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戦国武将のたしなみ、男色への疑問

戦国武将のたしなみ、男色への疑問 武士道の古風とかで、珍しくなかったようですね。 謎なのですが、そこには恋愛関係は発生したのですか? 同性愛者でなければ、そんな趣味のたしなみは行えないと考えるのですが。 下剋上防止策と聞きましたが、こじれると余計にややこしいのでは・・。 君主に男色の趣味があるのを知って、部下はドン引きしたりしなかったのでしょうか? それは高貴な趣味?商人や農民にはない、武将の世界だけの趣味だったのでしょうか?

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  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.1

西鶴の「男色大鑑」および「武家義理物語」を読むと良く分かりますが、武士においては普通の関係で特に否定されるものではなかったとされています。戦国武将では豊臣秀吉のみがその方の趣味がないとされていますので、逆に言えばほとんどの戦国武将にあったことになります。信長と前田利家の関係は有名で、信長死後、利家がその関係で本人の前で話題にされている話が出てきます。また、その方の趣味のない秀吉が美少年を寝所に呼んだので、側近が秀吉様もやっと男色に目覚めたかと話しているうちに美少年が出てきたので首尾を聞くと、その方に姉か妹はいないかと聞かれたと言うのでド側近たちがドン引きしたとの話が伝わっています。 さて、男色は武士だけでなく、商人・農民にもあり、江戸時代には陰間茶屋などと呼ばれた売春宿があり、繁盛していました。また、現在の歌舞伎の原型である若衆歌舞伎は男色(売春)の温床になるとのことで禁止され(男色が否定されたのではなく、売春行為が問題視された)、野郎歌舞伎になった歴史を持っていますし、野郎歌舞伎になっても女形を中心に男色があったとされています。 なお、江戸時代初期の殉死の場合、主君と男色関係にあって出世した者(出頭人)は当然殉死するものと思われており、戦国時代であれば、最後まで主君を守って討ち死にすることが求められることになります。 「君主に男色の趣味があるのを知って、部下はドン引きしたりしなかったのでしょうか?」についてはそれが当然の趣味だったので、部下はドン引きすることはありませんでした。 「それは高貴な趣味?商人や農民にはない、武将の世界だけの趣味だったのでしょうか? 」日本における男色は女犯を禁じられた僧侶の間で古くから流行したとされており、武将だけの趣味ではありません。一般に戦場に女性を連れて行けないので、武士の間で流行ったとされていますが、前記のようにその他でもあります。 「こじれると余計にややこしいのでは・・」とありますが、こじれて殺人に至ることもありますし、敵方に逃亡されたりすることもあったようですが、男色関係がプラスに働いたことの方が圧倒的に多いようです。 「そこには恋愛関係は発生したのですか?」当然あります。西鶴の「男色大鑑」の中にも、一人の男を取り合った話が出てくるほどです。 男色は衆道、陰間などと呼ばれ武士、商人などの身分を問わず江戸時代には盛行しますが、江戸時代を通じて徐々に下火になり、明治を迎えると変態扱いされるようになっていきます。 以上、参考までに。

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 時代とは、常識の変化がすごいのですね。φ(..)

その他の回答 (4)

  • Free20
  • ベストアンサー率20% (25/123)
回答No.5

知っている限りを箇条書きで >そこには恋愛関係は発生したのですか? >こじれると余計にややこしいのでは No.2の方が記されているように、武田信玄が部下に宛てた恋文は有名です。 ですからこじれると、小姓同士が寵愛を競って喧嘩しただの、主君の寵愛が無くなって、 主君の新しい相手やひどい時には主君を殺しただの(痴情のもつれってやつです)、色々あります。 >同性愛者でなければ、そんな趣味のたしなみは行えないと考えるのですが 私たちの感覚ではそうですが、そういう風に教育されていたので、抵抗はなかったのでしょう。 ただ、戦国の世が遠のいて行くにつれ、あまりそういう教育はされなくなったようですが。 >君主に男色の趣味があるのを知って、部下はドン引きしたりしなかったのでしょうか? いえいえ、逆に男色の趣味がなくて、ドン引きされた武将がいますよ。豊臣秀吉です。 彼は、純粋な武家出身ではないため、「衆道」の教育は受けていませんでした。 天下人となってからの逸話ですが、全く男色に興味を示さなかった秀吉が、美少年の小姓のもとに 歩み寄りました。周りは、「とうとう殿下も武士のたしなみを受け入れられたか」と思ったのですが、 後から小姓を問いただすと、「『お前に姉はいるか?』と問われただけです」と答えました。 それを聞いて、他の小姓や部下たちは、ドン引きとはいかないまでも、溜息をついたそうです。 秀吉は無類の女好きと言われていますが、男性には全く興味がなかったようです。 >それは高貴な趣味?商人や農民にはない、武将の世界だけの趣味だったのでしょうか? 江戸前期頃まではそうだったと考えられます。庶民に広がり始めたきっかけの一つは、 「若衆歌舞伎」(だったかな?)が挙げられます。今で言う、女形のみ(女装)の歌舞伎です。 3代将軍徳川家光も、家督相続前にハマっていたという話があります。 (自らも女装したとかしないとか) ただ、これも時期によっては綱紀粛正のため、禁止されたりします。

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほどね~φ(..)

  • jamiru
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回答No.4

江戸時代の中心はどこでしたか? 江戸ですよね? 武士の町、江戸では盛んなのは想像に難くない。 ところで、貴方は地方へ行かれたことがあるでしょうか? 中央の流行は時間差で地方で流行るのです。 今はネットですぐに伝わりますが、江戸時代ではかなり時間差で流行ります。 ここで問題です。 倒幕派、明治維新で主導権を握ったのはどこの地方の人ですか? 今、話題の坂本竜馬はどこの人ですか? そこは都会でしたか?

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 戦国時代、京の都より、やっぱ江戸が中心ですか? 長州、薩摩に男色が多いと聞いたような・・・?定かではありませんが。 土佐は知りませんな。

  • k16399638
  • ベストアンサー率33% (342/1035)
回答No.3

漫談です。 男色は江戸時代でも大はやりです。武士は戦場に女を連れて行けない、という考えもあったのと、僧侶が女性と結婚できないという理由で、武士・僧侶の知識層が男色しています。 となると、下々の者もやってみたくなります。花街には必ず、美少年をおいていた陰間茶屋(かげまぢゃや)という専門店がありました。 朝鮮から江戸時代にやってきた使節団を接待した高級官僚(武士)も、なぜ男色にこうも寛大なのか、との質問に「このたしなみを知らないのは、もったいない」と応えています。 明治になっても、男色は珍しくないものでした。陸軍士官学校は開設当時、グラウンドをはさんで陸軍幼年学校と隣り合っていましたが、士官候補生が幼年学校に「稚児狩り(ちごがり)」と称して、男の子を襲いに行くのを止めるよう、度々通達が出ています。また、初期の士官学校・幼年学校では接吻、自慰行為の見せあいなどもあり、これらの風習は男子間のつながりが強い薩摩の人が持ち込んだ風習といわれます。士官学校内では「ショーネン」という隠語があり、これは美少年の下級生を指す言葉でした。 もちろん花街にはこの時代も陰間茶屋がありました。 日本の男色は、事実上アメリカ占領軍がくるまで、珍しくないものだったと言います。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.2

それはですねえ、あの武田信玄が家臣の高坂弾正に送ったラブレターが残っているのですよ。有名な手紙なんですけどね。 「他の男を口説いたのは確かだけど、腹が痛いって断られたんだ。彼とはヤッてないよお。本当だよ本当だからね、このことは大明神様、富士山、八幡様、諏訪神社にも誓うよお」 って内容です。 元々なんで男色が流行ったかというと、戦場に女を連れて行くわけにもいかないですからね。特に大将みたいな立場の人ですとね。おそらく売春婦はいたでしょうから、下々の兵卒はそういう女を買えばよかったでしょうが、将ともなるとそうもいかない。売春婦を装った暗殺者かもしれないですしね。 だから、身の回りの世話をする者が、シモの世話もしたってわけです。もちろんそういうのは若くて可愛い子が選ばれた訳でして。ゆえに、森蘭丸は美少年キャラなわけです。 #1さんも回答するように、江戸時代になると下火になっていきました。おそらく平和な時代になっていつでもどこでも(?)女が手に入るようになったからでしょう。明治時代になると鶏姦罪となんと犯罪になってしまいます。でもここで重要なのは、わざわざ法律で禁止するってことは、禁止しなきゃなんないほど数が多かったってことです。

kk71
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 授業で教えない日本の歴史は、摩訶不思議ですね( ∀ )

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