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無意識は必要か?
無意識は必要か? 意識だけで、問題なく生活できないか? 無意識がないと、人格形成、生活する上で何か問題を生じるのか? 自由に意見を聞かせて下さい。
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意識と無意識は常に入れ替わりながら生活が成り立っています。アメリカの或る研究機関の調査結果ですが、詳しい数字は忘れましたが、意識している時間と、無意識的な時間は『意識している時間は20パーセント以下』と言うのを見た事があります。 人間には自我意識と言うものが在りますが、自我意識が無い時があります。言い方を替えたなら『自我意識が』自分の体を管理していない時の事です。自分の体だけと言うのにも語弊があります。自我意識が『心も』管理していない時の事です。 言い方を替えたなら『我を忘れている時』事です。或いは『没我』と言う時です。西洋では「我思うゆえに、我あり」と言いますが、東洋では『無』と言います。人間が偉大な事が出きる時は『没我』と言って「我」がない時と言う言い方をします。つまり自我意識ではない『われ』がやっていると言う事になります。 『無意識がないと、人格形成、生活する上で何か問題を生じるのか?』と言うことで話をするなら、その状態が精神疾患や神経症や自律神経失調症という事になります。理由は以下の通りです。 眠る時に自我意識は無くなっていきます。その時に『無意識』が体と心をを支配します。その時こそ安眠が保障されています。是が健常者という事になります。『眠くなったら眠る』自由に生きていると言う事になります。眠ろうとする事さえも忘れています。 その反対の例です。眠ろうと『意識』します、意識すればするほど眠れなくなります。一番中眠ろうと意識しています。眠れません。是が不眠症の『心の内側』です。 『心を病む』と言う言葉があります。この事も同じ原理が働いています。 心の状態を忘れています。この事が『平常心』という事になります。自分の心を意識していない時です。自分の心の状態を『意識』していない時です。 その反対が『心を病む』という事になります。常に自分の心の状態を『意識して観察している』状態の事です。心を病むと言う事の正体は『過度に自我意識が』出ていて『無意識の自分』に任せられなくなった状態の事です。 人間が最高の仕事をしている場面です。例えばオリンピック等でのメダルが取れそうな場面です。スケートの演技や体操などの演技としますが、『自我意識が出ないで』演技を終了できるかがカギになります。 或いは一打が優勝などのカギを握っている場面です。いかに『自我意識』が出ないでいられるのかと言う事が重要になります。 それでは自我意識が出ないときは、優勝した人は『誰が』その人の体と心を導いているのか?と言う事が『東洋における無の思想』という事になります。 心を病む、或いは神経症に苦しむ、或いは自律神経失調症に苦しむと言う事は、優勝が掛かった『一打を』自我意識で打とうとしていることに、相当しています。『無意識の』自分に任せられなくて『自我意識が出て』自我意識が一打を打つ事に相当します。 自我意識が出て、自我意識でやろうとした場合は、人間は出来ない様に出来ています。無意識でやっている時が、人間は一番疲れにくくて、スムーズにやれます。 鬱や神経症になって『体も心も疲れやすくなる』訳は此処にあります。自我意識で全てをしようとしているために『自我意識と体は』疲れやすくなっています。 普通にやる事が出来るとは、自我意識は『無意識に任せる事が出来て』自我意識は『休んでいる事が出来ているからです』無意識の自分に任せられなくなった事を『心を病む』と言っても過言ではありません。 この現象の根本は『不安』に有ると思います。うまく行くかどうか?と言う不安に自我意識が『震えている』と言う事です。その根本は『生きる事に対する不安』と言う事です。もっと言うならば自分自身に対する不安という事になります。 この不安とは『自我意識』が受けている不安です。では誰がその不安を煽っているのかという事になります。答えは『無意識の意識』という事になります。つまり『心の矛盾』が正体という事になります。自分の自我意識が自分の無意識の意識に圧迫を受けている状態が『心の病の正体』という事になります。 この解決が『症状を受け入れる』という事になります。症状とは誰でもが受けている当たり前の感覚と言う事です。只過度に、緊張して、受け取りを拒否しているだけという事になります。 人間が生きてゆくと言う事は、良い事も悪い事も受け取って生きてゆく事を『忘れている』心の状態になっています。良い事のみを受け取っていたいと言う心の状態が『地獄を』頭の中で作り出しています。 心を病むと言う事は、現実の世界を『嫌な事を避けたいために』現実ではない事を作り出してその中で地獄を見ているという事になります。 天国に住みたいという意識の力であべこべに地獄を作ってその中から出れなくなっている現象と言えます
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- Y Y(@yy8yy8az)
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「意識・無意識」、という言葉の受けとめ方、使われ方に異議あり! 文字を分解します。 ‘意’は心模様、思い。‘識’は自覚、あるいは認識。例えて鏡のような作用。 ということで。 意識=‘意(心、思い)’を自覚(識)するという事。 この質問では自覚できる’思い’という意味合いで使っているかと思います。 またこの使われ方が一般的。 無意識=‘意’と‘識’を上記のように分解して捉えれば、‘無意識’は自覚できない‘意(思い)’としてよいでしょう。 識(鏡)があるのは人間だけ〔たぶん〕。 生命は意と力(エネルギー)によって、存在、活動する。 ‘識’がなくても命あり。 問題なのは、人間の持っている‘識’という能力は完全ではないということ。・・・たぶん。 若し完全であるならば、‘意’を完全に捉えるでしょう。 不完全だからこそ、深層心理、あるいは‘潜在意’なるものが存在してしまうのです。 赤ん坊が言葉を覚えるのに、まず単語から覚えてゆき、単語と単語をつなげて文章にしていくという能力が備わっており、それに拘わっているのが‘潜在意’(←私の勝手な表現)であるらしいとは、心理学?の方面で研究されているようですが、そうした事を思うと‘識(自覚)’出来ない‘意’というものの重要性を感じます。
- sheep67
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意識だけ? というのは、無理では? 意識だけでは、多分意識は存在できません。 意識が存在し続けるエネルギーは、主観(無意識)の、世界や自分に対する解釈がエネルギー源ですし。 無意識が消えたら、意識も瞬殺です(ぶっそうな・・) 普通に言うところの、生きる喜び、と言う物です。裏側の生きる苦しみに焦点が当たってしまうと、エネルギー供給がなくなります。 と、思いますー。
必要か?とか不要か?とかに関わらず人間の生体のシステムの中には意識と無意識の領域があるわけですから、質問者様はこの議論によって何を導きたいのかわからないのですが、我々は起きている時、すべての時間を意識して生きているわけではなく、無意識のうちに身体を動かしたり、なんとなくTVを見たりしていることが多いものです。意識するということは、自分の姿(の行動や思考の動き)を自分の”意識というもの”で客観的に認識しているという状態なのだろうと思います。いつもそんな状態が続いているわけでなく、普段に意識することをやめて、いわば自分を自動運転の状態にしていることはよくあるのではないでしょうか。 分かりやすい例として、トラックドライバーが意識のない殆ど睡眠状態で相当の距離を走り、いつものステーションに停めていたということはよく聞かれる実話です。 意識して何かに注力している間は疲れも大きいと思いますし、人間はリラックスして無意識状態になることが必要不可欠なのだと私は思います。
私はある意味で逆に考えています。ほとんどの場合人間でも無意識に生きていると考えています。つまり我を忘れて生きています。ところが身に危険がせまったときには我に返ります。我に返った時が意識的に生きているということではないかと考えます。結論的にはあなたのご質問の無意識を意識に置き換えてみたら私の考えていることによく合うように思います。
- bougainvillea
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No.2の回答に付け加えて、記憶についてですが まず人間が五感からの刺激を認識すると、 脳の海馬に一時的に記憶されます。 これは短時間(数分~数時間)で消えてしまう記憶です。 このうちの重要な事柄は長期記憶として、側頭葉に保存されます。 これはかなりの長い時間(数年~ほぼ一生)記憶されます。 最近は脳科学の進展により、意識、無意識、記憶などの仕組みが だいぶ明らかになってきました。一般人にもわかる入門本があるので それらを読んでみると良いと思います。 「30日で夢をかなえる脳」石浦章一 「記憶力を強くする」池谷裕二 など 従来の精神分析(フロイト)や心理学的なアプローチは もう時代遅れですね・・・
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.4です kunobouさん、どうもおかしいと思ったら私は全く門外のど素人でしたが、kunobou さんはその道のかたでありましたか。 私は知的探求としての心理学は存じませんで、多少インド哲学の心理学に足をいれています。 それで単に目を目が見る事はできないでしょうというに過ぎません。 意識しているというのは意識という光線(wakeful意識という対象に差し向けられた意識は、一時的に前方の狭い範囲しか照射しない)が照射した対象や、客体存在、内容でしかなく、意識自体ではないでしょう。ということをいったにすぎないのですよ。だから前の方の前意識の内容、蓄積物でもあるわけですが、意識自体ではない。というに過ぎません。すみませんでした。 それで意識は、wakefulのところを遡れば、インド哲学では一にして多なる創造者自体だということになります。私たちの哲学では。Self-Realization Fellowship ハイパーは削除してありますが検索はできます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.7をおぎないます。 意識していなかったことが現われたとあとで分かることは 意識していないかたちで《記憶》の中にしまわれてあります。 また これは 《こころ》のことです。おおまかに言って 《記憶・知解・意志》の三行為能力を 精神ないし心と言います。 見破られたくないから 意識しないようにしていることは まさに意識〔していること〕の問題です。 意識していないことを 意識が無いという意味で《無意識》と言うことがあるでしょうが 記憶の領野に何か《無意識》という領域が別個にあたかも独立したかたちで存在しはたらいているというのは 行きすぎでしょう。
女性は浮気している恋人や夫の嘘を見破ると言う。 無意識に普段とは違う行動を男性がしているのでしょう。 それを、無意識が無くなれば、 意識して男性が何故に墓穴を掘るが如く、 嘘を付いている事を妻や恋人に判る様に喋るのだろうか?。
- 雪中庵(@psytex)
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「無意識」というのは、潜在意識的なはたらきというのであれば、 それが無ければ、曲は空気の振動のゆらぎ、色は波長の違い、 空間的広がりは五感の相関した感受における時間差となって、 情緒的な認識は不能になります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 日常生活において 意識していなかったことがふと現われて それもわが意志だったのかといった経験が起こります。だからと言って 無意識という領域を あたかも独立した別の主体であるかのように立てるのは どうなのか? ――こういう質問の趣旨なのではないですか? わたしは 無意識を別様に立てる必要はないという考えの持ち主です。 意識していないことは 意識していないことだという捉え方で 何の差しさわりもないと考えます。意識にのぼったものを 意識あるいはわたしの意志だと――事後的にでも――認めること これですべて済むと考えます。 記憶という分野とその能力行為 ここに意識していることも・していないこともすべて含まれます。 趣旨を取り違えたならば まえもってあやまります。
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