- ベストアンサー
聖母マリアの処女懐胎の話を直視すればどうでしょう?
- 神は人間の精神だと言う人にかぎってこのけがれなき身ごもりをあたかも信じているのではないでしょうか?
- 母マリアは遠くダヰデの血筋に連なる男であるヨセフとの性交によって子イエスをもうけたがそれは同時に神なる聖霊によって身ごもったというかたちです 物語のうえでは 後者のキリストにかんする側面が いわゆる処女懐胎です 人格と神格の両方の側面が 同時に一体として あります
- 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ( a )、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた( b )のです。 この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
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現実から宗教誕生の成り立ちを考察すれば、マリアとは、ユダヤ民族によって強姦された娘です。 そういう娘たちは数知れず存在し、差別によって生涯を迫害されて終わっていました。 いわゆる一神教の歴史とは差別の歴史であり、理想として「博愛」「平等」を謳います。 後の世界ではカトリックとプロテスタントが殺戮し合い、自由を求めた新世界(アメリカ)は、 奴隷による綿花農耕で栄えます。 マリアとは、差別され続けたユダヤ以外の民族の叫びであり、歴史の必然でした。 質問者さんは宗派の細かい設定に疑問を持っているようですが、 大局的な視野でキリスト教とはなんなのかを眺めなおしてみたほうがいいように感じます。 聖書も「例え話の講話」ですから。
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先ほどは二重投稿のようになってしまい失礼しました。 大体のクリスチャンは聖書を誤解しています。 それは、パウロなどイエスキリスト以外の人の言葉に飛びついているからです。イエスキリスト以外の人は悟っていないと考えた方がいいのです。 『一番大事なのはイエスキリストの言葉なのです。』 また、聖書だけで悟ることは非常に難しいです。仏典や他の真理の書を読んで真理全体を解き明かすことが最もだいじなことだと思います。 真理は仏教でもキリスト教でも同じなのです。
お礼
能書きは要りません。お茶を濁すだけの回答も ここまで来れば 意味がありません。 まづはご回答をありがとうございます。 ですが ★ 信じて ☆ これをつけ加えただけではないですか。 《人間の意志によって》か それとも《神によって》か きちんと心に納得の行くように思い直してみてください。 イエスの言葉を記しているのは 地の文をも書いている同じ聖書記者である。そんな子どもじみた話を出すもんぢゃありません。 今後 同じようにお茶を濁すだけの投稿ならば テキトーにあしらうことにします。
>>《人間の意志によってではなく 神によって生まれた人びとは そ >>の神の聖霊ないし愛のチカラによって 律法の中身をも実質的に満た >>すようになる》とイエス・キリストは説いたのです。まちがってはい >>けません。 それはとんでもない勘違いというものです。 普通の人間がこの世に生まれる理由は『血と肉の欲と血筋』によって生まれます。 神の戒め・神のことばを守ることによって『神によって生まれる』ことになるのです。『律法の中身を満たすようになる』とは神の真理を知り、それを信じることです。それを信じることができれば自然と律法を満たすことができるようになるという意味です。真理を知ることが第一だといっているのです。 これを知らないと神の戒めを守ることが難しいからです。 しかし、律法は守らなくてはいけません。もし、そうでなければイエスキリストが何度も律法を守れとはいわないでしょう。 真理とは何か。これが理解できたとき、律法は後から自然とついてくるという意味です。真理とは何かは前に何度もいったのでやめときます。 【まず、神の真理を理解し、それを信じ、神の戒めを守り、神のことばを守る。】 【これができたとき、『神によって生まれる』ことができるのです。】 >>《人間の意志によってではなく 神によって生まれた人びとは そ >>の神の聖霊ないし愛のチカラによって 律法の中身をも実質的に満た >>すようになる》とイエス・キリストは説いたのです。まちがってはい >>けません。 それはとんでもない勘違いというものです。 普通の人間がこの世に生まれる理由は『血と肉の欲と血筋』によって生まれます。 神の戒め・神のことばを守ることによって『神によって生まれる』ことになるのです。『律法の中身を満たすようになる』とは神の真理を知り、それを信じることです。それを信じることができれば自然と律法を満たすことができるようになるという意味です。真理を知ることが第一だといっているのです。 これを知らないと神の戒めを守ることが難しいからです。 しかし、律法は守らなくてはいけません。もし、そうでなければイエスキリストが何度も律法を守れとはいわないでしょう。 真理とは何か。これが理解できたとき、律法は後から自然とついてくるという意味です。真理とは何かは前に何度もいったのでやめときます。 【まず、神の真理を理解し、それを信じ、神の戒めを守り、神のことばを守る。】 【これができたとき、『神によって生まれる』ことができるのです。】 確かに聖書記者ヨハネの言葉も大事です。 しかし、一番大事なのはイエスキリストの言葉だと思わなければなりません。
お礼
No.24お礼欄を見られたし。
>>今回もうかがったかぎりでは >> ○ 《人間の意志によって〔そのおしえを理解して〕》ということに >>なると思います。〔《人間の意志によってでもなく 神によってうまれ >>た》(ヨハネ福音1:13)に対して〕矛盾ではないですか? >>が問題であるようです。 イエスキリストは神によって生まれたといっていますよ。 イエスキリストは人間界に人間の意志で生まれたのではありません。 なぜなら、人間が人間として生まれる場合は『性欲』が必要だからです。 イエスキリストは天使(神の子)ですから、そのまま人間として生まれることはできません。性欲という汚れを持っていないからです。 だから、『処女懐妊』という形でしか生まれることができないのです。 >> ★ 矛盾はありませんよ。文字や言葉によって人間の理解で分かる >>ように説いているのです。決して霊感のある人のみ分かるわけではあ >>りません。 >> ☆ つまり >> ★ 文字や言葉によって人間の理解で分かるように説いているのです。 >> ☆ は そのとおりであるかどうかを別として ただそのように文 >>章が書かれているということを言うのみです。問題は別です。 >> つまりもしそこで・そのようにしてのみ《分かった》から《神の子 >>として生まれた》というのであれば それは 矛盾です。《人間の〔理 >>解するという能力とその〕意志によって生まれた》ことになるからです。 《神の子として生まれた》とは誰のことですかイエスキリストのことですか? どうも何がおっしゃりたいのかよく分かりません。 私がいうのは、イエスキリストがどのようにして生まれたのかという話ではないですよ。 イエスキリストが人々に分かりやすく真理を説いているという意味ですよ。霊感がなくても分かるようにね。 もし神の子として神の国に生まれたいのであれば、『神の戒めと神のことば』を守らなければなりません。もし、それが守れたら、誰でも神の国に生まれることができる。とイエスキリストは誰にでも分かりやすく話しているのではないですか? >> * すなわちここで言う《肉》は 《身と心 身体と精神》の全 >>体を言うはずです。 >>神格は 特に分かりやすいこととしては《真理》ゆえです。なぜなら >>経験世界における事実と人間の真実といった全体としての現実を超え >>ているからです。その意味での《真理》は 人間には分からない。 それは違います。肉の欲望と真理と混同してはいけません。 肉体はこの世に出現するためだけの乗り物に過ぎないのです。 その真理をイエスキリストが分かりやすく説明したものが新約聖書です。 もし、現実を超えているものが人間に分からないなら、イエスキリストは新約聖書を説かなかったでしょう。 前にも言いましたが『人間には分からない。』というように、真理を分からない世界に持っていくのはやめた方がいいです。 あなたは新約聖書をお読みになっても『真理』が分からなかったのですか? >>★ イエスキリストの『道・真理・命』を受け入れた者は永遠の命を >>獲得できる >> ☆ というコトの内実です。《獲得する》ときの根拠がどうなってい >>るかですもし >> ★ 《受け容れた》 >> ☆ ことによってのみ神の子として生まれるというのであれば そ >>れは《人間の意志〔による努力〕によって生まれた》ということにな >>ります。 >> 《受け容れる》という人間の意志とそれによる行為そのものによっ >>てではないと聖書記者ヨハネは言っています。たとえいくら >> ▲ 『心を尽くして』『思いを尽くして』『知力を尽くして』 >> ☆ キリストイエスを受け容れたとしても その《人間の意志によ >>るところ》のみでは 神の子として生まれることはありません。 >> したがって何ら説明にはなっていない。冒頭に触れた矛盾は 成り>>立っています。こう見ます。 どうも意味不明ですね。 イエスキリストがこの世に生まれたことをいっているのですか? 私はイエスキリストの真理によって人間が神の国に生まれることをいっているのですが。 イエスキリストを受け入れるとはどういう意味ですか? ********************************************** 『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』 (新約聖書) ********************************************** イエスキリストを受け入れるとはこの二つの戒めを守ることです。 律法全体とはすべての戒めがこの二つの戒めにかかっているとは、もし、この二つの戒めを完全に守ることができれば、例外なく神の国に生まれることができるでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.20お礼欄) ~~~~ ▲(ヨハネ福音 1章) ~~~~~ 12節: しかし、ことば〔* すなわち キリスト〕は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 [13の別訳]:この人びとは 血筋〔* つまり 生まれ〕によってではなく 肉の意志〔* つまり 感情〕によってではなく 人間の意志によってではなく 神によって生まれたのである。 ~~~~~~~~~~~ ☆ と書いてあります。もし ★ イエスキリストは人々に何を伝えたいのかが分かっていただけたと思います。イエスキリストは人間に分かるように説いているのです。 ☆ というふうに《おしえ》によって神の子として〔かれを受け容れる人びとが〕生まれたというのであれば それは おそらく《人間の意志によって〔そのおしえを理解して〕》ということになると思います。矛盾ではないですか? ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《おしえを理解することによって》が《人間の意志によって》という範囲に含まれるのと同じように 次のような《律法を守ることによって》というのもそうであり それは神の子として生まれるその仕方とはやはり違うという意味です。 《人間の意志によってではなく 神によって生まれた人びとは その神の聖霊ないし愛のチカラによって 律法の中身をも実質的に満たすようになる》とイエス・キリストは説いたのです。まちがってはいけません。 ★ もし、この二つの戒めを完全に守ることができれば、例外なく神の国に生まれることができるでしょう。 ☆ 実際問題として《戒め》ないし律法を守りきる人は いません。 がそれは別としても 《戒めを守ることによって神の国に生まれる》いうことは これをそのまま受け取れば 《人間の意志によって 〔キリストの名を受け容れた人びとがそうなるというところの〕神の子として生まれた》という意味になります。 けれども聖書記者ヨハネは そうではなく《人間の意志によってではなく 神によって生まれた》と言っているのです。 聖霊のたすけがなければ 出来ないと言っているのです。《真理》についても同じくです。それを人間のことばで説明することは ただの仮りの説明です。その人間の言葉じたいが 真理ではありません。もしそうなら 街の到るところに真理がうぢゃうぢゃしていましょう。聖書のくだりを声を出して読んだら そこら中に真理が分かったというだけではなく 真理が街を歩いていることになりましょう。 キリスト・イエスが神の子であるという問題ではありません。別です。人びとが神の子として生まれたというその問題です。はぐらかしは 無しにしましょう。 ★ あなたは新約聖書をお読みになっても『真理』が分からなかったのですか? ☆ 読めば分かるというのは 《読むという・また理解しようとする人間の意志によって 神の子として生まれた》ことを意味します。そうではないと書かれているのです。 ようく目を開けて 何度も読み返してみてください。いまはこの一点の問題にしぼっていいでしょう。 ヒントは バプテスマの問題です。つまり聖霊によるバプテスマ。これがなければ 信仰は得られないでしょうし 神の子として生まれることもかなわない。こういう意味です。 聖霊は 神です。神が 肉の目にも心の目に科学の目にも ほんとうには見えません。仮りの説明をとおして予感することにおいてやっと 主観においては 分かったとなるのです。 モーセは律法を示しましたが キリスト・イエスは 真理と恩恵をも示しました。恩恵のうえに恩恵をも。 それは 聖霊のほかにはありません。 あなたのように唯物志向の人にはなかなか分かりづらいでしょう。 ★ イエスキリストは天使(神の子)ですから、 ☆ くだらない解釈は ただちに捨てなさい。
>> ★ ~~~ >> しかし、この世界は空(夢)であり、一切は神のことばで造られた >>映像であるという唯心論が真実であれば、死とは夢が覚めることであ >>り、死後の世界は夢の覚めた世界(霊界)であり、善なる者の次の夢 >>は天国の夢になり、極悪非道の者の次の夢は地獄の夢であり、一切は >>神の夢であるから、神は存在することになるのです。 >> ~~~~~ >> ☆ だから どうだというのでしょう? 聖書のどこを読むとそん >>なことが書いてありますか? イエス・キリストとは何の関係もない >>ことではないですか。 前にも書いたけどもう一度書きます。 ********************************************** 『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって、造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』 (ヨハネの福音書) ********************************************** 神はことばなのです。 この世の一切は催眠術のように神のことばで造られた映像なのです。 死ぬということは、夢が覚めるということです。夢が覚めれば神の国にいなくてはなりません。しかし、肉の欲望によって再び人間の世界に、または、地獄の世界の夢に変わるのです。 ********************************************** 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない。とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。》 (新約聖書) ********************************************** 『水と御霊によって生まれる』とは『水は悔い改め』『御霊は神のことば、神の戒めを守ること』このようにして神の国に生まれることができるという意味です。 『風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。』 人間は今世のことは分かるが、前世は何処にいたのか、来世は何処に行くのかを知らない。という意味です。 >> ★ ~~~~ >> だから、イエスキリストは次の夢は苦しみの多いこの人間世界に再 >>び生まれないように、今の中に『神の戒め、神のことば』を守って、 >>永遠の寿命である苦しみのない天界の夢を見なさい。といっているの >>です。 >> その方法が新約聖書に述べられているのです。 >> ~~~~~~ >> ☆ 一文だけでいいですから 聖句を示してください。 >> いちばん大事なところをです。 これも前に書きました。 ********************************************** 「尊い先生、永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか。」イエスは彼らに言われた。 《なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』》 (新約聖書) ********************************************** ここに書かれてあるとおり、神の戒めを守らなければ、神の国に生まれることはできないのです。 >> そうですね。これだけでは つまらない思いをなさいましょうから >> 質問をしておきましょう。 >> ▲(ヨハネ福音 1章) ~~~ >> 12節: しかし、ことば〔* すなわち キリスト〕は、自分を受 >>け入れた人、そ >> 13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、 >>人の欲によっ >> [13の別訳]:この人びとは 血筋〔* つまり 生まれ〕によってで >>はなく 肉の >> ~~~~~~~~~~~ >> ☆ と書いてあります。もし >> ★ イエスキリストは人々に何を伝えたいのかが分かっていただけ >>たと思います。 >>イエスキリストは人間に分かるように説いているのです。 >> ☆ というふうに《おしえ》によって神の子として〔かれを受け容 >>れる人びとが〕生まれたというのであれば それは おそらく《人間 >>の意志によって〔そのおしえを理解して〕》ということになると思いま >>す。矛盾ではないですか? その通りですよ。矛盾はありませんよ。文字や言葉によって人間の理解で分かるように説いているのです。決して霊感のある人のみ分かるわけではありません。 イエスキリストを受け入れるとは。 イエスキリストは『私は道であり、真理であり、命である』といいましたよね。これはイエスキリストの肉体のことではないのです。 前にも言いましたように『肉体の欲望(性欲・食欲・金銭欲)によって、生まれるなら人間の世界に生まれてしまう』『肉によって生まれた者は肉です。』 だからイエスキリストの『道・真理・命』を受け入れた者は永遠の命を獲得できる。ということです。永遠の命とは神の国の寿命のことです。 ********************************************** 『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』 (新約聖書) ********************************************** ここに書かれているように、微細なところも見逃さず、 『心を尽くして』『思いを尽くして』『知力を尽くして』 聖書を読まなければいけないのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 今回もうかがったかぎりでは ○ 《人間の意志によって〔そのおしえを理解して〕》ということになると思います。〔《人間の意志によってでもなく 神によってうまれた》(ヨハネ福音1:13)に対して〕矛盾ではないですか? が問題であるようです。 ★ 矛盾はありませんよ。文字や言葉によって人間の理解で分かるように説いているのです。決して霊感のある人のみ分かるわけではありません。 ☆ つまり ★ 文字や言葉によって人間の理解で分かるように説いているのです。 ☆ は そのとおりであるかどうかを別として ただそのように文章が書かれているということを言うのみです。問題は別です。 つまりもしそこで・そのようにしてのみ《分かった》から《神の子として生まれた》というのであれば それは 矛盾です。《人間の〔理解するという能力とその〕意志によって生まれた》ことになるからです。 ★ ~~~~ イエスキリストを受け入れるとは。 イエスキリストは『私は道であり、真理であり、命である』といいましたよね。これはイエスキリストの肉体のことではないのです。 ~~~~~ ☆ 人格と神格 両方を一体のこととして言っていると見ますが それは措いておきます。 * すなわちここで言う《肉》は 《身と心 身体と精神》の全体を 言うはずです。 神格は 特に分かりやすいこととしては《真理》ゆえです。なぜ なら 経験世界における事実と人間の真実といった全体としての現 実を超えているからです。その意味での《真理》は 人間には分か らない。 ★ 前にも言いましたように『肉体の欲望(性欲・食欲・金銭欲)によって、生まれるなら人間の世界に生まれてしまう』『肉によって生まれた者は肉です。』 ☆ これは 聖霊なる神をこの肉(つまり身体および精神)がやどさないとは言っていないはずです。それは措くとして。 ★ だからイエスキリストの『道・真理・命』を受け入れた者は永遠の命を獲得できる。ということです。永遠の命とは神の国の寿命のことです。 ☆ 《永遠の命》とは何か? これもいまは措きます。ただしヨハネ第一章の《神の子として生まれた》とは重なると捉えます。 そこで問題は ★ イエスキリストの『道・真理・命』を受け入れた者は永遠の命を獲得できる ☆ というコトの内実です。《獲得する》ときの根拠がどうなっているかです。 もし ★ 《受け容れた》 ☆ ことによってのみ神の子として生まれるというのであれば それは《人間の意志〔による努力〕によって生まれた》ということになります。 《受け容れる》という人間の意志とそれによる行為そのものによってではないと 聖書記者ヨハネは言っています。たとえいくら ▲ 『心を尽くして』『思いを尽くして』『知力を尽くして』 ☆ キリストイエスを受け容れたとしても その《人間の意志によるところ》のみでは 神の子として生まれることはありません。 したがって何ら説明にはなっていない。冒頭に触れた矛盾は 成り立っています。こう見ます。
>> ★ この世界が実在であるという唯物論では聖書を理解することは >>できませんよ。といっているのです。 >> ☆ では 理解しえたその像を 仮りのかたちででも構いませんか >>ら 示してください。それを理解して 対応します。 一般にビッグバンによって、宇宙ができ、地球ができ、単細胞生物が進化して、人間になった。自分は自然に出来た肉体であり、心は脳にあり、脳の電気信号が思考である。という唯物論に立って考えた場合。 この唯物論的な考えが真実であれば、死後の世界も天国も地獄もありません。また、神もいないし、イエスキリストの神のことばもまったく意味をなさないたわごとになります。 しかし、この世界は空(夢)であり、一切は神のことばで造られた映像であるという唯心論が真実であれば、死とは夢が覚めることであり、死後の世界は夢の覚めた世界(霊界)であり、善なる者の次の夢は天国の夢になり、極悪非道の者の次の夢は地獄の夢であり、一切は神の夢であるから、神は存在することになるのです。 >> ★ この世界は実在の世界ではなく、神のことばで造られた映像の >>世界であるという大真理の立場から考えるとき初めて聖書の意味が分 >>かるという意味です。 >> ☆ では いまこのように述べている つきほしさんの日本語とし >>ての言葉とたとえばわたしが使っている言葉と いったいどのように >>互いに違っているのでしょう? どう《実在の世界ではない》のでし >>ょう? この世界は実在の世界ではなく、夢の世界だということが大きな違いです。たとえば『あなたが裁くようにあなたも裁かれます。』というのは因果応報の法則も、この世界が実在の世界なら、絶対に起きなく、それはただの偶然だということになります。 このように、イエスキリストの言葉を一切理解できないことになるということです。 >> ★ 神のことばで造られた >> ☆ というところからして すでにその中身は雲をつかむような話 >>です。《理解しえた》のなら その内容をしっかりと示してください。 >> 示せないのなら ただ《言うだけ》――湯うだけ――で味噌汁には >>なりません。 雲をつかむような話ではありません。あなたは夢を見たことがありませんか?目が覚めたとき、夢の世界ができるのに人間の進化など必要なく、ただ一瞬にして夢の世界にいたことに気付いたのではないですか? たとえ夢の中で死んでも、この世で目覚めるだけでしょう。 だから、イエスキリストは次の夢は苦しみの多いこの人間世界に再び生まれないように、今の中に『神の戒め、神のことば』を守って、永遠の寿命である苦しみのない天界の夢を見なさい。といっているのです。 その方法が新約聖書に述べられているのです。 >> ★ 聖書は人間の理解を超えたものである。といった説明で煙に巻 >>くのは止めた方がいいです。イエスキリストは人間に分かるように説 >>いているということです。 >> ☆ というその結果 どういう理解が得られていましょうか? 早 >>くうかがいたいものです。 今まで、書いたことを読んでいただければ、聖書に何が書いてあるのか。 イエスキリストは人々に何を伝えたいのかが分かっていただけたと思います。イエスキリストは人間に分かるように説いているのです。 ただ、唯物論という原罪の目で読むときはまったく意味不明になるのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ しかし、この世界は空(夢)であり、一切は神のことばで造られた映像であるという唯心論が真実であれば、死とは夢が覚めることであり、死後の世界は夢の覚めた世界(霊界)であり、善なる者の次の夢は天国の夢になり、極悪非道の者の次の夢は地獄の夢であり、一切は神の夢であるから、神は存在することになるのです。 ~~~~~ ☆ だから どうだというのでしょう? 聖書のどこを読むとそんなことが書いてありますか? イエス・キリストとは何の関係もないことではないですか。 ★ ~~~~ だから、イエスキリストは次の夢は苦しみの多いこの人間世界に再び生まれないように、今の中に『神の戒め、神のことば』を守って、永遠の寿命である苦しみのない天界の夢を見なさい。といっているのです。 その方法が新約聖書に述べられているのです。 ~~~~~~ ☆ 一文だけでいいですから 聖句を示してください。 いちばん大事なところをです。 そうですね。これだけでは つまらない思いをなさいましょうから 質問をしておきましょう。 ▲(ヨハネ福音 1章) ~~~ 12節: しかし、ことば〔* すなわち キリスト〕は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 [13の別訳]:この人びとは 血筋〔* つまり 生まれ〕によってではなく 肉の意志〔* つまり 感情〕によってではなく 人間の意志によってではなく 神によって生まれたのである。 ~~~~~~~~~~~ ☆ と書いてあります。もし ★ イエスキリストは人々に何を伝えたいのかが分かっていただけたと思います。イエスキリストは人間に分かるように説いているのです。 ☆ というふうに《おしえ》によって神の子として〔かれを受け容れる人びとが〕生まれたというのであれば それは おそらく《人間の意志によって〔そのおしえを理解して〕》ということになると思います。矛盾ではないですか?
>> ( a ) >> ★ 物事を唯物論に立って考える以上、聖書の意味の理解は不可能 >>と言っているのです。 >> ★ この意味が分からないと、唯物論に立って聖書を理解しなけれ >>ばなりません。それは不可能です。 >> ( b ) >> ★ 今までのあなたの意見を総合的に判断すると、聖書を人間の理 >>解できない煙の中に導いて、真理をうやむやにし、煙に巻こうとして >>いるように見えます。 >> これら( a )( b )二つの命題(つまり わたしの文章についての >> つきほしさ >>すべて《文字》に気を取られ その範囲でだがよいと思った聖書のく >>だりをうまく用いて作文をする。こんな話はありません。 この世界が実在であるという唯物論では聖書を理解することはできませんよ。といっているのです。 この世界は実在の世界ではなく、神のことばで造られた映像の世界であるという大真理の立場から考えるとき初めて聖書の意味が分かるという意味です。 聖書は人間の理解を超えたものである。といった説明で煙に巻くのは止めた方がいいです。イエスキリストは人間に分かるように説いているということです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ この世界が実在であるという唯物論では聖書を理解することはできませんよ。といっているのです。 ☆ では 理解しえたその像を 仮りのかたちででも構いませんから 示してください。それを理解して 対応します。 ★ この世界は実在の世界ではなく、神のことばで造られた映像の世界であるという大真理の立場から考えるとき初めて聖書の意味が分かるという意味です。 ☆ では いまこのように述べている つきほしさんの日本語としての言葉とたとえばわたしが使っている言葉と いったいどのように互いに違っているのでしょう? どう《実在の世界ではない》のでしょう? ★ 神のことばで造られた ☆ というところからして すでにその中身は雲をつかむような話です。《理解しえた》のなら その内容をしっかりと示してください。 示せないのなら ただ《言うだけ》――湯うだけ――で味噌汁にはなりません。 ★ 聖書は人間の理解を超えたものである。といった説明で煙に巻くのは止めた方がいいです。イエスキリストは人間に分かるように説いているということです。 ☆ というその結果 どういう理解が得られていましょうか? 早くうかがいたいものです。
- alwen25
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> ただの《文字》ぢゃないですか? あるいはまた ( a )の《人間イエスの妊娠と出産》という経験事象の側面とそして( b )の《神なる聖霊による身ごもり》つまりはそれとして《処女懐胎》とを まぜこぜにしてその文字は述べている。ということでしょう。 それくらいは読み取ってください。 聖書には、確かに「右の目が罪を犯させるならえぐりだせ」などの実行が難しい箇所はありますが、聖書は救いのためのものであり文学作品ではありません。日本人の悪い癖だと思うのですが、聖書を読むときは行間を読むことをしてはなりません。直接書いてある言葉と解説だけを信じてください。 ルカによる福音書の当該箇所は、信じるのがそれほど困難とも思えません。日本国憲法で思想、良心の自由が認められているので信じないのは勝手ですが。 私は、回答のつもりで書いているのですが、回答ではないと判断した場合通報するボタンがありますので それを利用してください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 今回は ご回答であるようです。説明がなく不親切なものですが 質問にまともに向き合っていると思います。 ★ ~~~ 直接書いてある言葉と解説だけを信じてください。 ルカによる福音書の当該箇所は、信じるのがそれほど困難とも思えません。 ~~~~~ ☆ まづその箇所を再掲しておきます。 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ つまり こういうことでしょうか? ▲ (1:36) ~~~~~ 「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」 ▲ (1:37) ~~~~ 神にできないことは何一つない。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ゆえに 《処女懐胎》が 事実だというご主張でしょうか? ▲ 文字はころし 霊は生かす。 ただの《文字》ぢゃないですか? あるいはまた ( a )の《人間イエスの妊娠と出産》という経験事象の側面とそして( b )の《神なる聖霊による身ごもり》つまりはそれとして《処女懐胎》とを まぜこぜにしてその文字は述べている。ということでしょう。 それくらいは読み取ってください。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 別の角度から考えてみましょう。 このくだりにしろどこにしろ 聖書は 物語としてイエスの生涯が終わってから書かれています。つまりあとで知ったこと・分かるようになったことを すでにイエスの生前のそのつどの時点においても 織り込んで書いています。 たとえばペテロは――という意味は 弟子たちすべての人は という意味で言うのですが―― イエスが十字架上に去って行ったあと やっとと言いましょうか 物語上《復活した》イエスに出会ってそこで初めて 人間イエスは 神の子キリストであったと〔それは生前イエスが言っていたこととしても〕さとった。のです。 ペテロは分からないから 祭司長のところへイエスが連れて行かれたとき その先生であるイエスを否定したのです。 あるいは イエスが去って行かなければ パラクレートなる聖霊は弟子たちや人びとに送られて来ないのです。 ぎゃくに言えば 十字架上に去り墓の中からも消えたあと 弟子たちの心によみがえって来たとき ようやく神の子キリストであるイエスが分かったのです。それをもとに・その知識をすでに使ってイエスの生涯を思い起こし認識し直したうえで 聖書というイエス物語が書かれています。 ですから もしこのイエスの死後に聖霊が降って来ていない時点での出来事は すべて 人びとは《イエスが神の子キリストである》とは分からなかった。 つまり イエスは はっきりと言っていたかも知れません。それでも 誰も分かる人はいなかった。おそらく《言葉では》そのように言っていたかも知れませんが それでも分からなかった。 といった全体としての事情のもとに たとえばマリアに対する天使による受胎告知の話がある。こう考えるべきでしょう。 仮りにまったくその書かれたとおりの事態が起きたとしましょう。それでも おそらくその言葉の意味は マリアにしてもその周りの人びとにしても 誰もキリストのことは分からなかった。そもそも キリストないしメシアは イスラエルの王のことを言うのですから その程度にしかイエスについてその正体は 分からなかったでしょう。 そういう意味で ★ 直接書いてある言葉と解説だけを信じてください。 ☆ という指導には従い得ません。どうでしょう?
補足について。 >> 次の二つの命題は 互いに矛盾しています。 >> ★( a ) ~~~~~~~ >> エホバの聖人が世界に何万人いますか? >> 彼らが『まれな存在』と言えますか? >> ★( b ) ~~~~~~~~ >> 『寄らば大樹(団体)の陰』という言葉がありますが、真理に関す >>ることは、その真逆が正しいのです。大樹は『滅びに至る門』に向か >>っているのです。 >> ~~~~~~~~~~~~~~~~~ どこが矛盾していますか? ********************************************** 『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』 (新約聖書) ********************************************** 『まれ』という意味は、10000人に一人とか10000000人に一人とか世界で数人という意味です。 だから、エホバの聖人の信者は世界で数人というほど『まれ』な存在ですか? 大樹であるキリスト教団体のクリスチャンは世界に数人というほど『まれ』な存在ですか?という意味です。 彼らはすべて滅びに至る大きな門に向かっていませんか? >> ★ これと同様にこの世で生きている者は一人もいません。命は神 >>から来ており、神のみ生きている方なのです。 >> ☆ ぢゃあその《生きていない》あなたが 何を言っても ただの >>錯乱でしかないとなりませんか? >> ~~~~~~~~~~~~~ あなたは夢の中にいるとき、夢の中の自分は生きていたと思いますか? 生きているのはフトンの中で眠っている実在の自分ではないですか? これと同じで、神は幻を造っている方で、幻の中に入ることはできません。したがって、イエスキリストは唯一の神ではありません。
お礼
もうしわけないが ご愁傷さまです。 わたしの文章を読んで もとのふつうのあなたご自身を取り戻してください。
>> ★ その理由は「この世界は神のことばの世界」つまり「幻の世界」 >>であるという >>大真理に立っていないから、理解不能に陥っているのです。 >> ☆ あなたご自身が 《理解》しえてから 回答を寄せるようにし >>てください。 物事を唯物論に立って考える以上、聖書の意味の理解は不可能と言っているのです。 >> ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》を省みてください。 >> 神が人間によってまた人間の言葉によって認識され得たなら それ >>は神ではありません。ただ人間が想像し思考して編み出した観念とし >>ての神です。つまり 思考と想像の産物であり 神ではありません。 何を言いたいのかよく分かりません。 もし、文字が殺すのであれば、聖書は皆死んでいることになります。 また、霊についても文字で表さない限り、霊とは何かについては誰も分からないでしょう。 >>神の独り子のキリストを聖書記者ヨハネが《ことば》として 人間の >>言葉で表現したのは あくまで仮りの代理としての表現です。それを >>とおして――つまり《文字そのままではなく 文字をとおして》―― >>人はおおよそのイメージや概念を 神にかんして 得るというための >>ものです。 >>ただし そのような説明によって 《神が何でないか》についてはわ >>れわれ人間はよく分かるのです。 そのように神は人間には分からないと言うような勝手な表現こそ空想、想像にすぎないと思いませんか? ********************************************** 『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって、造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』 (ヨハネの福音書) ********************************************** この聖句を曲げて捉えてはいけません。 この文章のまま、そのままの意味です。 神はことばなのです。 この世の一切は催眠術のように神のことばで造られた映像なのです。 この意味が分からないと、唯物論に立って聖書を理解しなければなりません。それは不可能です。 >> 3. >> ★ 戒め >> ☆ などはひとつもありません。強いて言えば――イエスも言った >>ように―― 神を愛せ そして隣人を愛せ》という二つにして一つの >>コトです。 しかもこの《愛》も 人間の感情や理性でそう努力する >>場合もあるのは然ることながら もし要請されているとするなら そ >>れは 神からの愛によって――つまりそれ >>は 予感のようなかたちで そうだとすれば実現します――与えられ >>るのであり そのあたえられた愛のもとに出来ることです。 >> つまり 人間にはちょっとやそっとでは出来ません。《戒め》はない >>のです。自由です。 そのようにイエスキリストの言葉を簡単に否定することは止めた方がいいですよ。 ********************************************** 「尊い先生、永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか。」イエスは彼らに言われた。 《なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』》 (新約聖書) ********************************************** これはイエスキリストの言葉ですが、この戒めを守らずに永遠の命を得、神の国に生まれることは不可能です。 >> * 《わたしは真理である》――なぜなら 《真理はきみたちを自由>>にする》。 >>なぜなら 文字は人を殺すからです。観念の城の中に閉じこもって行 >>くからです。 >>自分自身のチカラで その倫理規範をおこなおうとするからです。そ >>れは 意味がな >>く 意味がないどころか 人をただの人間主義あるいは科学万能主義>>に落ち入らせ ころしてしまうからです。 『真理はあなた方を自由にする』という意味は神の戒めを守ることによって、病気事故災害などの苦しみから解放されることをいうのです。 イエスキリストの戒めを守るのに、自分の力で戒めを守らなくてどうするのですか?イエスキリストの言葉は信じられないのですか? >> ★ 神のことば >> ☆ が 人間の言葉であるに過ぎないからです。人間は 何によっ >>てもそれを示せ >>ないどころか それが何であるかさえ分かっていません。ただし そ >>れが――つまり >>神のことばや 神が――何でないかは はっきりと示すことが出来ます。 >> 人間の言葉によって書いた作文は 神のことばでも神でもありません。 ということは、聖書を読んだが分からなかったという意味でしょうね。 ********************************************** 《このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上の落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとき、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。》 (新約聖書) ********************************************** このたとえ話で言うと、あなたは 『みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。』この言葉に属すると思いますよ。 今までのあなたの意見を総合的に判断すると、聖書を人間の理解できない煙の中に導いて、真理をうやむやにし、煙に巻こうとしているように見えます。
お礼
もういいでしょう。 訪問者のみなさんも 分かっていただけたかと考えます。これ以上は 無駄というものです。 ( a ) ★ 物事を唯物論に立って考える以上、聖書の意味の理解は不可能と言っているのです。 ★ この意味が分からないと、唯物論に立って聖書を理解しなければなりません。それは不可能です。 ( b ) ★ 今までのあなたの意見を総合的に判断すると、聖書を人間の理解できない煙の中に導いて、真理をうやむやにし、煙に巻こうとしているように見えます。 これら( a )( b )二つの命題(つまり わたしの文章についての つきほしさんの判断)は 矛盾していましょう。いったい何を読んでいるのか。 すべて《文字》に気を取られ その範囲でだがよいと思った聖書のくだりをうまく用いて作文をする。こんな話はありません。
>> ☆ そのご説明はまったくコメントのしようがないほどのしろもの >>ですが 確かにこの(2)の命題のことを とおくはるかに説明しよ >>うとしている。とは思いました。ですが 哲学ではありません。どこ >>が? 指摘するなら こちらが哲学ではなくなります。 確かにそのように見えると思います。 その理由は「この世界は神のことばの世界」つまり「幻の世界」であるという大真理に立っていないから、理解不能に陥っているのです。 >>★ 概念があいまいなまま信じてはいけません。 >> ☆ それは多少は想像を交えた《考える》という行為です。《概念》 >>が経験思考であることを物語っています。 >> 《信じる》は《考える》とは何の関係もありません。《非思考》なの >>です。 >> なぜなら 神が《非経験の場ないしそのチカラ》だからです。これ >>を心に受け容れるのが 《信じる》ことです。 >> 信じる対象は じつは非経験の場なのですから 非対象ですが 信 >>じるというその行為じたいは 経験行為である人間の心的現象です。 そんなに難しく考える必要はありません。 たとえば、『山田さんを信じる 』という場合、山田さんを信じることはできません。 ○山田さんの考えを信じる ○山田さんの言葉を信じる ○山田さんの行いを信じる このどれかになり、山田さんそのものを信じることではありません。 これと同様で、『神を信じる』という場合も同じです。 ○神の考えを信じる ○神のことばを信じる ○神の行為を信じる このどれかになり、神そのものを信じることはできません。 ○神のことばを信じるのであれば、イエスキリストのいう『神の戒めを守り、神のことばを行わなければなりません。』 ○神の行いを信じるのであれば、『この世は神のことばで造られており、自然に出来た世界ではない。』という真理を信じなければなりません。 【これを信じることを『信仰』というのです。】 >> ☆ イエスとキリストのことをご存じではない。趣旨説明欄にも説 >>明しています。 >> あるいはつまり 《イエスキリスト》とすでに言っているのなら >>人間(イエス)と神(キリスト)とが 同時にひとりの存在の中にあ >>ると言っているぢゃありませんか。 確かに『人間(イエス)と神(キリスト)とが 同時にひとりの存在の中にあると言っています。』 それは、『イエスキリストという肉体人間の中に神のことばという智慧がある。』という意味です。 ********************************************** まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。 (新約聖書) ********************************************** イエスキリストが磔になった時、誰かイエスキリストの血を飲んだ者がいますか?イエスキリストの肉を食べた者がいますか? イエスキリストの血とは『イエスキリストの神のことばのことです。』 イエスキリストの肉とは『イエスキリストの神のことばのことです。』 このように聖書は間違って解釈するととんでもない誤解を生みます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 1. ★ その理由は「この世界は神のことばの世界」つまり「幻の世界」であるという大真理に立っていないから、理解不能に陥っているのです。 ☆ あなたご自身が 《理解》しえてから 回答を寄せるようにしてください。 2. ★ ~~~ ○ 神のことばを信じるのであれば、イエスキリストのいう『神の戒めを守り、神のことばを行わなければなりません。』 ○ 神の行いを信じるのであれば、『この世は神のことばで造られており、自然に出来た世界ではない。』という真理を信じなければなりません。 【これを信じることを『信仰』というのです。】 ~~~~~ ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》を省みてください。 神が人間によってまた人間の言葉によって認識され得たなら それは神ではありません。ただ人間が想像し思考して編み出した観念としての神です。つまり 思考と想像の産物であり 神ではありません。 神の独り子のキリストを聖書記者ヨハネが《ことば》として 人間の言葉で表現したのは あくまで仮りの代理としての表現です。それをとおして――つまり《文字そのままではなく 文字をとおして》――人はおおよそのイメージや概念を 神にかんして 得るというためのものです。 ただし そのような説明によって 《神が何でないか》についてはわれわれ人間はよく分かるのです。 3. ★ 戒め ☆ などはひとつもありません。強いて言えば――イエスも言ったように―― 《神を愛せ そして隣人を愛せ》という二つにして一つのコトです。 しかもこの《愛》も 人間の感情や理性でそう努力する場合もあるのは然ることながら もし要請されているとするなら それは 神からの愛によって――つまりそれは 予感のようなかたちで そうだとすれば実現します――与えられるのであり そのあたえられた愛のもとに出来ることです。 つまり 人間にはちょっとやそっとでは出来ません。《戒め》はないのです。自由です。 * 《わたしは真理である》――なぜなら 《真理はきみたちを自由にする》。 なぜなら 文字は人を殺すからです。観念の城の中に閉じこもって行くからです。自分自身のチカラで その倫理規範をおこなおうとするからです。それは 意味がなく 意味がないどころか 人をただの人間主義あるいは科学万能主義に落ち入らせ ころしてしまうからです。 4. ○ 信じる ☆ ということについて もっとしっかり考えてみてください。ただ作文を書けばよいというものではありません。 ★ ~~~ イエスキリストの血とは『イエスキリストの神のことばのことです。』 イエスキリストの肉とは『イエスキリストの神のことばのことです。』 ~~~~~ ☆ これもただの作文です。 なぜなら ★ 神のことば ☆ が 人間の言葉であるに過ぎないからです。人間は 何によってもそれを示せないどころか それが何であるかさえ分かっていません。ただし それが――つまり神のことばや 神が――何でないかは はっきりと示すことが出来ます。 人間の言葉によって書いた作文は 神のことばでも神でもありません。
補足
☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 3. 次の二つの命題は 互いに矛盾しています。 ★( a ) ~~~~~~~ エホバの聖人が世界に何万人いますか? 彼らが『まれな存在』と言えますか? ★( b ) ~~~~~~~~ 『寄らば大樹(団体)の陰』という言葉がありますが、真理に関することは、その真逆が正しいのです。大樹は『滅びに至る門』に向かっているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 5. ★ これと同様にこの世で生きている者は一人もいません。命は神から来ており、神のみ生きている方なのです。 ☆ ぢゃあその《生きていない》あなたが 何を言っても ただの錯乱でしかないとなりませんか? ~~~~~~~~~~~~~
お礼
お‐さいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 現実から宗教誕生の成り立ちを考察すれば、マリアとは、ユダヤ民族によって強姦された娘です。 ★ マリアとは、差別され続けたユダヤ以外の民族の叫びであり、歴史の必然でした。 ☆ 《差別》という《大局的な視野で》ユダヤ民族およびイエス以後の世界を見直せというご指摘でしょうか? M.ヱーバーでしたか わたしはこの人物が嫌いですからあまり出したくないのですが そういった視点からユダヤ民族=《パリア民》説を打ち出しましたね。外部からは エジプトによる奴隷化を初めとしてそのようにいろんな意味で虐げられて来た民族であると見得るとして そのユダヤ民族の内部では こんどはさらに別に ★ 民族によって強姦された・・・娘たちは数知れず存在し、差別によって生涯を迫害されて終わっていました。 ☆ という歴史もあるのだと。のちから見てでしょうが マリアはその典型となったのだと。 そしてイエス以降の世界史においても ユダヤ民族もまだまださらに迫害を受けるわけですが そのほかの民族にしても 同じような社会的立ち場に追いやられているとしたら 言わば疑似体験のようなものを共有し その象徴としてまたはその心の拠り所として聖母マリアを 抱きつづけるようになったのだと。 ただですね。まづ この《除け者》論については 別の質問でやっているのです。 ○ 【Q:イエスは 排除された《第三項》か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7322517.html そうして この本質問は あくまで《けがれなき身ごもり》をどう解釈しておけばよいかを問うています。 ○ 物語としてはですが 聖霊によるけがれ無き身ごもりという《神格》の貌(かお)とそして同時に DNA によるふつうの人間としての受胎という《人格》の貌 これらふたつの貌があるのだ。こう認識するなら 無理なく――たとえおとぎ話としてであっても―― 一般に共有することが出来るのではないか? こういう問いです。 ひとつの民族が他のそれらから虐げられたということは どういうわけか 歴史的事実のようです。そしてその内部でも 除け者にされいわゆる犠牲に供される人びとがいるということも 歴史の示すところだと思います。 ただ ★ 現実から宗教誕生の成り立ちを考察すれば ☆ という切り口からの発議だとすれば それは違うと考えます。 1. もとは――遠くさかのぼれば―― 個人の《非経験のナゾ》との邂逅にあります。アブラム(のちのアブラハム)という個人に 神が《この父祖の土地を去って どこかへ行け》とささやいたという《非思考ないしヒラメキ》にそもそもの初めがあります。 2. その子孫にもこの神が受け継がれ それぞれにおいて《信仰》が生きた動態となって現われたが たとえばアブラハムはその子イサクをいけにえとして捧げることを止めて 《人は人を殺さない》という命題を得た。これは 人間という存在にとっての《自由》という公理ですね。 3. ところが この公理は モーセのときに《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範としての命題となって持たれるようになった。つまり それまでは 個人個人の信仰において持たれていた公理が 人間の言葉に翻訳されてその言語表現が規範(戒め)として持たれるようになった。 4. 信仰における神が 人びと共同の倫理規範を共有することにおいて あらたに・別様に 持たれるようになった。律法とも言いますが。 5. このような人びと共同の規範が 人間の言葉に翻訳した信仰の内容であるとして持たれるということ これが 宗教の初めである。 と考えるからです。《除け者の排除》問題とは 議論を起こす切り口もその発生の情況も違うと考えるからです。 どうでしょう? と言っても問うている問題が違うのではありますが。