※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。)
聖書は表現の問題である
(1) 《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。
(2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。
(3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。
(4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。
(5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。
(6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。
▲ (創世記1:1)
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001
▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
( Be-resit bara’ Elohim et-ha-samaim wa-et ha-’arec.)
( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)
▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.
▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。
(7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。
○ bara'
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV
(8) だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。
(9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。
(10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。
(11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。
(12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。
(13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。
(14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。
▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~
はじめに ことば(ロゴス)があった。
ことばは かみとともにあった。
ことばは かみであった。
このことばは はじめにかみとともにあった。
すべてのものは ことばによって成った。
成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
ことばの内に いのちがあった。
いのちは 人を照らすひかりであった。
ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
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(15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。
(16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。
(17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ (15)まで。 / そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。 ☆ ヤッホー。 ★ つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。 ☆ ひとつの定義としてでいいです。ゴウインにそう定義しておきます。(ほかの・よりよい定義が来たら 席をゆづればいいだけですから)。 ★ (16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々についての解釈が可能であるという点については同意できます。 ☆ そのとおりです。そのとおりの意味において 次に指摘されているような効果があると考えます。 ★ 様々な論争や葛藤が消滅すると思われます。 ☆ 言いかえると 一般に《神》をあつかうときにけっこう無駄なやり取りをわれわれはして来たもんだなぁと確かに思います。特にシュウキョウがいけない。 ★ ただし、この論法であると、神にとっての神というものを想起せざるを得ず、そこには人間の引く補助線や天啓は到達できないという事になります。 ☆ ん? まづ《天啓》は 言葉のアヤです。文学じょうの効果だけです。天啓であると言えば そこに表現された命題や説明は 補助線ではなく神そのものを表わしているということにはなりません。いくら天啓だと言おうが すべては人間が引いた補助線です。 ええっと ややこしい問題ですね。 一方に 《神にとっての神というもの》がある。また《神にとっての神というものを想起せざるを得》ないそのものがある。 他方には 《その神について理解しようとして引いた補助線》がある。 補助線はあくまで・どこまで行っても 仮りの説明としての補助線ですよ。神本体に到達することは出来ないですよ。 到達した――わたしは神を見た――と言う人は ときどきいます。そしてそれは その人の主観における真実であろうと見られます。そこまでです。(つまり その主観を共有しますと言う人も出て来ますが それは 主観としてのやはり補助線を ほかの人も共有したというのであって 同じく神を見たということにはなりません。神そのものを共有したということにもなりません。そういう雰囲気にはなるようですが)。 ★ 三次元から五次元には単純思考では飛躍できないようなものです。 ☆ ええ。おっしゃるとおりです。 ★ つまり、神の神を真の絶対とした場合、それは、絶対に知り得ないということになるのではないでしょうか。 ☆ これも おっしゃるとおりです。 ★ 分かるか分からないかも、分からない、=完全に分からない、ということです。 ☆ この等号のあとの《=完全に分からない》には 異議があります。 先ほど《おれは神を見たんだ》という事例を挙げましたが この表明については じつは他人はその内容を完全には否定することは出来ないのです。つまり 《分かるか分からないかが 人間には分からない》ということは ひょっとして分かる人もいるかも知れないということを含むと見なければならないからです。 ただしその場合も やはり述べましたように ほかの人との共有は――補助線以外は――成し得ない。成し得たということを決められない。 ★ ここに至って初めて、言葉が光であるというヨハネの言に、近い相が現れると思います。 / つまり、想定された神にとっても、言葉(人間の言葉ではない)は神であるということです。 ☆ あぁ。これは 《想定した神》について《言葉なり光なりの補助線が――補助線だとことわるならば 《人間の言葉》ではなく《経験的な光》でもないということになりますから―― 想定した神のことである》となります。それは そういうふうに説明しようとしているその中身そのものだと思いますから。 いやぁ けっこう微妙ですね。ややこしいですね。