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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:戦国時代に詳しい方へ 家康はいつ秀吉を裏切った?)

戦国時代で家康が秀吉を裏切る時期とは?

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代の家康は秀吉の部下でしたが、いつ秀吉を裏切ったのでしょうか?勝負の時はいつ来たのでしょうか?また、家康が勝てると確信した成功率や勝率はどのぐらいだったのでしょうか?
  • 戦国時代の武将や殿様の考え方では、家臣がいつかは裏切ることを覚悟していました。家臣が裏切らないように教育するのも武将の努めであり、家臣が裏切ってもそれは武将の器量が足りなかったことであり、裏切り者というわけではありませんでした。戦国時代の考え方について詳しく知りたいです。
  • 徳川幕府300年が続いた時代も、一部の外様大名は徳川幕府に刃向うつ意識を持っていましたが、それが正しい考え方だったのでしょうか?現代の視点から見ても、そのような考え方は正当化されるべきでしょうか?戦国時代に詳しい方に教えていただきたいです。

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  • lv4u
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回答No.1

>>家康は秀吉の部下(と言っていいのかどうかわかりませんが)だったのに、 秀吉を裏切って戦いを挑んで勝ちました。 それは間違いでしょう。家康は秀吉が死んだ後に、豊臣側と対決したように年表には書かれていますから、秀吉を「裏切って」はいないと思います。 ただ、謀反を起こし絶対に勝利するチャンスをうかがっていたとは思いますけど。 >>もっといえば、徳川幕府300年が続いた時代も、一部の外様大名は「いざとなったら徳川幕府に刃向うつもり」という意識を隠さなかったようですが、それはそれであの時代は「正しい考え方」であったのでしょうか? 参勤交代という制度自体が、大名の財力を削ぎ、徳川幕府に歯向かう力をつけさせない為という目的もあったようですので、「正しい考え方」だと思います。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 秀吉が死んだ後に戦ったんですね。 >参勤交代という制度自体が、大名の財力を削ぎ、徳川幕府に歯向かう力をつけさせない為という目的もあったようですので、「正しい考え方」だと思います。 仰る通り、正しい考え方だったんですね。もっとも現代だって国会、地方議会の野党はいつだって政権逆転を狙っていますけどね。

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質問者

補足

いろいろな方にご回答いただきましたが、とりあえず第一回答なのでこれをベストアンサーといたします。

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その他の回答 (5)

  • eroero4649
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回答No.6

#4です。 >それは知りませんでした。Jリーグのサンフレッチェ広島がJリーグで優勝したので広島県民はちょっとは気が晴れたでしょうか?(あ、プロ野球の広島カープの優勝の方が先か) ノンノンノン。長州藩は今の山口県です。安倍首相にひっぱたかれますぜ・笑。 毛利家は、関ヶ原のときには120万石の領地を持っていました。ところが関ヶ原が終わって、西軍の総大将だからということで30万石に減らされてしまったのです。 本当は、毛利家は改易になるはずでした。経緯はこうです。毛利家の家臣に安国寺恵瓊という外交担当の坊さんがいて、この人が石田三成と非常に仲が良かったので毛利家を西軍の総大将にするように奔走しました。ところがこの安国寺恵瓊と非常に仲が悪い吉川広家という重臣も毛利家にはいたのです。この広家は家康に「すべては安国寺恵瓊が勝手にやったことです」と内通したのですね。関ヶ原の合戦のとき、毛利軍は家康の背後を突ける場所にいながら中立して動こうとはしませんでした。それはその場所に他ならぬ吉川広家がいたからです。 んで、合戦が終わったら家康は「広家ちゃん、君は内通して偉かったから周防・長門(山口県)の30万石をあげる。そして毛利家は総大将をやった不届者だから取り潰しじゃあ~!」といったのです。なんてこたない、広家はまんまと家康に騙されたのです。家康のほうが一枚も二枚も狡猾だったんですね。 広家は真っ青になって「私にはそれはいりませんから、代わりにその領土を毛利家の分にして、どうかどうか毛利家の取り潰しだけは勘弁してください」と頼みまして、まあ毛利家は朝廷にも顔が利いたのでその支援もあったおかげで取り潰しだけは逃れたのです。 そいでですね、毛利家は長州に行くにあたって、家臣のリストラをしなかったんですよ。全員連れて行ったんです。だけど、120万石分の家臣団を30万石で賄わないといけないわけですから、ものすごーーーく給料を削るしかなかったのです。そりゃそうですわね。 さらに、家康によって「殿様が住むところは萩にするように」と命令されたのです。萩というのはとてつもなく小さい町で、さらにお城はここと命じられた場所は川の中州にあたるところだったんです。中洲ってのは台風が来ると沈んじゃいますよね。そう、大雨が来たら城が流されそうな場所に無理やり住まわされたのです。 そりゃ、200年に渡って恨みつらみを持つのも当たり前だわなと思わざるを得ないですよね。すべては吉川広家が悪いんだけどさ・笑。 また江戸時代200年の歴史において、「江戸時代最後の反乱」がおきたのはいつだと思いますか? 実は関ヶ原の合戦から「37年後(豊臣秀頼が死んでから22年後)」に起きた「島原の乱」が江戸時代【最後】の反乱でした・笑。これ以降に徳川家に対する反乱事件というのは起きていないのです(由井正雪の乱というのがありますが、これは未遂事件で、果たして本当に由井正雪に決起する気があったのかどうかは議論されています)。 幕末に二度にわたる長州征伐というのがありますが、これは幕府が因縁をつけて長州藩に攻め込んだ戦いで、長州藩が反乱をしたわけではありません。 え、「大塩平八郎の乱」があるだろとなるでしょうが、実は大塩平八郎は幕府の役人で、世直しを目的とした決起でした。まあ乱は乱なんですけど、幕府転覆をもくろんだわけでもなんでもないんです。 なぜ徳川幕府打倒の反乱が起きなかったのかというと、要するに誰にも不満はなかったんです、徳川家の支配システムにね。だって、豊かで、平和で、(同じ時代の別の国に比べると)自由だったんですもの。 江戸や大坂のような大都市には、歌舞伎のような芝居小屋や落語、相撲といったような娯楽がありました。今ならコンサートにトークショーにプロスポーツ観戦です。吉原のような風俗産業も充実しています。浮世絵のような娯楽もありました。春画はいうまでもなくエロ本です。お伊勢参りが盛んで、「お伊勢参りに行く」というのであれば庶民も自由に行動できました。弥二さん喜多さんの東海道中膝栗毛が有名ですね。行くお金がない人は、東海道中膝栗毛を読んだり、浮世絵の東海道五十三次を見て疑似旅行を楽しむこともできました。 実は数学ブームもあって、解を得た人は各地にある数学神社にその公式を絵馬に書いて奉納したのです。それを見て数学自慢の人がそれが正しいかどうか競い合いました。 女性向けゴシップ雑誌もありました。この時代の「庶民階級の女」が文字を読めたというのは極めて珍しいのです。だって、現代のアフガニスタンの女性の識字率はたったの18%ですよ。おそらく現代のアフガニスタンの女性より江戸時代の日本人女性のほうが文字が読める人が多かったでしょう。 江戸では大火や地震、洪水などが起きることがありました。すると幕府は速やかに江戸城にある備蓄米を庶民に炊き出しをしたのです。どのくらい早いかというと、翌日にはもう炊き出しがされたほどです。18世紀頃に、災害で被災した庶民を政府が救済するというのはまずまれでした。 アメリカで大型台風「カトリーナ」がニューオリンズに大きな被害をもたらしましたが、ニューオリンズに対する救護活動が始まったのは何日もたってからでした。江戸幕府のほうがよっぽど迅速です。 また長くなってしまいましたが、反乱がおきなかった理由はよくお分かりいただけたかと思います。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 こりゃ確かに江戸生まれの江戸育ちの大名の子弟は江戸が大好きになりますわな。 「江戸ってアソビやすくて楽しい!」 ってね。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

いつごろ、家康は秀吉を裏切ったのでしょうか? ↓ 裏切っていない 理由その一 信長=秀吉 この関係は臣従関係 秀吉=家康 この関係には、朝廷において内大臣が関白に仕えるという意味合いが増えてきている。 関白が空位なのだから官職上の裏切りは理論的には出来ない 理由その二 嫡子・嫡孫に対する対応 信長=秀吉 関係よりも、 秀吉=家康 関係のほうが、厚遇している。 織田秀信 信長 700万石(日本の半分として) 正二位、右大臣 秀信 13万石 正三位 ※ 25歳で岐阜城陥落 豊臣秀頼 秀吉 1500万石(日本全体として) 従一位、関白 秀頼 65万石 正二位、右大臣 ※ 22歳で大坂城陥落 石高において 秀頼>秀信 官位において 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 秀吉=秀頼 はランク一つの差 信長=秀信 はランク二つの差

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 裏切ってないんですね。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11216/34839)
回答No.4

>家康は秀吉の部下(と言っていいのかどうかわかりませんが)だったのに、 >秀吉を裏切って戦いを挑んで勝ちました。 それは間違いです。家康は秀吉が死ぬまで秀吉に恭順する態度でした。死に際でボケボケになっちゃった秀吉が家康の手を握り「どうかどうか、秀頼のことを頼む」といい、家康もしれっと「お任せください」といっています。 秀吉の死後に関ヶ原の合戦が起きますが、これは徳川家康vs石田三成の戦いです。秀吉が死んで実質的に今でいうなら首相の座についた家康が、上杉景勝に「お前、最近武器とか集めてるらしいじゃねえか。ちょっと顔かせよ」といったことに対し上杉景勝は応じなかったため家康が景勝討伐の兵を起こし、家康が関東に行っている間に石田三成らが決起したのです。 歴史に疎い人にはちょっとややこしいのですが、決して家康と豊臣家が戦ったわけではないのです。これは、関ケ原の合戦の話ですけどね。 関ヶ原の合戦で石田三成らの反家康派が一掃されたので、家康は実力的に天下人となり、その実力を背景に征夷大将軍になったのです。これで名目も徳川家の天下になったんですね。 そして最後は例のお寺の鐘がどーだこーだと難癖をつけて大坂の陣を二回やって豊臣家は滅亡したのです。 >一部の外様大名は「いざとなったら徳川幕府に刃向うつもり」という意識を隠さなかったようですが 毛利家のことですよね。毎年正月の主君と重臣との挨拶は、重臣が「準備が整いましたので徳川打倒の下知をお出しください」といい、主君は「未だそのときに非ず。隠忍自重せよ」と返すというアレですよね。 でもこんなのをやってたのは毛利家だけです。なにしろ毛利家は関ヶ原のときうっかり西軍総大将を引き受けてしまったせいで、あやうく取り潰しになるのを2ヶ国だけ存続で許されたという経緯があるからです。 その他の藩にとっては、徳川幕府というのは恐怖以外の何物でもないです。徳川幕府は約「200年」続いた(300年ではないです)わけですが、その間に「取り潰された藩」というのは実は約200もあるんです。つまり、平均すれば毎年どこかの藩が1つ取り潰されていたのです。そのくらいバシバシ潰された。徳川幕府が始まった時にいた外様大名で、幕末まで生き残ったのは仙台伊達藩、上杉藩、前田藩、毛利藩、細川藩、島津藩などごくごく一部です。 前田藩のあるお殿様は、いつも鼻毛を伸ばしていたそうです。家臣が「みっともないから切ってください」といったら、「バカ、こうやっていつも鼻毛を伸ばしてたらバカ殿っぽく見えて幕府に警戒されないだろうが」と返されたそうです。ときにはこんな涙ぐましい努力までして幕府に目をつけられないようにしていたのです。 また江戸時代は徳川家の支配体制を強固にするために「武士は二君に仕えず」というような権力者にとって都合のいい価値観も広めました。儒教の一派に朱子学というのがあるのですが、これが徳川幕府御用達の公式学問となって日本中に広まりました。陽明学というのも朱子学の一派です。 朱子学の価値観のわかりやすい部分をひとつ挙げれば、「家臣は主君がどんなにバカでも従わなければならない」です。昭和の時代までは「会社の命令には絶対」みたいなのがありましたでしょ。あの思想のルーツは朱子学です。 でもまあ大坂の陣から赤穂浪士の討ち入り辺りまでは結構気骨のある武士のエピソードがあったりしたのですけどね。元禄バブル以降の武士は黒船が来るまでは単なる官僚と考えたほうがいいです。武士が「武士の武は武力の武だよね」というのを思い出させられたのは黒船来航によってです。大塩平八郎の乱のとき・・・というのは話が長すぎるので割愛。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >歴史に疎い人にはちょっとややこしいのですが、決して家康と豊臣家が戦ったわけではないのです。 歴史に疎いんで、信長、秀吉、家康の順に天下を取ったんだと思ってました。 >毛利家のことですよね。毎年正月の主君と重臣との挨拶は、重臣が「準備が整いましたので徳川打倒の下知をお出しください」といい、主君は「未だそのときに非ず。隠忍自重せよ」と返すというアレですよね。 それは知りませんでした。Jリーグのサンフレッチェ広島がJリーグで優勝したので広島県民はちょっとは気が晴れたでしょうか?(あ、プロ野球の広島カープの優勝の方が先か) >武士が「武士の武は武力の武だよね」というのを思い出させられたのは黒船来航によってです。大塩平八郎の乱のとき・・・というのは話が長すぎるので割愛。 面白い話があったらまたの機会にぜひお聞かせください。

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  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.3

s_endさん、こんにちは。 いつごろ、家康は秀吉を裏切ったのでしょうか? そうですね。秀吉がなくなった後でしょうか? いつ、「勝ち目がある」と思ったのでしょうか? 秀吉がなくなった時点で家臣団の分裂は明らかだったので、その一方を引き込めば、十分あり得ると思ったでしょう。 その時、どのぐらいの成功率、勝率だと思ったのでしょうか? 秀吉がなくなった時点で自分以外の武将に総合力を計算すると、自分に6分、ほかに4分位には見積もっていたでしょう。 あのころの武将、殿様というのは、たとえどんな時、どんな集団であっても 「家臣、部下はいつかは必ず自分を裏切るに違いない」 「家臣が裏切らないように教育するのも武将の努めてあるし、家臣が万一裏切って弓を引いてそれに負けたとしても、恥ずるべきは器量が足りなかった己であって、決して謀反を起こした家臣が”裏切り者、不忠者”というわけではない」 「たとえ今の主君に仕えていても、いつ裏切って謀反をしても決して人の道、武士の道にはずれたことではない。むしを下剋上や謀反を考えない方が武士、武将として誤った生き方である」 という考えの方が正しい考え方であったのでしょうか? 戦国時代といえば、いつどこでそういうことが起きるかも知れない状態でした。忠義や恩義というのは無論、このころもありましたが、大々的に広まるのは江戸時代になってからです。 もっといえば、徳川幕府300年が続いた時代も、一部の外様大名は「いざとなったら徳川幕府に刃向うつもり」という意識を隠さなかったようです・・・ 外様雄藩の何家かはそういうお話を聞いたことがあります。彼らからすれば、幕府というものは王道ではなく、覇道であり、だから衰えたところを自分がとってかわっても何ら不都合はないという考え方でしょう。 しかし、実際、自分たちも天下普請や参勤交代などを義務付けられて、領地との齟齬や大名の江戸在住に対する愛着心が起こり、そんなことができない状態に追い込まれました。 幕府が滅びたのは、外圧と幕府の度々行った財政改革の失敗により、自体の力が衰えたためです。 特に雄藩と呼ばれる大名のほうが財政問題に切実だったため、成功したのです。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そうですね。秀吉がなくなった後でしょうか? 秀吉が生きている間は天下取りを考えなかったんですね。 >秀吉がなくなった時点で家臣団の分裂は明らかだったので、その一方を引き込めば、十分あり得ると思ったでしょう。 秀吉は生きている間に自分の家臣を固めておくべきでしたね。 >戦国時代といえば、いつどこでそういうことが起きるかも知れない状態でした。忠義や恩義というのは無論、このころもありましたが、大々的に広まるのは江戸時代になってからです。 そういう事でしたか・・・ >しかし、実際、自分たちも天下普請や参勤交代などを義務付けられて、領地との齟齬や大名の江戸在住に対する愛着心が起こり、そんなことができない状態に追い込まれました。 江戸開幕から時代が経過するにつれ、大名の子弟も、その嫁さんもみんな「江戸生まれの江戸育ち」になりますからね。 ああ、なんか小渕優子前経済産業大臣を思い出してしまった・・・・ 小渕藩もおとり潰しでしょうか・・・・

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回答No.2

家康は秀吉の部下ではありません。 そもそも家康側視点では秀吉は同盟相手(織田信長)の家臣が成り上がったような感じです。 信長が謀反で死に、勝手に秀吉が信長の後継者を名乗っていたけど、家康側は信長の息子こそ後継者だと一度立ち上がったけど、秀吉と仲がよかった信長の家臣(前田利家など)が強すぎて大人しくするしかなかったのです。 秀吉が死に前田利家も死んでから豊臣家の力が急激に衰えてきます。 跡取りの秀頼はまだ子供です。 豊臣家臣には石田三成などがいましたが、家康と比べると完全力不足です。 また三成を嫌う家臣がかなり多かったのです。 家康自身天下を望まなくとも、周りが「家康を新しい天下人に」と望んでいたからこそでしょう。 外様大名対策として1の方がおっしゃるとおり「参勤交代」がありますが、上杉など徳川に強く歯向かったところはより荒れた地への転封などされました。 が、結局明治維新で活躍したのは外様藩ばかりですね。。。 東北の外様は逆に佐幕派でしたけど。 土地のせいかもしれませんね。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >家康は秀吉の部下ではありません。 そもそも家康側視点では秀吉は同盟相手(織田信長)の家臣が成り上がったような感じです。 家康は秀吉の部下じゃないんですね。 >上杉など徳川に強く歯向かったところはより荒れた地への転封などされました。 どこに飛ばされたんですか? 山形でしたっけ?

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