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きみはヨブを見たか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神はヨブが試されることを悪魔に許した。  ヨブは試された。  悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。(1:21)  と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    これを哲学のことばで表わして欲しい。  いまわたしに思い浮かんだのは   ○ 能天気  ○ 聖なる甘え  ☆ このふたつです。  ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。

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noname#135843
noname#135843
回答No.46

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > でも 生まれつきの病いについてはどうかと思います。つまり なかなか分からないところがあります。神の栄光が現われるためですとか説明があるかも知れませんが その合理性としての理解には 困難をきわめるように思います。Hidocchi さんもすべて分かっておられて この主題を出されたのだとも思います。  はい、確かに愚生もそうでござます。  もしかしますと、例えば、野口英世(彼の左手のやけどは先天的ではございませんでしたが)の医学の進歩へのある種のエネルギー、また憲法学者小林節慶大教授(左手は先天的奇形があるようでございます)の将来に向けた憲法論議、さらには、子供・兄弟が先天的病を持ったが故に、科学・医学の前進にエネルギーを注いだ方達もおられるかと思っております。  「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが………….   > ☆ この試練は ヨブと同じようにだとわたしも思います。 《もっと大きな業を行うようになる》にも希望を持ちたいと思います。  愚生もかような希望を抱いている一人でございます。 >  ☆ 録画しまして いまの時点で半分ほどを見ました。《コンプライアンス》は出て来ました。  これを《アマテラス語》の問題と受けとめました。  ほかの人の質問で このアマテラス規範語は 枡にあふれる米を掻き棒でそぎ落とすかのように 四角四面の枠に人を嵌め込むと捉えて投稿しました。  アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。  さらなる、ご意見賜れば、幸いでございます。 > そして この”神へのコンプライアンス”は われわれ人間にとってむつかしいと来ています。甘えてもいけないでしょうし もはや甘えるくらいに――エポケーをも経つつ――甘えきったかたちになるほかないようにも思えますし。  ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。  これは、ひとはひとえに誰もが最も知りたいところかと存じます。ですが、超難問ですし、その回答が正しいかどうかは、その時点ではわからい という難しさもあろうかと考えております  ご意見賜りまして、厚くお礼申しあげます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん 今回は 依然としてお互い分かりあぐねていると思いますが 今回は それにもかかわらず 微笑みがこぼれます。のぞみがあります。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔生まれつきの病いについてはどうか〕――「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが………….  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほどですね。通俗的に言うとすると 切り替えが出来るかどうかでしょうか。――正直に申せば この場合わたしは 人間の志向性や努力をも 要因の一つに容れて考えていたかも知れません。今回は 思いつかなかったです。以前に そういうふうに捉えたことがあったかという記憶です。  でも おっしゃるように・そしてわたしもずっと考えていましたが まづ《自由》という答えがあるのがふつうだと思いますから。  ★ アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。  ☆ その通りですよね。似非アマテラス――アマテラスもどき。  アマテラス予備軍。  アマアガリ症候群に罹った人たち。  アマテラス語方言へと単独分立して行った場合。  そして 超アマテラス=スーパーアマテラス(すなわち 神のようにいかなるものの下にも立つまいと誓って ガリ勉資本主義もしくはガリ勉国家主義に走る人びと)。  話は逸れますが ユダヤ人の考え方として面白い解説を得ました。ちょっと 紹介してみます。  ▲ (内田樹:私家版・ユダヤ文化論) ~~~~~~~~~~  ユダヤ人は行動する自分を、見つめ 思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく 他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(《自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する》)と書いたのはヘーゲルではなかったか?   ◆ (サルトル:ユダヤ人問題) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ユダヤ人はあらゆる種類の知識をむさぼるように吸収するが それを中立的な向学心と混同してはならない。というのは ユダヤ人は人間に関するあらゆる知識をかき集め 宇宙に対する人間的視座を獲得することによって 《人間》に 純粋な人間 普遍的な人間になろうとしてそうしているからだ。ユダヤ人が教養を身につけるのは 彼らのうちなるユダヤ人を破壊するためなのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて 《端的に人間的であること》を目指すのは 諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから ユダヤ人は《端的に人間的であろうとする》まさにそのみぶりによって 彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。   (pp.196-197)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ コスモポリタンという言葉もありましたが 面白い見方だと思います。でも 《日本人および人間》といったように或る種の仕方で 重層的であってよいでしょうか?

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noname#105531
noname#105531
回答No.30

今置かれた環境の中でできることから

bragelonne
質問者

お礼

 これもまったくそのとおりだと考えます。  これまで身をおいてきたその道において その場の中から あたらしい出会いなり何なりがあって しかもその場その道をまづは歩く。ということだと思います。  そのときの人間関係に焦点をあてて ではその関係に 自然の感情としての一体感つまり甘えはなかったのか? あったのか? それがどう影響したかしなかったか? となります。

noname#105531
noname#105531
回答No.29

それが表す象徴的意味としての行動として                                ´

noname#105531
noname#105531
回答No.28

他律ではなく自律的にパンを集め配るという行為を通して

bragelonne
質問者

お礼

 たしかにそういうことだと思います。  そして いまわたしの問い求めは そういうふうな考えに到るのは どのような道を通ってなのか? です。  そしてそのとき 甘えはかかわらないのか? です。

noname#105531
noname#105531
回答No.27

ただ 一旦金が露わにされてしまえば たとえばアンデルセンの童話にあるように 小鳥が自分の踏んづけたパンの分を集めて配るという行為によって 口先だけではないことの証明という観点と 今までの自己チュウの生を補完してくれていた世界を現実に体感するという行動療法を通して かつての自己中の自分に引き返す必要のない世界を認識し脱皮していく可能性があるということだと思います。

bragelonne
質問者

補足

 おそらくおっしゃるとおりなのだろうと思います。  だろうとか 思いますとかともったいぶって あるいは偉そうに つけ加えるのは やはり不満も残るからです。  わたしの感覚ということなのですが ひとの話す言葉について スサノヲ語とアマテラス語とを区別しています。  まったく自由であやまちやすく人間臭い人間語が スサノヲ人間語です。  よく整理した概念を用いて合理的に表現した文章が アマテラス科学語です。あるいは人間の思惟や行為につきよく練った規範にまでたどり着きこれを表明するアマテラス人格語もあります。  2012522 さん あなたは総じて言って アマテラス語を用いてお話になる。もちろんわるいわけはありません。しかも まだなお隔靴掻痒と言いますか 聞いていると緊張で足がしびれてくると言いますか そういう感じがぬぐえません。立派すぎるというのも 欠点と言えば欠点です。  と言いますか 要するに さらに噛み砕いて表わしてくださいませんか? というお願いになります。わたしのほかの人たちは 歓迎しておられるかも分かりません。そのほうが威厳があってよいと考えておられるかも分かりません。  ★ 今までの自己チュウの生を補完してくれていた世界を現実に体感するという行動療法を通して  ☆ 《補完してくれていた》という見方は すでに空観を得てさとった境地にあります。ということは このさとりを得るその瞬間 あるいは その回転のあり方 これがなまなましくあたかも実況中継のごとく表現されるといいのかも知れません。わたしの感覚ですが。  そうでないと 方程式を示しましたよという形の説明になります。  ★ かつての自己中の自分に引き返す必要のない世界を認識し脱皮していく可能性があるということだと思います。  ☆ まったくこのとおりだと同感します。と同時に 縁起の悪循環の世界から好循環の世界へと どう転換したのか? この実況中継がのぞましいように思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえばアンデルセンの童話にあるように  小鳥が自分の踏んづけたパンの分を集めて配るという行為によって  口先だけではないことの証明という観点  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なのですが――まったくそのとおりだと思います。なのですが―― ピンポイントとしては 《自分の踏んづけたパンを拾い集める》という行為にそのひとが いつどういう情況においてどういうきっかけで そう成ったか? 頭がどのようにして切り替わったのか? それには 家族や友だちとの甘えの関係 あるいは甘えでない関係が どのように絡まっていたと見るか?  こういった点なのですが どうでしょう?

noname#105531
noname#105531
回答No.26

私利私欲を離れ 平和の道具として機能するための通過儀礼                                ´

bragelonne
質問者

お礼

 これは 例の《悩みや苦しみから 逃れる あるいは 免れる》問題ですね。  縁起論では 《空》は いわばそのひとの境地のことであり 世界を見る見方を言っているとわたしは理解しています。  たとえ《私利私欲》にあふれていても それは欲動や欲求のうごめくにまかせておいて 全体としてのわたしは 世界が見えている。その世界のすすみに沿って しかもうわべの姿とは異なっていてもそのわたしに見えているところに従って 自己表現を推し進めて行く。  《空観》として見たところにわたしは従う。それが世間に容れられなければ わび・さびの世界へとわたしは押しやられる。それでもなおわたしは行く。  たぶん もしこれが妥当な解釈であったとしても その空観にみちびかれるのは やはり試練に遭ってこれを経つつであるでしょうし。  しかもこの経験ははじめの意図や思わくとは違って ふとどこか途中でちょうど迷い込んだようなところで かえって出くわすことになった《通過儀礼》であるようにも思っておりますが いかがでしょうか?

noname#105531
noname#105531
回答No.25

錬金術の観点からは 生における死と再生 稲藁が燃え尽きたとき 欲に拘っている心が露わになる象徴が金であり 灰だけになって 何物にもこだわらなくなった空なる心だけになり 今までの生における欲を離れた時 すべてがこれからの生に活かされる智慧となり金剛石を結晶化させる 象徴としての賢者の石 それぞれの色彩を放つ玉が出現する。 これが献金術の意味 真の魂の精錬の目的であると観ています。 結果的に心に金がこびりついていたとしても 日々是好日 玉への精錬の可能性は生きている限り機会はあるといえます。

bragelonne
質問者

補足

 ひきつづきわたしの反応ですけれど 述べてまいります。  ふたつあります。  ★ 欲に拘っている心が露わになる象徴が金であり  ☆ まづこの思想は さすがアジア的と言いますか むしろ質素あるいは質実剛健を旨とするということですね。金閣寺は嫌いであると。あるいは わび・さびの境地なのだと。  わびることは詫びるけれど もはやわたしに落ち度は探しても見つからないほどだ。すべて反省している。けれどもなお 探し出してわびる。侘しいけれども またもうすでに心は錆びつき凍りついているけれども このさびの中からでもわがまことを貫きたい。不死鳥ではないが 灰の中からでもわたしは もっともわたしであるわたし またすでにわたしではないわたしをよみがえらせたい。  こういうお心でしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  灰だけになって  ≫何物にもこだわらなくなった≪ 空なる心だけになり  今までの生における ≫欲を離れた≪ 時  すべてがこれからの生に活かされる智慧となり金剛石を結晶化させる  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 括弧をつけた語句について もしそれらが《悩みや苦しみから 逃れる あるいは 免れる》というのでしたら わたしはすでに次のように述べています。それとの突き合わせをお願いしたいところです。  ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ぢゃあ わたしはその真ん中に立つことにします。  悩みや苦しみから《免れる》というわけには行かないと思うのです。なまみの人間なら。  さりとて 《逃れる》というのでは 何だかおしまいまで鬼ごっこをしているような感じをも受けてしまいます。かくれんぼでもないでしょうから 苦しみをそれとして受ける 受けつつこれに影響されることはあっても もはや時として 左右されることは無くなる。と こういうふうですが どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう? これは  ★ 空なる心  ☆ とは何ぞや?という問題にもなります。  ★ 魂の精錬 / 玉への精錬  ☆ これは ひとが志向しなければ成らないというものなのか?  意志行為であるのは全般的なことでしょうが 意図的に言わば修行を積むという出で立ちであるのか?  そうではなく 親子や兄弟・親友の関係に 自然な甘えが垣間見られたときに ふと一気に一挙に得られるとさえ言えるものなのか?  ★ 象徴としての賢者の石 / それぞれの色彩を放つ玉が出現する。  ☆ これも まづ一つには 生活日常のあゆみとして捉えてよいのか?   能天気や甘えとの兼ね合いは どうなのか? つまり自然の感情や いわゆる共同体としての《情感の共同性》といったことと どうつながると見ているのか?  こんなことを質問者としては――司会進行役としてのごとく―― 尋ねてみたいですね。どうですか?

noname#105531
noname#105531
回答No.24

おはようございます > 聖なる甘えを拡大すれば  別にヨブの主張する社会でもいいのです。  ただ経済破綻するだろうというだけ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはまだわたしにはっきりしないのです。  (1) 《聖なる甘え》が 言いだしっぺなのにまだ うまく展開し得ません。 まず 高次元の 能天気 聖なる甘えとは 肉を切らせて骨を断つ このまま中印を巻き込んだ”地球規模の”という意味において これは自然界の破綻を意味し これはこれで人類の意識を覚醒させるという意味を持ちうる。 次に 低次元の 能天気 聖なる甘え 今意識の俎上に上っている低次元のヨブのいう高福祉高負担という幻想が生み出す裏の意味がわかっていない。 まともの働いている人や経営者ならその意味するところが明確に解かるでしょう。 確実に経済破綻を起こす。 自然は 国家に置き換えられ 会社に置き換えられ 親に置き換えられる。 餓鬼による 骨の髄までしゃぶる脛かじり社会ができるだけ。 能天気 聖なる甘えが自然界を破綻させるように 国家が経済破綻し 会社が経済破綻し 親が経済破綻する そして最終的にヨブ自身の身に経済破綻が降りかかる。 そうなれば働くだろうというのでは 人一人が生まれてから死んで行くまでの生涯設計の集積からなる親の躾、会社から学ぶもの、国家のその運営に確実に切断の問題が起こる。 有形無形に関わらず自然から国家から会社から親から引き継ぎ受け継ぐべきものは確実にあるはずである。 失ってから気がつくでは遅いのです。 特に無形のものは 眼に観えないだけに

bragelonne
質問者

お礼

 かつて王には 道化というけっきょくのところ煮詰めて言えば王の諫め役がいました。  的確な助言をあたえました。しかも お笑いの言葉で表現したのでしょうか。  昔も今も 警世のことばは欠かせないものでしょう。  たしかに人にはそれぞれの持ち場があるとも思います。  一点不満を述べます。  《甘え》の場合には 《遠慮》がありません。要りません。ですから そのときその場で たとえけんかになっても(と言っても 効果や結果を大事にすることも肝腎でしょうが) とことん話し合っていくものと思います。そうでなければ 甘えとは言わないと思います。  今回も 直前の amaguappa さんへのわたしの応答をぜひ参照いただきたいと存じます。つながっていると思います。

  • amaguappa
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回答No.23

> わたしには この《非思考の窓》を持つこと このことが《金》にたとえられていると思えます。 ええ、普遍にして不変の《非思考の窓》にある霊のありようが、金にたとえられたのではないでしょうか。 > 特に《ユートピア的》という側面については いまひとつ現実的ではないように思います。 > 非思考のまどをそなえているというのは ひとの《自然本性》を言っているのですから  > つまりまぼろしの内に現実であると言おうとしているのですから それは外から何かをつけ加えるのではなく  > そうではなく すでに備えているという境地の問題だと考えます。《つかまえどころがない》とは言えると思いますが。 このユートピア、《無い場所》とよびあらわされる場所ですが、この咄嗟の表現はまさに窓のイメージなのです。 そして認識も対象化もできないであろう、ぽっかり空いたタブラ・ラサなのです。 一種の能天気の穴といえるのかもしれません。 垂直的思考(すでに非思考であるでしょうが)においてのみ、あらゆる文字の垢をはらって、お伽噺のように現れる。 錬金術がエジプト以来の魂の霊的精製の思想であるのを思いつつです。 キルケゴールに関して > 《垂直的〈非思考〉》を 精神の内に捉えうると思って《垂直的〈思考〉》として経験世界の言葉と現実に > 置き換えようとしたものだと考えます。《たとえ》であり たとえに過ぎないとわきまえていれば > いいのかも知れませんが 総じて想像の産物だと考えます。 垂直的非思考によって主と同じ顔になるのが、いやだったんじゃないでしょうか。 想像というか自律的主体性の水平的思考の産物であることは間違いないと思いますが、 自由ということをどのように考えていたのかに通じるのではありませんか。わたしはキルケゴールの考えをよく知りません。 > 《第一の死》が死ぬと言われています。つまり単純に復活です。.... > ところが この第一の死が死ななくなる人間がいるとも言われたようなのです。 > これが第二の死であり永遠の火の中にいるという死だと言います。究極の悪とも言われますし。 > あるいは 自由意志にさからう自由を行使し尽くした成れの果てとでも言うのでしょうか。 死が死なないというのは恐ろしいイメージなのでしょうね。 仏教観のいう餓鬼畜生道に堕ちている魂はさぞ多いだろうと思いますけれど。 輪廻転生という考えを採用するとしたら、 第二の死を生きている真っ最中のひとびとときたら、復活のひとびとなのか究極の悪なる魂をそなえたひとびとなのか、 混在しているのがこの現世ということでしょう。見分けもつかない皮をかぶって。

bragelonne
質問者

補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  なかなかおもしろくたのしくなってまいりました。  ★ ええ、普遍にして不変の《非思考の窓》にある霊のありようが、金にたとえられたのではないでしょうか。  ☆ それか この霊に言わば守られたヨブのすがた――いわゆる《神の似像》としてのヒト――がでしょうね。  〔★ 錬金術がエジプト以来の魂の霊的精製の思想であるのを思いつつです。  ☆ あぁ それでしたら歴史を踏まえて現代の視点でまとめるかたちで捉えることができるかも知れません。〕  この《霊》が あなたのおっしゃる意味で《ユートピア的》であるにせよその対極の《トポス》であるにせよ――要するに 無神論か有神論かいづれかとして―― 一人ひとりのわれわれによって 父親なら父親としてのごとく母親なら母親としてのごとく《甘えられている》なら 生きているということでしょうね。  試練に遭っても 藁のごとく燃やされるのではなかった。金のごとくであって 不純物が除かれこそすれ 灰にはならしめられ得なかった。  ただ《甘え》と言いきってしまっても 語弊があるのでしょうね。Hidocchi さんが このあたりを考えてくださっているようですが みなさんにも このあたりをめぐる特に表現の仕方ですね これについてお知恵を拝借とまいりたいと思っています。  《能天気》にあっては 《こころの窓・非思考のユートピア・霊なるまぼろし》のことをおぼえているのだろうかという点が問われて来ます。意識していなくてもよいと考えますが いちど自覚するといったことが必要なのかどうか。  キルケゴールは――わたしもその読書の途中で逃げて来た口ですが―― どうもこの《甘え》の問題で 茶の木畑に入って行っているように感じます。  ★ 垂直的非思考によって主と同じ顔になるのが、いやだったんじゃないでしょうか。  ☆ もしそうだとしたら えらく感受性のつよい・するどい人だったのでしょうか。  《まど》について  ★ ぽっかり空いたタブラ・ラサなのです。 / 一種の能天気の穴といえるのかもしれません。  ☆ それでしたら いま考えたのですが タブラの文字を消すべきは消すことのできる消しゴムにたとえてもよいかも知れないと思いました。イレイザーあるいはレイザー。あれっ ひげ剃りになってしまいますか。  心なるタブラに世界の縁起を受け止めて書いたところの《文字(コギトでしょうか)》について 一つにはすべてその値打ちは相対的なものだと気づかせ もう一つには消してもよいものはすべからく消してしまう。消してくれる。・・・  これは 《はからひ無きこと》をまづ思うことから来るのか? いやいやそもそも《甘えていること》ことから もたらされるのか? たぶん こういうふうにすでに呻きながら喘ぐようにでも問い求めるこころによって理性をはたらかせてもよいのでしょうが たぶん理性によっては問い求め得られないのではないか?・・・  第二の死については 問い求め中でいます。  自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。  不謹慎にも聞こえるかも知れませんが たいへんおもしろくなってまいりました。  ▲ 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  ☆ これを 生活日常のことばでどう表現するかです。理性を超えていると思います。じんるいの知恵が だれから言い出されるか?   このことが 腑に落ちるかたちで言い表わされるなら そしてすなおに受け止められるなら 世界はあたらしい舞台に躍り出るのではないでしょうか? そのときには いわゆるキリスト教もそのほかの宗教もぶったまげて腰を抜かすことでしょう。(あぁ 何たる大ほら吹き!)

noname#131234
noname#131234
回答No.22

兵仗化おめでとうございます。 少し元気を出して下さい。 反省しています。ごめんなさい。 おじじさま いといろとありがとう。

bragelonne
質問者

お礼

 つまり 今回は わたしひとりだけの問題ではないんだ。  勝手に複雑にしてしまっているのだから もうわたしひとりだけの手には負えないんだ。  と返すほかないというところさ。

noname#105531
noname#105531
回答No.21

あなたのなすがまま 陰にして陽 能天気 聖なる甘え                                ´                                ´

bragelonne
質問者

お礼

 わたしのきゅうりがパパ。  (いちど言うてみたかった)。

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