- ベストアンサー
ヨブ記について
私はプロテスタントのクリスチャンですが、旧約聖書のヨブ記を読んでいて、いくつかの疑問が浮かび、そのために今私たちが読んでいるヨブ記は全文ではなく、抜け落ちている箇所があるのではないかと思えるのですが、間違いでしょうか。 ご意見いただければ幸いです。 ・疑問1エリフの不自然な登場のしかた。 32章2節に、この物語のキーマンになるかもしれぬエリフが何の説明もなく唐突に登場するのは、あまりにも不自然である。 ・疑問2神様の登場しかた。 ヨブ記38章1節に主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 とありますが、それまで、一言も嵐のことなど記されていない。 ・疑問3突然いなくなってしまうエリフ エリフとヨブのやり取りのあとヨブ記38章1節に神様が登場してから後、エリフはまるで初めからいなかったかのように文章中から消えてしまっている。神様はヨブの3人の友人に対してはコメントしているのに、エリフについては、全く言及していないのも不自然。 以上のことから、私はヨブ記には何らかの理由により、抜けているエピソードが存在していたのではないかと考えるのですが、この考え方は浅はかでしょうか。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ヨブ記はラビ達も悩ませている問題が沢山含まれています。 現代のユダヤ思想家の一人であるアンドレ・ネールの書いた「言葉の捕囚」、副題として“聖書の沈黙からアウシュヴィッツの沈黙へ”と言う本があります。この中にヨブ記に関しても書かれています。この本をお読みになれば、少しはお役に立つのではないかなと思います。 また、日本のクリスチャンの方に適当か否か定かではありませんが、C.G.ユングの「ヨブへの答え」等もありますので、お時間があれば眼を通されては如何でしょうか。他にも早老症の子供を持ったラビのヨブ記の解釈などもありますが・・・ tokkeyさんが「何か抜けているのではないか?」と感じられたのはもっともな事と思います。確かに聖書にはヘブライ語では書かれていないことが挿入されていたり、誤訳などもあるようです。ただラビ達はその脱落しているように見える所で、凄さまじい格闘をしているようですが。ヘブライ語で原典に当たるなどと言うのは、私には不可能ですので日本語になっている本でしか分かりかねますが、それでもラビ達の思索、苦悩は伝わってくると思います。 何がしかのお役に立てば幸いです。
その他の回答 (9)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.4&6です。 ★ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本来なら初めに質問文の中に入れておくべきことでしたが、ヨブ記は今のままでも十分に愛の神様からの豊富な掲示が受けられる。まさしく神の言葉です。 私は一人の愚かな罪人の一人に過ぎません。ただ、神様の豊かな愛と哀れみを受けて生かされている者です。 間違っても聖書にいちゃもんを付ける気などありません。 この点、誤解を与えてしまっていたようなので、お詫びしておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしはキリスト者ですが 水による洗礼を受けておらず 目に見える教会というものに関する権威については一切認めていません。ですから おっしゃる意味での《誤解》はありません。 わたしが言おうとしていることは 《今の資料のままでも読めるのではないか》のみです。言いかえると もしおっしゃるように ★ (No.6お礼欄) 私自身が、この難解な書の内容を理解するうえで、何らかの助けになるかもしれないと思った ☆ ところの ★ (趣旨説明) 何らかの理由により、抜けているエピソードが存在していた ☆ と分かった場合に その意味はそのときあらためて考えればよいという意味です。 つまり重ねて申せば 《いまのままでも 読める》という意味です。《難解》と《読解不可能》とはちがうと思います。後者ではないとおっしゃっている(No.6お礼欄)のですから 原文の確定の問題といま有る資料の読みの問題とは分けて考えてもよいのではないでしょうか? つまりはっきり申せば 挙げられている三つの疑問に答えられなくても いまのヨブ記は読めると考えます。どうでしょう? 早く言えば 三つの疑問の箇所はおおむね――もし抜けているのだとすれば それでも――省略しているとさえ解釈できるように思うのですが どうでしょう? * 問題は 友らの言うような《因果応報説》が 神のこころだと現代でも捉えることしかできない場合にあるのではないでしょうか? よろしければ参照してください。→【Q:因果応報説は 愚の骨頂】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5096821.html 質疑応答のほうは ブッディスムに傾いていますので 趣旨説明で言っていることにちょっと目を止めていただければよいかと思います。 * 重ねてですが テクスト・クリティークは重要です。
お礼
またまた感謝です。 >つまりはっきり申せば 挙げられている三つの疑問に答えられなくても いまのヨブ記は読めると考えます。どうでしょう? > 早く言えば 三つの疑問の箇所はおおむね――もし抜けているのだとすれば それでも――省略しているとさえ解釈できるように思うのですが どうでしょう? 異論はありません。その通りだと思います。 いろいろご丁寧に説明していただき本当に有難う御座いました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.3です。 全編読んできました。 >>ヨブ記って、作者の自問自答だと思うんですね。 >なぜそのように思われるのかも書いてもらえたら嬉しかったです。 あなたと私では立っている場所が違うから相違が生まれるんです。 あなたは全知全能で、サタンと談合した神が現実存在していると思っている。 私はそんなものは現実には存在しないと思っている。 だがしかし、正しいものが罪人の報いを受けることがあることも知っている。 ヨブの場合がそうです。 物語ではヨブは正しい人なのに、悪人の報いを受けています。 そこで神の不正の裁きをヨブは問いただし批判している。 ここが不幸なことだって作者は言っているわけです。 自分は正しい、ゆえに神は間違いを犯した。と思った瞬間、信仰がゆらぐわけです。 神と敵対した瞬間、ヨブは最大の不幸に見舞われてしまったわけです。 で、3人の友人がいろんなことを言って、災いにはそれなりの理由があり正統な罰だと言うが、結局ヨブは正しい人なので、3人の友人のどの内容も合っていなかったので、3人の友人は自分の推測は間違えているとわかり、黙るしかなかったわけですよね。 3人とも黙ることで、ヨブを批判する人はいない状態になった。 でも ヨブはそれで解決したわけでも、納得したわけでもない。 作者はそのような状態で、誰も批判できないような人が不幸になるケースについて述べて、そうなったとき神を不信することになることを述べて、それでも信仰は貫けると述べているわけです。 エリフの述べた内容によって作者の考え付いた解決策が語られています。 流れとしては3人の友人⇒エリフ⇒神 という流れで、別におかしくないですが。 3人の友人がつぎつぎ登場しますが、ヨブの災難の妥当性を示せず、つぎつぎヨブに負けて沈黙していきますよね。 そして誰も何も言えない状態になって「あー もう情けない」とエリフが登場するわけです。 「年をとっている人は必ず智恵があるわけじゃない」とか言って、エリフを登場させるが、エリフの考えは信仰心にあふれた考えで、作者の若い頃の信仰心かな? キリスト教信者になると、最初は熱血信仰者としてふるまうのだそうです。 ところが長年やっていると、信仰心が薄くなる。 その長年信仰をやっている人と、若い世代では熱意が違っているわけです。 で、ヨブは物質的に恵まれ信仰深いと自分でも思っていたが、いつのまにか若い頃の信仰心の厚さが消えていて、災いに見舞われたときに、信仰が薄くなっていたゆえに不幸感が増し、神と敵対することになったわけです。 ちなみに神と敵対するものをサタンと呼びます。 で、サタンとなったヨブは、若い頃の信仰心を呼び起こすことで、サタンを退けたわけです。 突然の登場の退場の仕方は不自然とか、、、そういう風には文書を読んで全く感じませんでした。 非常にドラマチックで、舞台を見ているような感じ。 だって、現実にあった話ではなく、物語ですから。 智恵文学作品ですから。 聖書に「ダビデが」とか「ソロモンがこうした」とか書いてありますが、あれはあくまで事実ではなく、、、、 古代のイスラエル人の思想家は、自分の思想を表すとき、物語を書いていたんです。 主に先人で有名な人の名前を主人公に用いて物語を作って、自分の思想を表していた。 こういう慣習があったわけですので、聖書の内容が全て起こったできごとだと捉えると、古代の思想家が何を言いたかったのか、読み取れなくなってしまいます。 あくまでも、古代の思想家の思想だと受け止めて読めば、なるほど となると思うのですが、、、、、 古代ギリシャでは、大きなドームで観劇がありましたよね。 大勢の前でギリシャ悲劇とか演じて、思想を楽しんだ。 その前に時代でも、バビロニア、アッカド、シュメールで同様のことが行われていたのだと思います。 ヨブを読むと、エヌマ・エリシェの内容を思い出す。 現存する最古の神話がエヌマ・エリシェです。 その内容は聖書の創世記とそっくりで、聖書はその続編にあたる。 思想は連続性を持っているってわけで、要するに哲学と同じ感じて、前の思想を吟味して修正していく作業が現代の哲学ですから、聖書もその前の時代にあった神話(思想)を吟味して修正して、自分達のグループの思想を建築していったわけで。 だから聖書を読むとき、それを史実として捉えるのではなく、思想の建築として捉えていけばいいと思います。 ヨブの作者も建築しましたでしょ?
お礼
読んでいただきましたか。 嬉しいかぎりですね。 感激です。しかもこんなに丁寧に回答いただきまして感謝です。 回答を読ませていただいて思うことは同じ文章を読んでもこんなにも認識に違いがでるのですね。 大いに参考になりました。 有難う御座います。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
補足:まともな、論理的な把握能力を持っている人は、相手がムチャクチャな、意味のないことを言っていれば、解らないのです。(と、思います。) 従って、「読解力」がないから意味が解らないとは、限りません。 もし、ヨブ記の 行間 から、なにか意味を見出し、「そういうことだったのか」と思ったとしても、それには根拠はなく、確信が在るだけです。 人は、間違ったことでも「確信」するものではないでしょうか。
お礼
補足有難う御座います。 >人は、間違ったことでも「確信」するものではないでしょうか。 おっしゃるとおりだと思います。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
純粋に「意味が解りませんでした、説明願います」と言ったことに対して、「オレが言ったことの意味が解らない などと言いやがって、けしからん」などといちゃもんつけてくる、記号を多用して相手を錯乱させ、自分の相手をさせようと 思っている、寄生虫のごとき者の術中に嵌まらないよう、注意してください。(推測ですが。) 何度回答されようと、意味の解らないことは、「意味が解りません」と、言ったほうが良いと思います。 相手に対して「何か意味の在ることを言っているに違いない」と思われるかも知れませんが、意味の解らないことを言って相手を混乱させ、自分の仲間に引き入れようとしている人間?もいるのです。 人は、面白いもので相手がどれだけめちゃくちゃなことを言っていても、なんとかその中から意味を見出し、「こんなことを言っているのではないだろうか」と無理やりにでも意味を作り出すことが出来るものです。しかし、それに対して「待ってました」とばかり食いついてきて、自分の淋しい日常を紛らわそうとしている人もいますので。 ヨブ記も同じことが言えるかもしれませんね。私は読んだことはありませんが。文献は文献です。
お礼
回答及びご忠告ありがとうございます。 気をつけることにします。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.4です。 ★ もしも差し支えなければ、もう少し砕いて説明していただけると助かるのですが。 ☆ たしかにご趣旨に沿えられなくて そえられないのに別の見方を出そうとしていて おまけに理解しづらいということになってしまったようです。 No.5のご回答を読むと tokkey さんのおっしゃるように 原文に脱落に見えるようなところがあったり 翻訳に問題があるということのようですね。1000827313 さんは わたくしにもおしえてくださったようで その点 感謝しているのですが どうなんでしょう? ○ まづ現在の資料として 読めるかどうか。意味を――むろんいくらかの異なった解釈をもって――採れるかどうか。 ☆ が問題になると考えられませんか? そうして もしそうであれば これは 《読める。意味がとおる》と考えるのですが どうなのでしょう? ですから ○ エリフら友人の言い分とヨブの考えとの異同はどうか? ――基本的に異なっていると考えられますが そう読めると言っていいのではないでしょうか? ――友らの《因果応報説》に問題があるのではないでしょうか? これを神に結び付けているところに問題があるのではないでしょうか? ○ 神とヨブとの関係は如何? どう対立し どう解決したのか? ――これも読める。のではないでしょうか? ――こころがすでに錆びついてしまった。錆びの中に埋もれてしまった。その倒れたヨブに 手を差し伸べた――《無根拠》という現実をいやというほどたたきつけるかのようにして 手を差し伸べた――と読めると思いますが どうでしょう? * むろんテクスト・クリティークは 重要だと思います。
お礼
再度回答いただき感謝です。 お手間をとらせてしまい申し訳ありません。 お陰でご指摘の内容が大体理解できました。 まず、お断りしておかなければならないのですが、私は、ヨブ記が今のままでは、読解不能なので、読むに値しない(乱暴な言い方をすれば)と言っているわけではありません。 本来なら初めに質問文の中に入れておくべきことでしたが、ヨブ記は今のままでも十分に愛の神様からの豊富な掲示が受けられる。まさしく神の言葉です。 私は一人の愚かな罪人の一人に過ぎません。ただ、神様の豊かな愛と哀れみを受けて生かされている者です。 間違っても聖書にいちゃもんを付ける気などありません。 この点、誤解を与えてしまっていたようなので、お詫びしておきます。 では、なぜ私がこのような質問をしているのかというと、簡単にいうならば、もしもこのことをノンクリスチャンから指摘されたときに自分なりの考えを返答できるようにしておきたい。ということと、私自身が、この難解な書の内容を理解するうえで、何らかの助けになるかもしれないと思ったからです。 なんだか、しょうもないことでお時間を取らせてしまったようで心苦しく感じますが、そういうことですので、ご理解いただければ幸いです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 以上のことから、私はヨブ記には何らかの理由により、抜けているエピソードが存在していたのではないかと考えるのですが、この考え方は浅はかでしょうか。 ☆ 《この考え方》がどうかで判断するよりは いまある資料としての文章からどう全体として判断するかが 問題です。 それが質問趣旨に中にはありません。そこを嘆きます。 という問題だと考えます。いまのままでもじゅうぶんにきちんと考えておくべき内容が書かれていると考えます。どうでしょう?
お礼
回答有難う御座います。 >こんにちは。 こんにちは。 >☆ 《この考え方》がどうかで判断するよりは いまある資料としての文章からどう全体として判断するかが 問題です。 それが質問趣旨に中にはありません。そこを嘆きます。 という問題だと考えます。いまのままでもじゅうぶんにきちんと考えておくべき内容が書かれていると考えます。どうでしょう? 折角回答いただいているに申し訳ないのですが、回答者さんのご指摘の内容が理解できません。「こんな簡単なことも解らんか」とお怒りになるかもしれませんが、私の読解力の無さをお許しください。 もしも差し支えなければ、もう少し砕いて説明していただけると助かるのですが。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
ヨブ記って、作者の自問自答だと思うんですね。 エリフって出てきたかなぁ と記憶に無いのですが、、、 エリフって言葉を聞いてエルフの語源かなぁと思ったんですね。 エリは我が主って意味だとして、ヘブライ語でフはハーのことだと思うので、ハーは神聖(例えばYHWHは2度Hがついている)な文字なので、今でいけば神あるいは神の使いである天使にあたるんじゃないかと。 ヤコブと戦ったのも神の使い 天使で、つまりはヤコブが作り出したものなので、、、 自問自答したとき作者は神の使い つまり ひらめき を登場させたのではないか と。 預言者ってのも、要するにひらめきみたいなものを考え出した人ですから。
お礼
回答有難う御座います。 >ヨブ記って、作者の自問自答だと思うんですね。 なぜそのように思われるのかも書いてもらえたら嬉しかったです。 >エリフって出てきたかなぁ と記憶に無いのですが、、、 ご安心ください。ちゃーんと登場してます。 >エリフって言葉を聞いてエルフの語源かなぁと思ったんですね。 >エリは我が主って意味だとして、ヘブライ語でフはハーのことだと思うので、ハーは神聖(例えばYHWHは2度Hがついている)な文字なので、今でいけば神あるいは神の使いである天使にあたるんじゃないかと。 >ヤコブと戦ったのも神の使い 天使で、つまりはヤコブが作り出したものなので、、、 >自問自答したとき作者は神の使い つまり ひらめき を登場させたのではないか と。 >預言者ってのも、要するにひらめきみたいなものを考え出した人ですから。 大変申し訳ないのですが、何を言われたいのかが、私の理解力が不足しているせいか、全く解りません。
旧約聖書はなんといっても世界最古の書物で、何度も翻訳しなおされていますし、その過程で、抜け落ちた部分があっても不思議ではないと思います。 しかし「ヨブ記」が最もクリスチャンに語りかけることは、どんなに信仰熱心であっても試されることもある、しかし、それでも神を愛し、信じ続けることが出来ますか。 そういうところがヨブ記の本質的な問いかけで、そしてヨブはどんな目にあっても信仰を捨てず、結局、神様からさらに愛された。 信仰とは何か、神に対する無限の愛である、ということに気づかせてくれます。 聖書研究家でない限り、あまり細部にこだわって読む必要もないのではないかと思います。
お礼
回答有難う御座います。 >しかし「ヨブ記」が最もクリスチャンに語りかけることは、どんなに信仰熱心であっても試されることもある、しかし、それでも神を愛し、信じ続けることが出来ますか。 >そういうところがヨブ記の本質的な問いかけで、そしてヨブはどんな目にあっても信仰を捨てず、結局、神様からさらに愛された。 >信仰とは何か、神に対する無限の愛である、ということに気づかせてくれます。 なるほど、おっしゃるとおりですね。 >聖書研究家でない限り、あまり細部にこだわって読む必要もないのではないかと思います。 おっしゃりたいことは分かりますが、その細部に込められた神様の思いを見つけ出したときの喜びは、何にも変え難いものがあるので、止められないのです。 感謝です。
- taco8ch
- ベストアンサー率7% (11/146)
その不整合性は、「抜け落ちた」とするよりも、 「継ぎ当てた」とするほうが自然な解釈ではないでしょうか? http://www.youtube.com/watch?v=02WwSKus350
お礼
回答有難う御座います。 >「継ぎ当てた」とするほうが自然な解釈ではないでしょうか? なるほど、確かにそうですね。 出来れば、なぜそうなのかという説明も添えていただけたら嬉しかったです。 添付の動画は笑いを取りたかったのでしょうか・・・、
お礼
回答有難う御座います。 回答者さんはかなりユダヤ教についてお詳しそうですね。 貴重な情報をいただき感謝です。 >何がしかのお役に立てば幸いです。 大変役立ちました。 感謝です。