいいんですが、哲学を深く掘り下げたと豪語されているので、ぜひともその方の意見を聞いてみたく、誘いに乗ってみました! 回答お待ちしてます!
補足
なぜ回答をしないにもかかわらず、回答ではない長文を堂々と書き込むんでしょうか、あなたがそうまでする理由を自問自答してください。もし質問があるなら自分で質問のトピックを立ち上げてください。 ここでこれ以上あなたが書くような不健康な自己証明のための長文に回答すると、あなたに似た精神不安定な人が、「俺も私も」となる可能性があるので、ここでは質問に答えません。そもそも私が求めているのは回答で、あなたがここで許されていることも回答なんですから。 あなたの質問に答えて欲しかったら、まず「回答」に私の質問に対する回答を書いてください。そして、その回答の最後にあなたのメールアドレス、または議論する場所(URL)を載せてください。 あなたの質問に対する回答はそこに書きましょう。 しかし、私があなたの質問に回答するメリットは、実のところ何もありません。 あなたの私に対する勝手な思い込みで、「私」ではない「あなたの中の願望である私」がどんな評価をされようが一向に構わないからです。 しかしひとつ言っておきますが、そういう虚構の勝利を得ても、あなたの自信がさらに崩れやすくなるだけですよ。 さて、もし私が回答する理由があるとしたら、それは「お礼」です。 つまり、あなたは私にお礼をもらえるような回答をする必要があります。 あなたの深く掘り下げた哲学で、ぜひとも私をうならせるような回答をしてください。 それと、ぜひあなたが今までまともな回答をすることから逃げてきた理由も書いてください。 健闘を期待してます。
- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
>人間(生物)はそもそも社会のために生まれてくるわけではないと考えているので。 そうですね。 >というか、何のためにこの「回答」を書き込んだんでしょうか 自分と同じ結論に達した人の回答を見るのは初めてであり、嬉しくもあります。 やはり漠然と思っていたことを、よく考えて文章にすることは大切かもしれないですね。 考えることも人として重要な要素のひとつかもしれません。 そういう意味で、「~の考え休むに~」は一応撤回しておきます。
- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
誤解を避けるために言っておくと、 「馬鹿の考え休むに似たり。」は、そもそも第三者が当事者を裁くことを肯定している人に対して言っている言葉です。 言葉にすると多少に関わらず不正確になりますが、「第三者が人を裁くこと自体が欺瞞である。第三者が罰を与えることは出来ない。」 となります。
補足
>以後の重篤犯罪の犠牲者とその家族がそれで納得するでしょうか? 納得しなければ殺してもいいということなんでしょうかね? >率先して更生者を保護し、世話される施設を立ち上げられるべきです。 確信に至ったら、そうするかもしれませんね