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きみはヨブを見たか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神はヨブが試されることを悪魔に許した。 ヨブは試された。 悪魔は困惑させられた。 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。 ヨブは言っております。 主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。 主の御名はほむべきかな。(1:21) と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これを哲学のことばで表わして欲しい。 いまわたしに思い浮かんだのは ○ 能天気 ○ 聖なる甘え ☆ このふたつです。 ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > でも 生まれつきの病いについてはどうかと思います。つまり なかなか分からないところがあります。神の栄光が現われるためですとか説明があるかも知れませんが その合理性としての理解には 困難をきわめるように思います。Hidocchi さんもすべて分かっておられて この主題を出されたのだとも思います。 はい、確かに愚生もそうでござます。 もしかしますと、例えば、野口英世(彼の左手のやけどは先天的ではございませんでしたが)の医学の進歩へのある種のエネルギー、また憲法学者小林節慶大教授(左手は先天的奇形があるようでございます)の将来に向けた憲法論議、さらには、子供・兄弟が先天的病を持ったが故に、科学・医学の前進にエネルギーを注いだ方達もおられるかと思っております。 「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが…………. > ☆ この試練は ヨブと同じようにだとわたしも思います。 《もっと大きな業を行うようになる》にも希望を持ちたいと思います。 愚生もかような希望を抱いている一人でございます。 > ☆ 録画しまして いまの時点で半分ほどを見ました。《コンプライアンス》は出て来ました。 これを《アマテラス語》の問題と受けとめました。 ほかの人の質問で このアマテラス規範語は 枡にあふれる米を掻き棒でそぎ落とすかのように 四角四面の枠に人を嵌め込むと捉えて投稿しました。 アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。 さらなる、ご意見賜れば、幸いでございます。 > そして この”神へのコンプライアンス”は われわれ人間にとってむつかしいと来ています。甘えてもいけないでしょうし もはや甘えるくらいに――エポケーをも経つつ――甘えきったかたちになるほかないようにも思えますし。 ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。 これは、ひとはひとえに誰もが最も知りたいところかと存じます。ですが、超難問ですし、その回答が正しいかどうかは、その時点ではわからい という難しさもあろうかと考えております ご意見賜りまして、厚くお礼申しあげます。
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こんばんは、Hidocchiです。ご返答頂戴し、厚くお礼申し上げます。 > なるほど。お名前は ほほえましいですね。根掘り葉掘りですみませんでした 誠に、恐縮でございます。 > 今回ふと思ったのですが どうも Hidocchi さんは 預言ないし解釈ということに警戒心を抱いておられる。これはどうしてか? を考えたのですが これは 逆にわたしのほうには 次の大前提があって それゆえ警戒心が薄いのではないかと思ったのですが どうでしょう? つまり ○ 文字は殺し 霊は生かす。 ○ この大前提を置いているなら この世界の現象のすべては 神からの手紙である。と捉えてもよいのではないか? つまり 《検証可能なことがら》についても この大前提とその上での《神からの書簡説》のもとに ときとして 非思考のなぞに関連づけて捉え考えようとする場合が――けっきょく 稀にですが――ありました。 おそらく、愚生が神経質になりすぎているものかと思っております。大学という特殊な機関で働いているというのもその一要因かと思っております。従いまして、愚生の方が神経質すぎ、bragelonne様の方が一般的かと思われます。 例えば、No.36ご回答者様の般若心経の呪文(羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶:Gate Gate Paragate Para Samgate Bodhi Svaha)でございますが、「近代日本の仏教学者までが、漢文で偉そうに書かれたものは尊く、われわれのことばで書かれたものは賤しいというべき驚くべき権威至上主義とりつかれていたように見受けられる」(中村元訳注「般若心経・金剛般若経」p.182 からでございます。)、この意見にも、賛同したいかと考えております。 訳注(ご参考まで) ・gate:文法的には行ったという過去完了、転じて(乗り越えて)行け、の意味 ・para: 向こう岸 ・sam:強調の意味 ・bodhi:知恵(女性名詞) ・svaha: 幸いなれなどの意味を持つ感嘆詞 > なるほど ベレルマン論文の審査のように 落ち着いて広く専門家らが集まって たとえばこの《温暖化派と寒冷化派との議論》も検証するようにしていけばよいものをということのようですね。 はい、愚生はかように考えております。敢えて、アドレスは省略させていただきますが(個人様のブログですので)、結構荒れております。知識人(専門家)達にも、その責任があろうかとも考えております。元来ならば、国民に冷静さを求めるべきなのでしょうが、むしろエスカレートさせているようにも見受けられるからでございます。 わたくしが具体的に 預言=解釈するというのは たとえばあまがっぱさんとのやり取りで 次の主題について考える場合を言います。 ☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 第二の死については 問い求め中でいます。 自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち アウグスティヌスはしきりにこの《第二の死》を説きます。やはり経験思考の言葉で理解しうるように解釈が必要だと思います。それとも ただの幻想か あるいは 単なる文学的な表現形式に過ぎないかを判断しておくことだと思います。 悪つまりこの場合は究極の悪のことを 第二の死というようですから 善悪論という意味でも 大きくは哲学の課題であるようにも考えます。(神学ないし倫理学に傾いてはいますが)。 深いですね。カッコ内の文章は、認識論+竜樹の論法を用いた存在論を想起させられます。 > あと 《文字(この場合 むしろ神にかんするコギトのこと)は殺し》という命題ですけれど これはかのニーチェが《〔観念の〕神は死んだ》というふうに言ったことと同じだと考えます。これは 神についての議論においては大前提であるはずです。(ちなみに ニーチェは そう言っていながら 神について指し示すことは出来なかったように思われます)。 そうでございますね。ニーチェは「神は死んだ」、ならばそれ以前の生きていた“神”についての記述はなかったように見受けられます(目に見える教会に属するキリスト教徒に対しましては、ルサンチマンあり! と言っていましたが)。 駄文、ご一読賜り、厚くお礼申し上げます。
補足
Hidocchi さん こんばんは。いつもありがとうございます。 どうも今回は Hidocchi さんとのやり取りにおいては どこか主題としては崖っぷちをわたしがすすんで歩いているというような情況だったように思います。 崖っぷちの情況を見て〔あるいは 崖っぷちから一般の情況を見て〕有益なことがあるかも知れないけれど 非思考は非思考で 経験思考は経験思考だという区別を確認しただけのようにも思われます。 《第二の死》論についても まだはっきりしません。むしろはっきりと人間が裁いてはいけないものであるようですし。でも しかも ではなぜこの命題が仮想的にでも出されたのか。これもなぞであるように思います。 そもそも そのつてで考えるなら 現実世界における――この身とこの心での人間存在の――復活という主題にも成っています。しかもすでに質問に挙げたことさえあります。 わたしは そういった《路線》をあゆんでいるようです。 般若心経の説明をありがとうございました。 ニーチェもおおむね賛成していただきました。 科学的な検証の問題 冷静な検証の必要性――考えてみれば とうぜんのことのようですが たしかにわたしも朝まで生テレビでの討論では ちょっと悪くみれば政治家のごとく自説を主張するような傾向も見られて 科学者を見る目が変わるのではないかとやや思ったところもありました。でも事実等で決着はつくのですよね。 預言は 解釈であると前提しても たしかに組織の中などであればあやういことになるとは思います。まだまだ 警戒しなければならない部分があるかに思われます。 〔先日 ゴッドファーザー III の映画を見ました。 I と II を見ていたので 見ておこうと思って録画して見てみました。ワ゛チカンあるいは枢機卿なり司祭なりと取引をしていたという物語りなのでした。マフィアがです。そのときには 麻薬などなど違法行為からは足を洗った状態だというもので ローマ法王から勲章のようなものを貰ったということもありました。 どこまで事実か分かりませんが 一般にもどうもワ゛チカンの資金は マネーロンダリングを通じたもの(もしくは マフィアがワ゛チカンの銀行に預けることで マネーロンダリングが完結するというもの)だと かなり強い疑いがかけられ 事実に近いようなのです。 もうご存じかも知れませんが ○ バチカン「神の銀行」に捜査の手 資金洗浄に関与か http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091127/erp0911271123008-n1.htm 〕 ★ カッコ内の文章は、認識論+竜樹の論法を用いた存在論を想起させられます。 ☆ いづれかの機会に この主題についてお聞きしたいとも思います。 どうも《甘え》という主題があるので うまく議論や何やかやが回転しないのでしょうかねぇ。 もうしばらく開いていて 締めることとします。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ●littlekiss さんが 旧約聖書の『ヨブ記』を読んで感想を述べるとすると おもしろい話が聞けるかも知れないと ふと思いました。 人が悪いな。ないない。 【QNo.3843320《われはブッダなり》と宣言する人は】回答番号:No.26 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3843320.html いやほんま、宗教のことよう知らんのですってば。 えっ?そやったら勉強せいって? (-_-;)uuu… ▲ 聖書本文検索 http://bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi ともあれ、ありがたく頂戴いたします。 m( _ _ )m ども。 ほでも、いま聖書に目を通す気分ちゃうねん。 と、いうのもこの前のお休みに録画しておいた 映画「パフューム」みてからなんやモヤモヤして…気分乗れへん どんな映画かといえば… 概要 [編集]『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%96%E3%82%BA この著作において、ホッブズは人間の自然状態を闘争状態にあると規定する。彼はまず生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。そのうえで人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。理性はその予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。これは現在ある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。なぜなら、人間以外の動物は自己保存の予見ができないから、生命の危険がおびやかされたときだけ自己保存を考える。ところが人間は未来の自己保存について予見できるから、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする[1]。この優位は相対的なものであるから、際限がなく、これを求めることはすなわち無限の欲望である。しかし自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることがない。人はそれを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争うことになる。またこの争いに実力での決着はつかない。なぜならホッブズにおいては個人の実力差は他人を服従させることが出来るほど決定的ではないからである。これがホッブズのいう「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」である。 ホッブズにおいて自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾が明らかになる。そのため理性の予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導く。自然法に従って人々は、各自の自然権をただ一人の主権者に委ねることを契約する。だが、この契約は自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもない。自然権を委ねるとは、自然権の判断すなわち理性を委ねることである。ホッブズにおいては主権は第一義的に国家理性なのである。また以上のことから明らかなように、自然状態では自然法は貫徹されていないと考えられている。 ●かなり長いですよ。 堆く積まれた本… あっという間 時間は積り 何も見えなくなりそう(B'z Calling) 1:ヨブ記 / 1章 1節 口語訳 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 ●きみはヨブを見たか。 たぶん。主とサタンとヨブ―――――三人称単数現在 【不完了体現在形】 http://tatu.lovelove.jp/russkiy/9.html
お礼
littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ロシア語 勉強してるの? 動詞が――動詞も――やっかいやで。《 スカザル( skazal )=話した》と《ガワ゛リル( govaril )=話していた》を区別せんならん。完了体と不完了体とで 《話す》を表わす語がちがう。 これは このようにまったく違う語を用いるのは 例外的だけれど この区別じたいは すべてにあてはまります。《愛する=リュビーチ》は 不完了体しかないけれどね。一瞬で完了する愛は ないそうな。 ★ 映画「パフューム」みてからなんやモヤモヤして…気分乗れへん ☆ 無臭の男で 香水の発明をするんだって? 最後のシーンで 750人がどうのこうの? これか。知らんけど。 それと ホッブズとどういう関係があるの? ▲ 「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」 ☆ かなぁ? ★ 人が悪いな。ないない。 ☆ いままで太宰治の作品だけでも どんだけ読まされたか。奇岩城がいちばん長かったなぁ。そのあなたに似たんです。 それでも そのふと思ったというのは ★ いやほんま、宗教のことよう知らんのですってば。 ☆ であるからいいのです。宗教の既成概念に染まっていないからいいのです。このために勉強する必要は無し。ヨブ記は 小説ですよ。文学ですから。太宰を読む程度に読んでみて。奇岩城よりは短いかどうか。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > あぁ そう言えばお名前にはどういった意味がございますか? 別段深い意味はございません。愚生はヒロシという極ありふれた名前なのですが、姪っ子が幼稚園の折に、これを正確に発音できずに、ヒドッチといっていたのが始まりでございます。OKWave参加当時は、まさか“哲学”カテゴリーに入り込むとは全く予想もしていなかったため、そのま まとなってしまっている状況でございます。 > 今回は二点あります。かなりすっきりすることが出来ました。ありがとうございます。 こちらこそ、お役に立つことができ、望外の喜びとするところでございます。 > ★(要約) 検証可能なことがらと検証不可能なことがら ☆ と言っておられたのですが もし《解釈する》ことと採りますと 《検証不可能なことがら》については むろんあくまで代理表現として解釈し説明していることになります。たとえということでしょうし 文学的な表現を採り入れることになると思います。 確かに、仰られますように、《解釈する》という作業は、ある意味重要な意義をもっているとも愚生自信も、そのように解しております。ただ、時として、行き過ぎが生じてしまい、“ある種の魔女狩り”、“権威主義による、妄信状態(非思考的ではなく、思考自体を停止してしまった状態)”を惹起する可能性を孕んでいるため、敢えて、疑問を投げかけた次第でございます。従いまして、《解釈する》ことそのこと自体には、純粋には問題はないかと考えております(ポル・ポトのような人物が祭り上げ られ、あのような惨劇は二度と起こしてはならないとの考えからでございます。逆に申しますと、自律(≒自立)した者がその結果生じる責任をも引き受けて判断するならば、むしろ、社会に好影響をもたらすやもしれません)。 > この最後の場合に それではなぜわざわざ《預言》と言うかと言えば それはあくまで特殊なかたちで 《水平的・相対的な思考》そのものを語っていながら わづかにそこに どう言えばいいでしょう 画竜点睛のごとく預言=解釈するひとのやはり非思考のことが――むろん けっきょくは主観にすぎないのですが―― なんらかのかたちで触れられている。これは ふつうの識見を述べていつつ その本人にとっては 見えない教会を築くために述べているのだという心づもりがあるということなのかなと思いました。 蛇足ではございますが、この“見えない教会”という表現は、何時見ても、すばらしい表現でございますね。感動的な言葉でございます。 > 三つ目を考えるとしますと。 では ふつうに日常生活において 一般に検証可能でふつうの経験的なことがらを話したり書いたりするとき わたしたちは 非思考のことがらを そこに捉えないであろうか? この問いです。 おそらくこの場合は 話し手や書き手自身も もう心づもりなど何もない場合のことです。それでも 何の種も仕掛けもないふつうの文章が ときとして 非思考のなぞに触れているという場合があるかも知れません。見る人にもよるのでしょうが これを指摘して大方のひとが納得したならば そういう場合にも 或る種の預言があったと採ることもできるかも知れません。 そういった問いを いま問うてみたいと思いますがどうでしょう? 了解致しました。 愚生の知る限りにおきましては、科学(一般的に“検証可能”な分野かと思われます)におきましても、かような状況は起こりうるし、また実際起こっているとも考えております。 例えば、以前愚生が質問させていただきました以下の問題でございますが、 okwave.jp/qa/q5267922.html でございます。 最終的には、確認・検証作業ができるのでしょうけれど、温暖化派と寒冷化派の2つが、自説を主張するのではなく、むしろ、相手方をコケ下ろすことに全注力を注いでいるブログが散見されます。どの主張をする科学者も現時点におきましては、“予言”にしか過ぎないのですが、ウェブ上では、荒れているように見受けられます。正直申しまして、“確認・検証”がなされた場合、どちらかが、誤りとなります。どちらかがある種のリンチを受けるのではないかと危惧している次第でございます。 以上の件を、この信仰という場面に当てはめて見ますと、“煽り”、“権威家達による押さえつけ”等さえなければ、その懸案となっている”説”がそれなりの時間、非難を得て、そして、大部分の方達により認められれば、定説・通説として認められるべきものと考えております(一例と致しまして、民法等の法律の論点につきまして、戦前では通説であったものが、平成ではその地位をゆずるということもあろうかと存じます)。 以下の“数学の大問題”に関する証明の件でございますが(以前ご紹介させていただいたかと存じますが)、ミレニアム懸賞問題の“ポアンカレ予想”の箇所でございますが、この証明の確認・検証作業には約3年間も要し、その結果、 「これらのチームは何れもペレルマン論文は基本的に正しく致命的誤りは無かったこと、また細部のギャップについてもペレルマンの手法によって修正可能であったという結論で一致した。これらのことから、現在では少なくともポアンカレ予想についてはペレルマンにより解決されたと考えられている。」 とされています。つまり、断定の文言を避けた形で報告されております。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E4%BA%88%E6%83%B3 からでございます。) ご参考になるところがございましたら、幸甚に存じます。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なるほど。お名前は ほほえましいですね。根掘り葉掘りですみませんでした。 今回ふと思ったのですが どうも Hidocchi さんは 預言ないし解釈ということに警戒心を抱いておられる。これはどうしてか? を考えたのですが これは 逆にわたしのほうには 次の大前提があって それゆえ警戒心が薄いのではないかと思ったのですが どうでしょう? つまり ○ 文字は殺し 霊は生かす。 ☆ 従いまして たとえほんものの預言者が語った言葉だとしても それをそのまま神に等しいとは採らないし 採れない。という大前提です。人間の言葉は すべて相対的な価値を持つものでしかない。ですから その人間の言葉で神を語っても それは基本的につねに なぞなのだと思います。 もうひとつは ○ この大前提を置いているなら この世界の現象のすべては 神からの手紙である。と捉えてもよいのではないか? ☆ と解釈しています。これは 反面教師としての内容をもって 神からの手紙であるという場合もあると言わねばならないと考えます。 つまり 《検証可能なことがら》についても この大前提とその上での《神からの書簡説》のもとに ときとして 非思考のなぞに関連づけて捉え考えようとする場合が――けっきょく 稀にですが――ありました。 ただこの稀に起こるという数少ない場合が けっこう重要なことを 少なくとも考えさせてくれたというようにも思っている次第です。 ま でもこの話題は かなり特殊主観的なことだったかと思い やはり反省しきりです。ポルポトにまで行き着いたら 元も子もありません。 なるほど ベレルマン論文の審査のように 落ち着いて広く専門家らが集まって たとえばこの《温暖化派と寒冷化派との議論》も検証するようにしていけばよいものをということのようですね。 わたくしが具体的に 預言=解釈するというのは たとえばあまがっぱさんとのやり取りで 次の主題について考える場合を言います。 ☆☆ (No.26補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 第二の死については 問い求め中でいます。 自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち アウグスティヌスはしきりにこの《第二の死》を説きます。やはり経験思考の言葉で理解しうるように解釈が必要だと思います。それとも ただの幻想か あるいは 単なる文学的な表現形式に過ぎないかを判断しておくことだと思います。 悪つまりこの場合は究極の悪のことを 第二の死というようですから 善悪論という意味でも 大きくは哲学の課題であるようにも考えます。(神学ないし倫理学に傾いてはいますが)。 あと 《文字(この場合 むしろ神にかんするコギトのこと)は殺し》という命題ですけれど これはかのニーチェが《〔観念の〕神は死んだ》というふうに言ったことと同じだと考えます。これは 神についての議論においては大前提であるはずです。(ちなみに ニーチェは そう言っていながら 神について指し示すことは出来なかったように思われます)。 不用意に添えますが もし《聖なる甘え》が成り立つということであれば 《人についての第一の死が死ななくなる(*)》という《第二の死》というものも癒され蘇えらせられると思われます。 * →No.7お礼欄 《第二の死》の段落を参照ください。
- littlekiss
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おはようございます、bragelonneさん。 ●《不条理》をあつかっているのだけれど このように解説されると きわめて明快に割り切れるかのように理解がすすむ。と見えるのですが。 見えるのですが わたくしには この《太陽の光を享受すること》が きわめて象徴的に取り上げられているのを聞くと そんなに日光が 自然そのものだという感覚になるかなぁ?と思われてくるのですが どうでしょう? たしかに、ひっかかりをおぼえます。 おっと、ひっかかりといったからとて 引き金に指かけたわけではないのでご安心を。 「太陽のせい」ヒントはこの言葉に集約されてあるようにおもえるんですよ。 「不条理」という言葉をカミュに言わしめるのもここからかと 銃弾が人の生と死を分かつ カミュの父(フランス系アルジェリア人)は第1次世界大戦で亡くなっている。 【第一次世界大戦】 植民地での戦闘 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 カメルーンでは1916年二月までドイツ軍の抵抗が続いたが、 最終的に中立国であったスペイン領の赤道ギニアに退避し 同地で武装解除した。 母はスペイン系と 【1884年11月3日 スペインが西サハラの領有を宣言】 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/sahara.html 【地図】 http://maps.weblio.jp/content/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%8C%E5%B7%9D 北へ向かわず南へ行っていたなら、父は生きていたのかも 【なぜ太陽はフランス語で男性なのにドイツ語では女性なのか】 https://club.asahipress.com/text-web/france/colum6.pdf 「北方のドイツでは太陽は優しく暖かい母親のようなもの、 月は暗黒の夜を支配する厳しい父親のような存在と感じた」のに対し, 南方では「太陽はぎらぎらとまがしく輝く父親で、月は夜空で静かに 見守る母のようなもの、と思った」 海、太陽、風…女性、男性、両性… 人の生を政争の具と化してしまう欲望(闘争本能)、抗いがたい人間の性 不条理この上ない現実 【スペイン・アルジェリア】 http://www.jepic.or.jp/news/pdf/20090406-7.pdf
お礼
littlekiss さんが 旧約聖書の『ヨブ記』を読んで感想を述べるとすると おもしろい話が聞けるかも知れないと ふと思いました。 時間がゆるしますならば どうぞそうしてください。 ▲ 聖書本文検索 http://bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi ☆ (1) 後段の【書名章節検索】のところで 【書名選択】の中から 《ヨブ記》をえらぶ。 (2) その下の【章選択】で 1 の数字を入力する。 (3) あとは 【送信する】をクリックです。 (4) 《第一章》の本文が出て来ます。第二章以下も同じように検索してみてください。 かなり長いですよ。
補足
littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですねぇ。 カミュの文学・思想とヨーロッパ人の戦争観ないしそのことにまつわる生活観 どちらもわたしはそれらを語るのに適任ではないように思います。 二つの世界大戦を経て ヨーロッパ人は それまでの哲学思想の良心的で人間的な言ってみれば華々しい成果を生かし切れていず きわめて失望したと聞きます。最高の思索を重ねて来た結果が 最大の悲惨な殺し合いであったかというのだそうですね。 カミュの不条理の問題もその歴史に沿うているのかどうか。 このむごたらしさが人びとに――そして特に知識人たちに――もたらしたものは 言葉で語り尽くすことなど出来ないといったことを ri_rong さんにおそわりました。 わたしは この戦争あるいは戦争についての――つまり植民地争奪などをともなうそれですね についての――考え方といった主題をほとんど考えて来なかったなぁと思ったのですし その後も進展がありません。 ですから 参照サイトを含めてふむふむとお話をうかがっていますが しゃれたお応えを返すたくわえがとぼしいと白状せねばなりません。 そしてカミュですが けっきょく熱心な読者にはなりませんでした。いちばん乱暴に批評してみれば この『異邦人』の物語も むしろ初めから 一発か何発かの銃の発射もしくはその銃声によって 日差しのあふれる地中海の静穏を 鏡を突き抜けるように破るというその筋が決められていたのではないか。と疑われてしまうとなると この思いをなかなか消せないのでした。(たぶん 論評にはなっていないと思います)。 言語のことでお茶をにごします。 English : sun Middle E. : sonne ( feminine ) AngloSaxon : sunne ( fem. ) Dutch : zon ( fem. ) German : Sonne ( fem. ) Gothic : sunno ( fem. ) / sauil Icelandic : sol ( fem. ) Swedish & Danish : sol ( common = 中性ではなく男女共通) Russian : solntse ( neuter ) (綴り間違いではありません) French : soleil ( masc. ) Welsh : haul ( masc. ) Greek : helios ( masc. ) Latin : sol ( masc. ) Sanskrit : suura, suurya ( masc. ) ( -r- は間違いではありません) 《日(太陽)》を表わす語は 子音として《 S - L - N 》から成る。そこで S は H と交替する。( cf. ひちや∽しちや(質屋)) L は 稀に R と交替しうる。(日本語みたい) L が落ちるか N が落ちるか どちらかである。ロシア語は両方を保つ。 文法の性が 男女に分かれているのはなぜか。分かりません。 ロシア語は 寒いところですが 中性( neuter )となっています。 あとは 南と北とで 男( masculine )・女( feminine )をきれいに分けていますが。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > パウロを参照してみておきます。 ▲ (コリント前書14:1-4) ~~~~~~~~~~~~ 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は〔* 見えない〕教会を造り上げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 聖書からの引用文を載せていただきまして、どうもありがとうございました。 「人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」 しかし、一方、 「しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。」 「”異言を語る者が自分を造り上げる” のに対して、 ”預言する者は〔* 見えない〕教会を造り上げます。”」 braglonne様の教養の深さ(教義理解の深さ)を再認識させられた次第でございます。 > さらにむつかしい主題です。 ☆ これらふたつの文章を合わせて考えるに ★ 愚生も、この方程式は存在しているかと考えております。ですが、用い方によっては、危険を孕んでいるとも考えております。 ☆ と確かになるようなのです。 ご理解賜りまして、熱くお礼申し上げます。 > こういうふうに考えられませんか? パウロの書簡は 共観福音書の解釈として預言である。たとえばアウグスティヌスの文章は パウロの解釈として預言である。しかもまだまだ 非思考にかんする言葉で述べられているところがある。それに時代も違えば民族性などからの生活習慣とその思考様式も違う。 これを できる範囲で現代語に解釈するという預言は 必要は必要だと見る見方も成り立つかも知れない。むつかしいでしょうか? 一般に、以下のような慣習(?)が見られるようでございます。 「東方諸教会・正教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントといった一般のキリスト教派にとって、預言者とは旧約時代のもの、すなわちイエス以前のものである。したがってこれらの教会は、旧約聖書の預言者や新約聖書に「預言者」として言及されるイエス以前に活動していた若干名以外に、預言者をたてない。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85 からでございます) ですが、各集団の”教義”というよりも”慣習”に近いものかと察せられます。これを、実質的な意味での預言(書 or 者)と致しますと、 定義 預言:神(や死霊)の意志を媒介し、人々に伝えること。また、その言葉。とくに、超越神によって示された世界の意味・救済の意味などを人々に述べ伝えることをいう。(goo辞典からでございます) 平たく申しますと、神の意志を”預り”、それを”言葉”にし、人々に伝える ということでしょうか。 1.パウロ について イエスの啓示を受けました。また、イエスの本意に沿って人々に伝道をしていました。”媒介”の作業も、常にイエスとやり取りしていたわけではございませんが、(イエスの意思にそった形で)伝導という行為を実質的に行っていたと解せられると考えられます。 したがいまして、予言者(書物に関しましては”預言書”)と呼んでも何ら差し支えないものと察せられます。 2.アウグスティヌスについて 恥ずかしながら、神の意志を”預った”という彼の史実を愚性は知らないため、何とも入れないのですが、その言葉の持つカトリック内での重要性を鑑みますと、おそらくそ彼の書は”預言書”に値するとも察せられます。 ご参考になれば、幸いでございます。
補足
こんばんは Hidocchi さん。(あぁ そう言えばお名前にはどういった意味がございますか? よろしかったらお聞かせください)。ご回答をありがとうございます。 今回は二点あります。かなりすっきりすることが出来ました。ありがとうございます。 ふつうは 預言者はやはり 洗礼者ヨハネまでだと思います。 そしてパウロが異言よりも預言のほうがのぞましいというときには 《解釈する》という意味だと考えます。 ▲ (コリント前書14:27-28) ~~~~~~~~~~~ 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ やや不確定ですが そう採っています。No.13で ★(要約) 検証可能なことがらと検証不可能なことがら ☆ と言っておられたのですが もし《解釈する》ことと採りますと 《検証不可能なことがら》については むろんあくまで代理表現として解釈し説明していることになります。たとえということでしょうし 文学的な表現を採り入れることになると思います。 《検証可能なことがら》については 一方でもし神について述べるようであるならば やはり《たとえ》としての代理表現であるでしょうし 他方でそのまま経験的なことがらであるならば ほとんど普通の識見ということになると思います。 この最後の場合に それではなぜわざわざ《預言》と言うかと言えば それはあくまで特殊なかたちで 《水平的・相対的な思考》そのものを語っていながら わづかにそこに どう言えばいいでしょう 画竜点睛のごとく預言=解釈するひとのやはり非思考のことが――むろん けっきょくは主観にすぎないのですが―― なんらかのかたちで触れられている。これは ふつうの識見を述べていつつ その本人にとっては 見えない教会を築くために述べているのだという心づもりがあるということなのかなと思いました。 二つ目のことですが いまこの一つ目の問題を実際にどう捉えるかと考えたとき ちょうど質問趣旨にかかげたアウグスティヌスの文章を例にしてみるとよいと思ったのです。 ▲ 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。 ☆ ここは ほとんど経験世界のことがらで――文学的に――表現しています。一面としては 人間の境地として捉えれば ひとの成長といったこととしておおむね経験合理性で理解できることです。もう一面としては 人間の成長とか境地とか言うのは やはり捉えどころが少なくて やはり漠然としている。となります。 それで おそらくこの個所は 経験的なことがらで述べていると同時に 心づもりは 非思考のなぞについて 自身の主観ではありながら 何らかのことを伝えたいという性格の文章だと考えられます。 そうして 《神》や《悪魔》という言葉をそのまま出している部分は もちろん検証不可能なことがらに属します。 三っつ目を考えるとしますと。 では ふつうに日常生活において 一般に検証可能でふつうの経験的なことがらを話したり書いたりするとき わたしたちは 非思考のことがらを そこに捉えないであろうか? この問いです。 おそらくこの場合は 話し手や書き手自身も もう心づもりなど何もない場合のことです。 それでも 何の種も仕掛けもないふつうの文章が ときとして 非思考のなぞに触れているという場合があるかも知れません。見る人にもよるのでしょうが これを指摘して大方のひとが納得したならば そういう場合にも 或る種の預言があったと採ることもできるかも知れません。 そういった問いを いま問うてみたいと思いますがどうでしょう?
>自然の感情としての一体感のことであり それだけなのですが けっこう空観にこの甘えがみちびくことがあるかも知れません。 すみません。言ってることがよく分かりません。 しかしかつて >光が曲がった。 >曲がるのかな 曲がるのかも 曲がりうるかも知れないと 想像してみたら 面白そうだと思い そのわたしの考えで曲げてみた。 >アダムもそれに同意して こころみた。 という文章があったのですが 正直言うとこういう考えは 私の中ではすごい違和感があるのですが。。。 貴方の中では 《甘え》 《関係 つまり 縁起》 というのはこういうことを想定しているということなのですか?
お礼
そうですね。 ○ 甘えは 親子のあいだの自然の感情としての一体感のことを言います。それだけです。 ○ ただ それがあると・つまりその体験があると(もしくは 仮想の経験でもがあると) あたかも理性のはたらきを超えてのごとく さとりにみちびかれる度合いが大きいのではないか。そういうはたらきが 甘えにはあるのではないか。 ☆ こういう大胆な物言いです。 根拠はありません。しかも この無根拠ということを 逆手に取って そこから《垂直的な非思考》にみちびかれることが容易であるのではないか。こう見ようとしています。つまり 空観にしても同じです。 後段は 原罪にかんする説明の文章ですが そうですね。どうなんでしょう。この文章の言おうとするところは 要するに いわゆる客観的にものごとや世界を見ようとするようになった。つまり 理性をはたらせようとするようになった。 しかも このコギトが 倫理に関しても アマテラス人格語を編み出すというかたちで 倫理規範(≒律法)をも表現するようになった。 アマテラス客観語やアマテラス人格語じたいは わるいものではないのですが これをどう使うかという場面では 大いに問題が生じる。いわば世界を 或る対象を取り上げ対象に即して理性による理解として切り取って認識するわけですから 全体観に代えて部分認識を持ってくることになる。もしくは分析理解によって 世界認識を得たと思うようになる。 そこでは 意図せずにでも 部分で全体を表わすとなると それとしてのウソが生じる。この理性を駆使しての大きな意味でのウソ これが 原罪にあたり 《光の曲がることの発見とその応用》もその事例になるのではないかという意味でした。 ちなみに これらすべては 縁起の過程だと思います。空観は それをそのように――つまり コギトの発現ならそれとして―― あるがままを見て捉えることだと考えます。さらに実践としては それを通して これらの縁起の過程関係によって 影響はされるが もはや左右はされないという境地にまで到るということ。これが さとりだと思っています。 そしてこのさとりは 垂直的な非思考としてのこころの窓のさとりに通じていると見るものです。 どうでしょう?
>空観の問題 龍の頭と龍の尻尾でもう一回やってみますか? 空観とは観えているそのものを映すこと
お礼
ふうむ。 もし結論が出ていないということであれば ぢゃあ あまがっぱさんもいてくれることだし どうぞ 明らかにして行ってください。 ★ 空観とは観えているそのものを映すこと ☆ なのでしょうが――あぁ ほとんどつねに こういった受け止め方になっていますね―― いまは 順観が逆観を凌駕して 無明から明知へと転換するその瞬間にこだわっています。その瞬間にこそ空観が現われ得られ生きてはたらく。こういう実践を取り立てて問題にしたいわけです。 《甘え》においてであっても 《ありのままの現実が見える》ということはありうるでしょう。ありうると思いますよ。 しかも《甘え》を持ち出すとよいと思われることは それが《関係 つまり 縁起》を捉えようとしているからです。自然の感情としての一体感のことであり それだけなのですが けっこう空観にこの甘えがみちびくことがあるかも知れません。 そのあたりを重点的にせめてみてください。
★ 魂の精錬 / 玉への精錬 ☆ これは ひとが志向しなければ成らないというものなのか? 何か大げさに考え過ぎているように思うのですが。。。 自分の意見に固執しないという意味において 自分が正しいと思えば100万人行かんとすれど我行かんというあり方もあるのでしょうがそういったことはごく稀で ほとんどの場合少なくとも公人としてものをいうときは誰もがそういうあり方であるべきだとは思います。 ゼロベースというのもそういうことでしょうし。 高福祉高負担といった国家全体に関わるような公的なことをことを論ずるときにおいても どのような姿の福祉形態になるかという具体性を欠いたなかで言葉だけが幻影を見せるようなことに固執するべきではないと思います。 しかも現状では修正で済むようなことではなく決定的なシステムの欠陥になることを指摘された後もそれに拘り続けるのはあまり意味がありません。
補足
★ 何か大げさに考え過ぎているように思うのですが。。。 ★ 100万人と言えども我行かんという ☆ これらは 次のわたしの文章についてですね。 ☆☆ (No.30補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 縁起論では 《空》は いわばそのひとの境地のことであり 世界を見る見方を言っているとわたしは理解しています。 たとえ《私利私欲》にあふれていても それは欲動や欲求のうごめくにまかせておいて 全体としてのわたしは 世界が見えている。その世界のすすみに沿って ≫しかもうわべの姿とは異なっていてもそのわたしに見えているところに従って≪ 自己表現を推し進めて行く。 《空観》として見たところにわたしは従う。≫それが世間に容れられなければ わび・さびの世界へとわたしは押しやられる。それでもなおわたしは行く≪。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ヨブに関しては言っておくべきことだと思いました。 なにしろ三人ないし四人の友たちが 《神に不正があろうか。それを神に文句を言うとは 何事ぞ!?》と言ってヨブに迫っているわけです。妻でさえ 《もうそんな信仰に固執していないで せっせとその神さまにおさらばしたらいいぢゃないの?》と言う始末です。 わたしとて ここで次の質問をしています。 【Q:因果応報説は 愚の骨頂】 【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】 ヨブの友人たちも モーセの律法(≒道徳規範)を金科玉条のごとくにかざしてヨブを批判しています。その中身は 世の中のものごとは 善因善果か悪因悪果かのいづれかなのだ これほど世間からも神からも見放されたようなひどい境遇に追いやられたとならば おまえは神の裁定としての悪因悪果だと受け止めこれを謙虚に受け容れるしかないのではないか?というわけです。 おっしゃるような社会的な政策なり社会形態じたいの展望なりとしては 問題が違うとわたしも思います。そういう場合は 互いに一長一短あるというような性格の議論になると考えます。
29の補足に対して 問いが溢れすぎています。 もし何か続ける意味を感じたのでしたら 整理して一つずつ別の問いを立て直してその中で進めましょう。 手に負えない内容であれば訪れるかどうかは確定はしませんが。。。 悪しからず
お礼
いえいえ ひとつづつ分けて答えてくださってかまいません。 大きくはふたつですが わび・さびのほうは 確認のようなものです。 あとは 空観の問題。むろんこれは 大きな主題です。 ここでは 修行(つまり 自力・聖道門)か自然(つまり 他力・易行門)かが焦点です。 そしてNo.30およびNo.31でのやり取りを加味すれば ひとつの見方としては 意図していないで試練に出遭う もしくは意図とは違った意味で試練に出遭う そこから空観なら空観に到るということ これが――わたしには――見えているのですが それではそこに《甘え》はどういうふうに絡んでいるのか? 何も関係ないのか? ここに焦点があたります。どうでしょう?
心の中の凝り固まったものがある象徴として精錬された時に出現するものを”金”ととらえれば 金と玉の心の状態に明確な境界ができる。 数直線の切断点における点の所在がどちらに属するか 愛と慈悲の違いとしての境界 境界は慈悲に属する 救われるもの 彼岸
補足
ここでは ★ 愛と慈悲 ☆ それぞれと甘えとの関係を知りたいと思います。 むかし次の質問をしています。たたき台になると思いますので かかげます。 ○ 【Q:慈悲は 経験現実か】 ~~~~~~~~~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。 《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって(=スサノヲ人間( S )語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの(=アマテラス普遍( A )語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。 ▲ (ヰキペの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、 【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、 【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は 【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き(うめき)」にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。 【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。 (一) 衆生縁とは 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救 うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の 苦を抜き、楽を与えようとする心である。 ☆ (これは =【S語】か?) (二) 法縁(ほうえん)とは、 すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、 ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をい う。 ☆ (これは ≒【S語】か?) (三) 無縁とは 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしか ない心であるという。 ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?) この三縁の慈悲とは、 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にある者の起こす心、 第三は 仏の哀愍の心であると言える。 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。 Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。 Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうしてなお 《愛》とは何か? が来ますね。厄介ですね。 できましたら 《甘え》を基軸として捉えたらどうなるのか? このように踏み出してもらえるとさいわいです。
補足
Hidocchi さん 今回は 依然としてお互い分かりあぐねていると思いますが 今回は それにもかかわらず 微笑みがこぼれます。のぞみがあります。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔生まれつきの病いについてはどうか〕――「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが…………. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほどですね。通俗的に言うとすると 切り替えが出来るかどうかでしょうか。――正直に申せば この場合わたしは 人間の志向性や努力をも 要因の一つに容れて考えていたかも知れません。今回は 思いつかなかったです。以前に そういうふうに捉えたことがあったかという記憶です。 でも おっしゃるように・そしてわたしもずっと考えていましたが まづ《自由》という答えがあるのがふつうだと思いますから。 ★ アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。 ☆ その通りですよね。似非アマテラス――アマテラスもどき。 アマテラス予備軍。 アマアガリ症候群に罹った人たち。 アマテラス語方言へと単独分立して行った場合。 そして 超アマテラス=スーパーアマテラス(すなわち 神のようにいかなるものの下にも立つまいと誓って ガリ勉資本主義もしくはガリ勉国家主義に走る人びと)。 話は逸れますが ユダヤ人の考え方として面白い解説を得ました。ちょっと 紹介してみます。 ▲ (内田樹:私家版・ユダヤ文化論) ~~~~~~~~~~ ユダヤ人は行動する自分を、見つめ 思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく 他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(《自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する》)と書いたのはヘーゲルではなかったか? ◆ (サルトル:ユダヤ人問題) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ユダヤ人はあらゆる種類の知識をむさぼるように吸収するが それを中立的な向学心と混同してはならない。というのは ユダヤ人は人間に関するあらゆる知識をかき集め 宇宙に対する人間的視座を獲得することによって 《人間》に 純粋な人間 普遍的な人間になろうとしてそうしているからだ。ユダヤ人が教養を身につけるのは 彼らのうちなるユダヤ人を破壊するためなのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて 《端的に人間的であること》を目指すのは 諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから ユダヤ人は《端的に人間的であろうとする》まさにそのみぶりによって 彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。 (pp.196-197) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ コスモポリタンという言葉もありましたが 面白い見方だと思います。でも 《日本人および人間》といったように或る種の仕方で 重層的であってよいでしょうか?