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きみはヨブを見たか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神はヨブが試されることを悪魔に許した。 ヨブは試された。 悪魔は困惑させられた。 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。 ヨブは言っております。 主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。 主の御名はほむべきかな。(1:21) と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これを哲学のことばで表わして欲しい。 いまわたしに思い浮かんだのは ○ 能天気 ○ 聖なる甘え ☆ このふたつです。 ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > でも 生まれつきの病いについてはどうかと思います。つまり なかなか分からないところがあります。神の栄光が現われるためですとか説明があるかも知れませんが その合理性としての理解には 困難をきわめるように思います。Hidocchi さんもすべて分かっておられて この主題を出されたのだとも思います。 はい、確かに愚生もそうでござます。 もしかしますと、例えば、野口英世(彼の左手のやけどは先天的ではございませんでしたが)の医学の進歩へのある種のエネルギー、また憲法学者小林節慶大教授(左手は先天的奇形があるようでございます)の将来に向けた憲法論議、さらには、子供・兄弟が先天的病を持ったが故に、科学・医学の前進にエネルギーを注いだ方達もおられるかと思っております。 「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが…………. > ☆ この試練は ヨブと同じようにだとわたしも思います。 《もっと大きな業を行うようになる》にも希望を持ちたいと思います。 愚生もかような希望を抱いている一人でございます。 > ☆ 録画しまして いまの時点で半分ほどを見ました。《コンプライアンス》は出て来ました。 これを《アマテラス語》の問題と受けとめました。 ほかの人の質問で このアマテラス規範語は 枡にあふれる米を掻き棒でそぎ落とすかのように 四角四面の枠に人を嵌め込むと捉えて投稿しました。 アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。 さらなる、ご意見賜れば、幸いでございます。 > そして この”神へのコンプライアンス”は われわれ人間にとってむつかしいと来ています。甘えてもいけないでしょうし もはや甘えるくらいに――エポケーをも経つつ――甘えきったかたちになるほかないようにも思えますし。 ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。 これは、ひとはひとえに誰もが最も知りたいところかと存じます。ですが、超難問ですし、その回答が正しいかどうかは、その時点ではわからい という難しさもあろうかと考えております ご意見賜りまして、厚くお礼申しあげます。
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- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 【不条理な感情の生成過程および自然との関係】 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2586/1/al-no57p083-094.pdf http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/handle/10140/2586 【機械翻訳における類語の処理】 http://wwwlc.cias.osakafu-u.ac.jp/staff/miyahata/kaz_class/04cmp_lng/04cl_PP/pp_ma/ma_index.html.html 【『日本敵討ち異相』=長谷川伸・著】 http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/11/20081130ddm015070002000c.html
お礼
ふうーう。ご回答をありがとうございます。 ★ アルベール・カミュの『異邦人』論:【不条理な感情の生成過程および〔作家と〕自然との関係】 ☆ これ どうなんでしょう? 文章はぶれずに しっかりとした歩みを刻んでいると思えます。 そうなんですが どうでしょう? わたしだけかも知れません。《太陽の光を浴びること》が生きる喜びであり 自然の享受だと言います。やがてこの調和がくずれてくる。享受できないようになる。太陽の熱気。それによる幻惑。うんぬんと。 《不条理》をあつかっているのだけれど このように解説されると きわめて明快に割り切れるかのように理解がすすむ。と見えるのですが。 見えるのですが わたくしには この《太陽の光を享受すること》が きわめて象徴的に取り上げられているのを聞くと そんなに日光が自然そのものだという感覚になるかなぁ?と思われてくるのですが どうでしょう? これは――つまり『異邦人』の世界は―― 理知的であると同時に どうも日常生活の内の世俗的な側面がほとんど起伏のないまま 描かれすすんで行っている。こう思えるのですが どうでしょう? 《不条理な感情》は 何だか初めから そういうふうに起きることが決められているとも映ります。その初めからの想定にもとづき 話がすすめられて行ったのだと映ります。 これは きちっとした『異邦人』論ではなく 今回そういうふうに感じたというものです。それだけなのですが そう思いました。 それとも ちがった見方をしめしてくれますか? どうでしょう? ここでの《自然》は 文字通り環境の自然ですね。
祈り? 分からん。。。。。。 ´
それとも願い? どっちもいいか。。。 ´
じゃあ希望? ´
そのものより出でて そのものに帰る 時 ´
人類は地球という限られた器のなかで自然という厳しくも慈悲ある”親”に育まれる。 今の人類はその親を殺しているようなもの。 親のすねをしゃぶる親殺し
お礼
という情況であり現状であるようですね。 わたしにも問題意識はありますが これを自己表現の中にどのくらい出して行くか。いまのところ かんばしくありません。 正直なところでした。
その中で人間の”聖なる甘え”としての自然界へのもたれ度が過剰になって生命の食物連鎖が崩壊し始めている。 個々の生命は生まれ死んでいく運命であるけれども 全体としては人類も組み込まれた生命体維持体として生命の永遠性を有していたが もたれ度が大きくなって生命体全体としてバランスが崩れ始めているということで命の永遠性が失われる可能性がある。 正確には人類という種が大量に淘汰される可能性が危惧される。 であるけれど 覚悟があれば ”能天気”でいられなくはない。 楽観主義がそのうちあわて始めるのかもしれないですが
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 自然環境論でしたら これは すでに経験科学によって相当程度処理できるだろうし 対処していかねばならないと思いますが どうでしょうか? まだ甘いですか? ★ 人間の”聖なる甘え”としての自然界へのもたれ度が過剰になって ☆ 単なる言葉使いだけのことですが いちおう次のように使おうとは思っていました。 《自然界へのもたれ》あるいはその《もたれ度の過剰》という事態になれば それは 《聖なる甘え》に黄信号が灯ることですから そのときには《聖なる》は《めざめた》という意味を帯びることになります。なるはずです。 このところと言いますか やはり自然環境の保護・維持はおおきな課題であるようですね。わたしの場合はいまのところ みなさんのみちびきについて行こうという魂胆でいますので 申し訳ないですが ほとんど何もよいご返事がかえせなくて わたしも困ってしまい弱ってしまいます。Hidocchi さんが専門家でいらっしゃいますよ。2012522 さんもご質問なさるとよいかも知れません。 こんな具合いでお茶をにごすかたちになりますが。・・・
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ★ つまり、“因果応報”的な考え方はしていない、ということでございます。 ☆ これはつくづく思います。 ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。 > ですが これは この経験世界における一つの方程式です。この方程式によって 生活やあるいはおのれの人格を律しているわけではないのだと思います。じっさい善行が報いられないという場合や事例を知っているわけですから。 愚生も、この方程式は存在しているかと考えております。ですが、用い方によっては、危険を孕んでいるとも考えております つまり、人間の”自由意志”における罪(現実世界では、”結果責任”と解した方がわかりやすいのかもしれません)も存在するかと思われますが、それとは異なる(or 超えた) ”何か”も存在していると考えております。さらに申し上げますと、(運命予定説の感も見られるかもしれませんが)人間理性の範疇を超えた”何か”でございます。かような”何か”の前では、「なんでもよい」と解すべきと考えております。もしそう解さなければ、人間は”検察家”集団(or 魔女狩り集団)になってしまうものと思われるから でございます。 > このほにゃららの部分が 案外大きな主題であるのかも知れません。 ひとえにわたしたちは 分かりたいのだと思います。しかも異言ではなく 預言すること・つまり解釈することが要請されています。でも分かりづらい。 以下の愚見は、bragelonne様のご叱責を賜ろうかと存じますが、意見を述べていきたいと思います。 この「要請されている」という考え方が、一種の”罠”になっていると思うのですが、いかがなものでしょうか? と申しますのも、”何か”が存在する信仰の世界では、「なんでもよい」と解すべきと考えているからでございます。 《能天気》と言うにしても けっきょく分かりたいのです。そう言うことによって それはそれとして割り切ってしまっておいて ほかの合理的に考え判断しうる問題に当たりたい。でもそのときにも 《ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ》と言って捉えたいというこの主題が つねに顔を出しているのかも分かりません。 意見を等しく致します。正直申しまして、かような発言をしている愚生自身も知りたがっているのは事実でございます。 > 《はからひ無き事 / 絶対他力》という言葉を用いれば いくらか分かったようにも思います。と同時に そういう場合にも思考やひとの努力をうっちゃってしまうということになってはいけないだろうと思います。 もちろん、対策・検証可能な事柄におきましては、努力は惜しむべきではないと思います。ですが、検証不可能なこと、例えば「天使の羽ははどのような形をしており、マリアの前に現れたか?」等でございます これらにつきましては、確認作業が不可能(たぶん不可能かと思われます)なため、これ以上の議論は危険かと思っております。 > ▲ 私が世界を創造したとき おまえはどこにいたか。 ☆ というヨブの《落ち》も どうなのでしょう? 「なんでもよかった」と申し上げたいところではございますが、ここでは、神の意思は明確かと思われます。従いまして、自律した自分の思うところを述べればそれでよかったのかと思われます。逆に”生きるのが辛い”と判断して、愚痴をこぼしてもよかったとも思っております。判断可能な場合におきましては、自律的に行動・発言すれば「なんでもよい」と思っております。 > ★ 「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。 ☆ しかもそういう問いは 聖書をひもとく人びとには 必ず持ちあがる疑問としてあるでしょうね。 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか? おそらく、聖書を紐解くひとたちには、疑問としてもたれると思われます。ですが、前途がどのようなのかは不明でございます。 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 《神の意志は いったいどうなっているのか?》 ★ おそらく、聖書を紐解くひとたちには、疑問としてもたれると思われます。ですが、前途がどのようなのかは不明でございます。 ☆ ご指摘のとおり きわめて《変な》ことを言ってしまいました。 ☆☆ 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか? ☆ これは 《いい意味でも あるいはひょっとして変な意味でも 前途洋洋なのか? しかも前途洋洋などと言っている場合ではないかも知れない》と少なくとも言おうとしたのだと思いますが これなら何も言わなかったほうがよかったです。申し訳ありません。 あぁ ひょっとすると 《〈いい意味で 前途洋洋〉と採っていれば 或る種の仕方で全体として 非思考のなぞにつながっているかも知れない》とは言えるでしょうか? もうひとつ わたしのへまです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ 異言ではなく 預言すること・つまり解釈することが要請されています。 ★ この「要請されている」という考え方が、一種の”罠”になっていると思うのですが、いかがなものでしょうか? と申しますのも、”何か”が存在する信仰の世界では、「なんでもよい」と解すべきと考えているからでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるとおりだと思います。《預言として解釈しうることがらについては》 異言がではなく預言が《要請されている》。こう述べるべきでした。そう捉えれば 《なんでもよい》と解したことがらについて いくらかは仕分けすることができるかも知れません。 パウロを参照してみておきます。 ▲ (コリント前書14:1-4) ~~~~~~~~~~~~ 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は〔* 見えない〕教会を造り上げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらにむつかしい主題です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・さらに申し上げますと、(運命予定説の感も見られるかもしれませんが)人間理性の範疇を超えた”何か”でございます。かような”何か”の前では、「なんでもよい」と解すべきと考えております。もしそう解さなければ、人間は”検察家”集団(or 魔女狩り集団)になってしまうものと思われるから でございます。 ☆☆ (No.8補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ (No.7でのやり取りの中から): こころのまどを捉えた時に そこから《垂直的〈非思考〉》が得られるはずだ。何もない。何もないのだけれど そのなぞが得られる。ここから ふと そのときそのつど直面している課題や問題を前にしてひらめきも得られることがある。これを《水平的思考》つまりふつうの経験合理性で理解しうる話に述べなおす。 こういう作業を重ねていくとよいと考えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらふたつの文章を合わせて考えるに ★ 愚生も、この方程式は存在しているかと考えております。ですが、用い方によっては、危険を孕んでいるとも考えております。 ☆ と確かになるようなのです。 こういうふうに考えられませんか? パウロの書簡は 共観福音書の解釈として預言である。たとえばアウグスティヌスの文章は パウロの解釈として預言である。しかもまだまだ 非思考にかんする言葉で述べられているところがある。それに時代も違えば民族性などからの生活習慣とその思考様式も違う。 これを できる範囲で現代語に解釈するという預言は 必要は必要だと見る見方も成り立つかも知れない。むつかしいでしょうか?
- juyjuy
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anima mundi は「人間の魂」 という意味にとれます。 あるいは「地上にいる生命」と訳せます。
お礼
juyjuy さん ご回答をありがとうございます。 えぇ なるほど。個人個人のたましいとの一体としてみれば ★ anima mundi は「人間の魂」 という意味にとれます。 ☆ となりますね。 ★ あるいは「地上にいる生命」と訳せます。 ☆ おとぎ話でご返答しましょうか。 ▲ (イザヤ書65:17-25) ~~~~~~~~ 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 初めからのことを思い起こす者はない。 それはだれの心にも上ることはない。 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。 わたしは創造する。 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。 わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。 わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。 彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。 彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。 狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、 蛇は塵を食べ物とし わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない、 と主は言われる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用ばかりで ちょっと愛想無しになってしまいましたが。・・・
また 観方を変えれば全体がもたれあいながら少しずつヨブ状態にあると観ることもできます。 他の死を以って自らの生を維持する 生物の多様性による食物連鎖などはそう観察され得ます。
補足
つづきですね。 何だか細かいところにこだわられて来ますね。今回は。 ★ もたれあい ☆ 《甘え》は そういう言わば負の甘えもいくらでもあるのですが 健全な甘えもあると言うのです。 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 甘えは 英訳すると dependence だそうです。ただし 親と子との あるいは母親と赤ん坊との一体感を言うとも言います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とにかく《自然なふるまい》を言う部分もあるようなのです。 たとえば次を参照なさってください。 ☆☆ (【Q:ひとは他人に甘えることができるか?】)~~~~~~~~ (趣旨説明)http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5632631.html (α) ひとは他人に《甘える》ことができるか? (β) できれば それが《愛》と言えるか? 次にしたがって 用語を確認してください。土井健郎:『《甘え》の構造』に拠っています。 (γ) 親子だけは無条件に他人ではない。 (δ) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。 (ε) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。 (ζ) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずるか あるいはそれと何らかのかかわりを持つ場合と考えられる。 (η) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明する。 (η‐1) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。 (η‐2) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。 (η‐3) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。 (θ) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。 (ι) つぎは(α)および(β)を判定するための説明文です。(第二章 《甘え》の世界) 親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく その 関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠 慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。 親子以外の人間関係は それが親しむを増すにつれ遠慮が減じ 疎 遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも ずい ぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場合は このような友人関係を指すのである。 要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。 それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も 望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ヨブは そう簡単には絡めることがむつかしいと感じます。だから 《聖なる》という条件をつけたのですが これもまだ哲学の表現ではないようです。《もろ手を挙げて / 無条件で / バカみたいに》というふうにも説明できるかも知れませんが どうもしゃれにでもなりますかね。 ★ 食物連鎖 ☆ は生存の条件としての相互依存のようですね。
補足
Hidocchi さん 今回は 依然としてお互い分かりあぐねていると思いますが 今回は それにもかかわらず 微笑みがこぼれます。のぞみがあります。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔生まれつきの病いについてはどうか〕――「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが…………. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほどですね。通俗的に言うとすると 切り替えが出来るかどうかでしょうか。――正直に申せば この場合わたしは 人間の志向性や努力をも 要因の一つに容れて考えていたかも知れません。今回は 思いつかなかったです。以前に そういうふうに捉えたことがあったかという記憶です。 でも おっしゃるように・そしてわたしもずっと考えていましたが まづ《自由》という答えがあるのがふつうだと思いますから。 ★ アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。 ☆ その通りですよね。似非アマテラス――アマテラスもどき。 アマテラス予備軍。 アマアガリ症候群に罹った人たち。 アマテラス語方言へと単独分立して行った場合。 そして 超アマテラス=スーパーアマテラス(すなわち 神のようにいかなるものの下にも立つまいと誓って ガリ勉資本主義もしくはガリ勉国家主義に走る人びと)。 話は逸れますが ユダヤ人の考え方として面白い解説を得ました。ちょっと 紹介してみます。 ▲ (内田樹:私家版・ユダヤ文化論) ~~~~~~~~~~ ユダヤ人は行動する自分を、見つめ 思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく 他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(《自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する》)と書いたのはヘーゲルではなかったか? ◆ (サルトル:ユダヤ人問題) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ユダヤ人はあらゆる種類の知識をむさぼるように吸収するが それを中立的な向学心と混同してはならない。というのは ユダヤ人は人間に関するあらゆる知識をかき集め 宇宙に対する人間的視座を獲得することによって 《人間》に 純粋な人間 普遍的な人間になろうとしてそうしているからだ。ユダヤ人が教養を身につけるのは 彼らのうちなるユダヤ人を破壊するためなのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて 《端的に人間的であること》を目指すのは 諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから ユダヤ人は《端的に人間的であろうとする》まさにそのみぶりによって 彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。 (pp.196-197) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ コスモポリタンという言葉もありましたが 面白い見方だと思います。でも 《日本人および人間》といったように或る種の仕方で 重層的であってよいでしょうか?